二章 恋人業務は波乱の幕開け3
◇◇◇
実際にオルフェリアは怒っていた。
夜会の翌日。今日は少しだけ寝坊をした。遅い朝食を取るために階下の食堂へと降りて行くと、オートリエがお茶を飲んでいた。
「フレンは仕事かしら」
彼は昨日の疲れも見せずに今日も精力的に動き回っているらしい。自分で呟いておいて本当に仕事か、と疑う。
『でもあなたもかわいそうね。結婚相手のフレンはルーヴェに恋人がいるわよ』
昨日カリナという女がオルフェリアの耳元で囁いた言葉が脳裏によみがえってオルフェリアは顔をしかめた。どうもカリナという名前がいけない。どこかの子爵令嬢を思い出す。
「フレンは今日は午後から予定があるって言っていたわ。なにか人と会うようね」
いつの間にかオートリエが顔をあげていた。
オルフェリアの小さな独り言をしっかりと聞いていたのだ。
「そうですか……」
人と会うって誰とだろう。
運ばれてきた朝食の卵料理をオルフェリアは行儀悪くフォークでつついた。オムレツだったそれはいつの間にか炒り卵へと変化していた。
大体、フレンは秘密主義だ。人には根掘り葉掘り質問をするくせに自分のことになると煙に巻く。
はっきり言って腹が立つ。足を三回踏んだくらいじゃこの気持ちは収まらない。どうしてオルフェリアが憐みの目で見られないといけない。
ジョーンホイル嬢然り、昨日の女然り。というかフレンに恋人がいるのが前提ならよくも自身も嫁の座を狙っていたな、と感心してしまう。
オルフェリアとしては、フレンに文句の一つでも言わないと気が済まない。
「決めたわ」
朝食を食べ終えたオルフェリアは立ち上がった。
「ミネーレ。わたしちょっと出かけるわ」
「どこへですか。お嬢様」
ミネーレは首をかしげた。
「決まっているでしょう。フレンのことをつけるのよ」
オルフェリアは強い口調で宣言した。
こうなったら絶対にフレンのしっぽをつかんでやる。
年下だからって舐められっぱなしでは女がすたるというもの。ここで一つフレンをぎゃふんと言わせてやる、とオルフェリアは心に誓った。
「それでこそオルフェリアお嬢様です。婚約者の浮気に泣くのではなく自ら進んで対決をする! ミネーレさっそく支度してきます」
「あら面白そう。わたしも一緒するわ」
息巻くミネーレとなぜだか好奇心旺盛に食いついてきたオートリエ。
オルフェリアは一人で出かける気だったのになぜだか二人が加わることになってしまった。
◇◇◇
場所はルーヴェ中心部五区。商業地区である。
ルーヴェは十数年前から区画整備を行っており、行政地区を数字で表している。一区から十七区まであり、ルーヴェっ子は自分の住む地域を説明する時「私の家は六区にあって」とか「あそこの劇場は十一区だよ」と説明する。新参者のオルフェリアには慣れないので、結果的にオートリエが同行してくれて助かった。
彼女は見かけによらず行動力があり、ルーヴェのファレンスト商会本店に行き、フレンの今日の予定をすべて聞き出してきた。
オルフェリアが問いただしても素直に教えてもらえたかは定かではない。現当主の妹であるオートリエの名前はファレンスト商会内でとてもよく効く。
「聞き出した情報によると、今日は五区で予定があるって言っていたけれど」
しかし、さすがに店の名前まではわからなかった。完全に私用とのことで、フレンの部下も詳細な行き先までは伝え聞いていなかったのだ。
「五区には沢山お店ありますしね」
「そうね。このあたりでファレンストの家がひいきにしているのは……、『グルネール』かしら」
グルネールとは高級レストランだ。当然個室も完備してある。
「でもこの時間にレストランってなると。あんまり選択肢にないような」
現在時刻は午後三時過ぎ。昼食にも夕食にも中途半端な時間だ。
二人の会話を聞き流しながらオルフェリアは窓の外を眺めていた。大きな木が歩道に等間隔に植えられていて、建物の軒先にはカフェが連なっている。外を歩くのは中流階級と思わしき人々。彼らに花を売りつけようとする子供がいたり、靴磨きの露店を出す男性が座りこんでいたりとにぎやかだ。
ミュシャレンよりも圧倒的にカフェの数の多いルーヴェである。
