二章 恋人業務は波乱の幕開け
八月も終わりにさしかかった頃、オルフェリアは生まれて初めて外国へとやってきた。実家のあるトルデイリャス領は隣国フラデニアに接しているがオルフェリアがこの地へ足を踏み入れたのは正真正銘今日が初めてである。
西大陸随一の都。華やかな文化で知られた王都ルーヴェ。
現在、衣服も食べ物も西大陸の流行はルーヴェで作られると言われている。服飾デザイナーも料理人も皆一度はルーヴェで修行したいと願うのだ。
それは上流階級社会でも同じこと。ミュシャレンの夜会でもルーヴェ由来の品を持っているとそれだけで人々から羨望の眼差しを送られる。
「わあ……」
長時間の列車の旅の疲れもなんのその。
列車から降りたオルフェリアは思わず感嘆の声をあげた。鉄柱がむき出しになっており、ガラスの屋根を支えている。おかげで日の光がプラットホームに差し込み明るい。
「お嬢様はフラデニア、初めてですもんね」
ぐるりとあたりを見渡したオルフェリアに微笑ましげな視線を送るのはミネーレともう一人。パニアグア侯爵夫人のオートリエだった。
ちなみにフレンは一足先にルーヴェに到着しているはずだった。仕事があるとのことでオルフェリアをオートリエに託して一人さっさとルーヴェへと向かってしまったのだ。
どっちが婚約者設定をないがしろにしているんだ、と言ってやりたい。ついでにジョーンホイル嬢から聞かされたフレンの恋人についても問いただしかったたが、なんとなく聞きそびれてしまった。ルーヴェ行きを目前に多忙なフレンとゆっくりと会う暇もなかった。
オルフェリアは大きく息を吸った。
同じ文化圏内なのに、どこかミュシャレンとは違う気がする。国が違うだけで王都の雰囲気もこうも違うものなのだろうか。
オルフェリアは普段感情の起伏が大きくはないけれど、この時ばかりは頬を紅潮させて馬車から見えるルーヴェ市内の風景を物珍しげに観察していた。
なんとなくだけれど、ミュシャレンの町よりも洗練されているような気がする。それは建物の外柱の彫りだったり、街灯の装飾だったり、建物の色使いだったりほんの些細なことだけれど、少しずつ重なっていくと大きな違いとなってオルフェリアの瞳には映る。
「今日からはファレンスト家に滞在させてもらうことになります。お屋敷につきましたらまずは現当主と前当主夫妻にご挨拶ですよ。ドキドキの初対面ですね~」
「ミネーレ、今それ言うことかしら」
ミネーレの言葉にオルフェリアは眉根を寄せた。
「もちろんですよ。お嬢様ったらすっかり浮かれきっていますから」
オルフェリアはバツが悪そうに居住まいをただした。
「浮かれきってはいない……と思うわ」
これまではフレンがオルフェリアの親族に挨拶をしていたけれど、今度はその逆でオルフェリアが観察される番だった。
オルフェリア宛てに届いた母からの手紙には、「わたし今回の婚約はあなたが家のために無理をしたものだと思い込んでいたけれど。彼となら安心ね。あなたのことちゃんとわかってくれているようだもの」と書いてあった。一体フレンはどんな手紙を母に送ったのだろう。
フレンにそれとなく尋ねてもはぐらかされてしまった。
おそらくは、いつもの口八丁で母を丸めこんだのだろう。あとで口裏を合わせないといけないのだからオルフェリアにも教えておいてもらわないと困る。
「あらあら、そんなにもかしこまらなくていいわよ。オルフェリアとってもいい子だもの。お母様もお兄様たちもすぐに気に入ると思うわ」
