一章 偽装婚約の裏側5

「ごきげんようオルフェリア」

 ジョーンホイル嬢は一見すると裏のない笑顔でオルフェリアにしゃべりかけた。

「ごきげんようミリアム」

「ファレンストさんもごきげんよう」

「こんにちはジョーンホイル嬢。オルフェリア、私は先に行っているよ」


 フレンは三人娘に挨拶をし、そのあとオルフェリアの耳元で囁いてから、階段を上がって行ってしまった。


傍目には婚約者が友人らと気兼ねなく話せるように気を使ったという演出に見えなくもないが、オルフェリアにしてみれば置いていってほしくはなかった。別に彼女らとは友人でもなんでもない。向こうだって絶対にそう思っている。


 フレンの言葉を借りれば、ミリアムらにとってオルフェリアは厄介な競争相手。でもオルフェリアは表向き結婚相手探しからは身を引いたのだから、また違うのだろうか。


「ふうん。今まで野暮ったいドレスだったのに。成金と婚約すると羽振りも良くなるのね」


 ジョーンホイル嬢はもはや取り繕うこともなく本音を口にした。


「もう、ミリアムったら。そういうことは口にしちゃいけないのよ」

「ミリアムったらオルフェリアが『レスト・ローク』のドレスを着ているから悔しいのよね」


 『レスト・ローク』とはミュシャレンでも高級店で名の知れた仕立屋だ。今日のオルフェリアのドレスはその『レスト・ローク』の一番人気の仕立人がデザインしたものだった。同じ店でもういくつかドレスを誂えたオルフェリアの身なりをどこかで目にしたのかもしれない。


「うるさいわね、カリナ。一言余計よ」

 図星をつかれたジョーンホイル嬢はオズワイン嬢を睨みつけた。オズワイン嬢は心底うらやましそうにオルフェリアのドレスを見つめている。


「でも羨ましいわ。オルフェリアったらとってもきれいだもの。今度ファレンストさんのお友達を紹介してね」

 オズワイン嬢はオルフェリアに邪気のない笑みを寄こした。


「カリナったら。お気楽な子爵家は楽でいいわね」


 ジョーンホイル嬢は小馬鹿にした声を出したが、取り立てて目立つもののない平凡な子爵家にしてみれば上流の貴族との縁続きよりも羽振りの良い実業家に狙いを定めた方が堅実的、という側面もある。


なにより十人並み造作をしているオズワイン嬢が上流貴族に見染められるということは雲をつかむようだと、彼女自身分かっている。


「あら、いいじゃない。オルフェリアが幸せな結婚をするのが一番よ」

 ハプディルカ嬢も含みのない笑顔を浮かべた。今日は泣き顔ではない。


 伯爵家の令嬢にしてみれば、同じ伯爵家でも伝統ではメンブラート家にかなわないのは百も承知している。その伝統あるメンブラート家の同年代のオルフェリアがあっさりと同じ舞台から降りたことに安堵しているのだ。しかも相手は爵位も持たない実業家。実業家といえば聞こえはいいが、ようするにどこの馬の骨かも分からぬ成金。


 張り合う相手でなければ人間いくらでも優しくできる。


「どうもありがとう。三人とも早くお相手を見つけられるといいわね」

 互いにけん制し合いながらの会話に早くも疲れてきたオルフェリアは面倒になってぴしゃりと言い放った。


 四人の周りの空気にぴしりとひびが入った。


「ふふふ、ありがとう」

「相変わらずよね、オルフェリアのそういうところ」

 婚約相手といってもしょせん商売人でしょう、と余裕を見せたハプディルカ嬢とは反対にジョーンホイル嬢はあからさまに頬をひきつらせた。


「そうそう、こんな噂を聞いたのよ。あなた、知っていて。オルフェリア」

「な、なによ……」

 意地悪に口元を歪めるジョーンホイル嬢にオルフェリアは身構えた。


「あなたの婚約相手、ファレンストさんだけれど。彼ってフラデニアに恋人がいるのですってね」

「えぇぇ、なにそれ。そうなのミリアム?」

 オルフェリアが口を開くよりも先にオズワイン嬢が興味しんしんとばかりに割り込んできた。おもしろそうに瞳をきらめかせている。


 オルフェリアも目を見開いた。


 二人の食いつきぶりに気を良くしたジョーンホイル嬢は得意そうに話を披露した。

「ええそうよ。わたしのお父様の弟の妻の従妹がフラデニア貴族に嫁いでいるの。彼女にファレンストさんの婚約を教えてあげたら、逆に吃驚していたわ。彼、フラデニア人の女優と恋仲なのですって」