外国ということもあって、オルフェリアも一度くらいはカフェでコーヒーを飲んでみたいと思う。貴族の娘はカフェの外席に座るなんてはしたない、と言われるがここはミュシャレンではないのだから少しくらい羽目をはずしてもいいだろうと、思う。
馬車は比較的ゆっくり走っているため、通りの人々の顔まで十分に観察することができた。
「止めて!」
オルフェリアは突然叫んだ。
オルフェリアの言葉を受けてミネーレが御者に指示を出した。
停まった馬車からオルフェリアは待ちきれないようにぴょんととび下りた。
「お嬢様。どうしたんですか、急に」
「見つけたの! あれは絶対にフレンよ」
オルフェリアはミネーレの方へと振り返った。
一瞬だけだったけれど、あの顔はフレンだった。帽子を目深にかぶって、同じく顔を隠した女性と連れだっていた。どちらも地味な服装をしていた。フレンは濃い茶色の上着を羽織っていた。
「馬車の中から恋しい男性を見つけ出せるなんて、お嬢様ったら婚約者の鏡です」
「ちょっと、二人ともそんなに慌てないの」
勢いよく走りだそうとするオルフェリアとミネーレにオートリエが声を上げた。
尾行をすることを前提に、今日の服装は華美ではない質素な色合いの走りやすいドレスである。いつもより心なしスカートのすそが短い。靴は走りやすいように革の長靴。
ミネーレが先に行っています、と請け負ってフレンらのあとを追いかけた。
「フレン様たちはとある店へと入って行きました。いまから案内します」
数分後戻って来たミネーレに案内されたのは大通りから少し路地を分け入ったところにある小さな店だった。テラス席のない店で、しかも座席も少ない。これでは店に入ればすぐに気付かれるだろう。
オルフェリアは扉に近寄って中を覗き込んだ。
あいにくと店内が暗くて中の様子まではわからない。
「わたくしが見てきてあげるわよ」
オートリエが手を挙げたけれど、彼女の顔もフレンは知っている。
どうしよう。オルフェリアは逡巡した。
「乗り込むなら全員で、ですわ。オートリエ様。だいたいフレン様ったらオルフェリアお嬢様がいらっしゃるのに白昼堂々と愛引きだなんて。目立たない格好をしていましたけれど、白金の髪をした若い女性でしたわ!」
ミネーレは憤慨している。
その勢いで彼女は扉の取っ手に手をかけた。
◇◇◇
ユーディッテ・ヘルツォークはここ数日稽古の合間に時間を作って人と会っていた。相手は多忙な実業家のため、連絡は一方的なことが多い。稽古場に手紙が届くのである。
今日もいつものように簡潔な手紙が届いた。待ち合わせ時間と場所が記されたそっけないものだったが、ユーディッテと彼との関係を鑑みれば妥当なものだろう。
ユーディッテは出されたコーヒーを一口口に含んだ。
巷で流行っているクリームの乗った甘口のものではなく何も入っていないコーヒーは苦いが、彼女は職業柄甘いものを控えているので仕方ない。
「私からも口添えはしているけれど、どうかしらね」
「きみたちはどうなんだい?」
「そうねえ、リエラは賛成しているわよ。ウルリーケも右に同じ。みんな新しいことに挑戦してみたいのよ。シモーネはどうかしら、反対意見を出しているわね」
ユーディッテは目の前の男性の質問に回答をした。
ディートフレン・ファレンスト。このフラデニアに住んでいて、ファレンストの名を知らない人間はいない。大商会の御曹司で、ユーディッテにとっては気の許せる恩人兼支援者兼友人。
ユーディッテは女優なのである。
白金の髪に灰緑色の瞳を持つユーディッテは傍から見ても目立つ容姿をしている。要するに目を引く美貌の持ち主だ。
「へえ彼女、今の舞台でいい役を掴んだ子だよね」
「ええそうよ。なかなか目が出なかったんだけど、オーディションのときに……」
ファレンスト商会はユーディッテの所属する劇団に多額の出資をしている。そのため彼は主だった役者の名前と顔を一致させている。
「そういえば最近気にかかることが起こるって言っていたよね」
フレンは以前ユーディッテがちらりと漏らした言葉を覚えていてくれたらしい。
「うーん……。でもこれってあなたに話してもいいことなのかしら」
