2・富戸名ファンタジスタ

 富戸名のファンタジスタ。

 序盤中盤でリードするも終盤で大悪手、逆転負けを喫する…。

 とあるプロ棋士の蔑称、いや愛称に、この石川県富戸名市の名前を冠した兄ちゃんのあだ名。

 学兄ちゃんにこんなあだ名がついたのは、兄ちゃんが道場に戻ってきて、暫くしてからだった。


 今年は学兄ちゃん帰ってくるかな。

 私は、番台で携帯を眺めながら、ぼんやりそう考えていた。


「智代子!」


 ドスの効いた声で呼びかけられて、仰け反るように目線を上げる。

 いきなり見ると、心臓に悪い顔だった。

 スキンヘッドに彫りの深い顔付き、薄い眉、こめかみに大きな傷、そして鋭い眼光…どう見ても武闘派のヤクザって感じの顔。

「驚かさないでよ。橘さん」

 その顔の持ち主である橘さんが番台の前に立っていた。

 我が富戸名将棋道場の10年来の常連で、石川県警の凄腕の刑事だって自分でよく言ってる。

 私の親と仲が良く、たまに家に遊びに来たりする親戚のおじさん状態の人だ。

「スマホいじりながら仕事とは感心せんな」

「せっかくの夏休みに急に番台任されたから、遺憾の意を態度で表してんの。さっきまでお客いなかったし。」

「ここで表すな。コーヒー、薄めでな」

 橘さんは席料とコーヒー代の1100円を置いて、窓際の席に歩いて行った。

「はいはい、分かってますよ」

 私はそう言って、コーヒーメーカーに摺り切り三杯の豆と1500CCの水を加えた。橘さんからずいぶん前に教えられた、この割合がお好みらしい。


 私が橘さんの席にコーヒーを置きに行くと、橘さんは並べた詰将棋を眺めたまま呟いた。

「学は今年は戻らんのか?」

「さあ、知らない」

「スマホで聞いてみりゃいいだろ?」

「なんで?」

「知りたいって顔だからだよ」

「こっち見てないじゃん」

「見なくても分かるの。わし、凄腕だから」

「絶対嘘だ」

 私がそう言うと、橘さんはこっちを向いて楽しそうに笑った。橘さんは強面だけど、笑うと何だか優しそうな、恵比寿さんみたいな顔になる。

 その顔を見て、文句を言う気が失せた。私は番台に戻って冷蔵庫からサイダーを取り出して蓋を開けた。

 景気よく、ぷしゅっ、と音がした。私は、よく冷えた瓶を持ったまま、背もたれに体を預けた。その時、ふいに壁に飾った写真が目に入った。

 その写真には、何かの大会の優勝トロフィーを持った学兄ちゃんが写っていた。

 不愛想で全く嬉しそうじゃない。生意気な子供。こんなのだったな、と今の学兄ちゃんとのギャップで笑いが込み上げてきた。



 学兄ちゃんは、私が両親の経営するこの富戸名将棋道場で手伝いをさせられはじめた小学校2年の頃からすでに道場生として居て、小学5年生ながらその棋力の高さは有名だった。

 いつも無表情で何を考えているか分からない子供で、話す言葉は「お願いします」と「ありがとうございました」だけだった。そして、私が知りうる限り「まいりました」は聞いたことがなかった。

 あまりにも強くて、あまりにも容赦がなかった。攻め潰す。受け潰す。心を折る将棋を指した。

 同年代の子供は勿論、道場にくる有段者の大人も、学兄ちゃんと指したがる人はいなかった。意気込んで学兄ちゃんに挑んでコテンパンにやられて道場に来なくなった人もいた。

 いつも学兄ちゃんは、窓際の席に独りぼっちで座っていた。

 可哀そうだとは思わなかった。私たち凡人は学兄ちゃんを理解できないし、彼も私たちを理解できない。そう感じていたからだ。

 その強さで大会も優勝を重ね、プロの目に留まり、奨励会に入ると決まった時、よかったと思った。将棋のプロを目指す天才が集まる奨励会なら、学兄ちゃんのことを理解できる人がいて、学兄ちゃんは孤独ではなくなる。そう思ったのを覚えている。


 ところが、三年後、学兄ちゃんは奨励会を辞めて地元に帰ってきた。あの子でもプロになれないのかと学兄ちゃんを知る人たちは驚愕したが、かえって来た学兄ちゃんは性格が以前と比べて格段に明るくなり、将棋は格段に弱くなっていたのである程度は納得した。社会性を手に入れるのと引き換えに神がかった将棋の強さは失われたのだ、と。

 道場で指した兄ちゃんは何だか対局中もぼーっとしていて、序盤、中盤は強いが最後に大ポカをやらかしまくった。

 それを見て口の悪いおっさんが付けたあだ名が富戸名のファンタジスタだった。


「そういや橘さんだっけ?」

「何が?」

「富戸名ファンタジスタってつけたの」

「俺だな、いいあだ名だろ、恰好良く聞こえる」

 そういってまた笑った。

「まあ、そうだね」

 確かにその語感はよさげだ。私も笑って、サイダーに口をつけた。






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