五章 心のありか3

「一月は……嫌い……。誕生日なんて、大嫌い……」

「うん。嫌いでもいいんだ。私が代わりに好きになる。きみが生まれてきたことを私が祝福するから」


「両親に遠慮させているようで……。わたしだけが生きているのが辛かった……。お母様、わたしの前では……ぜったいに泣かない……の。お墓参りだって、こっそり、してて……」

 これまで飲みこんできた言葉が次々に溢れだした。

 涙と一緒に、感情までが大洪水を起こしてしまっている。


「どうして……わたしだけ、生きているのか。わからない……」

 フレンが宥めるように優しくオルフェリアの頭を、髪の毛を梳いた。

 ゆっくりとした動作だった。

「難しく考えなくてもいいんじゃないかな。少なくとも私はきみがこうして今生きていてくれて嬉しいよ」


「こ、こんなにも可愛くない女なのに?」

「人間らしくていいんじゃないか。それに、やっときみの本心が聞けた」

「……わたし、生きていてもいいの?」

「ああ。もちろん。人間誰だって、生きる権利を持っているんだから」


 フレンはそう言ってオルフェリアの頭に自身の頬を寄せた。ぎゅっと頭を抱え込まれて、これまでよりも密着をすると、フレンの鼓動が少しだけ聞こえてきた。

 オルフェリアはまだしゃくりをあげていた。

 ずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。


「きみは伯爵家のためじゃなくて、自分自身の幸せを探していいんだ」

 オルフェリアは再び涙を流した。

 意を決した家出も、カリストには散々なじられたけれど、それでもこうしてオルフェリアのことを肯定してくれる人がいる。

 リシィルだって、心配してくれている。

「うん……。で、でも、わたし。メンブラート家の、ことも……ほんとうは……」

「分かっている。生まれた家だから、放っておけないんだろう。私も力を貸すから。大丈夫」


「ありがとう」

 密着した体はとても温かくて、オルフェリアの心までも溶かしていくようだった。


「あ、あの。フレン……。わ、わたしのこと……幻滅しない?」


 オルフェリアはそろりと切り出した。上を見上げて、こわごわとフレンのことを見つめる。

 こんなにも自分の心の奥底にためていた嫌な感情を見せてしまった。たぶん、オルフェリアはフレンには嫌われたくない。幻滅されたくないと思っている。

 フレンはオルフェリアの瞳にたまった涙を指で拭き取った。手袋をしていない直の手の感触に、胸の奥が高鳴った。

「大丈夫、幻滅なんてするはずがないだろう。……それに、きみは最初からずばずばと言う子だったからね」

「……なによ、それ……」

 あんまりな言いようにオルフェリアは少しだけ頬を膨らませた。


「きみこそ。私のこといびき男だと幻滅していないといいけれど」

「あれは嘘よ。あなたいびきなんてかいていないわ」

 オルフェリアはフレンの腕の中で口の端をゆるく持ち上げた。


    ◇◇◇


「姉さんは結局、あの男の味方だったんだな」

 ヴェルニ館の上階で、リュオンは眼下に広がる庭の様子を眺めていた。

 視線の先には、オルフェリアとフレンが手をつないで歩いているのが見える。


「別に。強いて言うならオルフィーの味方。フレンがどうしようもない男だったらぶん殴っていたよ」

「その割にはずいぶんと気にかけていたじゃないか」

「そう見える?」

 リシィルの質問にリュオンは顎を引いた。

 結局、リュオンもリシィルに振り回される形になっただけだった。

 一世一代の決闘をいいように利用された。主に、フレンとオルフェリアの絆が寄り深くなる方向で。


「オルフェリア姉上のあんな顔、見たくなかった」

 彼女は自覚があるのだろうか。

 いつもフレンのことを目で追っているし、彼を見つめるその頬はバラ色に染まっている。

 リュオンには見せたこともない表情をするようになっていた。


「ふうん。どんな顔?」

「う、うるさいなあ」

 そんなこと言えるか。

「あんたは、さ。そろそろ姉離れしたら?」

「嫌だ」

リュオンは即座に答えた。

 姉離れなんて死んでもするものか。オルフェリアは生涯ずっと、永遠にリュオンの大切な姉なのだ。


「でもわたし、あの二人がくっつくのは時間の問題と思うけどなあ」

「何を言っているんだ。現にくっついているだろう?」

 リシィルの独り言をリュオンは聞き咎めた。


「悪い。間違えた。フレンがオルフィーに手を出して、妊娠させるのも、の間違いだ。来年の今頃が楽しみだね」

「なななななんてこと言いだすんだ! そんなこと、僕が許すはずないだろう!」


 リシィルの悪魔じみた物言いにリュオンは思い切り上ずった声を出した。

 妊娠だなんて!

