11・蔦の城(下)
「「お願いします」」
その言葉と同時に櫻井さんはチェスクロックを叩いた。
対局開始を告げるブザーが鳴る。
ケンちゃんには僕の意図が伝わっている。彼は何とかしてくれる。僕は兎に角、将棋に集中する。
深呼吸をゆっくりと行う。
僕の指には自分とケンちゃんの命が掛かってる。
分かってる。
勝って初めて高坂さんの仇討ちは始まる。
分かってる。
負けられない、負けられない、負けられない。死んでも負けられない。
そんな事、分かってる。だから、戦法は決めてある。
初手、僕はゆっくりと飛車を掴んだ。そして、▲7八飛と指した。
それを見た老人がギョッとしたのが見て取れた。
通常、初手は角道を開ける▲7六歩か飛車先を突く▲2六歩。初手で飛車を振るのはあっても原始中飛車の▲5八飛。
7八飛戦法、通称猫だまし戦法は、隙に見える角頭を咎めるのが難しく、相手に応じて石田流、新鬼殺し、ノーマル三間へと変化する。そして、単純な効果としてまさしく猫だまし、想定外の初手で相手に動揺を与える。
△8四歩。飛車先を突いた。老人は僅かながら熱くなっているように見える。このまま突っ込んでくるなら角で飛車先を受けて新鬼殺しで戦ってもいいが、この将棋は石田流で戦う。そう、決めていた。
すぐさま▲7六歩。
相手は飛車先を伸ばす△8五歩。
自然な一手ではあるが、これは石田流はさせない、という意味だ。
▲7七角と歩を受けて、△3四歩に▲6七歩でノーマル三間にしてから石田流に組み直す事は可能だがハッキリと手損。△3四歩に▲7五歩で新鬼殺しの構えだが、こちらも同じく石田流を目指せば手損だ。
歩を二回動かすだけの、最速で最も簡単な石田流封じ。これで振り飛車における一つの理想形である石田流を封じれる。
…と、されていた。
僕は、▲7七飛と指した。
「…何だね、それは?」
老人は、呆れたような声をあげた。そりゃそうだ。これは一見、筋悪過ぎる一手。自分の角の効きを塞ぎ、飛車の転回を出来なくし、相手の角の効きに飛車を晒す。それをわざわざ指すのは石田流にしたいという明確なメッセージ。
老人は一度3三の歩に手を伸ばし、その手を止めた。
そして、△8六歩と強く指した。
やはり、咎めてくる。
▲同歩、△同飛、▲8五歩打、△8二飛、▲7八金△3四歩とスルスル進んでの▲7五歩で老人の手が止まる。
△7七角成と飛を取ると、▲同桂として次に▲6五桂と跳ねる鬼殺し風の筋と▲同角からの▲1五角打のパックマンの筋がありどちらも強烈だからだ。
それが老人にも見えたから手を止めた。
10分切れ負けのこの勝負で、時間を使いたくない序盤で時間を削らせる。
三間にはお宝が埋まっている。と誰かが言った。▲7七飛、この悪手が掘り起こしたお宝は凶悪なハメ手定跡へと合流する新たな道筋。
つまり、飛車角交換は出来ない。
老人は、苦い表情で△3二金と指して、危険な筋を消した。
僕は▲7六飛、と強く指す。初志貫徹、石田流へ。
老人の△8八角成に▲同銀として、お互い角を手持ちにして角交換型石田流、升田式石田流の完成。
初手▲7八飛は石田流を匂わせて△8四歩~△8五歩を指させるための誘導。▲7七飛は石田流に組む手順中に飛車角交換に来た相手を撃墜する技がある。相手がそれを躱せば、こっちは石田流に組める。
それが▲7七飛戦法。通称、無理矢理石田流。
老人は△4二玉として、ぎらりと歯を見せた。
「ふ、ここまでして、石田流にこだわるのかい?将棋はいくらでも戦法はあるのに」
僕は▲4八玉と指して答えた。
「石田流が指したかったから、意地を張っただけです」
「くく、優男の外面と、指す将棋がまるで違うじゃないか」
「…いいんですか?時間は」
「構わん。なあ、ひとつ追加していいかね?」
「…?」
「君が負けたら、死ぬ前に、投了の前に君の目的とやらを教えてくれないか。今晩気になって眠れそうにない」
「…」
「なに、これは賭けじゃない。お願いだ。始まってしまったら、もう黒駒はなんの願いも聞かないからね」
「いいですよ。話しましょう、負けたらね」
