三食目 安藤杏
3-1 会長の鏡ですね
本日の空は朝から
町を覆う灰色の厚板は、教科と教師が変わるごとに、傘を忘れた上、折り畳み傘もロッカーに入っていない富士彦の不安を増加させていった。
放課後。幸いにも天気は持ってくれたが、雨模様に変わりなかった。
帰りのホームルームが終わるなり、愛佳と未来はぶんぶん手を振り、そそくさと教室をあとにしてしまった。どれだけ変人でも、あの二人も女子高生だ。女の子同士の募る会話もあるのだろう。
せっかくの花金だというのに、学生生活を彩る用事がない富士彦は、富士彦らしく変哲もない家路につくのが筋というものだ。いつもどおり、普通の、代わり映えしない帰宅に胸躍らせ、自宅に着いたら何をしようかなどと、にやけながら一考しているうちに下駄箱に着いた。
廊下では曇りを確認していたが、校庭を見るなり富士彦は世界の絶望を見た。眼前では、
校舎で唖然としていても、『一緒に入る?』なんて
いやに静かな校内は、カビが生えそうな湿度だった。無数に降り注ぐ雨を睨んでいても、傘を持った英才になり上がれない。
やむなく、てるてる坊主のような晴れ乞いを諦め、あわよくば傘を持った知人との出会いを夢見ながら校内を歩き始めた。
富士彦の行動は極めて控え目だった。外食先で以前注文した料理ばかりを頼むという、無難な選択そのもので、見覚えのある廊下をひたすら歩んだ。
図書館からは【休館】の立て札で門前払いを食らい、教室に戻ってもクラスメイトは一人もおらず、とうとう富士彦は行き先をなくし、第二調理室に引き寄せられていった。
九月初頭。全国がマイクロ波加熱されているかのように、うだる日々が続いているのに、調理室に面する廊下は常に冷たい空気が取り巻いていた。四月から昨今までこの学校で過ごしてみたが、第二調理室の人を寄せつけない不気味さは一向に払拭できなかった。
未来には霊が出るなんて脅かされたが、月に二回通っているうちに、恐怖は自ずと、それなりに、多少なりと、誰かが側についていれば――さほど怖くなくなった。だのに、なぜここで危険を冒そうとしているのか。
例えば、『苦手な辛い物を食べ続ける』なんて自虐性を持つのは良くないし、『人形焼の中身はあんこ』と決めつけるのも良くない。要は、心の奥底に怖いもの見たさ(マゾヒズム)が潜在しながらも、霊なんてものは噂や目の錯覚に過ぎないと自身に証明したかったのだ。
初めの一歩に取り巻く冷気(霊気)を気勢で振りほどくと、調理室に面する廊下にゆっくりと進入した。テリトリー内は、一層寒さが増していたが二歩、三歩と前に進みながら、『第二調理室』の文字に普段通りの疑念を浮かべた。
家庭科の調理実習や、調理同好会で使用されるという第一調理室が、つい十年前に造られた別館に存在していることが、不自然でたまらなかったからだ。
一、二――の順に数字は増えてゆく。であれば、第一調理室が古い教室に割り振られているのが道理である。このような薄汚い奥まった教室に、第二をあとから設けるのは矛盾でしかない。
ふと顔を上げると眼前にはドアがあった。知らずにそこまで歩んでいたのだ。どうせ鍵がかかっているだろう。富士彦が古びた引き戸に右手を伸ばすと、調理室から食器同士がぶつかる金属音や、棚が閉まる鈍い音が廊下に漏れてきた。
硬直した富士彦だったが、不思議と恐怖は緩和していった。きっと中に、生徒か教師が居るのだ。風声鶴唳という言葉があるが、この音はむしろ一人ではない安心感を得るためのサウンドエフェクトだった。
そうとわかってしまえば、ここに長居しても仕方がない。端から用事もなかったし、調理室に顔を出したところでばつが悪いだけである。
霊なんてあるわけがない。一片の強がりを唱えながら帰宅方法を再考し、踵を返そうとしたところ、古びた戸が大きめの雑音を上げた。
「――うわ! ビックリした……会長?」
