一章 偽装婚約の裏側2

「私のことは知っている?」

「ええ、一応。会員の方ですから。ディートフレン・ファレンスト様。フラデニア人でファレンスト商会の偉い方でしょう」


 オルフェリアとフレンは街角にある小さな公園のベンチに並んで座り昼食を食べていた。オルフェリアは台所番のコロナー婦人お手製の特盛りサンドウィッチだ。具がこれでもかというくらい入っているから特盛り。もっと食べないと折れちゃうよ、がコロナー婦人の口癖だった。

 対するフレンは近所のパン屋で買ったサンドウィッチとコーヒーという組み合わせだ。


「偉い方っていうか、一応創業者の直系で、次期当主ってところかな」

「そうですか」

「あれ、つれないな。ルーヴェだと女の子みんな目の色変えるんだけど」

 フレンの自慢をオルフェリアは黙殺した。

「それで、あなたの目的は何ですか? 冷やかしなら間に合ってます」

(向こう百万年先までね)

 最後の言葉は心の中で付けたしておいた。


「そんな警戒心むき出しにしなくても。それにしても最初に気づいた時は信じられなかったよ。まさか名門伯爵家のご令嬢が貸本屋で仕事しているなんてね。メンブラート家は娘が出稼ぎにくるくらい行き詰っているの?」

「出稼ぎって……確かに現在実家はいろいろと大変ですが、そこまで困窮はしていません。あれはただの趣味と実益を兼ねた社会勉強です」

「社会勉強? 最近の令嬢の考えることにはついていけないね」

「単純に興味があったんです。働くということに」

「ふうん。だったら王宮に女官として出仕でもすればいいんじゃない? 貸本屋の店員って、少なくとも好奇心で働くような場所じゃないよね」


 確かに最初叔母夫婦に話した時は大反対を受けた。それでもオルフェリアが熱心に口説き落として最終的には身分を伏せることを条件に叔父が紹介してくれた。


「あの店、従業員は本読み放題だし、新刊も早く入ってくるし。王宮は……その……色々と事情があって」

 ぽつぽつと理由を説明するオルフェリアは我に返った。

 どうして赤の他人にここまで事情を説明する必要がある。

 急に黙り込んだオルフェリアのことをフレンは興味深そうに眺めていた。


「まあいいや。内緒で働いている割にきみって詰めが甘いよね。店員のときくらいもう少し化粧を濃くするとか、眼鏡をかけるとか変装すればいいのに、きみってばそのへん無頓着すぎるよね。何度かここに通って、とあるパーティーで見かけてすぐに同一人物だって気づいたよ」

「……次から努力することにします」


 場所柄周辺に勤める人間しか来ないと思って油断していた。というか金持ちのフレンがなぜに貸本屋の会員などしているのか。


「きみと同じ理由だよ。沢山の本を読むけれど私の自宅の空間も無限ではないからね。あとは貸本屋にくれば流行を知ることができるし、世間がどんなことに興味を持っているかもわかる」

