13・激辛と稲妻
東京の将棋会館。私の職場である。いや正確には元職場だ。私は先月付けでプロ棋士を引退してあの熾烈な闘争の日々を終えた。
その私が現将棋連盟会長である米川九段に呼び出された。
米川は私と同期で氷室名人と氷室世代と呼ばれる棋士達の突き上げやその後の山城龍王、そして新進気鋭の稲村五段…いずれにもひるまず未だ第一線で戦い続けている。
指定された部屋の襖を引くと、米川が茶を啜っていた。私は会釈して、米川の対面の座布団に座った。
「お呼びですか、会長」
「ああ、ちょいと内密に頼みたい事があるんだ、正一さん」
「何をですかな」
「ふ、あんたにそんな言葉遣いをされると、むずがゆい」
「そうかい、ならな米ちゃん、普通に話させてもらうよ」
「ああ、そっちの方が落ち着くよ。でだ、頼み事ってのは黒駒という将棋の駒だ。これを見つけ出して欲しい」
「駒?意味が分からんな」
「…毎朝新聞の中村って記者いただろう?」
「ああ、いたな。最近見ないが…」
「中村は大阪でその黒駒とやらを探っていたらしい。それが最近死体で発見された」
「…」
「それも自分で自分の頭をハンマーで殴り続けて自殺したらしい。現場のホテルは完全な密室で他者の介在も認められない。警察は自殺と断定したそうだ。あり得るかね?そんなこと。死ぬまで自分の頭を叩くなんてさ」
「それは警察の領分だろ。私に殺人事件の捜査をしろってのか?」
「中村と呑んでいる時にな、奴はこんな事を言っていた。黒駒は何でも賭ける事が出来る駒だと、負けた方の記憶や五感、命まで奪う事ができる…とな」
「何だ、その与太話は?」
「俺もバカ言うなと笑ったよ。奴が姿をくらましたと聞いた時も、それは関係ないだろうと思っていたがね…。ふと、奨励会員が自殺した件を思い出したんだ。あれもかなり理解しがたいところがあっただろう。もう一勝でプロになれるのに自殺なんてするかね。年齢制限に引っかかっていた訳でもないのに」
奨励会員、という言葉で私は米川の意図が読めた。
「…だから、俺に話をしたのか」
「そうさ。正一さんはプロを辞めてフリーだし、この黒駒とやらには恐らくあんたの二人の弟子、高坂智と県居学が絡んでる。あの二人は惜しい人材だったよな」
「フン、高坂はその黒駒とやらで殺されたんだから、師匠として弟子の仇をとってこいと?」
「そういうこっちゃ。俺はあんたを知っているぜ、正一さん。あんたは義理堅い人だ。こんなこと聞いちまったら、動かないでいられないよな」
得意げにそう言って、米川は茶を啜った。
「お前は相変わらず、いやらしい手を使うな」
私は部屋の端に置いてあった灰皿を手繰り寄せ、煙草に火をつけた。
「それで、だ。大阪の菅谷進一郎、奴が黒駒を追っていたとの話を風の噂で聞いた」
高坂、県居に続いて菅谷か。嫌な手ばかり指してくる、米川らしいと言えばらしいが。
「真剣師の菅谷か」
「奴は強すぎて、というか有名になり過ぎて真剣師稼業が成り立たなくなった。それで何をしていたと思う?」
「さあな」
私は努めて冷静を装ってそう言った。
「後進の育成だよ。真剣師を育てていたんだ。自分の代わりに真剣で稼ぐためのな」
「ほう。それで?」
「菅谷とその弟子達、そいつらは『梟』と名乗っとるらしいが…黒駒を持っていて、それを守っているのはこの連中だと思っている。なんでも裏の将棋界ではこの名は最強と名高いそうでな」
「…梟」
「この連中を探って、黒駒を手に入れ、中村と君の弟子を殺した奴を見つけて欲しい」
「見つけ出してどうする?そいつを警察に突き出して言うのか、この駒で人を殺しましたって?馬鹿げてる」
「いいや、内々で処理する」
私は米川の言葉に、はっとした。
「…ちょっと待て。まさか、お前」
「俺はな、まともに高坂と指して倒せる奴ってのはその菅谷のようなアマでも飛びぬけて強い真剣師か、高坂と同じく奨励会員若しくはプロしかいないと考えてる。高坂のような真面目な奨励会員が真剣師と指すってのは、ありえない事じゃないが、考えにくいしな」
「馬鹿な、プロに…犯人がいるというのか!?」
「ああ、いると思ってる。誰かは分らんがな。そいつは密かに黒駒を隠し持っているのかもしれない。もし、大阪での中村の死が殺人だとすれば、そいつは大阪に拠点を持つ梟とつながりがある可能性が高い」
