5-3 キミたちはどう取る?

「ふーん。話を戻しましょうかねえ」と愛佳は、数分前まで嘔吐していたとは思えない、凛とした表情で立ち上がり、冷たい目で杏を見据えた。

 失恋のショックとは違う、珍妙なまでの感情の切り替えが窺えた。

「会長さん、残念でした。わたしが人の肉を食ったって?」

「ああ、そうだよ。紛れもない事実だ。光田さんも証明してくれるだろう」

「それなんですけど、あの日の帰り学校のトイレでちょろっと吐いてるんですよ」

 そうして口にしたのは、サラリーマンが酒をちょろっと引っかけるかのようなトーンだった。愛佳なりに気丈な振る舞いを見せ、出し抜いた気になっているが、まったく最大のタブーを口にしてくれたものだ。未来は人知れず溜息を吐いた。

「なに?」

「言ってませんでしたよね、わたしが過食症ってこと。こないだの郷土料理? って言うんですか。実はあれ、キレイに吐き出しちゃったんですよ。人を食っただかなんだか知りませんけど、消化してないんでわたし的にはセーフなんです」

 愛佳は目を細め、薄ら笑いを浮かべながら、次々と『罪』を露呈していった。非力な小動物が、見えている落とし穴に自ら落ちてゆく哀れさがあった。

「ふうん、神経性大食症とは。いやあ、それは恐れ入ったよ」

 杏が見せたのは驚きではない。愛佳が嘔吐した時よりも目を輝かせ、『ターゲット』を認識する喜色だった。

 当事者でもないのに後ずさりする富士彦の行動は正しかった。右に左に視線を移し、次々と転変する場面に酔っているのだ。

「けれどこの町的にはセーフじゃあないな。ねえ鮎川さん、食べた物を故意に吐き捨てる。これって《五大の罪》に含まれるんじゃあないかな? 一過性のものではなく、キミはそれをずっと続けていたんだろう?」

「ええ、そうですけど。どゆこと? わたしが罪?」

「ちょっと? 煩ってる子を捕まえて《五大の罪》とは大層な御託宣だこと」

 たまらず未来は二人の会話を遮った。杏の目が見開くのを間近で見た。

「わかるかなあ? 悪なんだよ。人間は子供の頃から親に教わるだろう? 良いこと、悪いこと。これって私の僻目ひがめかい? いや違う。どうして鮎川さんは必要以上に食べてそれを吐く? 食べ物を粗末にして楽しいってことだろ? じゃあ罰を受けるべきだよな?」

「わたし……悪いこと?」

「そうだよ、鮎川さん? 悪いことだ。キミはずっと罪を犯し続けてきた。その代償は大きいと思わないかい?」

 人の弱味につけ込んで、思うように人を動かす。とんだ讒言ざんげんである。けったいな新興宗教のやり口そのものではないか。

「ダメ愛佳! 杏の戯言に耳を貸さないで!」

「誰か居ないかしら? 私のために調理台に乗ってくださる方?」

 まるで舞踏会の相手を探すかのような動機づけを見せつけ、おどけてみせる杏の視線は一点集中だった。

「そんな奴、どんなに眼球を磨いても見つからない」

「目が曇ってるのかねえ。眼球にもワイパーがほしいものだな」

「あんたは目の内側が曇ってるだけ、わかる?」

「ふふっ、キミほどじゃあないさ。わかるかい?」

 延々と続きそうな回りくどいやり取りだった。少女の醜い小競り合いを分断したのは、愛佳の割り込みだった。

「何度も辛いと思った。辛いと言ってもそれは自己嫌悪だった。死んだらラクなんじゃないかって思った時もあるけど、また明日いっぱい食べられると思うと生きる希望になった。けれど吐けば吐くだけ、親や友人に合わせる顔が崩れていくの。いっそ、この世が大きな胃袋だったら良いのになあ」

 その方法は、まるでモノローグだ。あたかも聞き手を探す告白なのだが、これっぽっちも迫真が感じられなかった。明後日の方向を向いている愛佳が吐き出したいのは、果たして本音だったのだろうか。

「そうかい。懺悔をするならば、そこのトイレの奥で聞こうか。実は奥に調理場があって、大きな調理台があるんだ。最期に見たくないかい?」

「どうしてそんな物があるんです?」

 愛佳は一向に怯える様子がない。気を揉んでいるのは、未来たった一人である。

「なんでも、ここが第一調理室だった頃からあったみたいだ。創立が明治中頃だから百何十年も前だけど、食人が行われていたのは、そのもっと以前からさ。当時は、『美食連』とか『美食班』とか呼ばれていたみたいだし」

 杏の知識は、伝家の書物から吸収したものだろう。杏が味方につけているのは、到底崩せない存在なのだ。

「とは言え、実のところ町での食人が下火になっているのも事実さ。学校で認められていても、制限も多々あるしね。食材の名前を持った生徒ばかりを同好会に誘う理由は、安直かもしれないけど、食に縁があるだろうという願望からさ」

