三章 仮婚約者と王太子妃3

「きみのことだよ。黒い髪に黄色いバラを挿しているお嬢さん」

 もう一度声がした。


 黒髪に黄色いバラ……。「今日のお嬢様は薔薇の妖精さんです」というミネーレの声が蘇った。ちなみにドレスの胸元にも薔薇の花をつけている。


「もしかしてわたしでしょうか」


 オルフェリアは恐る恐る振り返った。


「そうだよ。きみしかいないだろう。どうして一度目で振り向かなかったんだ」

今度は開口一番に文句を言われてオルフェリアは面食らった。


「美しいお嬢さんなんて、そんな言葉で振り返ったらわたし自分が美人だって思い込んでいるナルシストみたいじゃないですか」


 淡々としたオルフェリアの返事に男性はぐっと押し黙った。

 初老の男性が目の前にたたずんでいた。オルフェリアは首をひねった。

 こんな知り合いいただろうか。年を感じさせない男性だった。腰は曲がっておらず背筋をぴんと伸ばしている。年を感じさせないのは姿勢だけで、あいにくと頭の方は残念だった。はるか後方部まで髪が後退している。


「これはまた、ずいぶんと威勢のいいお嬢さんを相手に選んだようだな、ディートフレンは」

「フレンのお知り合いですか?」

「ディートマル・ファレンスト。わたしの兄が彼の祖父に当たるんだ。彼から見たら大叔父にあたる」

「はじめまして。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。オルフェリア・レイマ・メンブラートと申します。父は伯爵です。フレンの大叔父様とはつゆ知らず失礼しましたわ」


「ああ調べさせてもらったよ。ご当主は現在行方不明なんだって。なんでも冒険家になりたいとか夢見がちなことを言って借金だけ残して出奔したそうじゃないか」


 ディートマルは顔に笑みを浮かべた。くつくつと喉を鳴らしてさも可笑しそうに口元を歪めている。

 オルフェリアは今すぐこの男を視界から葬り去りたくなった。悪意に満ちた笑みだ。


「それはわざわざご苦労なことです」


 オルフェリアはさっさとこの場から退散しようとディートマルの横をすり抜けようとしたが、それは叶わなかった。

 彼の横を通り過ぎようとしたとき、無遠慮な彼の手がオルフェリアの二の腕を掴んできたからだった。


「可愛いお嬢さん。もう少し話をしようじゃないか。可愛い又甥が選んだお嬢さんじゃないか。私とも親交を深めたっていいだろう」


 この人酔っているのだろうか。けれど酒の匂いはしてこない。

 ということはディートマルは悪意を隠すつもりはない、ということだ。


「フレンが待っているわ。お話なら三人でしましょう」

「ふうん。ディートフレンとはてっきり金だけの関係だと思っていたけど。実際のところどうなんだい? あいつを手伝ったら領地の立て直しを手助けするとか言われたんじゃないのか? いくら出すと言ってきた」

