二食目 鮎川愛佳

2-1 トイレ行きそびれちった

 未来は校門に差しかかったところで、ペダルから片足を外し、左側でバランスを取りつつ自転車から飛び降りた。

 学校の敷地に入り駐輪場へ向かったが、いつも愛車を停めている場所が空いていなかったので、割と遠めに駐輪すると時計に目を落とし、すぐに空を見上げた。

 ここのところ雨雲を一切見ていないのは、全国が衣替えを終えてから、幾度と日を跨いでいたからだ。駐輪場に自転車を止め、足を地に着けると、実感するのは体にじんわりとまとわりつく汗である。

 未来は一年三組に入室するとチラシをカバンから取り出し、しけた茶請けのように、だらしない格好で机に突っ伏す愛佳に近づいた。

 本人の意識など構わず、反応を得られるまで愛佳の肩を揺らすと、目を覚ました飼い猫のような遅い動作で首を回し、瞑りかけの両眼を向けてきた。

 彼女から感じ取ったのは、まず不満だった。気流だろうか、不意に愛佳のごく自然な匂いが鼻腔を通り抜け、現実に居るのだと感じさせてくれる。

「おはよ。しゃきっとしなさい」

「おはやう。あつーい、むりー」

 七月に入ってから、こればかりである。さぞかし夏バテかと思いきや、彼女の食欲だけは落ちていないそうだ。休日だろうと朝昼晩、欠かさずに食べていると自慢げに語るのは、昼休みの定番である。

「なにが無理だって? 朗報、今日の放課後これ行かない?」

 机にこぼれた涎を不安視したが、幸い落書きもない綺麗な状態だった。愛佳の上半身を強引に机の端へずらし、空いたスペースにカラーのチラシを広げてみせると、死にかけた魚の目が輝いた。

「こ、これは? わたしに戦場へ出向けと?」

「割引券付、しめて千四百円。かなり得だと思うけど」

 当然である。未来がちらつかせたのは、ケーキバイキングの新店オープンセールを謳った案内チラシだったのだ。

「行く行く! お小遣いもらったばっかだから余裕だよ!」

 現金なものだ。糖分をちらつかせた途端、愛佳は背筋を伸ばし、お礼をボディタッチで表現してきた。べたべたと、恋慕すら窺える濃厚な握手で。

 どういう理由にせよ、喜んでもらえれば幸いだった。暑さでやられている愛佳を見兼ねて、少しでも精気を養ってもらおうという未来なりの計らいは成功したのだから。

「しかし、みぃちゃんも甘いの好きだねえ」

「うるさい。普段は血糖値が低いから、こういう時に補うの」

「美食の時も、お菓子作りだけは活き活きしてるよね」

「まあ得意分野だから。あと公で口にするな」

 さらっと美食会の単語を口にする愛佳を制する時、いつも冷やりとする。自覚がないのか馬鹿なのか、秘密に対して無頓着な愛佳は、目を逸らしながら「ごめんごめん」と軽い謝罪を返してきた。

 数ヶ月前、第二調理室に居た一年生は全員、美食会に入会した。

 難色を見せていた未来までも入会した理由は――二人を、胡乱な同好会に放置したくなかったからだ。

 近頃の若者に馴染めず、クラスで孤立しているところに声をかけてくれた二人のために、体を張ろうという思いである。

 かといって、情に打たれたのではない。一種の冒険心である。甲斐もあって、屈託のなさそうな愛佳は、わかりやすい笑顔で喜んでくれた。

「フジさんは?」

「放課後は用事だって。メールでそう言ってた」

「仲良いねえ。てか放課後まで待ちきれないよ」

 約束を取りつけてからは、VHSを早送りするかのごとく一日が粗く過ぎていった。六時限目まで授業を受け、昼食を少なめに取り、帰りのホームルームが終わるやいなや席を立った未来は、「行くぜ」と愛佳を促した。

 男子と駄弁る富士彦に手を振り、校舎を抜け、駐輪場から愛車を掘り出すと校門を出た。学校を背にして一分弱の距離で、愛佳も愛車に乗せようとしたところ、

「二人乗りはダメ」

 と、いやに真面目な対応をされてしまった。やむなく最寄りの繁華街まで、約十分の距離は自転車を押して歩いた。


 店に着くと、いくつかのグループが外に列を作っていたが、それでも待たされたのは、十分ないし二十分だった。制限時間六十分の完全入れ替え制なので、循環は早いようだ。

「思ったより混んでなくて良かったね」

「オープンセール最終日だし。さて」

 席に案内され、店員からシステムの説明を受けると、未来はネクタイを緩め、後ろ髪をシュシュでまとめた。未来なりの臨戦態勢である。

「みなぎってんね。ケーキは逃げないよ?」

「敵は本能……に従順な自分の心にあり」

 反面、大食いと呼称される割に、愛佳はゆるりとしていた。先陣切って飛び出すかと思ったが、汲んできた水を一口飲み「店の中は涼しくて良いね」と、体をクールダウンさせているのだ。食べ放題の店に水を飲みに来たのではない。それとも、これがクイーンたる由縁、はたまた余裕なのだろうか。

