二章 恋人業務は波乱の幕開け2

 長年独身を貫いたディートフレン・ファレンストが婚約者を伴ってルーヴェへ帰って来たという知らせはルーヴェの上流階級の人間たちの間に瞬く間に広がった。


 二十七歳まで独身を貫いたフレンはルーヴェの女性の間では格好の結婚相手だった。

 フレンの嫁になれば次期ファレンスト家当主の妻になれるからだ。左団扇の輝かしい人生が待っている。

 そのフラデニア屈指の金持ち一族の次期当主が将来の伴侶に選んだのは隣国の伯爵令嬢。このニュースは、ゴシップ新聞の社交記事を賑わせた。


「まあ、ファレンスト商会の次期総帥のお相手はアルンレイヒでも特に歴史のある伯爵家秘蔵の令嬢、ですって。オルフェリア様のことですね。黒髪に薄紫色の瞳の美しい令嬢って、本当のことですから、それ~」


 とはミネーレの感想だ。自分の仕えるお嬢様が褒められていることにご満悦の彼女はここのところ機嫌がよい。ルーヴェの仕立屋や宝石店などで店主らがオルフェリアのことを手放しで褒め称えるからだった。


 しかし、オルフェリアにしてみればこれから上得意先になるであろうフレンの婚約者に今のうちからゴマをすっておこうというという下心しか見えない。


 ルーヴェに到着して三日目。


 オルフェリアとミネーレはルーヴェの高級品店が並ぶルードヴェリ通りへと訪れていた

 事件は帽子店から出てきたときに起こった。


「オルフェリア・レイマ・メンブラート嬢ですね」


 店の扉から通りに出たところで一人の男から声をかけられた。


「失礼ですが、あなたは?」

 ミネーレがオルフェリアをかばうように男とオルフェリアの間に割り込んだ。こういうときいいところの令嬢は見ず知らずの男と直接口などきかない。


「おっと、これは失礼。私はこういう者です」

 男は小さな紙切れをミネーレに手渡した。ミネーレは視線を落として確認した。


「新聞記者が何の用でしょう」


 ミネーレはにこやかな笑みを崩さない。立ち止まった二人の様子に店の前に待たせてあった馬車から御者が降りた。


「いやあ、用事っていうか。ちょっと一言言葉がほしくてね。ディートフレン・ファレンスト氏の婚約者、メンブラート嬢。あなた知っていますか? ファレンスト氏はルーヴェに帰ってきてから、とある女性と何度も密会しているんですよ」


 男の衝撃的な言葉にオルフェリアは目を見開いた。

 その様子に男は満足気に頷いた。思った通りの反応を得られて内心喜んでいるのだ


「事実無根ですわ。フレン様はお嬢様にぞっこんですのよ」

「それはどうかな。ファレンスト氏はその女性とかなり親密そうに顔を突き合わせて話し込んでいたとか。ルーヴェに着いて早々婚約者の浮気発覚! メンブラート嬢、一言感想くださいよ」


 男は尚もオルフェリアに向かって愉快気に言葉を紡ぐ。無精ひげを生やして、くたびれた上着を着た三十代も後半に差し掛かった男だ。しかしその瞳だけは異様なほど熱を帯びていて、オルフェリアは無意識に一歩後ずさった。


「お相手は美しい金髪の持ち主だとか」

「あなた、しつこいですね」

「おい、貴様。お嬢様から離れろ」

 ミネーレと御者に囲まれて、男はさすがに分が悪いと踏んだのかちっと舌打ちをした。


「嘘だと思うなら自分の目で確かめてみればいい。サン・ジェーマル通りの『ル・マイヨール』っていう店さ」

 男は愉快そうに吐き捨てて足早に去って行った。


「お嬢様大丈夫ですか。びっくりしましたよね。もう大丈夫です」

「え、ええ……」

 嵐のような出来事だった。


 オルフェリアは生まれて初めて新聞記者という人間に出会った。

あんなにも不躾な人間は初めてだった。オルフェリアの一挙手一投足を見逃さないというくらいの眼光鋭い目線をしていた。


 ミネーレにせきたてられるように馬車に乗り込んだオルフェリアは新聞記者の話した言葉が忘れられなかった。


 とある女性と密会。それもルーヴェに帰ってきてからずっと。フレンはオルフェリアよりも一足先にルーヴェへと旅立っていった。単純に仕事が忙しいからだと思っていたけれど、違ったらしい。


