4-2 姉ちゃんは病気なんです

 杏が目つきを変えても、未来の態度は変わらなかった。

「霊がここの生徒だって? 意味がわからないな。それじゃあまるで食材が会員の中から出てるような言い種じゃあないか」

「言葉のとおりです。もし生徒が消えれば、警察が動くのは必至。ですが《五大の罪》を犯し、この町から消えてしまったのであればどうでしょう?」

「そうだな、警察は確実に動かない。いや、動けないんだ」

「まったく。頭がおかしいったらない」

 杏は、満喫町と美食会を否定する未来の言動が、どうにも我慢ならなくなっていた。元から高圧的だった後輩には不満があったのだ。

 業腹を煮やした杏は舌打ちすると、物理的な脅しを込めて、目前の座卓に拳を叩きつけ、『町の声』として未来の意思に踏み込んだ。

「どの口が言うんだ。キミだって人の肉を食べたのは、あの時が初めてじゃあないだろ? いや、郷土料理って言うべきかな?」

 一瞬の静寂が、一瞬とは思えなかった。互いが言葉の意味を理解し、町の法を見知った上で、あえて沈黙を選んだのだ。

 反する意見はなかった。「それは認める」という、毅然とした未来の対応が、閉めきった室内の欄間から抜けていった。

 あまりに冷静な対応に、杏は面食らってしまった。恐らくはイニシアチブを取るための静かな虚勢なのだろう。そう言い聞かせるくらいが、杏にとっても丁度良かった。

「私たちはずっと普通だと思っていただろう? 私たちは鮎川さんや、富士彦くんとは違うだろ? カニバリズムなんて下世話な言葉や意味を知るのは自我が芽生えてからだ、違うか? 大体、私たちはそんな言葉は使用しない」

「しかし郷土料理とは体の良い表現。なにも知らない生徒に対しては特に」

「まったく、キミはいつもあの二人のことばかりだな。郷に入っては郷に従うもんだろ! それはキミだってわかっていることだろ!」

 澄ました童顔のまま興奮し、静かに憤っていた理由は、後輩に真実を迫られたからではない。この町で生まれ、この町で育ったという未来が――この町の風習に従い平然と人肉を食べていた未来が――この町の学校に入学し、美食会に入ってくれた上に、共に料理を作っていた未来が――愛しいはずの同士がこんな理不尽な所見を述べてくるなんて、理解できなかったのだ。ひとえに悲しかったのだ。

 同じ境遇に置かれた同郷ではないのか。満喫町に、未来のような奇矯が目立つ人物が居ると思うと、ぞっとする。

 杏は今年の四月、会員のために、一体の人間に包丁を入れる大仕事をした。苦労した甲斐もあり、一年生たちは歓声を上げ喜んでくれていたのに、どうして未来は生国に背馳するような一見一向を取るのだろうか。

《五大の罪》を犯した者は、自ら食材の道を選んだのと同義である。それを否定する未来は、さながら食された人間たちに対する冒涜である。どう捉えても、ワガママに他ならないのである。

「だったらどうして? どうして前もって伝えなかったんですか? 余所から来てる子は、まさかこの町が有史から人間を食べる風習があるなんて夢にも思いませんよ」

「でも知らずに食べれば、それはただの肉だ。私は生きたワームとかムカデとかを食べる方が、よっぽどぞっとするよ」

 未来は溜息を漏らしながら顔をしかめていた。どうやら同じ女の子として、生きた虫を食べる例えには同調しているようだ。終始、話を戻せと目が殺気立っていた。

「とにかく、私もキミも食人が禁忌であると言われてもピンと来ないんだよ。私たちはこの檻で生まれ、この檻に閉じこめられたまま死ぬしかないんだよ」

「それも認めるけど」

「だったら美食会にケチをつけないでくれ。大体、どうしてキミは入会したんだ。初日だって、余所から来た麩谷くんや鮎川さんと違って、キミは人間の肉と知りながら食べたはずだろ?」

