2-2 過食症?

 ――眠っていたのだろうか。

 途切れた意識を遡らさかのぼせようと、腕時計に目を落とした。腰かけてから秒針は三週していた。愛佳の姿はまだない。

 もうしばらく目を閉じていよう。思った矢先、どこやら女の子の大きくせき込む声が聞こえた。誰のものか、半開きの眼で辺りを見回していると、再び未来が座るベンチに、息苦しそうな呻きが流れきた。

 風向きの問題だったのだろう、愛佳のものと判断するには充分すぎる声量だった。細い息を吐きながら未来はトイレに駆けこんだ。閉まっている個室はひとつだ。

「え、ちょっと愛佳どうしたの? 大丈夫?」

 個室の前で友人の名を呼んでも、しばらく声は返ってこなかったが、小さな息遣いは聞こえた。彼女の存在は明瞭としていた。

「う、うん……だ、だいじょ――」

 愛佳の苦心が耳朶じだに触れるとすぐ、

「うぇ! うごっ……おえぇ!」

 耳の奥を覆い、鼓膜を溶かすかのような嘔吐きが発せられた。

 バイキングという形態ゆえ、張りきりすぎてしまったのだろうか。その割に愛佳は、飲み下しながらも終始涼しい顔をしていた。今さっきまで未来に笑いかけてくれた彼女が、木製の扉を隔てた向こうで野太い濁り声と共に、自らの意思で咀嚼し、胃に収めたケーキの数々を吐き出しているのだ。胃から食道、食道から口内、そして便器へと。

 消化しきれず、水分も多く含み、元の原形も匂いも味も留めない元デザートを思うと、もったいないという憐れみより、愛佳の楽しそうな表情を思い出し、心苦しくなった。

「ぐっ……うげぇ!」

「ちょ、本当に大丈夫? 水買ってくるから待ってて」

「ごめん……これは、他言しないで……」

「わ、わかってるから」

 未来は、通りの自販機でミネラルウォーターを購入すると、皮肉にも自販機に搭載されたルーレットの数字が揃い、飲む予定のなかった缶ジュースまで手に入れた。人生で初めて自販機の当たりを引いたが、どうにもこうにも複雑な気持ちになった。


 公園に戻ると、ちょうど愛佳がトイレから出てくるところだった。その面持ちには、ケーキで浮かれていたあどけなさは微塵も残っていなかった。涙を浮かべ、肩を揺らし、虚ろな目でベンチを目指すだけの弱々しい姿である。

 うなだれた背中を小走りで追い、ペットボトルを差し出すと、精一杯の引きつった笑顔で受け取ってくれた。

 顔を洗ったのだろうか、愛佳の手と面は水で濡れていた。見兼ねた未来は「拭いて」とハンカチを手渡し、その足でベンチに座った。

 ここで一息。うつむいた愛佳がハンカチを握り締めながら、ゆっくりと顔を上げ、未来を見ずに南京錠がかかった口を開いた。

「なんか、その……か、感づいた?」

 即時、知らないふりをしようとしたが、普段から察しが良いと褒められている手前、否定は余計にわざとらしくなる。気遣いという意味合いがあっても、素知らぬ対応は相応しくないのだ。

「本当は大食いじゃないのに無理してる。もしくは……」

 ひとつ目の憶測はフェイク、あるいは衝撃吸収材だった。

「過食症?」

 未来の本音は、一呼吸の先にあった。

 人のプライベートに土足のまま踏み入る姿勢はおこがましいと自覚していたが、聞かずにはいられなかった。

「ダメなのわたし」と、落ち着いてから放たれた愛佳の意思表示は、消極的な震え声だった。眠気も冷めた未来は、とにかく無言に徹した。友人が本心を語ってくれるのならば受け止めようという心構えである。

「食べたいんだ、とにかく……とにかく。わたし、昔から食べんのが大好きだった。でもあんまり食べすぎてるから、健康状態を危惧した親に、適量にしなさいって暴飲暴食を止められてたの」

 そうして段々と口にし始めた過去、現在に至るまでの姿。

 愛佳の話を聞く限り、両親は至当な判断をしたのだと思う。決して食べ物を与えなかったわけではない。虐待ではなく、それは娘を想うからこそ――

「多少は抑えられたけど、月に何回か理性を突き破ろうとする食欲が襲ってくる。もう、食べたくてどうしようもない時が訪れんの」

「辛いね」

「でもね、そのままじゃ太っちゃうんだ。太る恐怖があった。太ったら親に怒られるんじゃないかって。わたしを想って注意してくれた親を裏切るんじゃないか、悲しませるんじゃないか? いつしか、好きなように食事ができない日々がストレスになってた。そのうちわたしは、悪魔のささやきに耳を貸したの」