「…」
「あんたが頼りなんだ、正一さん。いや、村瀬正一九段」
米川は深々と頭を下げた。
「…」
「引き受けてくれるか」
私はフィルターまで焦げた煙草を灰皿に捨てて立ち上がった。
「高くつくぞ」
「ありがとう、死なないでくれよ」
「死にそうになったら逃げるから心配するな」
私が部屋を出ると、廊下に稲村五段が壁に寄りかかって立っていた。
「聞きましたぜ、村瀬先生」
稲村は何が面白いのか、楽しそうに笑いながらそう言った。
全く悪戯好きな子供がそのまま大きくなったような男だ。まあ、まだ19の小僧だが。
「…稲村くん。盗み聞きは感心せんな」
「面白そうだから、自分も同行しますよ」
「御付きはいらん。君は現役で、順位戦もあるだろう。それに君は有名すぎる」
「勿論、変装しますよ。それに順位戦は大丈夫ですよ。俺、強いんで」
この男の若さにため息がでる。まあ、マスコミにあれこれ騒がられれば少しばかり天狗にもなろうか。勝負師としてはその甘さで頭を打ってから成長すればよい。
「いずれにせよ無理だ。米村会長から許可が降りることはないだろう。そもそも君を借りるなら君の師匠の三上先生に話を通すのが筋だ。ちと聞いてみようか」
私の言葉に、稲村は怯んだ。
「…師匠に?分かりましたよ、諦めますよ。先生は盤外でも激辛流ですね」
「無理筋だからそう感じる。私が言った事は全く辛くない、普通の事だ」
私が稲村に背を向けて歩き出すと、稲村は
「高坂さんと県居は奨励会で一緒でしたんでね。…俺だって無関係じゃないですよ」
と漏らした。
私は彼に何も言わず、そのまま立ち去った。
*
私が新宿駅のホームで大阪行きの新幹線を待っていると、ハンチング帽を被り、サングラスをかけた不審な男が私の隣で立ち止まった。
その不審な男は私の方をチラチラと伺っていたが、自分から声を掛けようとはしなかった。
やれやれ、と思いながら私はその不審者、稲村将吾に声を掛けた。
「何故、君がいる?」
「これは村瀬先生、偶然ですね」
「ほう、それでは偶然同じ新幹線に乗って、偶然私に同行する気かね?」
「休みに大阪に旅行に行くことが何かおかしいですか?」
「やれやれ…。そんな格好ではすぐにバレる。大阪に着いたら服でも買いに行くか」
「それは了承したって事ですね」
私は、したり顔の稲村に少しお灸を据えようと考えた。
私が携帯を取り出して、
「三上先生の連絡先は…」
と言うと稲村は深々と頭を下げた。
「生意気言ってすみません。お願いします、連れてってください」
「止めても来るんだろ。だがな、この件は命の危険もある。危ないと思ったら私を放ってすぐに逃げるんだ。私もそうする」
「弱気ですね。殴り合いで勝負ならまだしも、将棋なら先生と僕だったらアマに負けるなんてありえんでしょう」
「…話が通じん連中かもしれない。将棋が最も強いのは我々プロだ。その自負は勿論私にもあるが、それでも真剣師という連中は甘く見る相手ではない。慢心は敗北を呼びこむぞ」
「…承知しました」
稲村は不満気にそう答えた。実際この男は、稲妻流と呼ばれる終盤の怒涛の寄せで、A級も幾度となく破って来た。その男がアマに負けるというのは考えられないだろう。まあ、この棋士は一度アマに負けて痛い目を見てみるのも悪くないかもしれない。
私がそう考えていると、新幹線がやって来た。
「取り敢えず、大阪に着いたら腹拵えだ」
「いいですね。河豚奢ってください」
「…三上先生に報告だな」
「たこ焼きでも食べに行きましょう!奢りますよ!」
*
新幹線の喫煙室で私は米川に電話した。
米川はワンコールで電話に出た。
『もしもし』
「米ちゃん、稲村はあんたの差し金か?」
『いいや、本人たっての希望だよ。三上には俺から話はしてある。稲村には言っていないがね』
「そうか」
『激辛流と稲妻流だ。鬼にロケットランチャーってなもんだろう』
「稲村がそれなら、氷室は核兵器か?」
『そうだろうが、そりゃ貸せないね。棋界の最終兵器ですから』
「必要ないさ」
『そうだろうね』
「また連絡する」
そう言って私は電話を切った。
大阪まであと30分程だ。
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