 オルフェリアの疑問を先読みしたようにフレンが饒舌に語った。

「そうしたら思いのほか面白い人物に出会った。で、どうして二重生活をしているのかなって興味を持ってきみのことを色々と調べた。噂も含めて」

「暇人ですね」

 オルフェリアは呆れて口を挟んだ。人の事情なんてどうでもいいだろうに。


「そうかな。私はちょうど人探しをしていてね。そのうち、きみは私の探してる条件にぴったり当てはまることに気がついたんだ」

 オルフェリアは目をぱちくりとさせた。

 まったく会話の意図がつかめない。

フレンはそんなオルフェリアの訝しげな視線に気づいているだろうに尚も話を続ける。


「僕の婚約者にならない?」


 婚約者。それは結婚の約束をした男女のこと。結婚。それは夫婦になるということ。

 夫婦。それは結婚した……、いや待て。それだと最初に戻る。


「はあぁぁ!?」


 さすがのオルフェリアも驚きを隠せずに大きな声をあげた。


「もしかしてまだ寝ぼけてます? お昼もとっくに回っているのに」

「あいにくと私は起きているし正気だよ。実は婚約者を探しているんだ。きみにとっても悪い話じゃないと思うけれど」

 にこやかに話し始めるフレンを無視してオルフェリアは残っていたサンドウィッチを頬いっぱいに詰め込んだ。無理やり詰め込んでどうにか口元を押さえて立ち上がる。

 この人意味がわからない。こんな男の隣には一秒だっていたくない。


「ほれでは…おひ、る、おひゃるぼで……」

 そこまで言って、うっと詰まって胸を叩き始めたオルフェリアにフレンが自身の持っていたコーヒーを渡してくれた。非常に悔しかったがいただくことにした。

 フレンは笑いをかみ殺していた。

「お昼休憩そろそろ終わるので失礼します!」

 一方的に宣言をしてオルフェリアは公園から立ち去った。

「あとで迎えをよこすよ!」


 背後からそんな声が聞こえてきたけれどオルフェリアは振り返ることなくまっすぐ職場へと戻った。

 婚約者とか、意味がわからない。そりゃあ確かにオルフェリアだって事情があって力になってくれる人物を探してはいるけれど。あんなふざけたやつはご免だし、結婚なんてする予定もないのだ。


           ◇◇◇


 気分の悪い昼休憩だったせいか午後からの仕事は気分がいまいち乗らなかった。つまらない間違いはしてしまうし、読書をする気にもなれなかった。

 無駄な時間を返してほしい。

 フレンに責任転嫁をしてオルフェリアは午後の時間をやり過ごした。


 午後四時にオルフェリアは従業員用の控室にもどって前掛けをほどいた。店を閉めるのは遅番の別の店員の仕事だ。ちなみに店長はカウンターの奥で今日もただ猫をなでているだけだった。店長いわく「本屋の店主が猫をなでていると、いかにもって気がするよね」とのことで、オルフェリアにしてみればなにがいかにもなのか理解不能だった。


「お疲れさまでした」

 すっかり慣れた仕事終わりの言葉を口にしてオルフェリアは裏の従業員用の扉から外へ出た。


「お待ちしておりました。メンブラート様」


 外に出たとたん抑揚のない声がオルフェリアのことを出迎えた。

 見覚えのない男だった。琥珀色の髪に橄欖石ペリドットの瞳を持ち、そして誰かの従者なのだろう、色の濃い上着を身に着けていた。


「あなた……だれ?」

「私はファレンスト様の秘書官をしております。アルノー・ラエールという者です。フレン様より貴方をお連れするよう申し使っております」

 目の前の男、アルノーの言葉にオルフェリアは迷惑そうに口元を引き結んだ。

 あんな男と約束なんてした覚えがない。


「わたしはあの人と約束なんてした覚えはないわ。それに、急に寄り道なんてしたら叔母様がびっくりするわ。何も話していないもの」

 急な誘いには乗れない、と言外に匂わせて断るつもりだった。

「それでしたらご心配なく。あなたが午後の職務に励んでおられる同時刻にフレン様直々に叔母君の元にご挨拶に行かれましたから」

「ちょ、ちょっと! なに人に断りもなく勝手に!」

 オルフェリアは慌てた。


「オルフェリア様が心配なさることはございません」

「あるわよ! 大いに! 一体叔母様に何を吹き込んだのよ」

「とくには。ただ、最近オルフェリア様と親しくさせていただいている旨と近々正式に二人で挨拶をしたい旨、本日はあなたを夕食に誘いたい旨を丁寧にお話ししただけです」


 オルフェリアは血の気が引くのを感じた。

 その言い方だとまるで……まるで!