「お、お嬢様。気にしちゃダメですよ。あれは新聞記者の妄想です! ああいう人種は物事を面白おかしく書くことが大好きですから。しかもこの名刺! 低俗なゴシップ紙『ルーヴェ日報』のものですよ! あそこの記事は九割方でっちあげと出まかせです。この間だって『フラデニア北部で発見 悪魔レヴィグレータが人間と所帯を持っていた』とかいうしょうもない記事を載せていていたくらいなんですよ」

「……」


「お嬢様そこは笑い飛ばすところです~」

 馬車内にはミネーレの情けない声だけがこだました。


 オルフェリアは何となく面白くなかった。

 あんな風に演技で人にべたつけるというのは、彼が実戦経験が多いということで。


(別にわたしとフレンとは偽装婚約だもの。他に好きな人がいたって関係ないわ)


 心の中ではそうやって納得する声が上がるのに、なんとなくむかむかする。どうしてだろう。

 馬車の中でオルフェリアは沈黙したままで、ミネーレだけがフレンを庇うように一生懸命に彼のいいところをあげていった。


◇◇◇


「オルフェリアの機嫌が悪いようだけど、ミネーレ何か知らない?」

「……ご自分の胸に手を当てて聞いてみてくださいな、フレン様」


 古くから親交のある商売仲間主催の夜会へとやってきたフレンはオルフェリアに気づかれないようにこっそりと同行したミネーレに質問した。


 どうも先ほどからオルフェリアの機嫌がよろしくない気がする。普段からあまり喜怒哀楽を表に出さない彼女だったが、今朝はまだ笑っていた。

 ミネーレの言葉にフレンは律儀に胸に自身の手をやってみた。考えてみたけれど何も心当たりがない。


「ごめん。まったく浮かばない」

「ああそうですか」


 素直に告げればミネーレの背後の空気が一気に下がった気がした。


 女性は気まぐれだからそのうち機嫌も直すだろう。フレンはあっさりと割り切ってオルフェリアの方へ歩み寄った。


 ルーヴェでも名の知れた店のドレスを身にまとったオルフェリアはお世辞を抜きにしても可愛らしかった。まだ子供っぽいあどけなさが残る顔立ちをしているが、もうあと二年もすれば皆が振り返るような美貌の娘に成長するだろう。


 同じ年頃の令嬢らが徒党を組んで彼女を廃しようとたくらむのも納得だ。

 オルフェリアの瞳の色に合わせた菫青石をちりばめた首飾りとおそろいの耳飾りが照明に反射してきらりと光っている。


「オルフェリア、元気ないね。どうしたの」

「……別に。フレンは今日も絶好調ね」

 オルフェリアはぷいと横を向いた。


「減点」


 あんまりな態度にフレンはぼそりと呟いた。

 満面の笑みを浮かべろとは言わないが、もう少し愛想よくしてほしい。とくに恋人を演じているのだから。


「あら、フレンじゃないの。久しぶり。ルーヴェにちっとも寄りつかなくてさみしかったわ」

 二人の微妙な空気もなんのその。華やかな高い声が割り込んできた。


「やあカリナ。ひさしぶりだね」

 濃い金髪を高く結い上げて紅い口紅をつけた女性、フレンの旧知の女性だった。たしかどこかの商家の娘。


 婚約者であるオルフェリアが隣にいるにも関わらず、彼女はフレンの胸に自身の身体を寄せてきた。彼女とは節度を持った関係を貫いてきたが、カリナの方は色々と焦っているらしい。


