駒音高く

すらくすとん

1・駒と単位

 その日は熱帯夜で、どうにも眠れなかった。

 ガタガタと音を立てるオンボロ扇風機を止めて、窓を開けてみた。

 こんな日に限って風がない。生温い湿った空気が気持ち悪くて、しばらく眠れそうになかった。俺はタバコに火を付けて、ぼんやりと外を眺めていた。


 大学二年生の夏休み、俺は実家の和歌山には帰らずに下宿先の名古屋でバイト三昧の日々を送っていた。地元に戻っても友達もいないし、やることもなかったからこちらでひたすらバイトして金を稼ぐことに決めたのだ。


 そうやってまどろんでいた時、不意にドアを叩く音が聞こえた。時計を見ると午前2時だった。こんな非常識な時間に人の家に来る奴に心当たりは一人しかいない。そうでなけりゃ警察か犯罪者かアレな奴だ。

 覗き窓から見えたのは、その心当たりの天パーとアホ面だった。

「時間考えろ、県居」

 俺は鍵を開けながらそう言った。

「ケンちゃんが暇そうなのを感じ取ったのさ」

 そう言って上がり込んでくる。県居学。大学の同級生で、同じサークルに所属するとぼけた男で隣のアパートに住んでる。

「お前のアパートからタバコ吸ってんのが見えたんだろ」

「そうだね」

と、とぼけた笑顔で答えて、こいつが大学で使っている古ぼけた皮の鞄を床に置いた。

「…まあいいや。何の用だ?」

 そう言いながら俺はベッドに腰かけた。県居はベッドの対面にあるテーブルの前に座ってこう切り出した。

「来週から一週間くらい手伝ってくれない?」

 何の用事か知らんが、バイトは、明日朝一で連絡すれば問題ないだろう。休む価値のある話ならだが。

「何するんだ?」

 俺の問いに、県居は黙って握った右手を差し出した。

「…」

 県居がゆっくりと指を開くと、その手のひらに黒い将棋の駒が見えた。

 よく見るとその駒は、何かで黒く斑らに染まった木製の駒だと気がついた。

「・・・それ、人の血か?」

 県居は小さく頷いて、似合わない真剣な表情で俺を見た。

「これは、絶局に使われた駒。持ち主は将棋盤に血を吐いて死んだそうだよ」

「…おいおい。何だ、その話」

「坂村教授から頼まれたんだよ」

そう言って、鞄から折りたたみ式の将棋盤ときんちゃく袋を取り出した。県居は無言のまま、きんちゃく袋の口を開いて、その中身を将棋盤に零した。

ジャラジャラ、と音がして黒く斑らに染まった駒が将棋盤に広がった。

県居は美しい所作で駒を掴むと、ぱち、といい音をさせて王将を打ち込んだ。淀んだ夏の空気を揺らす凛とした音だった。その後も零れた駒を一つ一つ、打ち込んだ。

こいつはプロ棋士を目指した事があったと聞いたが、なるほど確かに駒を動かすのも様になっていた。

俺が感心している間に、県居は手を止めた。盤上には勝負の途中と思われる将棋が並べられていた。

「…なんだ、これ」


「終わってない対局があるんだ」



「パス」


 俺は即、断った。そんな面倒なことに巻き込まれてたまるか。

「ええ!?何で?」

「アホか、ぶっ殺すぞ。なんだその血染めの駒は。死人と将棋がしたいならイタコでも雇うんだな。しかも何ちょっとカッコつけてんだ」

「ええ~、ダメかぁ~。マジな感じで頼めばいけるかなと思ったんだけど」

「いけねえよ、帰れ。俺は寝る」

「…ケンちゃん、そう言えば必修落としてたね。坂村教授のその単位、頼みを聞けばくれるってさ」

坂村教授の必修。文系の俺には理解できない講義で小テストをちょくちょく挟むので出席するのも億劫になって放棄した。できれば、いや絶対受けたくない講義だ。

「分かった、心の友のたの…」

「嫌ならいいんだよ。イタコさんって恐山にいるんだっけ?」

 食い気味に来やがる。仕返しか。

「…やるよ」

 県居はにんまりと笑う。ふざけた顔しやがって。

「で、一週間どこで何すんだ?」

「石川県で将棋さ」

「石川で将棋だぁ?何だそりゃ、おい」

 俺は頭を掻いて、TVのリモコンに手を伸ばした。

「分かった。重苦しそうな話は後だ。取り合えず、深夜番組でも見るか?」

「見ますか」

 県居の持ってきた駒と単位が釣り合うものかどうか。そんな考えをくだらない深夜番組で笑い飛ばした。


 いつ眠ったのか覚えてないが、俺と県居が仲良く目を覚ましたのは次の日の昼過ぎだった。


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