オルフェリアが急に黙り込んだので、フレンの叔母であるオートリエが穏やかな声音でフォローを入れてくれた。彼女は頻繁にミュシャレンと実家のあるルーヴェを行き来しているとのことで、今回のオルフェリアのフラデニア行きにも喜んで付いてきてくれた。
「ありがとうございます」
オルフェリアは消え入りそうな声を出した。
オートリエ相手だと緊張してしまう。その原因は彼女が王太子妃の実の母親というところも大きく関係している。憧れの王太子妃の母親と旅行だなんて恐れ多くて心臓がいくつあっても足りない。
「もっと緊張をほどいてね。フレンのお嫁さんになる子はわたくしにとっても娘と同じよ」
「はい……」
偽装婚約ですけど……とはとても言えた雰囲気ではない。
(というか一年後は私の方から盛大に振る予定です)
振った後は確実にオートリエから嫌われてしまう。大事な甥っ子を金づるにしたあげくに思い切り振るという役回り。
やっぱりこの契約、早まったかもしれない。
「そうだお嬢様。明日は朝からルーヴェで有名な仕立屋に行きますよ。お着替え楽しみですね」
「あら楽しそう。わたくしも同行しようかしら。ミネーレあまり素を出しちゃだめよ。あなたドレスとかファッションのことになると我を忘れちゃうから」
「これでもまだまだ押さえている方ですよ」
オルフェリアが沈んでいる間に話がおかしな方向へ転がり始めた。
浮かれきっているのはどっちだ、と問いたくなる。
「え、ちょっと待って。仕立屋に行くなんて……あっ、だからわたしの荷物あんなにも少なかったのね」
「フレン様から申し使っていたんですよ。ルーヴェに滞在するのにルーヴェ最新流行のドレスを用意しなくてどうするんですか。こちらではいくつかの夜会にもお呼ばれしていますし。ドレスは女の子にとって武装用の武器と同じですよ~。ミュシャレンのドレスなんて着ていたら笑われます」
オルフェリアは蒼白になった。
またあの苦行を体験するのか。しかも今度はオートリエまで一緒だ。
「うふふ。オルフェリアお嬢様を美しく着飾るの楽しみです。ほんっとうにわたし好みのお人形……いやいや、お嬢様なんですもん」
瞳を爛々と輝かせれているミネーレに何を言っても無駄だった。
◇◇◇
ルーヴェの高級住宅街の一角にあるファレンスト邸にはすでにフレンが到着をしていた。こことは別に中心地にほど近い場所に小さな居宅も持っているという。
「やあ二日ぶりだね。私の可愛いオルフェリア。初めてのルーヴェはどうだい?」
邸に着くなり両手を広げたフレンはそのままオルフェリアのことを優しく抱きしめた。オートリエが「あらあらお熱いのねぇ」と喜んでいたがあいにくとオルフェリアはフレンの腕の中にいたので気づくことはなかった。
「あなた、絶好調ね」
「まあね。嘘だとばれたら元も子もない。きみもいつもの八割増しで頼むよ」
偽物の恋人たちは抱擁を交わしながらなんとも現実的な会話を交わしていた。
「さあ、早速お祖母様にきみのことを紹介するよ。実は待ちきれないようでね。早く紹介しろとうるさいんだ」
オルフェリアにとっては今日一番の試練だ。
深呼吸をして歩き出したフレンの後に続く。階段を上がって南側に面した部屋の扉を軽くたたくと中から年かさの婦人が姿を現した。案内人に続いて二人も部屋へと足を踏み入れた。
「よろしく頼むよ。ちなみに、お祖母様はアルンレイヒ人のことをよく思っていない」
唐突に、本当になんの前触れもなく、物騒な言葉が上から振ってきた。
「ちょ、聞いていないわよ。そんな大事なこと」
オルフェリアはあわててフレンの方を仰ぎ見た。
「検討を祈る」
(この男は~!!)
