1-5 郷土料理って言うのかな
翌日、待ち合わせより少し早い九時四十五分。同じ時間、同じ電車に乗った愛佳と富士彦が校門に着いた時、変わらぬ相貌で通りを見つめる未来は、日当たりの良い位置で澄まして立っていた。
露出した部分を薫風が撫でてゆくと、季節のイメージカラーも交代したのだと実感する。
ブレザーを着用した三人はそれぞれの挨拶を交わし上履きに履き替えると、三者三様の足音を響かせた。廊下と靴底の摩擦音がやけに耳につく。
人気のない校内を進み、古ぼけたプレートに『第二調理室』と書かれた文字を発見したのは、窓が少なく、光の届かない一階の隅だった。
生徒はまず足を運びたがらないだろう。冷たい空気が張り詰めた不気味な空間である。廊下の色もどこかくすんでいるようで、掃除が行き届いていないのは火を見るよりも明らかだった。
設けられた調理室に沿って続く一本の廊下の最奥には、野外に突き出すようにトイレが設置されている。旧館に位置しているため、薄暗くお世辞にも綺麗とは言えないが、調理室から最も近いトイレである。
ささやかにざわつく室内の前。ノックのあと扉を開けると、中で駄弁っていた生徒たちの視線が三人に集中した。開始時刻よりも早く到着したが、役者は揃っていたようだ。ここに呼ばれたのは愛佳たちだけではない安心感で、表情が和らいだ。
室内には調理台が七台設置されていた。教師用が黒板の前に一、生徒用が教室全体に六である。新入生と思しき固い顔つきをした五人が前列の調理台に固まって、椅子に腰を下ろしている。会話は相応にあるようだ。
二列目の調理台には二年生、だろうか。顔つきも雰囲気も 大人びた六人が椅子に座ってうつむいている。さらに後方、最後列の調理台には四人の上級生が居た。
勝手のわからない一年生が黙っているなら理解できたが、二年と三年の沈み具合といったら、明日が終末のようで異質だった。
「あの、おはようございます」
違和感を頭の片隅に押しこめ、入室してすぐに見つけた、唯一顔を知る上級生――杏に向けて、愛佳は戸惑いと挨拶を向けた。
「おはよう。確か鮎川さん、麩谷くん、光田さんだったね。さあ、前列に座って」
「これで全員揃ったね、少し早いけど始めようか。みんな、今日は来てくれてありがとう。全員来てくれるなんて嬉しいよ。私は美食会という同好会の会長をしている安藤
黒のボブを揺らしながら杏の進行が始まった。同時に愛佳の予感が事実に変わり、もやのかかった既視感が湧いて、ぱっと消えた。
愛佳たちが食器棚に近い席に着いても、場の雰囲気は安定していなかった。落ち着かずそわそわする一年生ばかりである。
「さて。一年生のみんなが気になっているのは、どうして呼ばれたかだよね。要約すると、私たちはここで料理を作り、そして食すというコミュニケーションを取っている。つまり同好会の勧誘だと思ってもらって良いよ。まあ、余所の同好会と異なっている部分は非公式ということくらいかな」
堂々と公言する杏は慣れた様子だった。第二調理室の鍵を持ち出し、非公式を謳っていれば、すぐにでも教師にばれそうなものだが、いやに自任している面構えだ。
「入会条件は手軽さ。ひとつは食に敬意を表す、ひとつは作った人に感謝を表す。勘違いしないでくれよ、宗教的なもんじゃあないからね。人として当然のことさ」
杏が冗談を交えたのは、あまりにも当然の事物を、息を吐くように言い放った照れ隠しだろうか。今の若者がそれだけ
「とまあ、私から話せるのはせいぜいこの程度さ。あまりにも簡単で拍子抜けしちゃったかな? そうだ、質問があればなんでも受けつけるよ」
簡潔すぎる杏の挨拶に、一年生たちに遅延が生まれた。数秒を隔てて一名の生徒が手を上げた。顔も名も知らぬ、余所のクラスの同級生だ。
初めの質問は、『調理同好会と美食会の違い』だった。似通った同好会の存在には、誰しもクエスチョンを覚えていたようだ。
「同好会として設立したのはこっちが先さ。違う点は、ちゃんとした顧問が居るか居ないか、あとは料理の腕の違いかな」
含んだ語尾の笑いはニヒルな香りが漂い、相当な自信が窺えた。一年生は一様に納得していたが、そうなると『どうして非公認なのか』、そこに疑点が置かれる。それを質したのは別のクラスの一年生だった。
「すまないけど、私も会長を受け継いだだけで、過去になにがあったのか見たわけじゃあないんだ。でも初めは顧問も居たし、同好会としても成立していたみたいだよ」
首を傾げる生徒は居た。頷く生徒も何人か居た。同好会のいわく、因縁は、語らずとも室内に淀む雰囲気が物語っている。
「でも十年くらい前の分から、写真も記録も残ってなくてね。そのうちこの学校には、美食会という、非公式の同好会が存在するようになったとか」
少しぞっとする話だが、しょせん杏も継いだ者に過ぎないのであれば、必要以上の詮索をしても仕方がない。
「他に質問はあるかい?」
では、どういう基準で入会の勧誘が来たのだろうか?
