二章 ダガスランドでの再会7

◇◇◇


 いつものように『ひまわり』での仕事終わりにエプロンを脱いでいると、扉が開いて客が入ってきた。

「いらっしゃいませ……」

 オルフェリアは反射的に、決まり文句を言って、それから絶句した。

 濃い金髪に明るい緑色の瞳をした青年が入ってきた。


「やあ、こんにちは」

 耳に届くのは流暢な発音のロルテーム語。

 そう、彼の発音はいつも完璧だった。

 黒に緑色を一滴たらしたような、上品な色の上着に華美ではないタイをした青年はオルフェリアに向かって手を上げる。


「フ……レン、なの? どうしてあなたがこんなところに……」

 オルフェリアはかすれた声を出した。

 ロルテーム語で返したのは自分はもうこの地でしっかり生活をしているということを彼に見せつけるためだ。

 信じられなかった。

 ここはダガスランドだ。どうして、どうして彼がここにいる。オルフェリアの前に現れる。


「はじめまして。可愛いお嬢さん」

「は?」


 突然の挨拶にオルフェリアは面食らう。

 もしかして、そっくりさん? いや、まさか。オルフェリアは自分の考えを即座に否定する。この声、表情、そして大好きな緑玉の瞳。間違えるはずがない。

 それとも、いまのオルフェリアが眼鏡をかけていて、髪も左右に分けてみつあみにしているから初対面だと思ったのだろうか。

 オルフェリアの動揺なんてこれっぽちも気にしない素振りで、目の前の青年はカウンターの方へ近づいてきて、彼は眼鏡の奥の、オルフェリアの紫色の瞳を見透かすようにじっと視線を据える。

 オルフェリアはカウンターの中で一歩後ずさる。


「最初から始めないか、もう一度。私の恋人になってほしんだ。今度は契約とかそういうの関係なく。私の恋人に、いいや、妻になってほしい。オルフェリア」

「な……にを言っているの? わたし、ちゃんと別れの手紙、置いてきた」

 フレンは口の端をゆるりと持ち上げた。

「あんな手紙一つで本当に私と別れられた、なんて思っている?」


「あなたいま、最初から始めようって言ったじゃない」

「相変わらず、私のオルフェリアは厳しいね。まあね。一応、別れたことになっているのかな。だからもう一度って言ったんじゃないか。私は未練たっぷりだから」


 フレンは楽し気に肩を揺らした。

 オルフェリアはちっとも楽しくない。

 オルフェリアがどれだけの決意をもってあの手紙を書いて、父の手を取ったか、ほんとうにわかっているのか。わかっていたら、こんなところに、オルフェリアの前に現れるはずがない。