 初耳だった。

 あの人、そんなこと一言も言っていなかった。


 黙り込んだオルフェリアがショックを受けたと勘違いしたのかジョーンホイル嬢は目に見えて笑みを深めた。


「あら余計なことを耳に入れてしまったわね。では、ごきげんよう」

 オルフェリアの意気消沈した顔を見ることができて満足したジョーンホイル嬢は後の二人を連れだって階段を登り始めた。


 その場に残されたオルフェリアは青い顔をしていた。


「お、お嬢様……、気にすることありませんわ。フレン様は確かに色々な方と浮名を流してきましたけれど、さすがに今はお嬢様一筋」


 少し後ろに控えていたミネーレが慌てたように言い訳をした。ジョーンホイル嬢の言葉がすべて聞こえていたのである。慌て過ぎてうっかり必要のないことまで口にしている。


「別に、いいのよ。わたしは気にしていないわ」


(というか、あの男! 別に恋人がいるんなら先に言っておきなさいよっ! なんだかわたしがめちゃくちゃかわいそうな子のようじゃない!)


 オルフェリアが顔を真っ青にしているのはなにもショックを受けて悲しいからではなくて、単純に怒りからだった。


 人の生活には散々口を出しておいて、自分はちゃっかりフラデニアで恋人を囲っているなんて!

 契約を舐めているのはどちらの方か。


◇◇◇


 さて、フラデニア行きが目前に迫ったとある日。

 フレンはミュシャレンを飛び回っていた。しばらくミュシャレンを留守にするためやっておくことが山のようにあるのだ。留守の間は信頼する部下に任せてあるとはいえ、彼の決済が必要な書類は山のようにあるし、進めておきたい案件の進捗も核にしなければならない。


フレンは表に待たせてある馬車に乗り込み午後の予定を頭に思い浮かべる。今日はこの後会議がいくつかと、得意先との会食が組み込まれている。


「フレン様。今回の人選、私は早計だったように思えます」


 アルノーが不意に口を開いた。彼は偽装婚約のことをすべて知っている。フレンが大学に通っているころからの付き合いだ。


「そう? どのあたりが」

 フレンは書類から目を離さずにのんびりと返した。


「演技ど素人ですし、ちっとも上達する気配がありません。相変わらずはっきりした物言いで同世代からは煙たがれているじゃないですか」

「彼女には空気の読めない令嬢を演じてもらわないといけないからね。そのへんは素でいけるんじゃないの」


「素では困ります。使い分けしてもらわないと」

「それはミネーレもいることだし、そのうち慣れてくるだろう。ここぞってところでは私も台本を渡すつもりだし」


 ミネーレは世渡り上手だ。彼女が指導すればオルフェリアの人当たりもいくらかは解消されるだろう。


「しつこいよ、だいたい私たちに彼女のような人物は必要だよ。やっぱりアルンレイヒでなにかをするとなればアルンレイヒ人が味方にいた方が有利だ。彼女の家柄は使える」

「そもそも支店開設以外に余計なことを目論むことが私には理解できかねます」


 この秘書がフレンのすることに口を挟むのは初めてのことだった。

 フレンは初めて書類から顔をあげて目の前に座る秘書官に視線をやった。冷静沈着なアルノーにしては少しいらだっている様子だ。


「ふーん。おまえは反対しているのかな、今回の計画に」

「お忙しいフレン様自らがすることではないとは思います。フレン様が躍起になれば上げ足を取ろうとする輩が現れますから」


 フレンは顎に手をやった。

 アルノーはどこまでも真面目だ。真面目すぎるきらいがあるから今回の偽装婚約にもまだ抵抗があるのだろう。家柄くらいしか取り柄のない少女を使ったのがお気に召さなかったらしい。彼が事前に作ってきた一覧表にオルフェリアの名前は記載されていなかった。


「まあどうにかなるんじゃないかな。それに私は運を味方につけてみせるよ」

 茶目っ気を出して片目をつぶってみせればアルノーはもう何も言ってこなかった。


 フレンは再び手元の書類に視線を移した。

 窓の外はミュシャレンの街並み。

 本格的にミュシャレンにやってきて三年が経った。故郷フラデニアの王都ルーヴェのような華やかさはないけれど、それでも多くの時間を過ごすうちにミュシャレンの街もフレンにとって馴染みのある場所になっていた。


 あと必要なのは足がかり。


 外国人が単身で乗り込んでもやれることには限界がある。アルンレイヒ人で、伝統ある貴族家の出身であるオルフェリアは申し分のない仕事上の相棒だ。もちろん見返りは十分するつもりだった。


 もとより彼女の実家はフラデニアとの国境を有する場所だ。投資次第ではこちらにも十分な見返りが望めるだろう。


 世間慣れしていない初心な令嬢、その不器用さが裏目に出て現在は同世代の令嬢から疎外されている。

 吉と出るか凶と出るか。

 いや、吉にしてみせる。


 フレンはしばしの間瞑目した。

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