「アルンレイヒに行ったきりでさみしいと思っていたら、こんな頭の悪そうな若いだけが取り柄の女に捕まっちゃうなんて。婚約なんて冗談でしょう? 何か弱みでも握られているの?」


 この年まで独身を貫いているフレンの元には玉の輿を狙った自称嫁候補がわんさかと寄ってくる。彼女もそのうちの一人だった。うっかり関係を持てば、あることないことでっち上げられて縁談がまとめられてしまうだろう。ということでフレンはこの手の相手と深入りすることはなかった。


「若いだけが取り柄だって言うなら、あなたはもう何の取り柄も残っていませんね」


 フレンが何か言う前に隣からぎょっとするような言葉が聞こえてきた。


 オルフェリアだった。


 ちょっと待て。ここでそういうこと言うか。普段からはっきりした物言いの娘だとは思っていたけれど、時と場合によるだろう。

 フレンの渡したオルフェリア人物設定に、確かに空気読めない発言をすると書いたけれど。


「なんですって……」

 カリナが一段と低い声で応じた。

 普段の声の高さからは考えられないくらい、地の底から這い出たどこぞの悪魔のような声だった。


「別に。本当のことを言ったまで、ですけど」

「オルフェリア、ちょっと黙ろうか」


 フレンはたまらずに口を挟んだ。


(アルノーの言っていた意味がわかった気がする……)


 フレンの機微を察して演技をする、という高等な技はまだまだオルフェリアには備わっていない。


 ここでフレンを挟んで喧嘩でもされようものなら確実に醜聞だ。何しろ夜会会場なのだ。遠巻きに皆事の成り行きを見守っている。


「カリナも、まだ子供の言うことだから。あまり真に受けないでほしい。ちょっと、いや、だいぶ社交に慣れていないんだ」


 フレンの言葉を受けてカリナは怒気を少しだけ和らげた。

「まあ、いいわ。こんなところでわたしもやり合いたくないし。フレンもこんな子選ぶなんて。最終的には家柄なのね」


 カリナは面白くなさそうに呟いた。フラデニアに帰ってきて婚約のことが話題に上がるたびにフレンは「ファレンスト家もついに貴族の血を入れることにしたのか」と言われ続けている。他所に嫁いだオートリエは数には入っていない。後継ぎのフレンが伴侶に選んだのが貴族の令嬢だから、人々はファレンスト家は箔をつけるために貴族の娘を娶ることにしたとこの婚約について憶測する。


 カリナは最後オルフェリアの顔に自身の顔を近づけて、何か呟いてからその場を去って行った。

 オルフェリアは少しだけ顔をこわばらせている。


「なにか言われたのか」

「別に……」

 せっかくこちらが気にかけているのにオルフェリアは塩対応を崩さない。


 その後も何度かフレン目当てだったと思われる女性から形ばかりの祝福の言葉を受けた。

 けれど皆瞳の奥が笑っていなかった。いや、全員と何かあったというわけでないぞ、とフレンはオルフェリアに弁解したかったが、あいにくと二人きりになる機会が無かった。


「フレンってばモテてなによりね。婚約者がこんな子供でごめんなさいね」


「オルフェリアやっぱり怒っているだろう」

「怒ってないわよ」


 いや、絶対に怒っている。

 じゃなかったからダンスの最中に二度も足を踏みつけたりはしない。狙い澄ましたかのようにオルフェリアはフレンの足を踏んできたのだ。


 しっかり教育を受けた伯爵令嬢は、領地に引きこもっていた割にダンスが上手だった。表に出ることはなくても淑女教育はしっかりと叩き込まれているらしい。


「子供っていったこと根に持ってる? でもおあいこだよね。きみだってこの間ひとのことおっさんよばわりしたんだから」


 ダンスの最中、少しでも場を和ませるためにフレンが冗談めかして言ったら、最後にもう一度足を踏みつけられた。

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