三章 仮婚約者と王太子妃2

 突然の事態に頭が真っ白になった。浮かぶのは実家のこととか、母のこと。自分がしっかりしないと、と思うのに足が動かない。口の中が乾いて喉が張り付くようにからからだった。


「もう、ベルナルド様。そんな風に睨んじゃだめですよ。オルフェリアが委縮しているわ」


 顔色をなくして微動だにしないオルフェリアを助けるようにレカルディーナが声をかけた。レカルディーナはもちろん王太子の放つ高圧的な態度にもびくともしない。


「別に威嚇なんてしていない。おまえに何事もなかったのならそれでいい」


 王太子はレカルディーナを引き寄せて目じりに口づけを落とした後、そのまま踵を返して去ってしまった。

 気がついたときには遅かった。あっという間の出来事だった。


「あ……」


 残されたのは女性三人だけだ。


「もう、殿下ったら相変わらずなんですから」


 突然の闖入者は去っていくのも早かった。エルメンヒルデもいなくなった王太子の態度にぷんすかと怒っていた。


「ごめんさないね、オルフェリア。びっくりさせてしまったわ」

「わ、わたしのほうこそ! 申し訳ありませんでした」


 レカルディーナの謝罪にオルフェリアは思い切り頭をさげた。レカルディーナが謝ることなんてなにもないのに。悪いのはオルフェリアの方だった。臣下として礼を取らなければならないのに、何もできなかった。足がすくんで、頭が真っ白になって。


 伯爵家令嬢なんて聞いてあきれる。


 王太子やその取り巻きたちはどう思ったのだろう。メンブラート伯爵家の人間は主君である王太子に礼の一つもしなかった、と。そんな噂がまことしやかに流れることは必死だった。


◇◇◇


「やっぱり現実問題、公演をする場所だよな」

「そうねえ……。でも王立劇場は無理だし、他の劇場も向こう何カ月も予定が埋まっているのでしょう」


 フレンの屋敷での作戦会議だ。今日は午後の時間を使ってリエラやユーディッテらも交えて意見交換をしていた。演じるのは役者だから、彼女らの意見も重要なのだ。

 フレンの言葉にユーディッテがやんわりと確認をした。


「まあね。王立劇場はさすがに貸してもらえない。他の権威ある劇場も何かと横やりが入って公演実現には至らないんだ」


 公演主がフラデニア人というのも原因の一端を担っている。

 そしてもう一つの可能性があることをフレンは感じ取っていた。

 誰かが意図的に邪魔をしている。これは数ヶ月前から感じていたことだった。

 外国人であるフレンが何か新しいことをしようとすると、当然それを面白く思わない人間もいる。


「難しいな」

 リエラがぼそりと呟いた。

 男役の研究に余念のないリエラは役者以外のところでも男性のようにふるまっていた。

 黒髪は短く切りそろえ現在も男物の服を着ている。


 だからオルフェリアはリエラと話をすると落ち着かなくなる。無駄にきらきらオーラを振りまきながら話しかけてくるからだ。うっかり視線が合うとぽうっと見とれてしまう。


「どこでもいいって訳ではない。ファレンスト銀行の看板も背負うんだ。将来わが銀行の上顧客となるであろう人たちに招待状を送るんだ」


 フレンは市内にある劇場をいくつか思い浮かべた。

 今からでも金でごり押しできるところはいくつあるだろうか。かといってあんまりにもぼろいところは問題外だ。


「だったら……ヘリア・オレア公園はどうかしら。野外劇場だけれど、あそこには確か円形の劇場があったと思うわ」


 オルフェリアは自身の記憶をたどりながら口を挟んだ。


 ミュシャレンの南東部にあるヘリア・オレア公園は十七年前に整備された比較的新しい公園だ。昔の王が作らせた凱旋門があり(ルーヴェのそれより規模は小さい)、凱旋門を取りこんで作られた公園だった。