「いい加減にしてください。そんなことあるわけないじゃないっ! わたしとフレンはれ、れ、恋愛結婚なのよ!」


 ほぼ正確にディートフレンの手の内を読んできた目の前の老人が急に恐ろしくなってきた。オルフェリアはディートマルのつかむ手を振りほどこうと腕を振った。


「恋愛結婚ね。お嬢さん嘘はよくないなあ」

「ちょっと最初から嘘って決めつけるなんてひどいじゃない」

「私の方に付くならやつの出す金の倍を出そうじゃないか。どうせ金銭が絡んだ関係だろう」


 おまけに話を聞いてくれない。

 しかしここでオルフェリアが失敗すればあとで叱られるのは彼女自身だ。オルフェリアは精いっぱい虚勢を張った。


「あなた言っていることが意味がわからないわ。人の話を聞くことを覚えたほうがいいんじゃなくて」


「なんだと」


 オルフェリアの言葉にディートマルは目に見えて顔を赤くした。つるりとした頭の上まで真っ赤になっている。

 オルフェリアは内心たじろいだ。なんだってフレンの親族に目をつけられないといけないんだろう。面倒な親戚がいるんだったら最初に忠告しておくべきだ。

 なんのための偽装婚約契約書なのか。


「ディートマル大叔父上。人の婚約者になにをしているんです?」

 張りのある声があたりに響いた。


「フレン……」


 オルフェリアはほっとして口元をほころばせて、はたと気づいて慌てて口元を引き結んだ。そもそもフレンの側の問題だ。登場するのが遅い。

 ディートマルはゆっくりと振り返った。

 フレンは剣呑な目つきでディートマルをとらえていた。


「なあに。おまえが婚約したって聞いたからどんな娘が相手かと思って挨拶しに来たんだよ。人の孫娘との話を蹴っておいて、こんなアルンレイヒ人なんぞ選びおって」

「それは何年も前に説明したでしょう。お互い縁がなかったと。とにかくずいぶんと前に済んだ話です。オルフェリアに余計なことを吹き込まないでほしい」

「ふんっ。相変わらず可愛くない。一人で大きくなった顔をしよって。おまえさんがミュシャレンで何をするつもりか知らんが、見ものだよ。せいぜい足掻くといい」


 大叔父と又甥は随分と長いことにらみ合っていた。

 やがてどちらからともなく視線をそらし、ディートマルはその場から姿を消した。


「私は大叔父に育てられた覚えもないんだけどね」

 フレンはひとり言のように呟いた。

 ディートマルが去るとフレンは足早にオルフェリアに近づいてきた。


「大丈夫だった? 大叔父が何か言ってきたんじゃないか。彼とは色々と関係が複雑でね。早い話、彼は私のことが好きではないんだ」


「それは十分すぎるくらい伝わってきたわ」

 何しろ初対面でオルフェリアに対しても喧嘩を売ってきた。

「彼に何を言われた?」

「あなたとの関係はお金だろう、と。ほぼ正確に検討をつけてきたわ。倍額払うからこちらにつけって」


 オルフェリアはその前、自分の家族のことについて言われたことは黙っていた。

 フレンは少しだけ考えるそぶりをみせた。


「なるほど、ね。で、きみはなんと答えた?」

「恋愛結婚です、と」

「ふうん。恋愛、ね」

「なにを笑っているのよ。そもそもあなたが指示したことじゃない」


 フレンが楽しそうに返してきたからオルフェリアは面白くなくて彼の腕を小さく小突いた。なんだかからかわれている気がする。


「それでフレンはどうしてここに?」

「そうだった。侯爵夫人から呼ばれたんだ。私とオルフェリア、リエラとユーディッテ。どうやらレカルディーナが到着したようだよ」

「王太子妃様が?」

 オルフェリアは驚いた。


「ああ。イグレシア侯爵夫人は彼女のためにわざわざ夜会を開いたんだよ。イグレシア公爵邸ならば狭量な王太子もしぶしぶ外出を認めるからね」

 フレンが王太子のことを話す際、狭量というところでまずいものでも噛んだような顔をしたのが印象的だった。


◇◇◇


 別室にはすでにオルフェリア以外の全員が到着していて、いままさに王太子妃が長年大ファンだったというリエラとの感動の対面をしているところだった。


 「あ、あの……!わ、わたし十代のころからずっとリエラ様のファンだったんです。今日お会いできてうれしいです」


 レカルディーナは少女のように頬を赤く染めていて片時も目をそらさずにじっと憧れの存在だったというリエラのことを見つめていた。

 リエラ・ドルテア恐るべしだ。


「こちらこそ、ご尊顔を拝謁し至極経悦にございます王太子妃殿下」

 リエラは片膝を地面について騎士が姫君に忠誠を誓うようにこうべを垂れた。


「そんな……敬称ではなく、レカルディーナって呼んでください」


 蚊の泣くように小さく、必死に絞り出したような可憐な声だった。

 リエラは凛凛しく微笑み立ち上がった。


「それでは。レカルディーナ様」


 リエラの言葉を受けてレカルディーナは両手で口元を押さえた。目元がうるんでいる。感動して声も出ないのだ。

 それからリエラはレカルディーナと一緒に部屋の隅にある小さな机のほうに移動して腰を下ろした。ユーディッテが茶器を乗せた盆を持ち二人に加わった。


「実は直前まで騎士のみなさんも同席していたんですけど、警備がどうのとか、あんまりにもうるさくするので追い出してしまいましたわ」


 いつのまにか後ろに近付いてきたエルメンヒルデが少女のようにふふふと笑って舌をだした。

 何かいたずらをやりとげたような、含みのある笑い方にオルフェリアは首をかしげた。騎士を追い出したことがそんなにも嬉しいことなのだろうか。


「ふふ、このあいだオルフェリア様をいじめた仕返しをしたのです」


 と言われてもさっぱり分からなかった。


「そういえば、この間の王宮でのお茶会、聞いたよ。きみまでついていたから安心していたのに。まさか王太子が顔を見せるとはね。さすがにそこまでは予想していなかった」

「それについては申し訳ないですわ。わたくしもまさか殿下がお越しになられるとは思ってもみなかったのです。オルフェリア様、あの人に懲りずにまたご一緒してくださいね。国際結婚仲間同士これからも仲良くしていただけるとありがたいですわ」