「違う! 富士彦は食べてない! それに愛佳を制止しようとしたらあなたが!」

 未来が急に吠えた。富士彦の話題を出した途端である。これは面白いと、杏は漏れそうな笑いを呑み込んだ。

「私が? ああ、あれは鮎川さんに意見を求めただけじゃあないか。せっかく作った料理なんだ。感想のひとつやふたつもらおうとして、なにがいけないんだい?」

「あたしは止めた……。入会だってやめさせようとした」

 杏の質問を無視してつぶやき始めたのは、少女なりの自責だった。

「でも、三人で友達を続けるには、あの同好会に居るしかないと思ったから。友人を危ない先輩から守りたかったから……」

 堪えきれず、杏は小さく冷笑した。未来がいつまでも、富士彦に自分の気持ちを伝えない理由もこれで解けたのだ。

 富士彦に好意を抱きつつも三人の関係を崩したくないという身勝手な意思だ。加えて、せめて富士彦にだけは人肉を食べさせないようにする企てが見え見えである。まさに好きな人を守るという、ありがちな自己犠牲だ。聖人にでもなったつもりなのだろうか。もはや独善である。

 同好会から食材になる人間が出ていると知れば、友人の二人に危害を加えさせないために体を張るという魂胆で、己の欲求と葛藤を背負ってここに来たわけだ。

 やはり心意を決めかねた、うじうじした小娘である。霊感があるという話だって、突っつけばぼろが出るに違いない。

 未来を買いかぶりすぎていた杏は自嘲した。脆い少後輩に対して湧き上がるのは、覚醒しかけているサディスティックな本能だった。

「で、会長? やっぱり美食会の中から食材を選ぶんですか? あんな同好会で人肉を振る舞っていたのはいつからなんですか?」

「キミも勝手なものだなあ? 他人は平気で食べられるのに、情が移った人間は食べられないってか?」

「ふ、普通の感情でしょ。子供の頃から家族のように育った牛や豚や羊が、目の前で屠殺されたら、ぱっと気持ちを切り替えられるもの?」

 真相を突き止めてくるのかと思えば、次は情の話である。しかも例に出したのが屠殺とは、笑ってくれと言っているようなものだ。尤もらしく振る舞う未来も、しょせん満喫町の人間である。本能はどうやっても隠せないのだ。

「ふうん。自分で釣った魚には愛着があるから食べられないとでも言うのか?」

「論点が違う」

「かもな。けど結局エゴだ。ワガママとなにが違う?」

 杏は居直り、未来の横に移動した。警戒される前に唇を耳元に持ってゆき、「キミはワガママだ」と念を押した。息が触れる距離で、冷たく、白く、まるで雪女のような手の甲を愛撫すると、未来は不愉快そうに歯を食いしばった。

「でも、それで良いじゃないか。私たちは人間だ。みんなワガママさ」

 未来の反応が愉快でたまらなく、次は手首を鷲掴みにし、全身に体重をかけ始めた。この場で押し倒し、先輩として人生を教授してやるのも悪くない。餅のように美味しそうな柔肌にかぶりつきそうになりながらも、理性だけは必死に保っていた。

「や、やめて」

「勘違いしないでくれ、別に肉感的になってるわけじゃあないんだよ。ただキミを見てると、触れたくて仕方がなくてね。キミと私の相性を超越してるのさ」

「じゃあ、あなたは自分の親しい人間を食べられるわけ? 身内だろうとお構いなし?」

 杏のアプローチに抵抗しながら、未来が絞り出した声は必死そのものだった。本来なら嘲笑ってやるところだった。が、杏の視界がぼやけてきた。

「身内? 私は……」

 未来の発声は執拗に脳内でリピートし、頭を内側からがんがん叩く騒音に変わった。残響までも鬱陶しくへばりつき、いつまでも消えない古傷のように杏を苦しめるのだ。

 語尾を濁し、頭を抱えながら、杏は目を大きく見開き血相を変えた。作った笑みさえそこにはない、修羅のような面相だ。

「光田さん……人の過去に踏み入るなんてどうかしてるんじゃないか? 私がそこまで答えると思ってるのか! 私の家族がなんだって言うんだ!」

 しばらく客間の滞った空気に身を任せていた杏は、未来から手を離し、とうとう堪えられなった感情をぶちまけた。目先の後輩をじっとターゲットし、過去を掘り返されるのではないかと怯えていたのだ。

