六章 通じ合った気持ち4

「婚約指輪、つけてくれたんだね」

 フレンはオルフェリアの心の動揺なんて気にするそぶりも見せないで、彼女の左手の薬指にはまっている指輪に目を止めた。


「ええ。あなたからもらった、大事なものだもの」

 昨日の夜フレンから受け取った婚約指輪。オルフェリアの大切な宝物。

 オルフェリアはナイフとフォークを皿の上に置いて、指輪をそっと撫でた。


「全部片付いたら、結婚指輪を買いに行こうか。オルフェリアはどこの店が好き?」

 結婚指輪、という単語にオルフェリアがびくりと反応した。

「そんなにも驚くこと? 私たち、夫婦になるんだよ」

「わ、わかっているわ……」


 ただ、絶賛片思いだった身から突然両思いになって、偽婚約者だったのに一夜で本物の婚約者になった。

 ちょっとまだ、状況の変化についていけない。


「わたし、あんまり詳しくないから、よくわからないの。だから、お店選びはフレンに任せるわ。だけど……結婚指輪には、フレンの瞳と同じ色の石を使ってほしい」

 オルフェリアはおずおずと切り出した。

 その言葉を聞いたフレンは破顔した。

「せっかくだから、私の色とオルフェリアの色、二つ並べようか」

 その提案にオルフェリアは心がきゅっとなった。なんだか、二人がずっと並んでいるみたいで。

「うん」

 はにかんだ笑顔を浮かべて、オルフェリアは朝食を再開した。


「明日からはもう少しいろいろなものが出せると思うよ」

 テーブルの上に並べられているのはロルテーム風の、ぱりっと焼いた丸いパンとニシンの酢漬け(オルフェリアにはどうしてロルテームの人たちがこれを朝から食べるのか理解に苦しむ)、ゆでた卵とトマトを細かく切って和えたサラダにチーズとハムなどだ。


「……酢漬けのニシンはいらない」

「オルフェリア、苦手なんだね」

 フレンがくすりと笑った。

「生の魚なのよ。意味が分からないわ」

「慣れると病みつきになるんだけど」

 フレンは割と好きなようで、美味しそうに食べている。

「そこがわからないのよ」


「明日はきみの好きな干しブドウ入りのパンを用意しておくよ」

「わ、わたし。そんなこと一言も言ってないし」

 いつの間にかフレンに自分の嗜好を知られていてオルフェリアは気まずげに顔を下に向けた。

「実はリシィル嬢から聞いた。彼女がルーヴェに来た時、色々と話してくれたから。で、よーく観察してみると、オルフェリア、きみは確かに籠の中にいくつかのパンがあると、必ず一番最初に干しブドウ入りのパンを取るよね」


「ちょっと! 変なところ見ないで頂戴」

「可愛いなあ、って思って観察してた」

 フレンは楽しそうに笑っていて、それが本当にオルフェリアのことを愛しんでいるのが分かるから、オルフェリアはそれ以上の文句も言えずに顔を赤くする。


 と、そこでフレンは居間の暖炉の上に置かれている時計を確認した。

 彼は今も大忙しなのだ。

 昨日だって、オルフェリアとの逢瀬を楽しんだ後、マルクや従業員らと約束があるからと、夜遅くまで打ち合わせを行っていた。


 フレンは皿の上に残っていた食べ物を次々に口に入れて、最後にコーヒーを飲みほした。

「ごめんね。そろそろ行く時間だ」

 フレンが立ち上がったのでオルフェリアも慌ててそれに続く。

 少しのんびりしすぎたかもしれない。

 彼の状況を考えれば、オルフェリアは一人で朝食をとるべきだった。


「わたしのほうこそ、急に押しかけてきてごめんなさい。食事、気を使わなくていいのよ。あなた忙しいんだから」

「だめ。むしろ忙しいからこそ、きみと一緒に食べることで元気をもらうんだ。あと、一人だと仕事の片手間に適当につまむだけになるから、誰かと一緒のほうが都合がいいんだ」

 フレンはオルフェリアの負担にならない言い方をする。

 居間の隣の狭い控室の扉を開いたところでフレンは立ち止まった。


「オルフェリア、今日は絶対に外出しないこと。誰かに呼び出されても、外には出ないで、ミネーレを常に側においておくんだ」

 普段だったら外出禁止なんて横暴だわ、などと意見するオルフェリアだが、今回ばかりは神妙にうなずいた。

 バステライドの元から逃げ出してきたのは昨日だ。安易に外に出るわけにはいかない。

「わかった」


「大丈夫。わたしのほうでもいろいろと手は打ってあるから。ああそうだ、きみの家から届いている手紙をミネーレに預けた。あとで読むといいよ。ほかにも、なにか必要なものがあったら彼女に伝えて。退屈しのぎの本なら階下にあるし、日中は大体リューレア、私の従妹が息子を連れてやってくるから話し相手になってあげて」