 エルメンヒルデの言葉にオルフェリアは恐縮しながらも頷いた。

 この人はオルフェリアの悪い噂も耳にしているはずなのに最初から優しい。


「あの。どうしてわたしにそんなにも親切にしてくださるのですか? フレンの婚約者だからでしょうか」


 オルフェリアの率直な質問にエルメンヒルデは機嫌を損ねるわけでもなく、オルフェリアの方へ笑みを保ったまま顔を傾けた。


「さあさ、わたくしたちも座りましょうか。オルフェリア様のお噂はちらほらと耳には入ってきていますけれど。どれもがみんな示し合わせたように同じもので、わたくしこれとおなじことがあったのを思い出しましたのよ」

「なんですか?」

「わたくしの寄宿学校時代のことですわ。わたくしの生家もフラデニアでは一目置かれているような家柄でしたから。似たような目に遭ったことがあったのです」

「そうだったんですか」


「女性ばかりが集う場所ではどうしても色々と。ですから先日王宮でお会いして、素直で可愛らしいお嬢さんだなと思いましたわ。素直すぎて少し誤解されることもあるのかもしれませんわね」

「すみません。オルフェリアはこれまで狭い世界で生きてきたので対人面での経験が少ないんですよ」

「どうしてフレンが謝るのよ」


 せっかくエルメンヒルデと二人で話していたのに急に割り込んできたフレンのことをオルフェリアは睨みつけた。


「オルフェリア様の場合はこれからですわ。これからもっともっと広い世界を見て、色々な人とお話をして経験を積んでいけばいいのですわ。そういう意味では伴侶がフレン様でなにかと重宝するかもですわね」

「どうしてですか?」

「フレン様は大きな商会を担っていくお方ですもの。結婚をしたら彼について色々な国をめぐり、多くの人々と触れ合っていくでしょう。それって素晴らしいことだと思いますわ」


 エルメンヒルデがにこにこと指摘をするものだからオルフェリアとフレンは思わずお互い顔を見合わせた。

 きっと、偽装婚約だからそんな未来あり得ない、とか思っているに違いない。


 オルフェリアだって彼の隣を歩く自分なんて想像もつかない。伯爵家をなんとか持ちこたえさせて将来弟が家を継いだら、田舎の領地で暮らすんだろうな。それがオルフェリアが今できる精いっぱいの想像。


「それよりも、今日はありがとう。あいつにリエラ達を紹介できてよかったよ」

 お互いの気まずさを解消するかのようにフレンは話題を変えた。


「あら、お礼には及びませんわ。わたくしもリエラ様やユーディッテ様とお話できてうれしかったですもの」

「そう言ってくれると助かるよ。私からだとあまりレカルディーナに近寄れないからね」

「どうして?」

 オルフェリアは単純に疑問に思って口を挟んだ。


「レカルディーナはアルンレイヒの王太子妃だからだよ。フラデニア人商人の私が彼女の周りをやたらとうろちょろしていたら穿った見方をする人間もでてくるだろう。それは彼女にとっても良くないし、私の方も、王太子妃の親戚だから優遇されている、とやっかまれる。そういうやつらに付け入る隙を与えたくない」


 ディートフレンの目線の先には楽しそうに笑い声をあげるレカルディーナがいた。だいぶ打ち解けたのだろう、時折聞こえてくる嬌声を耳にするかぎり大物女優を前にした緊張感は無くなったように思えた。


