一章 偽装婚約の裏側3
うまくフレンに乗せられて始めた偽装婚約生活は苦難の連続だった。
生まれて十六年、オルフェリアは狭い世界で暮らしてきた。父である伯爵は社交に熱心ではなかったから領地にこもってばかりで、オルフェリアら家族も領地でずっと暮らしていた。地所続きの地主一家や近隣の貴族と交流はあっても、読書好きなオルフェリアの話し相手といえば姉弟、たまに会う親戚くらいだった。
要するにある日突然十一も年上の婚約者(偽装)ができたからといっていきなり男性への対応力が優れるということはない。
「はいこれ。きみが言っていたんだろう。台本作ってみたよ」
フレンはにっこり意地の悪い笑みを浮かべた。オルフェリアは渡された紙の束をぺらぺらとめくった。
今日は貸本屋での仕事の最終日だった。
勤務明けにフレン行きつけのクラブへと連れてこられた。個室で二人きり。
密談するにはもってこいの場所である。
「フレンて案外暇なのね」
「相変わらずむかつくなあ、その言い方。わざわざきみのために作ったのに」
口を開けば小馬鹿にされるか、揶揄されるか。
フレンへの敬語を早々とやめたオルフェリアである。
「それはそうと。今日で貸本屋での勤務も最後だったね。お疲れ様」
フレンは発砲ぶどう酒を高らかと持ち上げた。琥珀色の液体からは小さな気泡が立っている。オルフェリアの前にも同じものが用意されているが、辛い口触りのこれはあまり好きではない。とか言うと絶対に「お子様だね」とか言われるに決まっているから口には出さないけれど。
「フレンが余計なことをするから」
「余計な事って。偽装婚約という仕事に専念してもらうためだろう。きみにも相当の見返りを与えているんだからこっちに全力してもらわないと」
「……」
フレンと偽装婚約者として契約を交わすと、彼は早速いくつかオルフェリアに注文をつけてきた。その一つが現在の職場『メル・デ・フィオーニ』を辞めろ、というものだった。
好きな本が読み放題という特権は捨てがたかったから「店長が急に言われても代わりの者がみつからないって泣きついてきたから無理」と言ったら、翌日には代わりの人間を用意された。フレンではなく秘書官のアルノーの功績だったが。
彼は上級学校を卒業したという女性を連れてきて店長と引き合わせた。
オルフェリアよりも三歳年上の、髪の毛をみつあみにした眼鏡をかけた知的そうな女性だった。おそらく仕事もオルフェリアよりもできるにちがいない。店長は一発で採用することに決めた。
こんなにも簡単に替えの人間に取って代わられるなんて。オルフェリアは地味に傷ついた。最終日の今日だって店長は「いままでありがとうね」とふにゃりと笑っただけだった。
別にさみしいとか、言ってもらいたかったわけではないけれど、それでもこれまでオルフェリアが働いてきたことは何だったのか。なんだか自分の価値がその辺の石ころと変わらないように感じた。
「来週にはフラデニアに行くからね。私の実家に挨拶に行ったり、あとは色々と顔を出しておかないといけないところもあるし」
フレンはオルフェリアの感傷なんてまるで気にしないように話しを進めていく。
本当にただの契約相手としてしか見ていない。
「気が重いわ」
オルフェリアはため息をついた。
「気が重くても契約だからね。ちゃんと演じてもらう。そのために台本だって作った」
「分かっているわよ。大体、一言言いたかったのよ。なにあれ、オルフェリアの人物設定『世間知らずで若干空気の読めない十六歳。たまにどかんと空気読めない発言をする』って。意味分からないわ」
「え? そのままの意味だけど」
フレンはナイフとフォークを動かす手を止めてオルフェリアの方を見た。
「だから、それが意味不明なのよ!」
オルフェリアはたまらず叫び返した。
偽装婚約の契約を交わした直後、オルフェリアはフレンの用意した質問書を渡されてそれに回答をした。
