五章 心のありか4
◇◇◇
森の中を歩く最中ずっと、フレンはオルフェリアと手をつないでいる。
泣いた彼女を抱きしめて、ひとしきり落ち着いたところで彼女は少しだけバツが悪そうに「帰る」と申し出た。密着していた体を離したフレンは名残惜しくて手をつないでみた。そうしたら、振り払われなかった。
オルフェリアが泣いていたら慰めたいし、フレン以外の男と親しげに話していれば嫉妬の炎が胸の中に渦巻くし、彼女の笑顔を独り占めしたい。要するに、フレンはオルフェリアのことが好きなのだ。異性の、一人の女性として。
隣にいる少女が可愛くて仕方がない。
涙で頬を濡らしていれば、抱き締めずにはいられないほど、フレンの中でオルフェリアの存在は大きくなっていた。
いつからこんなにも彼女のことを好きになったのだろう。
たぶん一緒に過ごしているうちに徐々に惹かれていった。だから、あの時レカルディーナに自分の過去の想いを告げる時も言葉が自然と出てきた。自分の中で、しっかりと過去のことだと認識できていたから。
あのころは、まだ無自覚だったけれど、この数日でしっかりと自覚してしまった。
「……泣いたってばれるわね」
つないだ手を離したくないな、と思っていると小さな声が耳に届いた。
「確かに。目赤いからね。私のせいにしていいよ」
「フレンに思い切り手を出されたって?」
「う……、ま、まあ。口づけされてびっくりしたくらいで、留めておいてくれるとありがたいけど」
それでもきっと、方々から叱られる羽目になるだろうが、彼女の繊細な心の内を守れるならそれくらいのことは甘んじようと思うフレンだった。
フレンはオルフェリアのことを眺めた。先ほど、笑った彼女の顔が頭から離れない。
『あなたいびきなんてかいていないわ』と、言ったオルフェリアは野に咲く小さな花のような可憐な笑みを浮かべたのだ。
あの笑顔をフレンはできればずっと眺めていたかった。もう一度こちらのほうを見上げないだろうか。
そんなことをつらつらと考えているといつの間にかヴェルニ館へとたどり着いていた。
屋敷の中はぴりぴりとした空気に包まれていた。
使用人らが、不安げにしている。大きな音が階上から聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
「フレン様」
戻ったフレンを素早く見つけたアルノーが近寄って来た。ぎゅっとオルフェリアの手を握りしめたままだったから、彼の視線は下へと向けられた。フレンはその視線に気づかないふりをした。
「何があった?」
「どうやら、こちらの家令がことを急いだようで……」
アルノーは周囲に配慮をしてフレンの耳に顔を寄せてきた。
アルノーの声が届いたオルフェリアも目を見開いた。フレンとしばらくの間見つめ合った。
どうやらカリストが早速ユーリィレインを修道院に入れる手はずを整えてきたらしい。迎えの馬車が到着したようで、断固拒絶をしたユーリィレインが部屋から動こうとしないとのことだった。
「ああ、二人とも戻ったのね」
「エルお姉様! これは一体……」
二階へと上がる吹き抜けの階段の上に姿を見せたエシィルにオルフェリアが慌てた声を出した。オルフェリアはフレンの手から自身のそれを引き抜いて急いで階段を駆け上がった。
「カリストが早速修道院へ使いをやったのよ。フラデニアの修道院よ。うちでしばらく預かるって申し出たんだけど、カリストったら聞く耳持たなくて」
突然の事態にエシィルも困惑していた。
人々の緊張を感じ取っているのか、腕の中のマルガレータも「コ、コケー」と顔をきょろきょろとさせている。
それにしても昨日の今日で早速修道院へ使いをやるとは。カリストも今回ばかりは腹にすえかねているのだろう。
