5-4 せーの――

「この中では、私の答えに一番近いかな」

 未来の答えを聞いた杏が、おどけずに目を見据えてきた。

「何度も言うけど、あたしは否定しない。けど、愛佳の過食症に対して罪をこじつけるのが許せないの。言い方が悪いけど他に居ないわけ? 愛佳はまだ一年生でしょ」

「同郷としての反目は避けたかったのになあ。いや、実を言うとパーティの材料がまだ決まってなくてね。私だって今日は真実だけ伝えようとしたんだ。そしたらなんと、カモがネギ背負ってきたのさ」

 いよいよ、杏の理性がぷっつんした音が聞こえた。誰の介入も許さず、杏は口を閉じようとはしなかった。

「なんでだろう。塩焼きと、お吸いものと、ジンギスカンが喋ってるんだ。これって不思議だと思わないかい?」

 いびつに曲がる眉、見開く二重のまぶた、黒目がちというよりも、もはや黒目しか残っていなさそうな眼力。可愛らしさを漂わせていた先輩としての容姿をかなぐり捨てていた。

 ここで二人の友人を逃がすのは容易い。今後、この学校に近寄らなければ平穏に過ごせるだろう。

 が、入学史上最大の危機に置かれながらも、未だに他人事さながらに呆けている友人たちは、恐怖を実感できていないのだ。説得を諦めた未来は、口上で形勢をひっくり返す方法をひとつだけ思いつくと、多めに息を吸い、

「あたしらも食べるわけ? 自分の弟を食って死なせたように」

 杏を言い負かすのに不可欠な『歩蕪』という存在の提示が、どれだけ品性下劣か認識した上で、一気に吐き出した。

「はあ? 勝手に私の弟を殺さないでくれるかな? 心外も良いところだ。キミだって昨日会っただろ!」

「まだ気づいてない? 弟さん、歩蕪はもう死んでいる。あんたが歩蕪だと思っているアレは、ただの地縛霊なの。わかる?」

 今まで動いていた杏の目玉、上唇と下唇、首、顔の向きまでぴたりと止まった。ただ足を動かし続け、前に進んだ。それも束の間である、「馬鹿言え」と、彼女にしては弱すぎる否定が、ふわっと消えた。

「霊は目に映っても、遺影が目に映らないなんて皮肉すぎる」

「いい加減にしろ! 私だって家族を悪く言われたら怒るぞ!」

 手作りクッキーの袋を手に取った杏は、右腕を振りかざし床に叩きつけた。軽快で不快な音が響き、何枚ものクッキーが飛び散った。憤怒の光景を見て、未来は無性に悲しくなった。

「だったら帰宅して事実確認すれば? 嘘は吐いてないから」

「そうやって逃げる機会を作る気か! でも無駄だよ、鮎川さんはもう裁判の手続きを取る! 逃げたきゃ逃げれば良い! 勝手にしろ!」

 人間を捌くにせよ手順がある。最低限の筋は通すようだが、失意どころか杏は色をなして大声を上げ続けていた。

「さあどうする! 用事は済んだよ!」

「それ以上ふざけた万言吐くなら拳で止める」

 身を退くような未来でもなく、右手を握り締めながら詰め寄った。幾ら体の小さい先輩だろうと、無抵抗の相手に手を上げるよりよっぽど罪悪感がない。気魄は充分だった。

 売り言葉に買い言葉とは、よく言ったものだ。杏が表情を曇らすと「やってみな!」とファイティングポーズを取った。

 言わずもがな、未来は殴り合いの喧嘩なんて経験がない。この際、取っ組み合いの泥仕合でも良い。とにかく杏を黙らせ、力尽くでも従わせるしかなかった。

「ちょっと? 勝手に話進めないでよ。わたし、みすみす食われる気はないよ?」

 ぴりぴりとした間に割り込んできたのは、水を吸ったモップを手に取り、重そうにしながら槍のように構えた愛佳だった。驚く間もなく、次の声が加わった。

「異性に手を上げるのは、男として問題です。でも守りたい人が居るなら話は別なんですよ。なあ安藤さん、もうやめにしようぜ」

 煮えきらない発言と表情を誤魔化すように富士彦も加勢してくれた。一瞬で三対一という不利に陥った杏が、目を剥いて後方に下がった。

「な、なんだ……三人で殴り倒す気かい? ははっ……キミらも理不尽だな? 犯罪だぞ、暴行罪だ」

 力で抗うわけがない、という杏の確信は、怖々と反論する目に映し出されていた。愛佳も富士彦も町外の人間である以上、追い込まれれば野蛮な一面だって見せる。クロスワードパズルに正しい言葉を当てはめるくらい、順当な行動だと思った。

 軽々しく他人に死を謳ってしまう者は、ダイレクトに返ってくる代償の重さを認知していない。まさに杏は、大して力もない己に酔った挙句、カタギに罵詈を浴びせる典型的なチンピラだった。

《五大の罪》を法と見なす満喫町では、資格者にはまず手を出さないという、一途な思い込みがあったのだ。それこそ、どこぞの紋所を見せつけるくらい無意味なバリアだ。

 力で屈服させられる杞憂が、段々と現実味を帯び始めたのだろう。面白いように、杏の態度が一変した。

「このままじゃあラチが明かないな。だったらいっそ、誰が食材になるか勝負しないか? なあに簡単な勝負さ、くじを作って当たりを引いた者がパーティの主役になるんだ。正々堂々、お互い平等に解決したいだろ?」