「うん」

 素直に頷いた。

 フレンは名残惜しそうにオルフェリアの黒髪を手に掬う。


「じゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

 オルフェリアはこそばゆくて、目を細めた。彼から触れられることが純粋にうれしい。

 などと考えていたら、去り際に頬に口づけをされた。


 あっという間の出来事で、余韻などなにもなくて、オルフェリアはただただ顔を赤くして呆然とその場に立ち尽くした。

 本当に、たった一日で世界が変わってしまった。偽婚約者だったこれまでとの違いは、おそらくこの触れ合い加減だろう。

 本物の恋人の触れ合いがこんな風だとは初めて知った朝だった。


◇◇◇


北のレイヒトという町へは馬車を使って一時間ほどの距離だ。

フレンはあまり上等とはいえなく着古した薄手の外套に、ぼろぼろになった帽子をかぶり、辻馬車を使いレイヒトへ向かった。

 昨日マルクからもたらされた情報を精査した結果、ほぼディートマルで間違いないだろうと判断したからだ。


 エグモントは別の用事があるため昨日から別行動だ。昨日の夜報告のために姿を見せたマルクを相手にフレンは盛大にお説教を垂れた。

オルフェリアを危険な目に遭わすな、と厳命しておいたのに片棒を担いでどうする、と。しかも男装までさせるとは何事か、と文句を言ったのだ。とはいっても彼のおかげで彼女との仲が進展したのも確かなことで、雰囲気からいろいろと察したマルクにかなり嫌味を言われた。『俺、完全にやられ損じゃん』と文句を言われた。ちゃっかり彼女から報酬まで受け取っておいて、何を言っていると小言を追加しておいた。その報酬の耳飾りは取り上げて、フレンは自分の財布からちゃんと対価を与えた。


 フレンはレイヒトの町の外で辻馬車を降りた。

 レイヒトの町はロームとは比べ物にならないくらい風情の残る田舎町だ。

 とはいっても、ハーデル川の支流が流れているため、船でローム市内へ通うこともできるため、近年はロームに家を持てない人々がこちらに移り住むことが増えたという。石造りの古びた旧市街の外側には真新しい家々が並んでいる。


 そういう町だからこそディートマルも潜伏先に選んだのだろう。

 ロルテーム人は移民に寛容なお国柄だ。貿易を生業にしているため、ほかの西大陸よりも異民族も多く働いている。


 フレンはマルク手書きの地図を頼りに町中を進んでいく。彼は文字は書けないが絵なら書けるのだ。町のざっくりとした地図というか、絵に近いメモ書きに彼から直接聞き出した通りの名前をフレンが書き込んで昨夜完成させたのだ。完全にマルクの発音のみで書いた通りの名前のため、綴りが間違っていると思われるのが難点だ。


 大きな町ではないので、とはいってはフレンは比較的容易に目当ての建物を見つけることができた。

 建物は二階建てで、一階部分は大家が住み、二階の元は納戸だった部屋にディートマルらしき男が住み着いたという。


「お父さん。早いですね」

 建物の外にはエグモントがすでに部下と一緒に到着していた。

「付けられていませんか?」

「そんなへまはしない」

 今フレンらが一番警戒しているのはスミット商会の手の内のものだ。

 フレンとエグモントが一緒に出歩くと無駄に目立つため、エグモントは昨日の時点で外に出た。


「いくぞ」

 エグモントは顎をしゃくった。

 フレンも無言で頷いた。

 すでに大家とは話が通っているのか、エグモントは扉を開けてそのまま中へ進んでいく。狭い家だ。

 玄関のすぐ横に急な階段があり、そこを大人の男三人で登っていく。


 気の扉を前触れもなく開ける。

 木張りの床にサイズの合っていないカーテンとも呼べない布切れが引っかけられた小さな窓。固い寝台と薄い毛布。暖炉のない部屋の隅には火鉢が置かれている。

 背もたれもついていない木製の丸椅子に老人は座っていた。


「ディートマル叔父上。ようやく見つけましたよ」

 最初に口を開いたのはエグモントだ。


 彼の口調は思いのほか淡々としていた。もっと、怒気を露にするとフレンは思っていた。

 フレンは部屋の中の老人を見つめた。

 この数か月で彼は一気に老けた。身なりを気にしている余裕がなかったのだろう。薄い髪は伸び、無精ひげも生えている。顔色もあまりよくはない。一気に十以上老け込んだ印象を持った。


「なんだ、おまえさんたちのほうが早かったか」

 ディートマルはやってきた面子を確かめて口元に皮肉気な笑みを浮かべる。


「警邏隊を同行したほうがよかったですか、叔父上」

 エグモントのあてこすりにディートマルはふんと鼻を鳴らした。

 少しこけた頬をしていても、憎まれ口は健在である。

「それにしても、まさか大叔父殿がこれほど長く逃げおせるとは思ってもみなかったですよ。近隣住民から雑用を請け負っていたらしいですね。いやはや、あの大叔父殿が、と聞いたときは耳を疑ったものです」

 フレンは大げさに腕を広げた。


「ふん。おまえのように最初からお膳立てされた鼻たれ小僧とは違うのだよ、私は。若いころは、それこそ雑用だろうと、使い走りだろうがなんでもやって仕事を取ってきた」

 ディートマルはそれまで虚ろ気だった瞳に光をともした。

「それほどにまっすぐだったのなら、今度も正々堂々ぶつかってきてほしかったですね」

「はっ! 若造がきれいごとを」

 ディートマルはフレンを嘲る。

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