「さあ、行くよ愛佳」

「はいよー」

 富士彦からは愛佳の評判を幾度と聞いていたが、昼食の時も美食会の時も、大食らいの姿は一度も見せなかった。きっと学校生活という手前、素顔を隠していたのだ。どうあれ今日、噂がどれほどか判明するだろう。

 ケーキが陳列された棚は色取り取りで、さながら宝石の乗ったジュエリーケースである。思っていた以上に品揃えが良く、サラダやサンドウィッチなどの軽食も揃っているではないか。楽園はここだったのだ。

 まずは好物から攻略するのが筋というものだ。未来は獲物たちを目の前にし、チーズケーキとフルーツタルトを皿に取った。ドリンクは、無糖のアイスティーをチョイスする。ここまでは完璧な流れだった。

 自画自賛しながら、ふと愛佳の皿を覗くと、たった一切のケーキを確認した。ガトーショコラのみ。まるで小食である。

「愛佳は基本に忠実だね。スポンジケーキから?」

「なんか色合い? 目についたから取ったの」

 初手は控え目で、かなりのスロースターターと見える。席に戻り、丁寧に手を合わせながら「いただいます」と言った愛佳は、三口、四口でケーキを平らげ、「やっぱり謎だなあ」とつぶやいた。右手のフォークを咥えたまま制止している。未来は口の中のチーズケーキを飲み込み、「なんの話?」と返した。

「いやね、美食のこと。非公式だったら普通は廃止されるよね?」

 至福の最中、愛佳が形にしたのは尤もらしい疑点だった。

 月に二回、和気藹々と活動している同好会だが、火や調理器具の取り扱い、もちろん食材の取り扱いだって、誤った知識を持ち込めば大事故を起こしかねない。教育者たちが放任するなんて、ちゃんちゃらおかしいのだ。

 美食会という存在が、生徒たちを『町の郷土料理』で釣っている現状を踏まえると、ひとつの説が浮かび上がる。

「どうせ生徒会とか教師とか、その辺に手を回してるだけでしょ」

「買収って言いたいの?」

 権力を持つ者に、その料理とやらを提供すれば、初めは訝しげにしていた一年生同様、おそらく掌を返すだろう。欲する物のためなら大人も我を忘れ、同時に人としての常識を忘れてしまう。

「うん。そうそう食べられない物をご馳走すれば大方はね」

「そんな珍しいモン作ってたっけ?」

「それよりも今は目前の食だよ。あたし次の取ってくるから」

 追及、言及を回避し、皿の上が綺麗になった頃を見計らい、未来は話題を一転させた。

「あ、ずるーい。わたしも行く」


 残り時間四十五分。

 未来は新たな皿に切り替えては、次々と甘い物に手を伸ばしていった。いちごムースにマロンロール、ミルフィーユにショコラブラウニーと、ペアを守りながら。

 対する愛佳の皿の上にも二つのケーキ、紅茶シフォンとモンブランがあり、それらをすぐに平らげると、次は三つのデザートを盛って席に戻ってきた。ここからペースアップするのだろうか。両者とも胃に収めたデザートは六つになった。


 残り時間三十分、正念場が見え始めた。

「そういや第二調理室奥の女子トイレ、あそこ変じゃない?」

 愛佳は惚けながら、食事中に憚りの話を始めた。

「ん? 用具入れとは違う、施錠された鉄の扉のこと?」

「なんかね、あそこ幽霊が目撃されてるんだってさ」

 会話をする余裕がなくなってきた未来は、返答できなかった。例のトイレが噂されているのは承知していたが、それどころではなかった。ひとまずソルベで舌と胃を誤魔化しつつ、愛佳に続くように新たな皿に手を伸ばしたが、三十分前の喜色は消えていた。

 一方、相方のペースは上がる一方だ。ケーキを持ってきたかと思うと、もう胃へと流し込んでいるのだ。加えて、席を立つたびに、皿の上のケーキが増え続けるという現象まで起きている。さっき目前で、四個のケーキが消え去った。