 それが数分前の愛佳の行動につながるのだろう。

「好きなだけ食べて、あとは吐く?」

 ここで愛佳は、問いかけを認めるように首を動かし、数秒してからもう一度、首を同じ方向に降った。本音を言い淀むように。

「でも費用がかさむでしょ」

「なにも毎日が大食いフェスティバルってわけじゃなかったよ。高校に入る前は、衝動のまま給食の時間、おかわりを利用して、許されるだけ胃に収めたんだ。食べざかりの男子や、ただのデブに交じっておかわりした。みんなが食べ残した食料さえ胃に流し込みたかった。捨てられるくらいならわたしが食べてあげたかった」

 生徒の身勝手で捨てられる残飯を処理したい――その心意気は、卑しくもまた素晴らしいと思う。が、結果的にすべて吐き出してしまうためのステップと考えると、愛佳の思想は決して正しいものではない。

「個室にこもってた時間も、罪悪もすぐに忘れられる。吐き出したあとには、太らなくて済むという安堵、パンパンになったお腹の苦しみから解放される爽快感があったから」

 放っておけば、愛佳の独擅どくせん場はじょう続くだろう。しかも人とは不思議なもので、一瀉いっしゃ千里せんりに述べ立てていると、我を忘れ威張れもしない事柄ですら虚栄を張ろうとしてしまう。すると思考は誤った方向に、どんどん逸れてゆく。

「みぃちゃん、以前この町には食の神様が居るって言ってたよね? わたしは結果的に食べ物を粗末にしてる。食って吐いて、食って吐いて……それが止まんない。食に対する罪悪もけろっと忘れ、また食べたい衝動に駆られる。つまり、食の神から天罰を受けるべきはこのわたしなんじゃないかな」

 愛佳には罪悪感や自覚というものが備わっているように思えた。まだ、病気としては軽度の段階なのではないだろうか。未来は病気について知識を持っているわけではない、聞くだけしかできない。言い知れぬ焦慮があった。

「良くない行いだっていう意識は?」

「そうだね。自分がどれだけ馬鹿か理解してる。でもそのうち、人としての常識を失うかもしんない。自我を形成するつもりが、逆に破綻するかもしんない」

 愛佳にとっては摂取を含め、嘔吐もアイデンティティを確立させるための手段だったのだろう。事が事だけに相談もできず、誰かの言葉を反芻させ、省みる事態に運べなかったはずだ。

「さっきね、入店してからは、みぃちゃんの手前だと思って食べたい欲求を抑えてたの。でも葛藤の末、結局は欲望に負けちった。ごめんね、せっかく誘ってくれたのに……」

「あたしこそごめん。ろくな言葉もかけてあげられなくて」

 沈みきった愛佳から、わけもわからない謝罪を受けてしまった未来は、居たたまれなくなり、自己嫌悪の末に謝り返してしまった。苦しみながらシニカルな空笑いを見せる友人に、些細なフォローも、大層なアシストもできず気を揉んでいたのだ。

