3-2 てるてる坊主作ったよ
富士彦は、女物の折り畳み傘を借り、どこか気恥ずかしい思いを傘の柄に引っ提げ、先輩と並行した。学校を出て数分、一際大きな平屋が見えてくると杏は指を差した。
「あそこが私の家だよ。本当に近いだろう?」
安藤家は黒い塀に囲まれた、門構えまで立派な旧家だった。杏は玄関で鍵を開ける様子はなかったが、屋内から『おかえり』という発声もなかった。
家に上がった富士彦は、緊張の面持ちで広縁から客間の敷居をまたいだ。障子は初めから開いていており、そこは押入れを含めて約十帖で、広縁の先には厠があった。
ガラス戸から見える庭園に落ちる雨音がかすかに聞こえてくる中、座布団を差し出してくれた杏は、茶菓子を持ってくると言い残し、台所の方へと消えてしまった。
他家はいつでも独特の匂いがする。掛け時計の秒針が定期的な調べを刻み、わずかに室内へと届く水琴窟の音色がアンサンブルとなっていた。
はしたないと知りつつキョロキョロしていると、ふと目線を感じた。客間から台所は見えないが、作業をしている音は響いてくる。
杏ではないようだ。目線を戻してみるが、どうも圧迫感が強い部屋で、あちこちを見回してしまう。
床柱が伸びて、その左には床の間があって、右には押入れがあって、襖があって、顔を上げると欄間があって――間取りを少しずつ覚えていると、一点ばかり違和感を抱いた。
押入れの襖が、拳一個分ほど開いていたのだ。
「あれ?」
ここに訪れた時、押入れは閉じていたような気がした。とは言うが、ひどく緊張していた『純情富士彦くん』の記憶なんて曖昧そのものである。そのうち床柱の根元、ちょうどくるぶしの高さについた、黒ずんだシミが目に留まった。それは途中で途切れており床の間や、押入れや、畳にはついていなかったのだ。真新しくはないが、汚れた様子のない上品な客室である。
なぜだろうか、客間は涼しいのに汗が湧き出てきた。
大方、畳や襖だけを取り変えたのだろう。一人で納得した富士彦の耳に届いたのは、「てるてる坊主作ったよ」という杏の可愛らしい声と、先程とは異なる足音だった。
四、五分で客間に戻ってきた杏は、茶色い液体が入ったグラス二つと茶菓子を長方形の座卓に置くと、ガラス戸を開け、風鈴が吊るされた軒下にチープな人形を吊るした。
「どうも。いただきます」
着替えた様子はなかったが、靴下だけ脱いだ杏はだいぶ涼しげな装いになっていた。無防備に足を晒す行為が、どれだけ男子の激情を突き動かすか理解していないようだ。
富士彦は杏の生足から目を逸らし、可愛い顔が描かれた、ティッシュか脱脂綿かの、晴れ乞い儀式人形を意識した。
「会長お茶目ですね」
「会長会長って、私ゃ生徒会長じゃあないんだから。名前で呼んでくれないかな」
呼び名にこりごりするような杏の表情、口調。富士彦に対して求めているのは、普通名詞ではなく固有名詞らしいが、気さくにファーストネームを呼び合える仲ではない。存在ははっきりとしているというのに、決まった呼び名が思い浮かばない。
人名とは時に、今川焼と同じだ。人の感情や、育った環境によって名称が変わってゆく様はそれに等しい。
「あ、安藤さん?」
「まあそれで良いか。ところで気になってたんだけど、麩谷くんが美食に入ってくれたきっかけってなんだったの?」
富士彦の、当たり障りのない回答を飲み込んでくれた杏は、座卓に両手を突きながら、向かい合う形で正座した。
「え? 安藤さんの勧誘があったから」
「いや、そうじゃあなくてさ。余所の子が珍しいなあって」
含んだ言い方だったし、要領も得なかった。
「愛佳に強制入会させられたんですよ。まあ今では楽しんでますけど」
「キミたちは仲が良いね。三人とも高校で知り合ったんだっけ?」
「ああ。それは、かいちょ――安藤さんのお陰ですよ。美食の誘いがなければ、ただのクラスメイトでしたから。そういや俺たちが誘われた理由って明確に聞いてなかったような」
「そうだなあ。その謎は、そのうち解けるんじゃない? でも余所の子じゃあ、謎を解くのは難しいかなあ」
いやに杏は、富士彦と愛佳を余所者扱いしてくる。外様なのは認めていても、この町の身内贔屓したがる風潮は気持ちが良いものではなかった。あるいは、郷に入っては郷に従え――その教えを強要しているようにも思えてくる。富士彦はコップに口をつけた。麦茶で体を潤していると、「それでさあ」と杏が語尾を溜めた。
「キミはどっち狙ってんの?」
到底、茶請けの煎餅とバウムクーヘン、どっちを狙っているという話題とは思えない。女子高生がしそうな雑談の延長である。
「恋話ってやつですか。残念ながら、俺はどっちにも畏怖の念しかないですよ」
「ふふっ、ひどい言い種だな。二人ともなかなか可愛いだろうに」
「それは認めますけど、はっきり言って友人ですよ。大食い少女と、霊感少女ですから、多分それ以上の関係にはならないでしょう。キャラ濃すぎますって」
富士彦の辛辣な言い回しに対して苦笑した杏は、意見に賛同しているようだ。
「でも光田さんの霊感はさすがだね。その辺の痛いオカルト少女ではないみたいだ」
「え? と言うと?」
「実際にあそこで人が亡くなってるから」
「あー、聞こえない。なーんにも聞こえない」
全身に鳥肌を覚えながら、富士彦は憶測した。うんざりする恐怖話をテロのごとく聞かせてくる杏は、女子にありがちな情報のシェアリングをしたいだけなのだと。
しかし死人が出た調理室とは、いよいよ退会を視野に入れても良さそうだ。いわくがあるからこそ、第二調理室は使用されていない。いやに筋が通る。
だとしても、丸々ひとつの教室を無駄にするよりも、資料室や物置など、尤もらしい使い方があるのではないだろうか。
霊が頻繁に出ており、誰の手にも負えなくなった。
そのうち美食会が所有権を剥奪した。
想像以上の権力を握っている邪な集まり。
まるっきり与太話だが、あながち想像とも――
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