 どれも、バイキング用に作られた小さめのケーキとはいえ、じわじわと胃を圧迫してくる様は、打ち続けるジャブのごとくボディに響く。


 残り時間が二十分になると、未来は食休みに入っていた。

 今まで食べたケーキ類が六つ、ムースが二つ、ソルベ一つにプリン一つ、サラダと一切れのサンドウィッチ、それらが胃の中で蠢いている感覚がある。アイスティーは一杯半で止まり、黄色信号が点灯している。

 最後にマカロンへ手を伸ばすべきか、伸ばさざるべきか、好物の存在を忘れていた自分への苦渋の選択だった。いっそマロンロールを吐き出し、代わりにマカロンを味わいたい、などと非人道的な想像もしてみた。

 甘味が好きでも未来の胃の大きさは常人と同等だ。体重増加うんぬんではなく、ここから先に冒険すると、出てはいけない秘密が、胃から口内へ上ってゆく恐れがあった。地獄の街道へ足を踏み入れるか否かの瀬戸際、後味の良い食事を決断した。

 方針を決めた未来は、黄昏れるように背もたれに上半身を預けながら、顔色ひとつ変えずに新たなケーキを取り終え着席する愛佳に視線を集中させた。

 所狭しと、五個のケーキが散乱している皿を、彼女はテーブルに置いた。単純な算数である。愛佳が食べたケーキの数は、一から数を一つずつ増やし、寄せ算するだけだ。

 現段階で1+2+3+4+5である。計十五個を食べ終えたあとは、六つのケーキを皿に乗せる気なのだろうか。クリームやスポンジを想像するだけで、げっぷが誘発される未来の表情に、清楚ギャルの面影はない。

「みぃちゃん太ってもしんないからね」

「お前が言うな。あたしはもうフィニッシュ。甘い物は別腹なんて調子乗ってたけど、やっぱり限界があったか」


 残り時間十分。

 未来は残った力を振り絞り、チョコマカロンといちごマカロンを食べきり、肘を突いた。これが本当の最後なのだと、口周りを拭きながら悟った。

 愛佳は――三個のババロア、三個のケーキを食し始めたと思うと、それを五分で平らげ、フィニッシュに七つのババロアやプリンを胃に収納してしまった。

 クイーンと呼ばれた所以は、食べ放題の一時間がすべてを語ってくれた。同性としてここまでやられると、憧れなんかよりも呆然の一言しか捻出できなかった。

「ふう、もう時間かな」

「お疲れさま」

 優しく称えたあと未来は御手洗いを借り、会計を済ませた。友人と過ごした時間は、デザートの甘さよりも幸せだった。本音でもあり、少し臭い台詞でもある。

「これからどする? 愛佳もう帰る?」

 行く当てもなく駅方面へ歩き出したが、一歩一歩が胃に響く。愛佳の横顔をちらっと覗くと、ちょうど彼女もこちらを振り向くタイミングだった。目が合うと、彼女は申し訳なさそうに、まるで用談のように口を開いた。

「ごめん。さっきトイレ行きそびれちった」

 反面笑いながら、悪びれた様子はない。いつもの愛佳がそこには居た。

「あらあら」

「えーっと、あそこで良いや」

 愛佳が指差した方向は、いくつかの遊具が設置された大きめの公園だった。商店街の付近にはマンションも多くそびえており、子供の遊び場も点在している。

 平日の放課後だというのに人気はなく、ブランコも鉄棒も四阿あずまやも閑古鳥が鳴いていた。夏の暑さにやられて、現代の子供たちは自宅でTVとかPCとかTCGとかに時間を浪費しているのだろう。

「ごめんね。ちょっと待ってて」

「ごゆっくり」

 未来は片陰を拾うかのようにベンチに座り、個室に向かった愛佳を待った。一分もせずに襲ってきたのは、急激な眠気だった。授業中の睡魔は堪えられても、時折やってくる、自然になぞらえる眠気というものは一向に耐えがたいものだった。

 雄大な雲の峰が、二棟のマンションの間から顔を覗かせていた。こんな場所で見られるとは、なかなか珍しい。大きなあくびをすると、通り風がどこからともなく人の声を運んできた。眠気を増加させる、のどかな風景である。

 満喫町がとても猟奇的で危険な町である、と冗談を言ったところで誰も信じない。それほど犯罪件数が少ないからだ。草木を撫でる涼風に耳を傾けながら目を瞑ると、一秒が一分に相似した。

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