 こういう時、愛佳と一番付き合いの長い友人は、どのような方向から声をかけるのだろうか。愛佳には、そういう知人が存在するのだろうか。

 推し量るだけで無性に悔しくなり、過食への抑止力になれない自責と、落胆へ行き着いてしまう。それはもう、カステラの皮が綺麗に剥けなかった時のもどかしさに似ていた。

 後屈するような、愛佳の後ろ向きの姿勢が正解とは思いたくなかった。未来はしばらく意思を持たずに、自然に身を任せていた。

 どれほどか経ち、わざとらしく時計の文字盤に目をやると、ふと意を決し愛佳の妙に冷たい手首を握った。

「ねえ愛佳。今度、美味しい料理ご馳走するから。だから、いつかわからないけど、ウチに遊びにきて」

 愛佳を慰めたいがために、未来は半ばやけくそで口を開いたのだ。小難しい心組みがあったわけではなく、体がむずむずして仕方がなかったのだ。単なる見切り発車である。

「え?」

「あ、あたし過食症の知識はない」

 文字と文字が合わさり、単語は出来上がっていたが、単語と単語が合わさった文章としては、てんで組み立てられていなかった。

「歯が溶ける、精神が不安定になる。そ……そういう知識しかない。は、早いうちにやめさせないと、取り返しがつかなくなる」

 たどたどしく文頭を発してすぐ、マスメディアやインターネットで仕入れた情報を絡めた。

「みぃちゃん?」

「も、もちろん、あたしに治せるものじゃない。治療の強要もできないと思う。でもあの、また一緒に美味しい物を食べることならできる。と思わない? なんて……」

 冷静に言い放つつもりだったが、終始へどもどしてしまい舌がもつれた。クールを装うにも限界があり、未来まで自我を見失いそうになっていた。

 自身は別して非凡ではないと理解しているのに、愛佳と富士彦は『異彩を放っている』とか、『普通の子とは雰囲気が違う』とか、何かと一挙一動を取り立ててくるのだ。ただの一言にすらプレッシャーがあった。

 霊感があるという話題を持ちかけた四月だって、真意は置いておいて笑いが生まれると思ったのに、愛佳と富士彦は真っ向から食いつき、盲信していた。

 困った友人たちである。

 だからこそ友達になれたのだ。

「人なんていつか歳を取る。そうしたら、若い頃の行いが正しかったのか、誤っていたのかがわかる。今は……あたしにも、多分キミにもわからない。でも愛佳がやりたいことなら全力で協力するつもり。こんなこと初めてだから上手く言えないけど!」

 未来は語尾を強めて、反動のまま立ち上がった。格好悪い姿を見られても、愛佳には有り体を語りたかった。

 当人にとっては大問題である過食症を『こんなこと』、と言ってしまうと語弊があるが、未来にとっての『こんなこと』で友人を失うのが怖かったのだ。エゴイズムだと理解していても、愛佳と友人を続けたい衝動が勝ってしまう。

「うん、行くよ……みぃちゃんの家に。ふつつか者で、とんでもない奴で良ければ」

 すると愛佳が、ようやく普段の調子で笑ってくれた。言いすぎかもしれないが、それだけで気が晴れた。

「もちろん。でも寝起き悪いから朝の姿はNGで」

 これで解決とは言えないが、ひとまず安堵を得た未来の全身から、力が抜けていった。立っていられずベンチに戻り、硬い背もたれに上半身を預けた。目に入ったのは、むかつくくらい綺麗な空だった。

 しばらく二人で、ド忘れしてしまった数分前の会話を探った。どんな調子で、どんな口調で、どんな表情だったか。出会いの春に戻ったかのように、どぎまぎしながら。


 そのうち足元に夕風を感じると、帰宅の二文字をちらつかせた。マンションへ帰る近隣住民に感化されるように、「そろそろ帰ろうか」と折を見つけ、未来はすっと立ち上がり、空を見上げていた愛佳に手を差し出した。細くて柔らかい指が絡みつくと、体重に任せて愛佳を引っ張った。

「んじゃあね、みぃちゃん。また明日」

「うん。気をつけて」

 愛佳が過食症とは慮外な真実だった。

 彼女と別れた道中、未来は口を『へ』の字に曲げ、困りきっていた。このまま美食会に通い続けて良いものか否か。理由は愛佳にあった。

 満喫町には、昔から《五大の罪》という大罪が語り継がれている。町では有名で、知らない物は無法者扱いされるくらいの、もはや史実である。

「いただきますを言わない、ごちそうさまを言わない、食べ物を残す、残した物を片づけない、有るべき食事を与えない。はあ、どうする……」

 未来の私見だが、愛佳は罪に引っかかってしまうのではないかと危険視していた。

 ここ数ヶ月、『郷土料理』や、非公式の美食会、第二調理室を取り巻く無数の若人の怨霊など、数々の要素を五感プラス第六感で触れてきた。そこに《五大の罪》を加えると、疎ましくも一本の線でつながってしまうのだ。

「美食会への在籍は、やっぱり……」

 一癖も二癖もありそうな杏は、退会したいと頼んでも安易にOKは出さないだろう。

 策を遷延せんえんさせたくなかったが、今は愛佳との関係にひびが入らずに済んだ現実に浸っていたかった。未来は持ち帰った愉悦と安息を、ベッドの上で何度も転がした。

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