 ほぼ一息に杏は語った。これが彼女の独擅場の始まりだった。彼女は右足、左足と、かかとから踏み込み、調理室を目的もなく歩み始めた。

「見学と称し、来てくれた生徒に郷土料理を振る舞い、入会の有無を確認する」

「そしてその生徒たちが、数年後の生贄になるんですか? 食人に与する以上、どうなるかは自己責任ってことですか?」

 杏の挙動を追っていた愛佳だったが、彼女は自ら抗う片言を心に収めてしまった。

『自己責任』という体の良い呪文こそ、未来が数ヶ月前に発した忠言だったのだ。ここまでの展開を予測していたわけではないが、身に降りかかって初めて実感する状況の悪さ。未来は発狂を抑えていた。

「昔は、生徒から生贄なんて出ていなかったんだよ。ましてや、町のアホな連中を無理矢理とっ捕まえて罪を被せていたわけでもない。それだけ《五大の罪》を犯し、捌かれていた者が多かったのさ。しかし年々、罪を犯す者が減っていった」

 室内を歩き回っていた杏は掃除用具入れを開けると、モップを肩に担ぎ、スクイザー(モップ絞り器)を手に提げ、近場の水道の蛇口をひねった。給水の間も口は動いていた。

「それでもう、数十年前から美食会は活動してなかったんだ。けれども十年前に事情が一変した。丁度、別館が完成しようって時に理事長が急逝してねえ、それで息子――副理事長だった男が新たな理事長となったんだよ。確か楠っくすのきて名前だったかな」

 水道を止めた杏は上体を右に傾かせ、重量の増したスクイザーを汚物の近くに置いた。水の中にモップを突っ込むと愛佳を見据え、「さあ、食われる前に後片づけだ」と言い放った。

「食われる前提ですかい。それより続きを」

 愛佳はまったく危機感がない。頬を一、二発引っ叩いてこの場から引き離してやりたかった。調子に乗り、うきうきを顔に含ませる杏もまた、何発か食らわしてやりたかった。二人の会話に心底むかついていたのだ。

「ああ。第一調理室が備品ごと別館に移され、その時点で美食会はお役御免、この教室も物置になる予定だった。その時に、美食会の活動資料が処分されたのさ」

「非公式とはいえ、学校にまだ食人文化を残しているのは、やっぱり校長か理事長みたいな偉い人に理解があるからですか?」

 愛佳の疑問に対し、未来は逆のパターンを推測した。この場合、理解ではなく強請なのではないかと。

「惜しいな。前理事長は食人自体を否定はしなかったが、現代の有り様を見て、学校で無理に行うことではないと消極的な姿勢を取ってたのさ」

「なるほど。意向が変わったのは、理事長が変わったからですか」

「そうさ。理事会の連中には資格者や、その家系の者が居なかった。数年に一度しかご馳走が食べられなくて飢えてたって話だ。無論、副理事長もその一人だった」

 杏はスクイザーの中で斜めに天井を向くモップの柄から手を離し、かかとを向けた。


「段々と融通の利かない世の中になったもんだ。この町では食べ物を粗末にする者が減った半面、食人ができないと発狂し出す連中も増えてきた」

 皮肉なものである。おそらく、《五大の罪》を廃止にした瞬間から、人々は食べ物を粗末にし、まさに悪の連鎖を始めるのだ。抑止力がないと、弱い人間の心は過ちに傾く。民が弱いと、抑止力にかこつけて権力者が私利私欲を見出す。