質問事項は趣味嗜好から始まって習い事の有無や旅行歴など多岐にわたっていた。訝しんだオルフェリアに対して「お互いのことを知っていなくちゃ婚約者なんて勤まらないよ」と言われてしぶしぶ回答欄を埋めた。
それらを元に数日後に渡されたのは契約書の控えと『偽装婚約設定資料集』なるものだった。
「世間知らずな伯爵令嬢を演出するための的確な言葉だと思うけど」
「あのね……。ただでさえ意地悪令嬢とかお高くとまっているとか言われているのに、これ以上評判を下げるような設定つけないでほしいわ」
「大丈夫。ここまで地に落ちた評判だからいまさら一つ二つ不名誉な冠言葉がついたからってどうってことないよ」
気にするな、とばかりにフレンはにこりと笑みを深めた。
「あるわよ! 気にするわよ。馬鹿」
「きみって本当に辛辣だなあ。令嬢が馬鹿なんて言わないよ」
フレンはいちいち人の上げ足を取ってくる。
ああもう、本当に気に食わない。
「大丈夫。もっと大人になったら、あの頃は若かったから、で済ませられるから」
「十一も年上のおっさんが言うと説得力あるわね」
オルフェリアはじっとフレンのことを睨み返した。
「お、おっさん……」
オルフェリアのおっさんという言葉にフレンが頬をひくつかせた。オルフェリアはそれを横目にソーセージを切り分けて口に運んだ。
ちなみに契約書には偽装婚約をするにあたっての基本条項もきちんと書かれていた。
『・契約期間は一年間。双方同意のあった場合のみ一年更新を基本とし、延長可
・偽装婚約のため結婚はしないこととする。契約期間終了後は円満に別れること
・婚約者を演出するための接触は可。しかし過剰な接触は不可。例→口づけなど(挨拶の口づけは例外だが、極力しない)
・秘密厳守。破った場合は違約金が発生する
・お互い婚約者を演じるにあたって設定資料集を熟読し、全力で演じきること』
などだ。
ちなみにオルフェリアの人物設定なるものもきちんと用意されている。
『好きなもの きらきらしたもの・ディートフレンとののろけ話・詩作・メーデルリッヒ女子歌劇団
きらいなもの 重たいもの・にんじん・ピヨール豆
ディートフレンの好きなところは、緑色の瞳・大人な包容力・人生経験
などで、以下前出のどかんと空気読めない発言をするとか、恋に恋するお年頃その他』
と、いくつかつづいていく。
「大人な包容力なんて、一切感じたことないし……」
「なにか言った?」
「べつに」
オルフェリアの小さなつぶやきを聴き逃さないのだから小さい男だと思う。
大体、にんじんが嫌いとか、子供か。
渡された質問事項の嫌いな食べ物欄には特に何も書かなかったのに、勝手にそういうことにされた。
「オルフェリア人物像設定についてはおいおいね。契約を交わしたんだから、こちらの意にはきちんと添ってもらう。ああそれと、明日は音楽会だったね。きみの自宅に迎えに行くから用意をしておくように」
フレンはオルフェリアの文句を取り上げる気はさらさらないようで、さっさと話題を変えてしまった。
それからは二人とも黙々と食事を取った。婚約者らしい会話などあったものでない。たまに給仕が個室へとやってきて空いた皿やグラスを取りかえるときだけフレンはやたらと芝居がかった視線をこちらに寄こしてきた。無視すると馬車の中で小言が滝のように際限なく落ちてくることが分かり切っていたためオルフェリアは無難に相手した。
婚約といっても双方なんとも思っていない相手だから甘ったるい空気になんてなりやしない。
ミュシャレンの夏の恒例行事といえば王立劇場で催される王立管弦楽団の演奏会。噂で聞いていたときはいつか自分も誰かと足を運んでみたいと淡い気持ちを抱いたものだけれど。せっかくの演奏会も隣にいるのがフレンだと思うとちっとも浮足立たないオルフェリアだった。
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