「決まりだな」
言葉と同時に老人は指した。そこから、互いに指し手の速度は上がっていった。
一瞬のミスで大差が開くこの将棋を老人は一手数秒で間違えることなく指しまわした。
―――強い。
僕も早指しだが、それ以上に早い。読みを入れているというよりは、匂いで指しているタイプの将棋指し。相手にとっても負けられない一局でもそうくる所を見るに自分の将棋勘に絶対の自信を持っている。
簡易の囲いで仕掛けるつもりが、その期を逸した。
「おやおや、手が止まったな。県居君。まだ中盤の入り口だぞ?」
老人の言葉を無視して読みを入れる。
これからの局面は正にぎりぎりの綱渡り。慎重に、最速に、読む。
無限に枝分かれして広がる局面を一つ一つを確かめる。どれが勝利のために最善か。見かけ以上にこっちが不利なのは分かってる。だが、それは大差ではない。
ここから『捌く』。
僕は腹を決めて強く指した。
「待ちくたびれたよ」
老人はすぐに指す。僕の石田流を押さえつけて、じりじりと圧迫する一手だった。
捌けるもんなら、捌いてみろ、という事だ。
上等ですよ。
「こんなもんで…」
「何?」
「こんなもんで抑え込めると、思わないでください」
一呼吸置いて、僕はついに開戦の一手を指した。
一気に、まるで一直線の手順のように指し手が進む。頭の中で読んだ通りに盤上から駒が消えていく。
攻防の先にあった『必殺技』に近づいてくる。どんな必殺技も、それ単体で使っては通らない。必殺の右ストレートも、単品で使えばガードされる。
将棋も同じ、必殺技も単品で使っては不発に終わる。だから丹念に相手のガードを削り、必殺が入る局面を作る。
僅かに相手が良いように、偽装した手順。
僕は高速の攻防の最中に一発、歩の手裏剣を入れた。
「う…!」
その手を見た老人が小さくうめき声をあげた。一歩で盤上の模様が変わる。
老人は苦渋の表情で指した。
読み筋の凌ぎの一手。だが、それで凌がせはしない。もう一発撃ち込む。
僕は角をぶった切った。僕の必殺技は刺さった。
「な…」
老人は一瞬手を止めたが、すぐに角を取った。
僕は龍を作って、相手の守りの金と攻めの銀に効きを当てた。
必殺技が決まった局面だ。形勢はこっちが大優勢。金取りは詰めろでもあるので、相手の指し手はこの金に紐を付ける一手。そこで攻め駒の銀を奪って、ゆるゆると受けて相手の手を封じて、勝ち切れる。
「まだやりますか」
「…楽しくなってきたな、県居君」
そう言って老人は、叩きつけるように指した。
それはごつく受ける、守りの一手だった。
「まだ、だ」
「分かりました」
僕が龍で銀を取ると、老人は笑った。
「君は強いが、まだまだ甘い。安全勝ちを目指したね」
老人がそう言って、歩を打った。
「…人は助かったと思った瞬間に、最も弱い面を晒す。勝ったと思ったろう。だから、私の演技が見抜けなかった。だから、この手が読めなかった」
僕はその歩を見て、吐き気を覚えた。この歩は刺さっている、僕の命まで。
「銀を取らずに、そのまま、一気に攻めていれば、ギリギリだが、君の勝ちだった。まあ、その道も恐怖の道だがね」
「…感想戦は、終わった後にするものですよ」
自分の声が震えているのが分かった。
「…なら私も言おうか。まだ、やるかね?」
待ち時間は僕が2分数秒。相手が3分。
…普通に行けば、一手負け。龍を自陣に引いたのが仇となっている。
勝つために、普通では駄目だ。無数に分岐する局面から勝ちを探す。だが、一つ一つ深く読む時間がない。…ならば、自分の将棋勘に頼って読まずに指すしかない。
自分の将棋勘は、命を賭けるに足るか?
愚問だ。
「じゃあ、僕も言います。まだ、です」
僕は見えた一手を全力で指した。
何の確証もない、一手。
それでも、この先に逆転の目は必ずある、そう信じて指した。
「見ててください、僕の将棋」
僕は、無意識の内にそう呟いていた。
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