 上流階級専用ということではなく広く市民へ解放されている公園だ。


「野外か。それは盲点だったな。というかそんなものがあったのか」


「ミュシャレンも存分に広いですな」

 エーメリッヒも感想を漏らした。


「ええ。わたしもこちらに出てきたとき色々と市内散策をした時期がありまして。そのときにヘリア・オレア公園にも足を運んで。今は使われていないようでしたが」

「ほう……」

 オルフェリアはどちらかというとエーメリッヒへ補足説明をした。


 フレンは少しの間瞑目した。

 この時期雨は少ない。日入りは早くなったが当日は明かりを多く用意すれば問題はないだろう。あとは演じる側の判断次第だ。


「二人はどう考える?」


「そうだね。実際に場所を見てみないことにはなんとも」

「ええ。大きさも重要だわ」

「よし、さっそく今から現場視察に行こうじゃないか」

 フレンは立ち上がった。


「オルフェリアお手柄だったね」

 フレンは調子づいてオルフェリアの頭に手を乗せた。


「たまたまよ」

 オルフェリアは少しだけ迷惑そうに見上げてきた。

「そういうときは笑顔でフレン様のお役に立ちたかったんです、っていうものだよ」

「自分で言う?」


 オルフェリアはふいと横を向いてリエラ達を追いかけて行ってしまった。

 リエラとユーディッテとは良好な関係を築いているのかオルフェリアは普段よりも笑うことの方が多かった。

 フレンの前では作り物の笑顔しかみせないというのに。

 人が褒めているのだからもう少し嬉しそうな顔を見せてほしいとフレンは思った。


◇◇◇


 ヘリア・オレア公園の利用申請はオルフェリアの真価の見せどころだった。フレンと一緒仲睦まじげに連れだってミュシャレン市の担当官の元に赴いて、小首をかしげて可愛らしく伝えた。


「メンブラート家の人間がお願いをしているのにどうしてだめなのかしら?」と。


 うまくいくか一か八かだったけれど、この家名も役に立つことはあるらしい。

 絶対にわがままお嬢様の鶴の一声で、とかなんとか言い伝えが出来上がりそうだ。

 けれどなんだかもう色々と吹っ切れてしまった。


 フレンやリエラ達がこれだけ心を砕いているんだからメンブラートの家名くらいいくらでも使ってやる。それくらいしかオルフェリアにできることはなかった。


「オルフェリア様のお嬢様ぶりっこ演技、生で見てみたかったな」

「あらリエラったら。わたしが演技指導をしたのよ。完璧に決まっているじゃない」

「そ、そんな。わたしなんかまだまだ全然です」


 夜会に向かう馬車の中。

 最近は三人で、都合がつくときはフレンも一緒に手当たり次第に夜会や園遊会などを梯子していた。もちろん目的はリエラとユーディッテの顔を売り込むためである。


 いくら隣国で人気の二人とはいえミュシャレンでの知名度は高いとはいえない。

 今日向かっているのはイグレシア公爵邸。

 さっそくエルメンヒルデがささやかな夜会を開いた。もちろん招待状も届いた。


 招待状には『懐かしい故郷の、それも人気者がミュシャレンを旅行中と聞きました。是非ともいらしてくださいね』と美しい文字で書かれていた。


「今日の夜会はフラデニア人も多く来ていると思うから、こちらにとっても追い風だよ」

「そうね。無事に会場も見つかったことだし、そろそろ種明かしをしてもいいのかしら?」


 ユーディッテはいたずらっ子のように瞳をきらりとさせた。

 娘役一番人気の彼女は遊び心に富んだ人で会う人間を魅了する不思議な魅力を持った女性だ。

「ああ、それとなくね。告知は近々新聞で大々的にするから」

「それも楽しみね。あとは劇のどのあたりを抜き出すか、よね」

「あんまり大人数では上演しないんだろう」


 ユーディッテが演目の話題を切り出すと途端に馬車の中は会議場と化す。二人の女優はとても真面目で演技に対しては常に真剣に取り組んでいる。


「ああ。円形劇場は普段の舞台より小さかったしね。騎士役二人の見せ場、決闘のシーンと姫君の選択。あとはその前に領主の娘セリータが歌うところ。あそこの歌を少し変えて、四人の関係性を説明するようにすれば大体の流れは観客に分かってもらえるんじゃないかと思うんだ」


 フレンの提案に二人は何かを考えたり、口の中でぶつぶつと唱えたりしている。

 せりふ回しや時間配分などを考えているのかもしれない。

 オルフェリアは会話には入れないので黙って三人の話を聞いていた。


「最初のナレーションはできないわよね。野外だし、影をつくるよりはセリータに歌わせたほうがいいのかも」

「帰ったら作詞家と打ち合わせが必要だね」

「オルフェリアはどう思う? 何度も劇場に足を運んでくれたんだろう? 観客として、どのシーンが印象に残っているか聞かせてほしいな」


 突然リエラから指名を受けてオルフェリアはたじろいだ。

 ついフレンの方をうかがってしまう。素人が口を出してもいいものなのか。

 フレンが頷いてみせたのでオルフェリアはおずおずと口を開いた。


「わたしが印象に残ったのはセリータが悲しげに歌うところで。自分の好きな人が別の人を好きって、好きな人のことだから分かる。彼の目線はいつも姫君を追いかけているって。あのあたりの歌詞がとても印象に残ってて」

