3-3 調理士ってところかな

 一息吐いた富士彦は、小分けのバームクーヘンの封を切り、糖分で表情を誤魔化した。沈黙が漂ったが、話題を作らなくてはならないという男としての使命感は消えていた。

「満喫町には慣れた?」

「この町、なんか独特ですよね。発展してる割には、そんなに治安も悪くないし、ゴミもあんまり捨てられてないし、なにより住民が優しい気がします」

「そうだね、地元の私もその辺は認めるよ」

 一拍置いた杏は、手に取った煎餅を半分に割り、右手の片割れを口に運んだ。

「ところで麩谷くんは聞いたことあるかな? この町には《五大の罪》と言って、昔から大罪が語り継がれているんだ」

 杏が語ろうとしていたのは、道徳的なものだった。富士彦が、あえて答えないでいると笑みを見せてきた。

「ふふっ、キミは怖がりだなあ。そういや、初日もそんな感じで食べなかったね」

「え? あれはすみませんでした。食欲が恐怖に負けてしまって」

 不意に引っ張り出されたのは、初めて第二調理室に招待された記憶だった。

 せっかくのもてなしだったのに料理を味わえなかった富士彦は、後悔や罪悪を抱いたままだったのだ。苦い追想の末、咄嗟に頭を下げた。

「気にしないで。そういう時もあるよ」

 さばさばして、竹を割ったような性格、典型的な男っぽさがある杏だが、プライベートではそれが和らいでいる。悪い言い方をすれば、ギャップはいつの時代も人を虜にするのだ。

「それで、《五大の罪》ってなんです? 未来さん――あぁ、光田さんが言ってたんですけど、この町には食の神が祀られてるって。やっぱ、それと関係してます?」

 杏はすぐに答えてくれなかった。首肯を図るかのように、一度伏せた顔をゆったりと上げた表情は、もはや優しい先輩ではなく、いち人間としての――言うなれば、生きるために自我を持ち、手段を講じ、答えを見出す目つきだった。

金科玉条きんかぎょくじょう。絶対的な法さ」

 目線を合わせてくる動作に連動し客間に生み出されたのは、低く唸る宣言である。浮ついた口調ではなく、一文字、一文字を噛み締め、また意味を込めるかのように言いきったのだ。

「法、ですか」

 定款めいた戯言は、おおよそ杏が脚色しているのだ。年上とは言っても、まだ十代の小娘である。いかようにも容易く心を変えられる年頃だ。――そう思いたかった。

「ひとつ、いただきますを言わない。ひとつ、ごちそうさまを言わない。ひとつ、食べ物を残す。ひとつ、残した物を片づけない。ひとつ、有るべき食事を与えない」

「食べ物に関する罪ですね」

 圧倒されながら富士彦は、身も蓋もない現実を思い描いた。飲食店ではありふれた光景だと。そのような愚考を持ち、不謹慎な感覚に親しんでしまう現代人の在り方こそタブーであり、満喫町には住めないという意味だろうが、食べる側にも権利はあるはずだ。

「ぞっとしない話さ。その五つ、いずれかを行い続けるのは満喫町で禁忌とされていたんだ。この辺りは昔、飢饉に陥った。私たちが生まれる、ずっと前にね。それで、その苦しみを味わわないようにと肝に銘じた町の先人たちは、《五大の罪》を作った。そして疑いのある者は裁判にかけられ処罰された」

「過激ですね」

「同感だね。でもこれは、子子孫孫まで受け継がれてゆく教えなんだ。現代でも伝えられている。まあ実際問題、守らない者も居るだろうけど、守る者が大半さ。だからそれらを犯す者はすぐに町の人に伝わる。光回線と同等の情報網でね」

 激しい片鱗から想像できるのは、『料金を払っている』や、『材料を揃えて料理を作ったのは自分』という勝手な言い分で食べ物を粗末にし、《五大の罪》に対する薄っぺらな抵抗を露にする者たちの末路だ。

 そのうち富士彦は説伏させられるかのように首を二度、三度と縦に動かした。

「安藤さんはどうしてそれを?」

「うちは見ての通り旧家だから、昔の書物も残ってるんだ。祖父母や父母から、さんざ聞かされてきたよ。そもそも町民はみんな《五大の罪》を知ってるよ」

 正座していた杏は、足をもぞもぞと動かし、崩した足を横に伸ばすと、卓の上で頬杖を突いた。法とまで言いきった《五大の罪》を余所者に語った満足感が窺える。

 罰せられるとはどのような度合いか。まさか命まで取ったりはしないだろうが、相応の仕置きは待っていそうだ。昔の人間は得てして残酷な処罰を好む。

「ねえ、富士彦くん」

 再び滞った空気の中、突如ファーストネームを呼ばれた青少年は肩をすくめた。胸が高鳴ったのは否定しない。普通の男子ならここで色恋沙汰のひとつも想像するところだが、悪寒が走った。