 結婚だって認めたくないのに。何を言い出すんだ、この姉は。仮にも女性なのだから手を出すとか言うのはやめろと叫びたい。


「あーあ、顔赤くしてリュオン君たらやーらしい。寄宿学校で何学んできたんだか」

「そ、そっちこそ、嫁入り前のくせになんてこと言うんだ! 少しは淑女らしくしろよ。そんなんだから行き遅れ……」

 最後まで言う前にリシィルの鉄拳がリュオンの頭におろされた。


「うるさい」


 リュオンは目の前に星がちかちかと飛び回って、頭を抱えてその場にうずくまった。

 相変わらず容赦がなさすぎる。だからリュオンはオルフェリアだけが頼りなのだ。


「だいたい、決闘に負けたんだから、潔く認めなよ。フレンはちゃんとメンブラート家のことだって考えてくれているよ。書類、見ただろう?」

「あんなもの……」


 彼は忙しい合間にもメンブラート家の財政状況を慮ったいくつかの支援策や、自立策を講じていた。今朝、アルノーからカリストやリュオン、カリティーファにその一端が示されたのだ。

 リュオンは仕方なしに目を通した。


 アルノーは淡々とした口調で述べた。『フレン様の個人的な財産だけでも、伯爵家の現在のそれをはるかに凌ぐものです。ですから、フレン様がメンブラート伯爵家を食い物にしようなどとは考えておりません。僭越ながら、私から見てもトルデイリャス領を私物化するよりもアルメート大陸のいくつかの鉱山に出資をした方がはるかに利益率が良いと考えます』と。かなり失礼な内容を述べてくれた。歴史あるメンブラート家の所領と海を越えた大陸の鉱山を天秤にかけて、鉱山の方がお得だと言いきった。はっきりいって腹が立った。

伯爵家の現在の財産とはすぐに動かせる現金や不動産である。代々の宝飾品や美術品は含まれていない。


 けれど、それだけはっきり言われれば逆に彼がオルフェリアのことを想い、そのためだけに彼女の実家であるメンブラート家の立て直しに協力したいと申し出ていることが伝わった。何しろ、フレンの秘書官が思い切り乗り気じゃないのだ。

 明らかに彼はこの面倒な案件から手を引きたがっている。


「オルフィーはあんたに時間を作ってあげたいんだって」

「はあ?」

「オルフィーは、リュオンがゆっくり、あんたのペースで成長できるよう時間を作りたいって。友達を作って、彼らと学んで、早く大人になる必要ないんだって」

「な、なんだよ……それ」


 リュオンは戸惑った。

 リュオンは父が出奔してから、ずっと焦っていた。

 自分がまだ子供だから、母が苦労をしている。伯爵家が傾いて行くのを指をくわえて見ているしかできない自分がもどかしかった。王家の晩餐会だって、リュオンがまだ子供だから出席することもできない。


 早く大人になって、伯爵家を救いたいのに。

 オルフェリアはゆっくり大人になれと言う。


「フレンもオルフィーに賛成だって。早く大人になる必要はない。十代の今の、この瞬間にしか出来ないこともあるし、友達と一緒に学ぶことは何物にも代えがたいって。二十も後半のおじさんのいうことは重みがあるよねー」

 最後は思い切り茶化したリシィルにリュオンも釣られて笑った。


 たぶん、リシィルなりの気遣いだろう。

 昔から散々いいように遊ばれてきたけれど、彼女は彼女なりにリュオンのことを気にかけている。

「ふん。上から目線で言いやがって。オルフェリア姉上の気遣いは嬉しいけれど、そこにあんなやつの言葉までは必要ない」

「考えが似ていてなによりじゃない。夫婦になる二人なんだから」

「そんなもの、認めない!」

 リシィルはがしがしとリュオンの頭を乱暴に撫でまわした。

 やっぱり早く大人になってやる。背だってすぐに高くなる(予定だ)。そうしたらリシィルなんてすぐに追い抜かして、今度はこっちがぐりぐりと上から押しつぶしてやる、とリュオンは心に誓う。


「あら、二人ともここにいたの? ちょっと、来て頂戴、レインが大変なの」

 リシィルの手から逃れようと揉み合っていると、部屋の扉が開いてマルガレータを抱いたエシィルが顔をのぞかせた。

 不穏な言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。

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