「でも話すってことは自分だけじゃどうにもできないってことだろう。私からエーメリッヒに掛け合ってもいいよ」
エーメリッヒはユーディッテの所属する劇団の団長だ。
「でも確証もないし……。やめたわ、もう少しわたしだけの胸の中に留めておくわ」
「ふうん。まあいいけど。あんまりため込まない方がいいよ」
「相変わらず優しいのね」
ユーディッテは笑った。
昔から彼は色々と親身になってくれる。きっとそれはユーディッテが彼に本気になることが無いからだろう。もしユーディッテが本気になったらフレンはおそらく一線を引く。そういう男だとこれまでの付き合いでなんとなく分かっている。
だから彼が婚約したという知らせを聞いた時は純粋に驚いた。
「でもいいのかしら。呼び出しに応じているわたしがいうのもなんだけど、あなた婚約したんでしょう? ルーヴェに来ているっていうじゃない、その子」
「ああ、大丈夫だよ。私の婚約者は理解ある子だから」
ユーディッテの心配にもフレンは軽く笑って応じた。
「それよりも、あの話」
「なあにがそれよりも、ですか!」
上から声が降って来た。
小さな店内に客人が入って来たのは知っていた。女性三人連れだと思っていたが、突然そのうちの一人がこちらに突進してきてユーディッテは目を丸くした。
「うわぁ! ミネーレ? てことは……」
フレンは目に見えて取り乱していた。
「オルフェリア! きみまでいたのか。って叔母上まで?」
オルフェリアという名前でユーディッテは相手の正体に察しがついた。伊達に新聞に隅々まで目を通していない。
ミネーレと呼ばれた女性は目を吊り上げてフレンを糾弾している。質素な服装をして一つに編み込んだ髪をくるりと頭の後ろでまとめている。おそらくオルフェリアの侍女なのだろう。主人に代わって婚約者の密会現場に激昂している。
「あの、ちょっと待って」
ユーディッテは慌てて声をかけた。
確かにフレンとは旧知の仲だが、過去には仲を噂されたこともあったけれど、天に誓って何もない。何かあったらこんな風に二人でコーヒーなんて飲めない。
「あなたはちょっと黙っていてください。今はフレン様に質問をしているんです」
「いや、だから……ミネーレもちょっと落ち着こうか」
「これが落ち着いていられますか! なんですか。たしかにオルフェリアお嬢様はまだ発育途中かもしれませんが、だからってこんなあからさまに大人の美女に手を出さなくてもいいじゃないですか。むしろお嬢様の少女から大人へと移り変わる姿を逐一観察して妄想することこそ楽しいのに!」
ミネーレの言い方もなかなかだった。ユーディッテはちらりとミネーレの一歩後ろに控えた少女に視線を移した。
少女特有のあどけなさが残っているが、人形かと思うくらい綺麗な顔立ちをした少女だった。
女優という職業柄、ユーディッテの周りにも美しい女性が多く集まるが、その中にいても彼女の容姿は目立つだろう。
ミネーレの勢いに押されて口を挟む隙もないのか、彼女はユーディッテの方をじっと見つめていた。
その瞳からは怒りとか、嫉妬とか、婚約者の密会現場を押さえたときに皆がするであろう表情を感じることができなかった。
「ミネーレも大概にひどいこと言っているって自覚ないだろう」
「どこがひどいんですか。むしろオルフェリアお嬢様のこと褒めまくりですよ。こんなにも可愛い婚約者のどこが不満なんですか! わたしがほしいくらいですわ」
そろそろ論点がずれてきている。
ユーディッテは困ってしまった。
せめてオルフェリアが何か言ってくれればこちらも対処のしようがあるのに。彼女は固まったまま動こうとしない。
「あら、あなた。どこかで見たことある顔だと思ったら。ユーディッテ・ヘルツォークじゃない。メーデルリッヒ女子歌劇団、フリージア組の娘役一番手を張っている女優さんよね」
ユーディッテの顔を注視していたのは三人目の夫人も同じだったようだ。
正確に素性を言い当てられたユーディッテは困ったような笑みを浮かべた。
「女優……」
オルフェリアが初めて口を開いた。小さな唇から紡ぎだされた声は鈴のように透き通ったものだった。
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