「はあ? 待って、あたしはそこまで言ってない」

「ふざけるな!」

 否定する様相は怪しく映り、追及のために両肩へ掴みかかった。杏は、是が非でも未来に謝罪させないと気が済まなくなっていた。


 ところが再び攻防の体勢に入るか否かで、未来はそっぽを向いたまま目を点にし、氷漬けのように動かなくなってしまった。点の先は障子である。障子には人影が写っていた。

 杏は納得し、ひとまず未来を捨て置くと、立ち上がり障子を引いた。広縁には長身の形をした杏の弟、安藤歩蕪あゆむの姿があった。歩蕪は歳が二つばかり離れた肉親で、音もなく姿を見せる奇行は相変わらずだった。

 歩蕪が現れた理由をそれとなく察知した。二人の女子高生が大声で騒いでいれば、文句のひとつも言いに来る。当たり前のワンシーンである。

「ごめん歩蕪。うるさかったよね」

 杏は睡眠中の弟を起こしてしまったことへ、罪悪感を抱くよりも先に謝罪を行った。「大丈夫だよ姉ちゃん」と言った歩蕪は、普段と変わらない温厚な話しぶりだった。

「ところでお客さん? 珍しいね」

「ああ。同好会の後輩で、光田さん」

 謝罪の流れから未来が着目された。視線を向けられ、紹介に預かったにも拘わらず、未来はじっと歩蕪を見据えていた。それも訝しげに口を半開きにし、あたかも常人と認めていない顔つきだったのだ。

 確かに歩蕪は片足がない障碍者だが、しつこいくらいじろじろ見つめるのは失礼極まりない行為である。杏はより憤った。

「光田さん? ちょっと、なんか言ったらどうなんだい」

「あっ……ごめんなさい、さっきは大声で騒いで」

 強めの口調で呼びかけると、未来は我に返ったように息を吸い込んだ。開ききらない目をきょときょとさせ、明後日の方向を見据えながら謝罪を口にした。

「気にしないでください。初めまして弟の歩蕪です、姉がお世話になっています」

「え……いえ、あたしは、み……光田、未来」

 それにつけても余所余所しい。コミュニケーション障害と疑いたいくらい、今の未来は会話がおぼつかなかった。数分前までの威勢は、低気圧に運ばれどこかへ行ってしまったかのようである。

「気になりますか?」と歩蕪は言った。未来に対してだった。割って入ろうか、一考の最中も部屋は静かだった。不意に鳴った誰かのバイブレーションが聞こえるほど。

「オレ小さい頃、事故で足を失ったんです」

 ほどなく、歩蕪の発声が主導権を握った。誰よりも度肝を抜かれたのは杏である。

「歩蕪? お客さんになに言って……」

「良いじゃん。この人、オレのこと知ってるみたいだし」

「知ってるって? なに言ってるんだ?」

 依然として、未来はちらちらと歩蕪を視界に入れる程度で、直視しようとは絶対にしていなかった。

「事故の当日は、自宅に居たんです」

「え……」

「日曜の午前中だったかな、オレと姉ちゃんが少しばかり留守番を頼まれてた。オレが四歳で、姉ちゃんが六歳、二人とも幼い子供でした。ポカポカ陽気で、時折通る風が気持ち良かった。幸せな時間でした」

 開けてはいけない扉を解錠する語りは続いた。歩蕪は生気の乏しい声量で、どんどん過去の扉をこじ開け、他人すら招き入れようとしている。このままでは、知られてはならない過去が、丸裸のすっぽんぽんにされてしまう。

 すぐにでも阻止したかったが、金縛りに遭ったかのように杏の体は動かなくなっていた。目も、口も、首も、足も、すべて固まってしまい、視界が暗転した。

「オレはいつの間にか眠ってしまって夢を見ていたんです。のどかな休日だった。しかし、ありふれた日曜は狂気の日曜と化してしまった。突如、ふくらはぎに激痛が走って飛び起きたんです。目が覚めると、それはもう痛いなんてものじゃなかった」

 クリアな視界が戻ってくると、歩蕪は真相に手を出そうとしていた。強引に取り押さえられる距離で、平然と昔語りをする弟を止められなかった。なぜだろうか、歩蕪に手が届かなかったのだ。