応接間には老齢の夫人がソファに腰をおろしていた。元は金髪であろう髪の毛も今は見事な白髪になっている。年老いてもその眼光はどこか厳しいものがあり、貴族の妻とは違った意味で夫を支えてきたのだろう。瞳に浮かべた色は思いのほか厳しいものだった。まるでオルフェリア自身が商品にでもなったような錯覚を覚えるほどに。
オルフェリアはごくりと喉を鳴らした。
それでも幼少時より仕込まれた礼儀作法を完璧なまでに披露してオルフェリアは優雅に膝を折った。
「はじめまして。お初にお目にかかります。わたくしはオルフェリア・レイマ・メンブラートと申します」
オルフェリアはまっすぐに夫人を見据えた。前ファレンスト家当主の妻、カルラはオルフェリアをじっと観察するように上から下まで眺めた。
一瞬のような永遠にも近しい時間。オルフェリアは堂々とその瞳を受け止めた。
わたしはメンブラート伯爵家当主の娘。普段は重すぎる家名に辟易してしまうけれど、今のオルフェリアを支えているのは幼少時から何度となく繰り返された名門一族直系の娘という矜持だった。
「ふうん。またアルンレイヒ人か、と思ったけれど……。わたしも年だね。のらりくらりと縁談をかわし続ける孫がやっと選んだ相手に今更ケチをつける気もおきやしないよ」
納得しているのか、それとも腹の底ではアルンレイヒ人なんて、と思っているのかわからない言葉だった。それでも一応は認めてくれたようだった。
オルフェリアはほうっと肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
オルフェリアは再びゆっくりとした所作で礼をした。
「ありがとうお祖母様。ちなみに叔母上もレカルディーナも私も、好きになった人がたまたまアルンレイヒ人だっただけですよ」
オートリエが伴侶に選んだのはアルンレイヒ貴族のパニアグア侯爵で、レカルディーナ、現王太子妃が選んだのもやっぱりアルンレイヒ人だった。
娘と孫娘が二人ともアルンレイヒ人を伴侶に選らんだことがカルラは面白くないのだ。二人ともフラデニアではなくアルンレイヒに住むことを選んだからだ。
「ふん。嫌な思い出を思い出させないでおくれ。どうせみんな人の言うことなんて聞きやしない。勝手に伴侶を見つけてくるんだから。せいぜい大事にしておやり」
認められた嬉しさからかフレンはオルフェリアの肩に腕を回し、そのまま自分の方へと抱きよせた。抱き寄せたついでにオルフェリアの目じりのあたりに唇を寄せてきた。
「ええもちろん。大事にしていますよ」
初めての出来事にオルフェリアは瞬時に身体を硬直させた。
(け、契約違反よ。必要以上の触れ合いは禁止なはず!)
まるで恋人のような振る舞いにオルフェリアは動揺を隠しきれなかった。
当然のことながら人生初経験だ。
「まさかおまえからのろけ話を聞く日がくるとはね。長生きはしてみるもんだよ」
「おや、そんなに珍しいですか」
フレンはさらにぐっとオルフェリアを胸に押しつけるように引き寄せた。オルフェリアは頭の中が真っ白になっていて、二人の会話などまったく耳に入ってこない。
とういうかどうしてこうなった。そのことがぐるぐると脳内をめぐっている。
そんなフレンのことをカルラはおもしろくなさそうに一瞥した。
「ほら、いい加減離しておやり。初心な子だねえ。すっかり固まっているじゃないか。嫁入り前のお嬢さんには節度を持って接するものだよ」
その言葉でようやくフレンは顔を真っ赤にしてかちこちに固まったオルフェリアに気がついたらしい。
「ああ本当だ。私のオルフェリアはまだこういう触れ合いには慣れていないようでね。こういう初心なところも可愛いでしょう」
祖母の前だからか平時よりも密着度が過剰な気がする。今だってそういいながらオルフェリアの頭を撫でる始末だ。
「……フレン様。は、恥ずかしいから……その……」
オルフェリアは口から心臓が飛び出しそうな勢いだったが、どうにか声を絞り出した。
「ほうら、ごらん。あんたはそういうところがダメなんだよ」
(今のところ駄目なところしかないわ)
オルフェリアはおずおずと彼の背中に腕をまわして、見えないように背中をつねりあげた。すぐに腕を離して何事もなかったようにカルラの方へ向き直った。
フレンの何か言いたそうな視線を感じたけれどオルフェリアは無視をした。これくらいの意趣返し許されるはずだ。
「フラデニアにはどのくらい居る予定なんだい?」
「そうですね。半月くらいはいるつもりですよ。私もこっちで仕事がありますし」
「なんだい。婚約したと思ったら彼女を放っておいて仕事って。本当にお前は……」
カルラは仕事三昧の孫息子に呆れたようだった。
「これでも忙しい身ですので。オルフェリアはそのあたりのことも理解してくれています。ああ、あといくつか夜会に招かれているので彼女と出席する予定ですよ。あとオルフェリアは観劇に興味があるのでファレンスト家で所有している座席、しばらく彼女のために貸してもらいますね」
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