それだけ盗まれたダイヤモンドは伯爵家では重要だった。伯爵家だけではなく、歴史上の上でも大切なものだったのだ。盗まれたことが王家に知れては大変なことになる。
そして、ユーリィレインの軽率な行動が今回の窃盗騒ぎを作ってしまった。
「わたし、様子見てくるわ」
オルフェリアが駆けて行くのを追って、フレンも階段を駆け上がった。
「オルフェリア、私も一緒に行く」
オルフェリアの後に続いてフレンもユーリィレインの部屋へと急いだ。エシィルも再び階段を上がった。
◇◇◇
部屋の前は人だかりができていた。
使用人らが遠巻きにながめていて、部屋の前にはリュオンとリシィルがいる。
扉は開かれていたが、二人とも入り口の前で様子をうかがっているだけだ。
「お母様は?」
「倒れた」
尋ねたオルフェリアに簡潔に答えたのはリシィルだった。
「いやぁぁぁぁぁ! 絶対に嫌よ! 修道院なんて入らないんだから!」
ユーリィレインの悲痛な叫び声が響き渡った。
「さっきからずうっとあんな調子」
後に続いて、なにかが割れる音がした。
「レインたら、手当たりしだい部屋のものを投げつけているんだ。花瓶とか、椅子とか」
オルフェリアは青くなった。花瓶も椅子も体に当たれば痛いし、当たり所が悪ければ血が流れる。カリストの本気を感じ取ってユーリィレインの方も相当の抵抗を示している。
「カリストは、レイン嬢をどうしたいんだ?」
フレンが注意深く口を挟んだ。
「修道院に入れるんだ。オルフィーに対してダヴィルドをけしかけてことについても怒っている。一歩間違えれば、オルフィーの名誉を損なうことだったし。わたしも怒っているよ。やりかたが陰湿だったと思うから」
リシィルは険しい顔をしている。
オルフェリアは少し驚いた。リシィルがそんなふうに怒りを表すことが珍しいからだ。
「レインはわがままなんだよ。あと、思い込みも激しいし。自分は伯爵家の令嬢だから何してもいいって思っているところもある。自業自得だ。しばらく出てこなければいいんだ」
リュオンもリシィルに追随して吐き捨てた。
「そうねえ。今回はレインが悪いわね」
エシィルもおっとりとした口調ながらユーリィレインを断罪する。三人ともユーリィレインに同情の余地なし、と思っているようだ。
「で、でもまさか……。このあと一生修道院なんてこと、無いでしょう? そうよね、お姉様」
異議を唱えたのはオルフェリアだった。
妹の悪意を浴びた彼女が、一番妹のことを案じている。
「さすがに、それはないと思うけど……」
リシィルとリュオンはお互いに顔を見合わせた。
「オルフェリアはレイン嬢のことを、許すの?」
フレンは狼狽するオルフェリアに尋ねた。
「あの子がしたことは確かに悪気がなかったという言葉では済まされないのかもしれないけど。でも、それでも……」
オルフェリアはつらそうに唇を噛みしめた。
結局、フレンはオルフェリアがこんな表情をしていればどうにかしたくなる。
「オルフィー」
それはリシィルも同じようだった。ぽん、とオルフェリアの頭の上にリシィルは手を置いた。
確かにユーリィレインもダヴィルドにいいように利用された部分もある。
彼はずっと伯爵家の誰かに隙ができるのを注意深く観察していたのだ。
アルノーの調べによれば、ダヴィルドはオルフェリアと入れ違うようにトルデイリャス領へとやってきたとのことだった。ルーヴェ国立大学の教授のもとで研究をしていたというが、それがどこまで本当なのか分かったものではない。今回は調べる時間が少なすぎた。ルーヴェ国立大学には、現在フレンの弟が通っている。フラデニアに戻って伝手をたどれば、いくつか分かることもあるだろう。
「私が行ってくるよ。彼女は、修道院よりも別のところのほうがいいかもしれない」
「部外者がしゃしゃり出るな」
部屋の中へ入ろうとするフレンをリュオンが遮った。見上げる濃紫色の瞳には険しさが浮かんでいる。
