五章 舞踏会へようこそ3

「緊張していない?」

 フレンはオルフェリアに囁いた。

「ん……、平気。フレンが隣にいるもの」

 オルフェリアは小さく笑った。


 フレンがミュシャレンに帰ってきてから感じていることだが、近頃オルフェリアはよく笑うようになった。フレンの視線にもよく気付く。見つめていると目が合うことが増えたような気がする。嬉しいけれど、自分の気持ちがばれてしまいそうで心臓に悪い。

「迎賓館、初めて入ったわ」

「私もだよ」

 南方から運んできた淡い珊瑚色の大理石の床と薄灰色の大理石の石柱に支えられた正面大ホールに足を踏み入れると、方々から視線が突き刺さる。


 皆、新しく入ってくる人物の顔を確認し、身づくろいを品定めする。ざわざわとした舞踏会独特の雰囲気だ。ミュシャレンに居住するようになって三年が経過し、フレンの顔もこちらでだいぶ知られるようになってきている。

 入口ホールに掲げられた大きなシャンデリアの明かりが女性の宝石に反射する。

「メンブラート伯爵令嬢ですわ」

「ファレンスト氏も一緒ですのね」

「なんでもファティウス殿下とファレンスト氏は大学時代の先輩後輩の間柄だとか」

「ああ、なるほど……」

 ちらほらと噂話が飛び込んでくる。このような噂を仕入れるのは女性の方が得意である。それにしても耳の早いことだ。

 フレンはまっすぐに正面を見据え、オルフェリアとともに階段を上っていく。


 舞踏会は王太子の挨拶から幕を開けた。

 最初の曲に合わせて国王夫妻、王太子夫妻、そして本日の主賓であるファティアスとレーンメイナが踊る。オルフェリアはフレンと踊りながら、ちらちらと物言いたげな視線を送ってきた。

 おそらく要らぬ気遣いをしているのだろう。レカルディーナが王太子と踊っていようと何も思わないのに。


「今日は足を踏んでこないの?」

 代わりにフレンは軽口をたたいた。


 まだ偽装婚約したての頃、オルフェリアとは喧嘩ばかりだった。何かの拍子で彼女は機嫌を損ね、踊っている最中ずっとフレンの足を踏もうと画策していた。そういう令嬢らしからぬところも面白いな、と思った。

「ふ、踏まないわよ。失礼ね」

「きみにだったらいくらでも踏まれてもかまわないのに」

「だから踏まないって言っているでしょう」

 オルフェリアは頬を膨らませた。


 膨らんだ頬を指でつついてみたくなったけれど、あいにくと今は踊っている最中だ。

 オルフェリアはフレンのリードを優雅に受け止め、かろやかに足を滑らせる。

 そう。オルフェリアは踊りの筋は悪くない。あの時は本当に腹に据えかねていたのだろう。

 けれど、自分の足を踏もうと画策する彼女はそれはそれで可愛いから、今だって踏んでくれていいのにと思う。だいぶオルフェリアに毒されているな、と内心苦笑する。

 何曲かオルフェリアと踊って、曲調が変わって彼女と手を離した。

 婚約者同士といえど、舞踏会で同じ女性とばかり踊るのはマナー違反だ。

 オルフェリアの次のパートナーはパニアグア侯爵だった。


◇◇◇


 フレンと分かれて次に踊った相手はなんとパニアグア侯爵セドニオだった。

 オートリエから紹介を受けて面識があったがいつも挨拶を交わすくらいでまさか今日こうして踊りの相手をしてもらえるとは思わなかった。

「こんばんは。可愛らしいお嬢さん。おじさんのお相手でさびしいだろうがしばらく付き合ってくれると嬉しいな」

 すでに五十も半ばを過ぎているセドニオは白髪交じりの褐色の髪を後ろに撫でつけ、オルフェリアを優雅にリードする。

 笑うとすこしレカルディーナに似ているな、と思った。

「こちらこそ。あまりご挨拶もできずに申し訳ございませんでした。いつもオートリエ様には何から何まで良くしてもらっています」

 こんな席で恐縮ですが、とオルフェリアは気まじめに感謝の言葉を口にする。


「あはは。真面目だねえ。彼女、おせっかいなところがあるけど、根はおおらかで優しいんだ。いつもありがとうね。妻に付き合ってくれて」

 セドニオは相好を崩した。

「いえ。こちらこそ。とても勉強になってます」

「優等生な答えだね。妻も心配していたよ。きみは真面目すぎるきらいがあるからって。色々な人と付き合っていくなかで、きっときみと気の合う友人もでていくだろう」

「はい」


 きっと彼はオートリエからオルフェリアのことを聞いているのだろう。気さくな口調でオルフェリアのことを激しましてくれた。

 年上の男性と踊るのは初めてだ。見守られるているような安心感があって、フレンの時のように心臓が鳴りっぱなしと言うこともなく落ち着いていられる。

 父と踊るとこんな感じかなと思った。バステライドは社交は好きではないとはっきりと言いきっていたけれど、踊り自体は嫌いではないようだった。昔カリティーファと良く踊ったよ、と良く聞かされた。