「待てよ。安藤さん……やっぱりおかしいですよ。人を食うなんて」

 険悪な空気をまとい、杏に対しての反論をついに口にしたのは、沈黙を決め込んでいた富士彦だった。目の奥には、愛佳を助けたいという意思が窺えた。

「今更おかしいって言われてもなあ。富士彦くんみたいな連中は、猫食ったって犬食ったってダメダメって否定するんだろう? 可愛いからか? ははっ、おかしいな」

「そうかもね。あたしもなんとも思わないし」

 富士彦が反論する前に、未来は対峙しているはずの杏の言葉を拾ってしまった。あくまで、同郷として同意したのだ。

「未来さん? だってイカれた罪で殺されて食われて……家族は黙ってないだろ! 恋人や配偶者だって! んなの、ただの殺人だぞ!」

「なにそのセンチメンタル。富士彦がなんと言おうと、《五大の罪》は町の法。例え愛する者でも、罪を犯せば裁かれる――それは道理なの、わかる?」

 今まで常識人として捉えられていた光田未来。また一目置かれる存在だった光田未来。愛佳や富士彦と打ち解けられたのは、同級生としてこの時代を歩んでいるから。

 食人の事実を引き合いに出せば、脆くも崩れる想いがある。

「話にならん。じゃあ、なんで愛佳を助けようとしてる?」

「愛佳は病気なだけ。だから、杏の理不尽な言い分が気に入らない。好きとか嫌いとかじゃなくて、友人としての義務」

「こじつけだろ!」

 富士彦の嘆き、嘆きたい気分、嘆く動機、よっぽど理解できる。あからさまに目を逸らした理由も。

 が、調和は取れそうになかった。彼の辛そうな表情を見るのはやるせなくて、自棄っぱちになった未来は彼の手を強引に掴むと、息遣いが届く距離まで顔を近づけ吐露した。

「改めて言うけど、あたしはキミが好きだった。腑抜けで、取り柄がなくて、怖がりで。キミの側に居ると、普通の女子高生である自分が輝いて見えると思った」

 挙句、辛く当たっていた。片思いと知った途端、目睫の富士彦に高慢な態度を取った未来は、自身を嘲弄した。彼の沈んだ表情を見なくて済むのならば、脅してでも従わせれば良いとさえ思っていた。

「ど、どこが普通なんだよ!」

 手を振りほどかれたが、富士彦は未来の側を離れようとはしなかった。腕を伸ばせば届く隔たり。定かな拒絶ではないようだ。普段から居心地が良いであろう、愛佳の側に落ち着くものかと思ったが、目が潤むほどの誤算だった。

「腰折ってごめん。続けなよ」

 未来は明るい怒気を見せつけ、続きを杏に注文した。

「要するに今は、理事会に年に一度の献上をしないと同好会存続の危機、そして会長の首も飛んでしまう。それが、十年前の先代から続いている慣わしなんだよ」

「つまり美食のメンバーを食らうのは、安藤さんの意向ではなかったんですね?」

「と言うよりね、毎年二名ばかり資格保有者は別枠で入学できるんだ。ま、美食会の会長と副会長候補として入学するわけだが」

 杏が口にしているのは、満喫町のみで人を捌き、《五大の罪》として訴え、また人々の案件を請け負える食材管理士の資格である。

「資格取得の条件は、フルネームのどこかに食材の名が入っている人物で、【訴えた人間が無罪だった場合、己の体で責任を取る】という同意書へサインすること。あとは町に関わる常識問題だったり、人の捌き方の手順だったり、相応の問題が散りばめられた試験に合格すれば、町から認定証が送られるって流れさ。リスキーだろ?」

 一般家庭に生まれた未来には縁のない話だと思っていた。一時は、資格に好奇心をくすぐられたが、今初めて安易に取得するものではないと実感した。

 安泰に暮らせるならば、常識の囲いに囚われ続け、退屈な毎日を送るくらいがちょうど良いという、未来の心積もりが開花した瞬間でもある。

 入学も就職も、結婚も出産も、社会的な意味合いで行う『儀式』として厭わなければ、平坦な道を歩めるのだと。

 この世界で一般的な高校生が経験するのは、論ずるに足りない行為ばかりだ。友達と喧嘩する、テレビの話題で盛り上がる、仮病で学校を休む、文化祭ではじける、食いすぎてゲロを吐く。

 勉強以外に、遊びも後学のひとつだとしても、四月からの数ヶ月間は本業を逸脱していた。

「理事会の連中は、自分たちでは人を捌けない。だからこそ、資格を持つ生徒を特別優遇するんだ。私と伊豆の学費が免除されてるのも、そういう理由からさ」

 ひょっと思索のトリップに出てしまった未来だったが、杏の声で現実に戻された。

「わたしが美食会を探してた時、担任がお茶を濁したのはそういうわけか」

 杏は理事会からそれだけの働きをしろと圧迫されているのだ。同情できないし、理事会に対しても胸糞悪い一心であるが、そのおこぼれを貰っている未来は、美食会のシステムを作った理事会を蔑視できる立場ではなかった。

 例え不本意だとしても。

「キミたちはどう取る? この空間を」

 教壇の上で腕を広げ、己の手中を誇張するかのように左右に目を配る杏は、わかりやすい質疑を形にした。

 しばらく余韻があったあと、

「出口のないカルト教団」

 と愛佳がまず発した。

「化け物の巣窟」

 と富士彦が続ける。

 未来は語らず、会話が滞った。にやりと杏が続きを語った。

 本来は美食会に三年間在籍した生徒の中から、最も素行の悪い一名が選ばれる。二、三年生が終始浮かない顔なのは、次は自分が殺されるのではないかという杞憂から。それでも退会しないのは、命を張ってまで口にしたい料理があるからなのだと。

 食材の名が入った生徒ばかりを勧誘していたのは、選り分けられ、特別扱いを受けていると勘違いさせる意図もあったのだと。

「キミはどう取る? 光田未来」

「足を突っ込んだのは、そこかしこに落とし穴がある楽園だった」

 未来は友人たちの意見を聞いたあと、冷静に言い放った。『カルト』や『巣窟』というマイナスイメージを使用せず、楽園と言いきったところが大きな相違だった。

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