「リュオン」
「癇癪を起したレインは面倒だから、やめたほうがいいぞ」
すぐにリシィルから小突かれて、リュオンはしぶしぶフレンへの態度を少しだけ軟化させた。
「ご忠告ありがとう。でも、早く止めないと調度品が大変なことになりそうだしね」
唇を尖らせてながらも、ちらりとこちらの方をうかがってくるリュオンの態度がオルフェリアとそっくりで、フレンはにやけそうになる口元を必死にまっすぐに引き締めておかなくてはならなかった。照れ隠しのしかたまでそっくりなのだ。
フレンは注意深く扉をくぐった。
すぐ顔の横を何かがかすめてフレンはさっそく青くなった。
「こないで!!」
部屋の中は物盗りが一仕事終えたようなありさまになっていた。棚の上に置かれていたと思われる陶器の置物の残骸や生けられていた花が散らばっている。
カリストの方に目をやれば、彼の頭や肩は濡れている。おそらく花瓶を投げつけられたのだ。それでも目をすがめ、堂々と立っているカリストにフレンは内心舌を巻いた。仕える主家のお嬢様相手にも彼はひるまない。
「レイン嬢、話をしよう」
「わたしは話をすることなんて、なにもないわ! 入ってこないでっ!」
レインは引き出しを引いて、中に入っているものを投げつけてくる。
「お嬢様。わがままも大概になさいませ。そういう態度だから私も使いの者を呼んだのです」
「カリストなんて大嫌いよ!」
「嫌いで結構です」
「カリスト、少し彼女と話をさせてくれないか」
「部外者は黙っていてください。これは伯爵家の問題です」
フレンの言葉をカリストは一蹴した。
男性二人に追い立てられていることに一層の恐怖を感じたユーリィレインは続き間の奥へと逃げ込んだ。カリストはすぐさま追いかける。
「何も修道院に入れることはないだろう」
「ファレンスト様には関係のないことです」
「関係あるよ。私も被害にあったしね。彼女の悪戯の犠牲者でもある」
「あ、あなたもわたしのこと叱りに来たの? な、なによ! 結局み、みんな……オルフィーお姉様の方が大事なんでしょ!」
悲痛な叫びとともにくまのぬいぐるみが投げつけられた。
フレンの胸にあたったそれはぽんっとはじかれて床に落ちた。
「いつも、いつも! お父様の気を引いて! わたしだって、お父様と一緒に遊びたかったのに!」
続けていくつかのぬいぐるみがフレンとカリストを襲った。眉ひとつ動かさない鉄壁のカリストは大股でユーリィレインへ近づいた。
「だからといって、いたずらしていい理由にはなりません」
「カリストだって、わたしのことちっとも敬ってくれないじゃないっ! だ、だいたい、リルお姉様たちの子供時代の方がよっぽどひどいいたずらしていたじゃない!」
レインは金切り声をあげた。
「あの頃はバステライド様がいらっしゃいましたし。なによりレインお嬢様の今回のいたずらとは性質が根本的に違っております」
「レイン嬢、話を聞いてほしい。きみの悪いようにはしないと約束をする。オルフェリアだって、心配している」
ぬいぐるみ攻撃がやんだ隙にフレンも再度説得をしようと試みた。
しかし、彼女の前でオルフェリアの名前を出したのがまずかったようだ。
ユーリィレンはこれまでとは違う、暗い声を出す。
「なによ……オルフィーお姉様は。自分だけ、かわいそうって……同情引いちゃって! お姉様なんて生まれる時」
「それ以上のことを口にしたら、私はきみのことを味方できなくなる。だから今すぐに口を閉ざしてほしい」
ユーリィレインの言葉を遮るようにフレンは低い声を出した。オルフェリアの責任のないことで彼女を断罪するならフレンは見過ごすことができない。
「うっ……」
レインは泣いていた。
ぽろぽろと涙を流して癇癪を起している。まだ子供なのだ。
子供だから、感情のままに沢山のことを口にする。悪気はない、とフレンは思いたかった。