「帰って」

 オルフェリアはわざと冷たい声を出した。

「嫌だね。今日はね、ここの会員になろうかと思って。お客を追い返したりしないよね。ちゃんと上級会員になるよ」

「あなたといい、デイヴィッドと言い、ほんっとうに質が悪いわ」

 オルフェリアは小さく悪態をついた。


「少しお待ちください」

 オルフェリアは事務的な声を出して、そのまま裏の扉を開いた。

 扉を開くとすぐに階段がある。階段を上ると店主の住まいになっているのだ。

 オルフェリアは店主の娘を連れて再び店舗へと戻ってきた。


「会員登録は彼女がするわ」

「きみは?」

「わたしは今日はもう終わりの時間だもの」

 そのあと口を挟ませるつもりはなかった。

 オルフェリアはそのまま身をひるがえして、カウンターから出ていく。


「ええと、お客様。それではこの紙にお名前を……」

「え、ああ……」

 そんな会話が耳に入ってきた。


 オルフェリアはそのまま店を出る。

 心臓がまだ大きく波打っている。

 鼓動が激してくてオルフェリアは胸を押さえる。


 フレンの馬鹿。

 どうして、わたしのまえに現れるの。

 あなたのことを忘れようと頑張っているのに。忘れさせてくれない。

 いっそのこと幻覚ならよかった。


 そうだ、幻覚にしてしまえばいい。郊外の林かどこかに入って茸でも取ってこようか。手あたり次第取れば、一つ二つくらい幻覚作用のあるものがまぎれているかもしれない。

 オルフェリアは早足で歩いた。


「オルフェリア! 待つんだ」

 背後から懐かしい声が聞こえてきて、オルフェリアは思わず立ち止まった。

 腕を取られて、フレンの方へ体を向けさせられる。ついでに、つけたままだった眼鏡をはずされた。


「やっと会えた。オルフェリア」

 フレンに見つめられて、オルフェリアはどうしようもなく心が弾むのを自覚する。

 いつものように、頬を撫でられる。

 優しい瞳がまっすぐにオルフェリアに注がれる。


「あ……」

 オルフェリアは逃げようとする。

 しかし、彼の片方の手がオルフェリアの腕をしっかりと握りしめているので叶わない。


「オルフェリア」

 彼の口調は優しい。

「もう一度、名前で呼んでくれないの?」

 フレンに見つめられて、オルフェリアは動けなくなる。今まで、どんなふうに発音していた? 駄目だ、口が動いてくれない。

 どうしよう。

 何もできない。


 ずっと微動だにしないオルフェリアを、やがてフレンは嘆息交じりに腕をほどいた。

 彼のぬくもりが腕から消えて、オルフェリアはさみしさに胸が痛くなる。

 その相反する気持ちに嫌気がさす。


「元気そうで安心した」

「あ、あなたこそ。相変わらずね」

「それっていい意味でかな?」

「……さあ。どうかしら」

「ロルテーム語上手になったね」

 オルフェリアは顔を赤らめた。


「そんなこと……ないわよ」

 フレンが離れたことを幸いに、オルフェリアは歩き出す。

「ダガスランドにずいぶんと慣れたようだけれど、一人歩きはあまり感心しないな」

 隣にはフレンがしつこくついてきた。

 オルフェリアはちらりと隣を見る。

 別に一人じゃない、どうせどこかでバステライドがつけた従僕がオルフェリアのことを見守っている、と反論しようと思った。けれどその割にはだれもやってこない。

 いつの間にかその習慣はなくなったのだろうか。あまり自身の周りのことには無頓着なオルフェリアである。

 隣の男をどうしようかと思っていると、前方から顔見知りが歩いてきた。なぜだか彼は手に花束を持っている。


 オルフェリアの顔見知り、デイビッドは彼女の隣にいる男を見つけて目を丸くした。

「オーリィ、会いに来ました……って、どうしてあなたがこんなところにいるんです?」

 オルフェリアは頭を抱えたくなった。


 どうしてこのタイミングでデイヴィッドに会うのだ。今日はあれか、厄日か。

 新聞の星座占い、もしかしたらオルフェリアの月は最下位かもしれない。


「決まっているだろう。オルフェリアを迎えに来たんだ」

「バスティは、あなたの御父上と取引をしましたよ。あなただって聞き及んでいるでしょう」

「父が勝手にしたことで私は承諾していないよ。厳密にいえば、あんな書類を渡される前に私はスミット商会とは決着をつけていた」

「そんなこと知ったことではないですよ。もう、なんだって今更あなたがしゃしゃり出てくるんです」

「それはこっちのセリフだね。どうしてきみがオルフェリアの周りをうろちょろしている」


 二人は最初からばちばちと火花を散らしている。

 オルフェリアは祈った。

 とりあえず、デイヴィッドがこれ以上余計なことを言わないように、と。


「それはもちろん、目下オーリィに求婚中だからです」

「なんだって?」

 フレンの声が剣呑になる。

「別にお二人はとっくに、きれいさっぱりわかれているんですから、私がオーリィに求婚しようと、いちゃつこうと関係のない話ですよね」


 デイヴィッドはフレンを挑発するようにきわどい単語を織り交ぜる。

 いちゃいちゃなんて、一度だってしたことがない。

「彼女は私の」

「とっくに婚約者ではないですよね」

 デイヴィッドはにこりと笑って牽制した。

 フレンはしぶしぶ押し黙った。


「デイヴィッド、行きましょう」

 オルフェリアはとりあえずデイヴィッドを促した。

 今はフレンの隣にいたくなかった。

 早く逃げ出したい。

 その思いだけでオルフェリアはデイヴィッドの腕を掴んで歩き出す。

 選ばれたデイヴィッドを顔に隠せぬ喜色を浮かべる。


「ええ。オーリィ、どこでも付き合いますよ」