「そうなの。わたしも好きよあのシーン。好きな人のことだから自分も目で追ってしまうし、だから彼の秘めた思いにまで気づいてしまうのよね」


 ユーディッテが相槌をうった。

 好きだから伝えたい、伝えられない。相反する気持ち。


「あ、あと。もちろん終盤の決闘のシーンもはらはらして大好きです」

「ありがとうオルフェリア。そう言ってもらったからには私も本番は気合を入れて臨むよ」

「リエラったら。気合を入れすぎて足をくじいても知らないんだから」

 ユーディッテが混ぜっ返してその場は笑い声に包まれた。



         ◇◇◇


 イグレシア公爵邸は多くの人で賑わっていた。

 オルフェリアは最初の曲をフレンと踊り、二曲目をリエラと踊った。


 アルンレイヒ貴族の若い娘や婦人たちは初めて見る隣国の女子歌劇団の男装の麗人の踊る姿に目が釘付けになっていた。


「あの方が今噂になっているフラデニアの女優の方なの?」

「男性のような姿をしているけれど、本当に女性なのかしら。背がお高いのね」

「踊っている姿、とても凛凛しかったわ」

「本当に。本物の男性がかすんで見えてしまうわ」


 あちこちからため息のような吐息が聞こえてきた。

 リエラ曰く、男性役の役者は常に女性から見られることを意識して姿勢や仕草に気を使っている。だからその辺の適当な男性よりもずっと素敵に見えるようにできているんだよ、とのことだ。


 リエラとのダンスが終了するとオルフェリアは幾人かの令嬢に取り囲まれた。

 みんなリエラに興味しんしんなのに自分からは声をかけづらいらしい。


「オルフェリアったらいつの間にフラデニアに行ってきたのよ」

「まるで男性のようなのね。でも他の殿方よりも断然素敵な踊り方だったわ」


 それは確かに。

 オルフェリアは頷いた。とくにリードがうまい。女性を引き立たせるように踊るからオルフェリアもまるで自分が羽根の生えた妖精にでもなったかのようだった。


「羨ましいわ……。ねえ、わたくしも一曲踊ってもらうことはできない……かしら?」

 一人が勇気を振り絞って声をあげればあとは芋づる式にみんなが手を挙げた。

「ずるいわ! わたくしだって一度でいいから踊ってみたいのに」


「あら、あなたアルフ様一筋とか言っていたじゃない!」

「なによ!それとこれとは別よ、別」

「わたくしが一番最初にお願いしたのよ。真似しないで」


「真似って何よ。普段はオルフェリアのことを陰で高慢お嬢様とか言っているくせに」

「あ、あなただって。オルフェリアのこと流行遅れのドレスを着回していて、伯爵家が貧乏なのは本当のことのようね、とか笑っていたじゃない」


 こうなってくると収拾がつかない。そしてさりげなく彼女たちの本音が聞こえてきて地味に傷ついた。やっぱり、色々と影で噂されていたらしい、家のこと含めて。


 オルフェリアはとても困った。


 下手に口を開くとこれまでの経験上絶対にオルフェリアが悪いことになってしまう。今度はリエラを一人占めする気ね、とか言いがかりをつけられてしまいそうだ。


「お嬢さん方。喧嘩はよくないな」


 突然の王子様の登場にその場にいた少女たちが一斉に黄色い悲鳴をあげた。


「まずはピンク色のりぼんがお似合いのお嬢さん。私と一曲踊っていただけませんか?」

「っ……! はい。喜んで……」


 リエラは最初にオルフェリアに声をかけてきた令嬢の手を取り広間中央へと彼女をエスコートした。感極まった彼女は頬を真っ赤にして目をうるうるさせていた。


「こういうときのリエラは最強よ」

 いつの間にか後ろにきていたユーディッテが片目をつむった。


「たしかに」

「女たらしなのは演技じゃなくて素なのよね。次の公演で引退なんてもったいないけれど、あんな女たらしのリエラが恋をしたんだもの。引退後は恋人の祖国カルーニャに移住するんですって」


 ユーディッテは少しさみしそうな笑みを漏らした。

 長い間恋人同士を演じることの多かった二人には特別な絆があるのか、稽古以外でも二人で一緒にいることが多かった。


「さあて、わたしはわたしでミュシャレン公演が成功するように営業活動をしてくるわ」


 物悲しい空気を押しやるようにユーディッテは高い声をだした。

 そして人々の輪の中に溶け込んでいく。人前に出る職業柄二人とも初対面の人間とも打ち解けるのが早い。


 二人と別れたオルフェリアは少し外の空気が吸いたくなってバルコニーにでることにした。令嬢たちの関心はリエラとのダンスに移行しており、オルフェリアに声をかけてくる者はいなくなっていた。現金な態度に笑いがこみあげてくるほどだ。


 二曲踊って喉が渇いたオルフェリアは途中飲み物を貰うことにした。

 冷たく冷やされた果実水はほんのりと酸味が利いていた。かんきつ系の果物を使っているのかもしれない。


 大広間から続き間を通ってバルコニーへの出入り口へ向かった。公爵邸は前にも一度来ているのでなんとなく間取りを覚えている。


 途中部屋を抜けるときにあたりを見渡してみたがフレンの顔を見つけることは出来なかった。

 オルフェリアがバルコニーに出ようと扉に手をかけた時。


「こんばんは、美しいお嬢さん」


 後ろから声がした。

 オルフェリアは他にも誰が人がいるものだと思って声の方向に振り向かなかった。美しいお嬢さんなんて言われて振りかえって、別人を呼ぶ声だったら自意識過剰と思われる。

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