フレンの厳しい声にレインはびっくりしたのかしゃくりをあげてはいたが、それ以上口にすることはなかった。
フレンはため息をついた。たしかに、ここは狭い箱庭だ。子供がのびのびと育つには色々と支障があるような気がする。
「ありがとう、レイン嬢。きみは、修道院ではなくてフラデニアの寄宿学校に入ってみないか? いまのきみに必要なのは色々な人間と出会うことだと思うよ」
「しかしファレンスト様」
カリストが即座に口を挟んだ。
「知っての通り、現在の王太子妃レカルディーナ様もちょうどきみと同じくらいの年のころはフラデニアの女子寄宿学校に在籍していたんだ。勉強も礼儀も学べるし、淑女教育も行ってくれる」
ユーリィレインはフレンの言葉に耳を傾けていた。
「……結局追い出されることには変わりないじゃない」
しばらくの沈黙ののちユーリィレインは小さな声で呟いた。
「だが卒業したら帰ってこられる。そうだろう、カリスト」
フレンはカリストに確認をした。
カリストは相変わらず厳しい目つきをしたままだった。
レインは涙をぬぐいながらカリストの動向を注視している。
沈黙が流れる中、彼はついに言葉を発した。
「お嬢様がきちんとした淑女にご成長されれば、卒業時にお迎えにあがります」
◇◇◇
それから、オルフェリアとフレンはもうあと二日間ヴェルニ館に滞在をして、トルデイリャス領七日目の朝、ミュシャレンへと旅立った。
ユーリィレインが大暴れした日の夜、フレンは改めてリュオンとカリティーファ、カリストと話し合いの席を設けた。
内容は、ユーリィレインをきちんとした寄宿学校へ責任を持って預けることと、今後の伯爵家立て直しの具体策についてだ。
リュオンはオルフェリアらよりも先に寄宿学校へと帰っていった。
ミュシャレン近郊の寄宿学校に通っている彼は、休日にはオルフェリアの元に顔を出すからと念を押しに押した。
どうやら、まだまだフレンに対抗心を燃やしまくっているらしい。
「これからもしばらくよろしく。オルフェリア」
帰りの列車の中。
この列車を降りればミュシャレンに到着だ。
オルフェリアは隣を仰ぎ見た。
行きの列車では真正面に座っていた彼が、なぜだか今は隣の席を陣取っている。
二人きりの車内。オルフェリアはフレンが隣にいることが嬉しいのか、それとも離れてほしいのかよくわからない。
「よろしく」
「ミュシャレンに帰ったら、色々と調べるよ。ダイヤの行方についても、もちろん」
「ありがとう」
ダヴィルドの行方は依然知れない。
しかし、人知れず宝石を処分しようとしても必ず一目につく。
宝石商は表も裏もいくらかは繋がっているものだから、知り合いの商人に探りを入れると、フレンは請け負ってくれた。
「そうだ、今度のきみの誕生日。一緒に祝おうか」
「べつに……いいのに」
「だめ。俺が祝いたいから」
フレンのことを仰ぎ見ると、彼の優しいまなざしとかち合った。
彼の緑色の瞳を見ていると、最近泣きたくなる。こんな気持ち今まで味わったことなかった。
泣きたくなるのに、とても嬉しい。
彼は友達なのに。どうしてだろう。
家族と別れる前にリシィルに言われた。ミュシャレンで友達ができて安心した、と。
仕事上の相棒よりも友達の方がしっくりくるだろう、と言われれば頷くしかないオルフェリアだった。
けれど。
フレンは相変わらずオルフェリアのことを見つめていた。
気まずくなって、オルフェリアはすぐに視線を外してしまったというのに、彼は飽きないのだろうか。彼からの視線を感じてしまうのは、オルフェリアが自意識過剰なだけか。
オルフェリアは少しだけ自分の心を持て余しながらミュシャレンへ向かう列車の中で過ごした。
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