 やがて曲が終わり、セドニオと別れた。オートリエが彼を迎えに来て腕を絡めて、オルフェリアに挨拶をした。少しだけ顔を出してすぐに辞するとのことだった。


 オルフェリアも立て続けに踊って疲弊したので壁の花に徹することにする。

 決まったパートナーのいない女性は男性からの誘いを待つために壁際に寄る。オルフェリアと同じくらいの年頃の少女だと婚約者持ちのほうが少ないくらいで、両親と連れだって参加している令嬢たちも多い。

 給仕の運んできた果実水で喉をうるおして何とはなしに会場を眺める。フレンは知り合いらしい男性らと話し込んでいる。


 王太子夫妻は入れ替わり立ち替わり挨拶に訪れる招待客の相手で忙しそうだ。オルフェリアも一言挨拶をしたいが、なかなか入りこむ余地がない。それに、フレンのことを考えると今一歩踏み出せない。

 彼はまだレカルディーナに想いを残しているのだろうか。本人は吹っ切れたと言うが、恋心がそんなにも簡単に無くなるとは思えない。


 オルフェリアはフレンへこの気持ちが早々消えてしまうとは思えないからだ。


 フレンとの偽装婚約が満了する八月まで、五か月を切っている。まだ五カ月、ではない。きっとあっという間だ。

 来年の今頃、フレンの隣には別の誰かがいるのだろうか。オルフェリアと別れた後、フレンは別の女性と結婚する? そんな未来想像したくない。せめて、最後にオルフェリアは彼のことが好きだと伝えたい。以前フレンにレカルディーナのことが好きなら好きと伝えるべきだと言った。

 だから、オルフェリアは彼に伝えないといけない。それが彼に対する誠意だと思う。


(わたし、本当に何も知らない子供だった)

 今なら分かる。好きな人に好きと伝えることの恐怖が。拒絶されたらどうしよう。自分は好きなのに、相手は別の誰かを想っている。

 考えただけで胸が痛くなる。

 オルフェリアはフレンの顔を眺めて、泣きそうな顔になった。

 わたしを選んでほしい。他の誰にも取られたくない。

 どうしたらあなたの側にいられる?


「こんばんは。お嬢さん」

 突然オルフェリアは影に覆われた。

 見上げると目の前にホルディが佇んでいた。

「こんばんは。ルーエン卿」

「一曲踊ってくれませんか?」

 ホルディは手を差し出してきた。

 どうしよう。彼には先日宝石のことで色々と話を聞かせてもらった。オルフェリアはホルディを見上げた。正直、フレン以外の青年とは踊りたくない。

「あら、ルーエン卿。先日は興味深いお話ありがとうございました」

 と、そこへカリナが大きな声で割り込んできた。彼女も壁の花に徹していた令嬢のうちの一人だった。

「こんばんは。オズワイン嬢」

 ホルディは突然現れたカリナにも挨拶を返した。カリナはオルフェリアに目配せをした。きょとんとして小さく首を傾けるとなんとなく、彼女の視線が冷えた気がした。

 もしかして。

 オルフェリアはぴんときた。

「わたしは少し疲れてしまいましたので、カリナと踊ってきてはいかがでしょうか」

 オルフェリアはホルディに提案をしてみる。カリナが喜色を顔に浮かべて「まあ、是非に」とホルディの腕に自身のそれを絡める。


 オルフェリアはホッとした。どうやら正解だったらしい。カリナはオルフェリアを助けるようで、自分をうまく彼に売り込もうとしている。ホルディは「まいったな」と小さく苦笑して、それからカリナをエスコートしホール中央へと歩いていく。

 こういうのを持ちつ持たれつというのかもしれない。

 カリナは楽しそうに踊っている。


 オルフェリアはそれを見届けてそっとその場から離れた。フレンはどこにいってしまったのだろう。

 最近顔見知りになったり、話すようになった令嬢らと挨拶をしながらオルフェリアはフレンを探し歩く。彼だって、親しい友人や知人との挨拶があるから忙しいのだろう。舞踏会は社交の場でもあるから夫婦、恋人同士といえど、ずっと一緒にいられないのだ。


(二部は一緒に踊れるかしら)