「キミはこの町の秘密を知りたいかい?」

「秘密って言われると、知りたいような知りたくないような」

 どうせまた恐ろしい話に決まっている。ろくでもないものと決めつけるのは安直だったが、富士彦の率直な気持ちでもあった。

 だから逃げ水のごとく、言葉で迫ってくる杏に対して、当たり障りのない返答を用いたのだ。会話として成立しながらも、進展しない平行線を辿っていた。

 話題を変えるため、客間に飾られた認定証を見据えた。

「それにしても、やけに賞状ありますね。すべて安藤さんの?」

 客間に入ってからは気に留めていなかったが、しみじみ見るとかなりの数である。すべて額に入れられ、丁重に飾られていた。

「いや、なんやかんやで家族のみんなが代々いただいてるからさ。私は恥ずかしいから飾るなって言うんだけど、うちの親が見せびらかしたいらしくてね」

「代々からはすごいですね。こんなに普通もらえないですよ」

「別に凄かないよ。条件さえ満たしてれば誰でも取れる資格さ」

 横書きされた、文字の数々。見出しの『認定証』から始まり、『安藤杏様』だったり、『資格を有することを証します』だったり、ありがたみの薄い文章が並んでいた。

 肝心の資格内容は、『食材管理士』と書かれており、取得の日付は三年前だった。満喫町町長の米倉義雄と締めくくられていることから、町が主催する民間資格だろうか。

 文章を読み取ってみるものの、肝心の資格内容が端折られているので、追従も世辞も浮かんでこなかった。

「それでどんな資格なんです?」

「そうだなあ。ざっくばらんに言うと、調理士ってところかな」

「料理系の学校に行くんですか? 将来は調理師を目指してるとか」

 富士彦は納得したように見せ、杏の言葉を拾った。

「悪くないね。漠然とした進路だけど、この町で調理の勉強はしたいよ」

 ふと富士彦は、進路を決める年頃の杏に呆然とした。十八という若さで進むべき道を決めなくてはならない社会に、現実味を失いかけていたのだ。

 当たり前のように家へ帰り、それなりに趣味に没頭し、家族と月並みな会話をし、用意された飯を食べる。二個しか歳が離れていない杏を見ているうち、アルバイトも恋愛も経験がない、まるで取り柄のない普通の人間という劣等感が湧いてきた。

「えっと、それじゃあ安藤さん――」

 富士彦は無理に切り返そうとした。敵うものがなくても、会話は行えるという自信だった。ところが幸か不幸か、場の空気を遮るかのように雨音がぴたりと鳴りやんでしまった。蝉の音は再び町の支配を始め、町並みは夕影で映え渡り、また違う一面を見せびらかしているはずだ。

「雨がやんだか」

「夜まで降るんじゃ?」

「どうだったかな? それより、今のうちに帰った方が良いんじゃない? 良かったらまた来てよ。私は歓迎するからさ」

 腑に落ちないが、明日も調理室で会うのだ。翌日への惰性が、富士彦を納得へ導いた。残った麦茶を飲み干し、カバンを肩にかけ玄関へ足を向けた。

 玄関でつっかけを引っかけた杏は敷居をまたいでもなお、正面の通りに足を運び、わざわざ手を振ってくれた。

「今日はどうも。ごちそうさまでした」

「じゃ気をつけて。ネズミに引かれないようにね」

 再び雲の気紛れに弄ばれないよう、駅に爪先を向けたまま礼を述べた。立派な旧家は、帰りに見ると不気味な屋敷に変換された。

 安藤家では人の気配がしたが、姿も見せなければ声も聞こえなかった。きっと家族の誰かが別室で寝ていたのだろう。きっと――

 住みたい町の上位に入ってもおかしくない立地、発展、民度、エトセトラ。それなのに、満喫町の好評は一度も聞かなかった。

 逆に、悪評すら耳に届かない。まるで皆が話題を避けているのだ。本日の疑問と恐怖を布団の中に持ち帰り、夜を越した。

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