「子供のオレには事態が理解できませんでしたが、ひとつだけ確かな事実がありました。ぱっと痛みの方を見てみる、すると」

「――歩蕪! もうやめろ!」

 呼吸を忘れていた杏は、息を荒げて弟を制止した。一文字一文字に力を込めた、渾身の制止だったのに、歩蕪はこれっぽっちも動じずに嘲笑していた。

「オレの足、実の姉に食いちぎられる寸前だったんですよ」

 間もなく、ねっとりとした口調で真実が告げられた。

 未来が小声で「笑えない……」と雑多な感情でつぶやいた。顔面はブルーハワイ色をし、ぽかんとしながら震え、感情は氾濫のごとく心の外へ溢れている。杏の表情はそれ以上に青ばんでいた。自由奔放な弟に苛まれ、パニックを起こしていたのだ。

「な、なんのこと……歩蕪、バカなことを……やめて」

「オレは泣き叫びながらこの部屋に逃げたんです。足を引きずって、這うようにそこの押入れに隠れようとしたんだけど、追ってきた姉ちゃんによって――。あーあ、痛かったなあ」

 不意に蘇ってきた記憶が、現在の客間と重なった。もう言い逃れはできない。どうして客人の前で、しかも敵対する後輩の前で語ってしまうのだろうか。

「恨まれて当然か……」

 本来なら極刑に処されても文句は言えない。弟を傷つけてなお、五体満足で、のうのうと生きているのだ。

「はは、そうさ……歩蕪が泣き叫んでも私の欲望は消えなかった。むしろ堰を切ったように溢れ出した……。叫び声に異変を感じた近所の人が来てくれて、どうにか病院に運ばれたんだけど、再生が不可能なまで足は蝕まれていた」

 うつむいて、それでも声を張る杏は捨て鉢だった。言い逃れをするよりも、真相を語る歩蕪の語尾から先を受け取り、言葉を暴力に変える方がすっとしたのだ。

「私はそういう人間さ。光田さん、キミとんでもない家に来ちゃったね」

 触れたくない姉弟の過去を、それも客人の未来に対して語る動機がわかりかねる。歩蕪に趨勢を任せながら、狂乱ぶりを憐れむしかできなかった。

「でも姉ちゃんは病気なんです。名前に食べ物が入ってる人を見ると、その人が食材に見えてしまう異様な性格なんです。姉ちゃんが悪いんじゃないんです、ねえ?」

「これは……想定外すぎ……」

 鞄と防寒具を抱え、後方に何センチか下がる未来は明確な警戒色を示していた。反骨の意を剥き出しながらも、怯えた目は隠しきれていなかった。

「例えば音がすべて音階に聞こえる、例えば数字が形に変換されて見える、姉ちゃんもそれに似た症状なのかな? はははっ、すげえや」

「か、帰ります! お邪魔しました!」

 逃げる準備をしていた未来は、カバンを手に提げ、マフラーも巻かず、速足で客間を出ていった。タイツを穿いていることも忘れ、再び広縁で足を滑らせながらも、ひたすらエスケープに徹していた。

 妨害する気もなかったし、見送る気もなかった。玄関の引き戸が開閉した音を合図に、杏は鬼の形相で言い及んだ。姉が弟を食ったなんて話、まず普通の人間は信じないだろうから、彼女が他言する心配はない。それでも歩蕪の行動はおかしすぎる。

「どうしてあんなこと言ったんだ!」

「あの人、霊感あるんだ」

「そんな話はしてない! 真面目に聞け!」

「真面目だよ。だって居るじゃん、目の前に。じゃ、オレは寝るよ。姉ちゃんは自分の罪を償わないとね。何年かかるかな?」

 返し刀のように鋭い言葉は、過去の純粋な姿からは想像できなかった。もう二度と、この家で笑顔なんて生まれない。誰も笑わないのだ。

 健常者として生きている現在の在り方を思うくらいなら、精神病院にぶちこまれた方がよっぽど幸せだったのかもしれない。

 同じシーンばかりが∞の字を刻む追想。痛々しい過去を胸に秘めながら、杏は膝を突くと卓に突っ伏してしまった。

 広縁から吹き込んでくる風がやけに冷たかった。

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