二章 ダガスランドでの再会6

◇◇◇


「ねえ、バスティ。わたしがいるだけじゃダメなのかしら」

 カリティーファは寝台に寝そべる夫の黒髪をそっと梳く。

 バステライドはうつぶせに寝転がっていて、壁の方に向けていた顔をカリティーファの方へ向けた。

「最初に心変わりをしたのは、きみのほうだろう?」

「わたしが誰に心変わりをしたの?」


 カリティーファは不思議に思って首をかしげる。

 カリティーファはずっとバステライドだけを見つめてきた。幼いころからずっと。


「きみは、伯爵夫人という肩書きに恋をしただろう。僕の言うことをずっと否定してきたじゃないか」

「あなたの言うこと?」


 バステライドと再会をして、彼はリュオンからもたらされた現実に呆然自失になった。しばらくの間、彼はカリティーファの言葉に耳を傾けてくれなかった。

 彼の心はもう長い間同じところで止まっている。


「伯爵家を出ていきたい。家族で新しい場所で生活をしたいって。きみは……ずっと諭してきたよね。あなたはもう伯爵なんだからって」

 バステライドはふいに彼の髪を梳いていたカリティーファの手を取った。

 二人はじっと見つめあった。


「ええ。あなたはお父さんになったんだもの。そして、伯爵になった。だから、いつまでも昔の夢に囚われていてほしくなかった。前を向いてほしかった」

「昔の夢なんかじゃない。きみこそどうして、笑っていられる? あの女に、きみは酷いことばかり言われた」


 バステライドは起き上がった。

 寝台の傍らに座るカリティーファをしっかりと見据える。

 カリティーファは息を吐いて、小さく口の端を持ち上げた。


「だって、幸せだから。優しい夫と可愛い子供たちに恵まれて。たしかに、つらいこともたくさんあったわ。だけど……それってたぶん生きていたら誰にだって起こることだもの。いつまでも自分はこれだけ不幸なの、なんて酔いしれているわけにはいかないわ。わたし、お母さんなのよ」


「僕への当てこすり?」

「半分はね。あなた、ずっと同じところから動こうとしなかった。あなたが伯爵家を恨むのも、少しは分かる。オルフェリアちゃんに対して、お義母様は酷いことをした」

「僕は、一生許せない」

「うん」


 それでいいと思う。

 きれいごとなんて言わない。彼女は確かにカリティーファたち夫婦に酷い仕打ちをした。カリティーファだって別に聖女ではない。何もかも許せるのは、たぶん神様の特権だと思う。

 カリティーファは人間だから、母親だから、子供たちを守る義務がある。


「でもね。トルデイリャス領は、子供たちにとっては大切な故郷なの。それは、オルフェリアちゃんにとっても同じこと」

「そんなことない」

 バステライドは即座に否定する。

「それを決めるのはあなたじゃなくて、あの子よ。あの子は、あの子なりに故郷と向き合うよう努力しているわ。あなたは放棄したけれど」

「カーリー、少し意地悪になったね」


「あなたがわたしを置いてどこかへ行くからだわ」

「きみが変わってしまったからだろう。きみはことあるごとに僕に伯爵としての立場を問うようになってきた。僕がどれだけ絶望したかわかる? きみだけは、僕の気持ちをわかってくれていると思っていたのに」

「だって……、あなたはもうお父さんで、それで伯爵を継いだのだもの。子供たちに、あなたは立派な伯爵なのよ、って見せてあげたかったのよ」


 カリティーファ自慢の夫だ。

 優しくて、愛情深くて、賢くて、外の世界のこともよく知っていた。

「僕は、あの女が許せなかった。違う。僕を、私を縛り付けたトルデイリャス領が大嫌いだった。だから、私の代で終わらせようとしたんだ。それの何が悪い?」

「一人で勝手に画策して、一人で完結させようとしたところよ。それに、オルフェリアちゃんを巻き込んだ」


 話題がオルフェリアに移ったところで、カリティーファはバステライドに非難の眼差しを送った。

 バステライドは居心地悪げに肩を揺らす。


「あなたも、もうわかっているんじゃない? 彼女は強くなったわ。ディートフレンさんに出会って、彼と想いを通わせていろいろと吹っ切れたみたい。リルちゃんも安心していた。あの子の最後の罪悪感を取り除いてくれたのは、ディートフレンさんなのよ」