「そうなの……」

「フレン様は本当にレカルディーナ様想いですわね」

「ああ、いつまでたってもレカルは俺の従妹だからね」


 過去を共有する者同士の砕けた空気の中こぼした昔の呼び方だった。

 フレンの穏やかな声音はこれまでオルフェリアが利いたこともないような種類のもの。

 オルフェリアの知らないフレンとレカルディーナ二人だけの共通の思い出。なぜだかオルフェリアは自身の胸の奥がざわめくのを感じた。


 けれど理由なんてさっぱりと思いつかない。どうしてこんなにもつまらない気持ちになるんだろう。フレンはただの偽装婚約相手なのに。

 フレンとエルメンヒルデがレカルディーナとの思い出話に花を咲かせているのを心半分で聞き流していた。


 不意に会話が途切れて、フレンが立ち上がった。

 はっとしてオルフェリアが意識を自分の頭の中から現実へと傾けるとレカルディーナら三人が立ち上がってオルフェリアらが座っている席へ歩いているところだった。


「フレン兄様! 聞いたわよ。ファレンスト銀行の支店開業特別公演の話!」

 興奮したレカルディーナはまっすぐにフレンのところへとやってきた。

「すみませんフレン。話の成り行き上話してしまいました」


 リエラが少しだけ申し訳なさそうに会釈をした。大ファンを公言する王太子妃を前にして口を滑らせてしまったようだ。


「いや、いいよ。どうせ数日後には各新聞に掲載されるから」

 興奮して思わずフレンの両腕をつかんだレカルディーナを受け止めながらフレンはリエラの方へ視線をやった。


「まあまあ、なんのお話ですの?」

 話についていけないエルメンヒルデがおっとりと質問した。


「エルメンヒルデ聞いて! フレン兄様はね、フリージア組の公演をミュシャレンで一日限りで行うんですって。場所はなんと、ヘリア・オレア公園よ」

 口を開きかけたフレンの言葉をレカルディーナがしれっと横取りした。


「まあ! なんてことでしょう」

「でしょう!」


 二人は抱き合って喜びを表現した。人妻であることが嘘のように生き生きとした瞳で、高い声をだして興奮していた。先日王宮に招かれたとき以上に二人とも童心に帰った少女のようだった。しばしば黄色い悲鳴があたりを飛び交った。


「おい、レカル。あんまり騒ぐなよ。王太子妃の威厳が大なしだろう」

 苦笑したフレンが小さくレカルディーナの頭を小突いた。

「なによう、兄様ったら。相変わらず意地悪なんだから」


 頭に両手を乗せたレカルディーナは唇を尖らせた。一見すると近寄りがたい美貌の持ち主であるレカルディーナだが話してみると気さくだし明るいし、表情もとてもくるくると変わる。


「おまえにあこがれているやつだっているんだからな、一応」

「一応って何よ。兄様ってば昔からいつも一言余計なのよね」

「昔散々フリージア組の公演に付き合ってやったのは誰だと思っているんだ」

「はいはい。ディートフレンお兄様です。その節はありがとうございました」

 レカルティーナはぺこりとお辞儀をした。するとエルメンヒルデまでもが彼女を真似て腰を曲げた。


「あら、わたくしからもお礼申しあげておきますわ。ずいぶんとお世話になりましたもの」

 従兄妹同士の掛け合いはとても息が合っていた。

 オルフェリアも実家に残してきた姉妹とよくあんな風に言い合った。


「ずいぶんと仲がいいようだね。婚約者としては妬けちゃう?」

 三人の仲睦まじい様子を観察するようにリエラが声をかけてきた。

「いえ……」


 オルフェリアは偽物だから。考えもなく口から一言滑り落ちたけれど、愛し合う婚約者設定としてはここは割り込んでいくべきところなのか。

 しかし今更身内同士出来上がった空気の中に切り込んでいけるほどオルフェリアは経験値が豊かではない。


 それに。


(フレンとても楽しそうだし)


 フレンがレカルディーナに向けるまなざし。じっと注がれる視線はとても柔らかくて暖かい。普段オルフェリアをからかうのでもなく、恋人を演じているときのものでもなく、今のフレンの緑玉の瞳には確かな熱がこもっているように、オルフェリアには見えた。



―視線でわかるわ。だって、好きな人のことだもの。その人が今誰を思っているのか、彼の視線を追いかけていくと必ずあの人が、姫君がいるの―



 ふいに悲しい旋律が脳裏を駆け巡った。


 『姫君と二人の騎士』の一幕。領主の娘、セリータが悲しげに歌いあげる場面。


 もしかして、フレン……。

 あなた、王太子妃様に恋をしているの?


 オルフェリアは自分の胸の前でぐっと両手を握りしめた。

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