 オルフェリアは歩き出した。

「オルフェリア」

 フレンはオルフェリアを呼び止めたが、オルフェリアは振りかえらなかった。


 足を止めてはだめ。

 彼とはもう、終わったことなんだから。

 心が泣きそうだったけれど、オルフェリアはそのまま前を進んだ。


◇◇◇


 デイヴィッドと街中をふらふら歩いて、夕方近くに邸へと戻った。

 戻ってオルフェリアは即座に回れ右して邸から逃げ出そうとしたけれど、叶わなかった。

「それで、オルフェリア。さっきのあれはどういうことか説明してもらおうか」

 邸につくなり、フレンが待ち構えていて、しかもリュオンまでが一緒だった。

 逃亡しようにも、アルノーが玄関扉の前にしっかりと立っている。


「リュオンの裏切り者」

 オルフェリアはとりあえず弟を非難することにした。

「僕だって別に、進んでというわけではないです。父上とファレンストを秤にかけたらこうなっただけで」

 リュオンはごにょごにょと言い訳した。

「あなた、この人がこっちに来ること知っていたのね」

 オルフェリアは弟を睨みつける。

 弟は姉の厳しい視線から逃れるように、目線を左右に動かした。


「それは、まあ」

「どうして黙っていたのよ」

「驚かそうと思って」

 フレンが口をはさんだ。


 そりゃあもう、思い切り驚いた。

 馬鹿。オルフェリアは心の中で悪態をつく。


「あなた、性格悪くなったわね」

「どこかの伯爵令嬢に振られたからね。やけにでもなるさ」

 フレンは嘯いた。


「それで、オルフェリア。どうしてさっきは私ではなく、あんな奴の腕を取ったの? 腸が煮えくり返ったよ。きみはもうずっとこの先も私のものなのに」

「おいこら。誰が貴様のものだって」

 リュオンが絶妙の間合いで突っ込みを入れる。

「リュオン殿はちょっと黙っていようか」

 フレンは迫力満点の笑顔を作ってリュオンを黙らせる。

 そのままオルフェリアに近づき、彼女を引き寄せようとする。


「や……」

 オルフェリアは逃れるようにリュオンの方へ足を向ける。

「わたしは、もうあなたとは一切関係がないのよ。どうして、どうしてあなたはわたしの前に現れたの? もう、放っておいて」

「きみが、私の父からいろいろと言われたのは知っている。書類と引き換えに、婚約を破棄してくれって言われたんだろう」

 フレンは静かに話し始めた。


「そこまでわかっているのなら。あなた、お父さんに逆らっちゃダメじゃない。ファレンスト商会のことだけ考えればいいんだわ」

「父とはちゃんと話をしたよ。話をして、納得させた」

「嘘よ。信じない」

「嘘じゃない。信じてほしい」

 オルフェリアは混乱した。

 エグモントはバステライドのしたことに怒っていた。


「わたしもちゃんと聞いたわ。オルフェリアちゃん、意地を張らないの」


 扉が開いて、カリティーファが姿を現した。外出していて今帰宅したのだ。

 玄関広間で繰り広げられている光景に目を丸くした彼女は、しかし事態の状況をすぐさま察知して、フレンに加勢した。

「わたしも、エグモント氏にお願いをしたのよ。あなたとディートフレンさんの仲を認めてくださいって。エグモント氏は条件付きだけれど、認めてくださったわ」


「お父様のことね」

 オルフェリアはすぐさまぴんときた。

 カリティーファは困ったように眉を下げた。


「だったら、無理に決まっているわ。それに、お父様のことが解決しても……わたしはフレンと一緒にはなれない。彼にたくさんの迷惑をかけたわ。それなのに、わたし……平気な振りして彼に嫁げない」

「オルフェリアちゃん……」

 カリティーファは困ったように額に手を当てた。

「だ、大体。みんなおかしいわ。わたし、もうフレンのことなんて……こ、これっぽっちも……す、好きじゃないもの」

 オルフェリアは言いたいことだけ言って、人の合間をすり抜けて階段を駆け上がった。


「オルフェリア、待つんだ」

 そう言われて待つわけがない。

 オルフェリアは足を止めないで、そのまま自室へと飛びこんだ。

 すぐ後ろからフレンが追いかけてきたことは分かっていた。

 間一髪で間に合って、扉に背を付けて乱れた呼吸を整えるように大きく息を吸って吐く。


「オルフェリア。ちゃんと話をしよう」

 フレンはオルフェリアの部屋の扉を叩く。

「きみが私のことを嫌いになるはずなんて、そんなはずないだろう」


 オルフェリアは答えない。

 そのまま扉を背もたれにしてしゃがみ込んだ。

 瞳からは涙が浮かんでくる。みるみるうちに盛り上がって、そのまま頬を伝う。


「う……」

 オルフェリアは声を押し殺した。

「オルフェリア、お願いだ。ちゃんと話し合おう」

 オルフェリアは静かに泣いた。

 フレンのことを嫌いだなんて、そんなことあるはずがない。

 フレンのことを愛している。


 今だって、ずっと。忘れようとしても、簡単に忘れることなんてできない。思い出になんてできそうもない。

 忘れないと、と思うと心が悲鳴を上げる。

 忘れたくない、と。どうしてそんな風に思うの、と。心の奥でもう一人の自分が抵抗する。


 けれど、オルフェリアはフレンの手を取れない。

 あれだけ迷惑をかけたのに。知らぬ顔をして彼と幸せになるなんて。そんなこと、申し訳なくてできない。

 オルフェリアはひざを抱えた。

 涙であふれる瞳をドレスに押し付ける。


 どれくらい泣いていたのか、いつのまにか扉の向こうからフレンの声は聞こえなくなっていた。

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