それを口にしてくれたのも、積極的な別の一年生だった。
「こう言ったら怪しまれそうだけど、フィーリングだよ。名前を見ればわかるんだ」
小声で、「インチキ占い師かよ」とつぶやく未来がどうにもおかしくて、愛佳は富士彦とともに笑いを堪えていた。最中に異変は起きた。
突如、一方向に何本も伸びた蛍光灯が、ショートするかのような音を立てて消灯してしまったのだ。予期せぬハプニングに「なに?」だったり、「停電?」だったり、室内はざわめいた。誰一人、席を立った者は居ない。人為的な消灯ではなかった。
一方、杏は会長として毅然と立っており、それどころか「またか」と、うんざりしたトーンで天井を見渡していた。奥まった調理室は、昼だというのにカーテンを開けていても薄暗い。
「すぐ復旧するさ。ちょっと待って」
杏が冷静な反応を取った矢先、今度は大きめの地震が起きたかのように、一面に張られた窓ガラスが激しく揺れ始めたのだ。複数の人間が拳でも叩きつけないと、ここまでの鈍い音は出ない。室内はもうポルターガイストのお祭り騒ぎである。
当然のように女子の誰かが黄色い声を上げると、その悲鳴に誘引されるかのように、一年生たちは怯え始めた。
愛佳の目には、やれやれと溜息を吐く杏の姿ばかりが映った。彼女は動じていないのだ、表情が日常茶飯事を物語っている。
しばらく続いた怪奇現象も、時間と共に勢いが減少しぴたりと止まった。せいぜい、レギュラーサイズのカップ麺に熱湯を注いで、ちょうど完成するくらいの時間である。
揺れが収まると、古ぼけた蛍光灯が教室を照らし出した。恐怖の余韻に浸かっている生徒は何名も見受けられたが、愛佳の隣に座る同じクラスの男子に至っては、首をすくめ顔面蒼白になっており、見兼ねた未来に背中をさすられていた。
認めたくはないが、いわくつきの同好会で間違いないようだ。
「ははっ、ごめんよ。オカ研だったら喜ばしい限りなんだけどさ。電力供給が不安定でね。窓のガタガタは、まあ風でも吹いたんだろう」
杏は、明るく冗談めいて誤魔化している。それでもって説明不十分の末、話題を逸らすかのように新たな話題に入った。
「とりあえず今日は入会する、しないに関係なく、ここに集まってくれた一年生たちに町の料理をもてなすよ。いや、郷土料理って言うのかな? まあ、どちらでも良いか。この町の子ならみんな知ってるよね」
この町の子ではない愛佳は、急に敵陣地に立たされた気分を味わった。料理の見た目すら想像もつかないし、味への不安や期待もあった。
なおかつ愛佳の立場を小さくしたのは、今まで怯えていた一年生たちの喚声だった。それはもう、料理を見ないで引き下がりたくなる、日常の中に置かれた非日常の近景である。
クラスメイトの中でも、未来だけは相変わらずポーカーフェースを保っている。料理の存在を知っているのか、端から関心がないのか、本音を察するのは難しかった。立ち居こそ一切ぶれていない。
が、ここまで皆が興奮する料理なのだ。さぞかし美味に違いない。身勝手な手堅さを覚えた愛佳は、食器と共に料理を配膳してくれる、エプロンをした上級生たちを目で追い続けた。
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