 その言葉にバステライドは息をのんだ。

「わたしも反省しないとね。結局わたしは、あの子にいろいろと話せなかった。わたしも、オルフェリアちゃんに遠慮をしていたから」


 カリティーファの遠慮は、自分がオルディーンを元気に生んであげられなかったことだ。結局、自分のせいでオルフェリアが割を食う羽目になった。オルフェリアのいないところ、カリティーファの前で、義母は役立たずと、彼女を罵った。おまえの腹がいけない、と。オルフェリアを罵る口で、彼女はカリティーファのことも激しく揺さぶった。


 母として申し訳ない思いでいっぱいだった。オルフェリアと話すのが怖かった。

 あなたは悪くない、と言う頭の隅で恐れていた。娘から非難されるのが。お母様がわたしたち二人を無事にお腹の中で育ててくれなかったから、今わたしが謂れなき非難を浴びている、と言われることが。


「きみもオーリィも悪くない。悪くないんだ。だから、もう自分を責めるのはやめて」

 カリティーファはいつの間にか涙を流していた。

 バステライドはそっとカリティーファを抱き寄せた。暖かい腕に包まれると、カリティーファは癒される。何があっても、この腕は自分の味方だと確信できる。


「あの……、殴ってごめんなさい」

 二週間前の、出会いがしらの強烈な再会についてカリティーファは謝罪した。

「いいや。大丈夫。きみからの熱い気持ちだからね。あと、こん棒で娘に叩きのめされるよりかはずいぶんとましだったよ」

 バステライドの腕の力が強まる。


「わたしにとって夫はあなただけ。それはずっと変わらない。子供たちがそれぞれに道を見つけても、わたしはずっとあなたの側にいる。だから、帰りましょう」

「だめなんだ。私は、あそこには帰りたくない。あそこは嫌な思い出しかない」


 バステライドはカリティーファを抱きしめたまま言葉を絞り出す。

 そのまま寝台の上に倒されて、カリティーファはバステライドの頭をゆっくりと撫でる。バステライドはされるがままだった。

「きみが、私の元にきてくるのではいけない?」

 しばらくしてから、その言葉が聞こえてくる。


「あなたは……伯爵家を手放すの?」

「最初から私のことなんて誰もあてにしていなかった。父がそうだった。要らないよ。リュオンに返す、いや、最初からあの子のものだったね」

 つぶやきには自嘲的な笑みが混じっていた。

「オルフェリアちゃんを自由にしてあげて」


「それとこれとは話が別」

 夫の言葉を聞いて、カリティーファはぺちりと彼の額を叩いた。

「あいた」

「あなたが頑固だからよ。オルフェリアちゃんはディートフレンさんのことを愛しているわ」


「愛? やめてくれ、そんな単語を使うのは」

「あなたが分からず屋だからよ。わたし、あなたと結婚できて幸せよ。あなたが、わたしの手を離さないでいてくれた。なのに、娘が掴もうとしている大切な人の手を、父親が引きがしてしまうの?」

 バステライドは視線をそらした。

 そのまま押し黙る。

 その沈黙が答えも同然だ。

 彼だって、オルフェリアが本気なことくらいちゃんとわかっている。


「あなたは、いつまでオルフェリアちゃんを自分と同じところに括り付けておこうとするの? リュオンもちゃんと知っているわよ。あなたがオルフェリアちゃんに固執するのは、あなたがあの子を自分の分身のように考えているってことくらい。オルフェリアちゃん自身だって気づいている。あなたがあの子を子供のままでいてほしいっていう気持ち、なんとなくわかるわ。親って、いつまでも子供たちの世話を焼きたいものだもの。けどね……みんな、変わっていくのよ。それが当たり前だもの。ずっと、同じではいられないの」


 いつまでも子供なのは目の前の夫の方だ。

 彼は過去から動けないでいる。

 だから、手紙ではなく直接会って今の気持ちを伝える必要があった。

 手紙だと、たぶん彼には伝わらない。

 今だって、やっぱりまだ頑固だ。

 こういうところ、オルフェリアちゃんは受け継いでないといいんだけれど、カリティーファはいつまでもいじけている夫に抱きしめられながら、娘を案じた。


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