「もう、驚いたのはこっちだよ! 麩谷くんかあ、なんか用かい?」
まるで鉢合わせを味わった男女の驚声が交わり、調理室のドアがガラガラと
余韻を引きずった。
目前に現れたのは美食会会長で、富士彦は気を抜いていたその表情をもろに見てしまった罪悪から、意識的に顔を伏せた。一方、数秒前の鉢合わせなんてどこ吹く風と、ボブカットを揺らしながらさあらぬ表情に戻す杏には、最上級生の貫録があった。
「用事はないんですけど、傘忘れたから、雨がやむまで校内フラフラしてたんです」
互いを確認しながらも、富士彦の動悸はまだ治まらなかった。即時に浮かべたのは、言い分というか釈明というか、行動を疑われないような自己弁護ばかりで、必死に絞り出した声は、起首から末尾までしどろもどろだった。
「今日は夜まで降り続くってさ」
対する杏の、まるで某クラスメイトが発する冷静な回答と裏づけに落胆した。
窓に張りつく水滴に目をやりながら、歯に衣を着せぬ物言いをしてくる姿は、どこか巻き毛の少女に似ている。
きっと『この少女』と、『あの少女』は気が合わないだろう。
「ところで会長はなにしてるんです?」
「なにって明日の準備さ。これでもリーダーだから、前日から準備をしてるんだ」
大したものだ。部でもない同好会、なおかつ非公式の活動に余暇を注ぎ込むなんて、感心の一言に尽きる。一方で質疑が生まれた。
「副会長は一緒じゃないんですか?」
「ありゃただの木偶の坊、骨と皮さ。役に立ちゃあしないよ」
杏いわく、『デカイ奴が見当たらないのは、平常通りの経常進行』だそうだ。内情を聞いた手前、葛藤が生まれた。くるりとUターンできる雰囲気ではなくなっていたのだ。
「一人で準備ですか? 雨やまないなら帰れないし、手伝いましょうか?」
「本当かい? そりゃ助かるよ。あ、ところでいつもの二人は?」
「ガールズトークがあるとかで帰りました」
決してやましい下心があったわけではないし、恩を売っておくという下衆な思惑でもなかった。単純に人として手を差し伸べてみようと、心が動いたのだ。
「今日は麩谷くんだけか。ふふっ、つまり二人きりってわけだ」
先輩の言葉を、『意味深長』という形で一考した節には、笑われるか、馬鹿にされるか、相場は決まっている。
「準備って、どういったことを?」
通い慣れた特別教室に入りカバンを置くと、富士彦は指示を仰いだ。
「ここは基本的に使われてないから、食器はもちろん床も調理台も窓も、なるたけ綺麗にしておきたいのが私の考えなんだ。なにより食事を作り、食べる場所だからさ」
「会長の鏡ですね」
ぐうの音も出ないほど会員を親身に思ってくれているようだ。情が移ったわけではないが、素直に感動した富士彦は精一杯の手助けを心がけた。
時折、杏の様子を窺いながらも無駄話はせず、雨音をBGMに黙々と体を動かした。
初めはとても長く、徐々に短く感じられた時間は、授業で感じる五十分よりも少しばかり早く過ぎていった。杏はフィニッシュのように、ちりとりのごみを捨てると、用具を片づけて富士彦に近寄ってきた。
「さて、こんなもんか。お陰でかなり早く終わったよ」
「いえいえ。未だに雨は降ってますけどね」
「そうだ。私の実家ここから五分程度で着くんだけど、ウチで茶でも飲んでかないかな。今日のお礼も兼ねてさ」
「いや、しかし俺は傘を忘れて」
「スペア貸すよ。それともなにか? 私と一緒の傘に入りたいの?」
帰宅方法に心を乱していると、藪から棒に杏の誘いが舞いこんだ。余計に惑乱した富士彦は、我知れず杏の弁舌に乗っていた。
プラベートにまで足を踏み入れるつもりはなかったが、返答次第で角が立ってしまっては、あとあと顔を合わせるのも気まずくなる。ここは『お礼』を名目に、素直に受け入れるのが堅実だったのだ。
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