 続き間として解放されている一室の隅の椅子に座ってオルフェリアは一息ついた。


 一部と二部の合間に小休憩があり、軽食が出される。今も別の部屋には片手でつまめる軽食が用意されているが、今は主に踊りの時間である。

「こんばんは。メンブラート嬢」

 上から声がかかり、見上げるとホルディが佇んでいた。オルフェリアは立ち上がった。

 どうやらカリナとは一曲踊っただけで別れたらしい。

「こんばんは。何か用でしょうか」

「用というか、少しあなたとお話がしたかったんです」

 ホルディは目じりを下げた。

「わたしと?」

「ええ。リュオンとは去年一年間寄宿舎が一緒でしてね。って、これは以前にもお話ししましたが」

 ホルディはいたずらっぽい目配せをした。どうやらリュオンとも親しい付き合いをしていたようだ。くつくつと笑う表情は、彼の素を映しているようだ。

「リュオンがお世話になりました。彼、集団生活は初めてでうまくやれているか心配していたんです。ご迷惑をかけていたら、申し訳ありません」


 リュオンは自分自身の学校生活のことをあまりしゃべりたがらない。オルフェリアがそれとなく尋ねても、すぐに話題を変えようとするし、ノーマンが代わりに話そうとするとものすごい剣幕で怒る。

「いいえ。元気のよい、可愛い弟さんで。寄宿舎のみんなから可愛がられていますよ」

 女の子のような顔つきも人気の理由の一つです、とホルディはリュオンの名誉のためにも付けくわえなかった。

 ホルディの言葉にオルフェリアはほっとした。なんだかんだと溶け込めているようだ。

「よかった」

「彼は勉強熱心ですし、これまでのメンブラート家の当主らとは違って国政にもきちんと関わりたい、その義務もあると考えているようです。寄宿舎に入って、同世代との触れ合いがいい刺激になっているようですね。将来が楽しみです」


 ホルディはほがらかに話す。第三者から聞く弟の話にオルフェリアはむずがゆい気持ちになる。褒められると自分のことのように嬉しい。そのくせちょっとさみしくもなる。リュオンはリュオンなりにメンブラート家のことを考えている。それは先日のベルナルドとの会談でも垣間見た。

「おや、さみしそうですね」

 黙り込んだオルフェリアのことをホルディがしげしげと眺める。

「いえ。……ううん。少しさびしいのかも。だって、急にあの子が大人になったようで」

 人は変わる。オルフェリアだってミュシャレンに来て沢山のものを吸収した。きっとリュオンだって同じことで。

 なのに自分の知らないところで庇護対象だと思っていた弟が成長しているのを感じ取ると、嬉しい半面心に隙間風が吹いたような気持にもなる。


「私にはまだあぶなっかしい後輩ですけどね。彼のことは買っているんです。卒業したら、アルンレイヒになくてはならない人物になるでしょう」

「そ、そんな」

 ずいぶんな高評価にオルフェリアの方が恐縮した。

「ですから、オルフェリア嬢にはリュオンの姉としてもっと自覚を持っていただきたい」

 急に話を振られてオルフェリアはきょとんとした。


 それってどういう、と口を開きかけた時。

 すぐそばを通りかかった給仕係が突然手元を狂わせて手に持っていた盆ごとグラスを盛大に落とした。

 落下音は幸い絨毯に消されて、大きな音にはならなかった。

 突然のことに少し離れたところにいた人間も驚きの声をあげる。


「大丈夫ですか?」

 ホルディがオルフェリアの姿を検める。

「え、ええ。わたし自身にはなにも……。ですが……」

 オルフェリアは足元に視線を落とした。知らずに声がこわばる。

「申し訳ございません」

 盆を落とした給仕係の男が蒼白顔をつくった。

 オルフェリアのドレスに紅い染みが広がっている。

 落としたぶどう酒がかかったのだ。

「まあ、オルフェリアったら。大丈夫?」

「ミリアム……」

 人だかりの中から一歩前に出てきたのは今日初めて顔を合わした令嬢、ミリアムだった。


「って、大丈夫って風体でもないわね。控室行った方がいいんじゃない?」

 言われなくても分かっている。彼女は別にオルフェリアのことを心配しているわけではない。その証拠に神妙な顔つきをしている割にその口元が微妙に引きつっている。

「申し訳ございません。お嬢様」

 給仕係はひたすら平謝りを繰り返す。やがてほかの給仕係がやってきて、オルフェリアのドレスに乾いた布をあてがったり、騒ぎを起こした給仕係を別室へ連れて行こうとする。係の男性はしきりに「なにか眩しいものが」と訴えていた。

「わたし、控室に一度戻ります」

 ホルディが何を言いたかったのか気にはなったけれど、この姿のまま留まるわけにはいかない。早く応急処置をしてしまいたかった。


フレンに作ってもらったドレスはとてもきれいだったから内心落ち込んでいるけれど、ミネーレに頼んでどうにか染みを薄くしてもらおう。幸いにして胴衣の部分は無事だから、作り変えることだってできるかもしれない。

 オルフェリアは足早に階下の控室にとあてがわれている部屋へと向かった。


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