 態度こそ冷静だが、単なる逃げ口に決まっている。未来は、ぎりぎりと上下の歯を擦り合わせながら強く抗言した。

「そんなアホみたいな話……。あたしたちが無事な確率が低すぎる。大体こっちは資格保有者が居ない。そっちが当たりを引いたとして、死体はどうすれば良いわけ」

「資格を保有してなくても、どうにでもなるだろう。人目に晒さなければ良いんだ、腐る前にね。違うかい?」

「資格者さんのお墨つき? 大したもんだ」

 安藤杏の死体――という前提で話しているというのに、本人はまるで他人事である。食材への躊躇いがないのは、資格者ゆえか。

「だったら今、会長さんを一方的に始末しても良いんじゃないんですか?」

「鮎川さんは危ないな。それはただの暴行だ。このままじゃあキミは、《五大の罪》を犯した者と見なされ食材になるんだぞ」

「えー? もう仕方ないなあ、それしか道がないならそれで良いですよ。わたしかみぃちゃんさえ当たりを引かなければそれで良いんだし」

 愛佳の思惑は、はっきりしていた。大事な人と、それを愛する自分さえ助かればハッピーエンドなのだ。困憊した虚ろな目には、人間としての富士彦も杏も映っていないようである。

「俺もこうなったら愛佳が助かればそれで良い」

 富士彦が提示したのは、好きな女を守るという報われる意思のない一声だった。

 彼はこの話に最も無関係の人物である。背を向ければ、変人たちから乖離し、普通の生活に戻ってゆけるのだ。彼はあえて危険を冒し、男としての最後のけじめを果たそうとしている。

 もう泥沼である。意見を翻そうにも、三人とも目が本気だった。要求を断れば、『誤った正気』により三人に殺されかねない。

 未来は今の今まで、この中で最も気が狂っている人間だと自負していたが、蓋を開けてみると存外まともな人種だのだと実感した。

 好きな人のためならどんな醜態も晒せるし、どんな苦痛も耐えられる――なんてサドマゾ思考は、脳みそをめくっても出てきやしないのだ。

「クソ、なんでこうなるわけ……」

 震えそうな体を、さっさと家に返したい。悔しくて怖くて――未来は歯を食いしばりながら、くじに参加する覚悟を決めた。

「調理室でクソなんて言わないでほしいな」

「でも杏? 当たりを引くのはあんただよ」

 三者三様、本性をさらけ出している以上、未来も本心の隠蔽をやめた。恋に破れても、切なる想いだけははっきりしていた。ここぞという時に頑迷なのだ。捨て鉢の行動だったのかもしれない。人目にはわかりにくいが、足が――内側が震え始めていた。

「なにを根拠に。まあ、今にわかるか。私はキミたち三人の誰かが当たればそれで良いんだ」

 杏は高笑いをしながら腕を組んだ。くじを作れ、という最後の威圧である。

 渋りながら未来は食器棚を開け、中から四本の菜箸を無作為に選ぶと、制服の内ポケットからボールペンを抜き、先端の食い先を何度も黒く塗りつぶしたあと、杏へ押しつけた。

『お前が混ぜろ』という無言の要求だった。悟った杏が食い先を隠した四本を背中に持ってゆき、後ろ手で混ぜ始めた。

「せーので引こうじゃないか。さあ、先に好きなの掴んでくれ」

 しばらくして、杏は四本を握った片手を突き出しながら終局への宣告をした。

 運命を決める選択にも拘わらず、友人たちはいやに迷いがなかった。初めに手を出したのは愛佳だった。表情は『無』そのものである。次に富士彦が、凛々しい眼差しで一本をつまんだ。どちらも未来が取ろうとしていた菜箸ではなかった。

 最初に取られた二本は当たりではないと睨み、未来は自身か杏のどちらかが、黒いインクで塗りつぶされた悪魔の菜箸を引くのだと確信していた。

 掌の汗を絞れば、何滴かになりそうだ。不快に、ワイシャツと素肌がへばりつく。真冬だというのに、いやに暑い室内でカーディガンを脱ぎ捨てたかった。

 未来のとある記憶では、三番目にくじを引いた者が大当たりなのだ。また、言い出しっぺが大当たりを引くという記憶も漂っていた。

 人生最大の選択なのだから、何分も迷っていたかったが、怖じている風が露呈してしまうのも癪である。愛佳と富士彦だって、菜箸を掴み続けたまま待ちぼうけを食らうのも耐えられないだろう。

 クールで頼れる同級生をどこまでも演じなくてはならない使命感との葛藤である。

「ははは」

「どうした? 選ばないのかい?」

 一分前の記憶すら曖昧で、杏と何を言い合っていたか覚えておらず、未来は自身を嘲笑ってしまった。

 胃から込み上がってくるレーズンパンの酸味が喉から消えた時、夢遊病のようにふわっと体が動いた。未来は自分に近い菜箸を親指と人差し指で軽くつまむと静止した。

 最後に杏が、残った菜箸に指を伸ばした。怖気づいている気風は、愛佳にも富士彦にも、もちろん杏にもなかった。

「さあ行くよ。せーの――」

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