(わたしがあのふざけた男とただならぬ関係にあるって知らしめているようなものじゃない)


 ああ今すぐ倒れたい。しかしあいにくと人間そう簡単に気を失うことはできない。

「なにか言いたいことがあるのならば私にではなく直接フレン様にどうぞ」

「ええ、そうさせてもらうわ」

 アルノーに軽くあしらわれていることにも気付かないオルフェリアは彼の用意した馬車に乗り込んだ。


 連れてこられたのはとある会員制クラブの個室だった。

 貴族の人間が利用するクラブではなく、商業街という立地も手伝ってか周辺の事務所に勤める男性らを主な顧客層にしている店だ。一階の奥にある個室に通されると、そこにはフレンが席に座りにこやかに手を挙げて出迎えてくれた。


(こ、この男……)


 よくもまあいけしゃあしゃあと、オルフェリアはぴくりとこめかみに青筋を立てた。

「やあ、お昼ぶり。元気していたかな、私の婚約者殿は」

 とか平気で言うのだから始末に負えない。


「ふざけないで。わたしあなたと婚約した覚えなんてまるでないわ」

 オルフェリアはぴしゃりと言い返した。

 まっすぐにフレンを見返した。

 フレンは不意にそれまでの人好きのする笑みを消して、口元をほんの少しだけ持ち上げた、悪企みをするような顔つきになった。


「もちろん。私だってまだきみと婚約したおぼえはないよ。まあ、座りなよ。そうだね。飲み物でも飲みながら話をしようか」

 フレンはテーブルの上のベルを鳴らして給仕を呼びつけた。

「きみ、お酒は飲む?」

「いいえ。強いのは苦手です」

 フレンは給仕に果実水と、自身のための食前酒を頼んだ。

 やがて運ばれてきた食前酒に口をつけたフレンはおもむろに切り出した。


「婚約といっても、なにも本当に結婚をするわけではない。期間限定の、偽装婚約、だ」


 オルフェリアはフレンの言葉を頭の中で数度咀嚼した。

 偽装……。偽り。人をあざむくこと。

 偽りの婚約……。しかし一体何のために。


「きみにとってもメリットがあると思んだけど。トルデイリャス領メンブラート伯爵家の窮地を救いたいんだろう。父親である現当主は現在行方不明。後継ぎの長男はやっと十三歳になったばかりだ。きみがミュシャレンにやってきたのは、金銭的な援助をしてくれる人間を探しにきて、のことじゃないのかな。広大な領地運営にも城の維持費にも費用がかかるからね」

「ずいぶんと詳しいようで。けれど、一つ間違っています。父は行方不明ではなくて冒険の旅に出かけたのです」


 オルフェリアはぷいっと横を向いた。

 自身の背景を勝手に探られていたことに腹が立つけれど訂正をするべきところはきちんと正しておかないといけない。


「冒険の旅……」

 フレンは少しだけ呆けたようにオルフェリアの言葉を反芻した。

「ええ。昔から父は夢見がちなところがありましたから。二年前のある日、冒険家になるといって乳兄弟を連れて出奔しました。置き手紙が残されていましたから……今頃は海を渡ってアルメート大陸で楽しく冒険をしていることでしょう」


 オルフェリアは少しだけ苦々しい気持ちで伯爵家最大の厄介事を語った。しかし、アルンレイヒ貴族なら大抵の人間は知っているはずだった。皆、表立って口にしないだけで。

 それとも、本当にただの行方不明だと思われているのだろうか。

 オルフェリアから父の話をすることはないのでわからない。そして面と向かって伯爵家当主について言及したのはフレンが初めてだった。


「ふうん。それはまた……面白い展開だね。で、当主不在だとなにかと大変というわけで、支援者探しってことかな」

「別にそれだけじゃありません。ミュシャレンに来たのは……って、どうしてあなたにわたしの心情まで話さないといけないんですか」

 あやうく複雑な感情まで吐露しそうになってオルフェリアはあわてて飲み物に口をつけた。

「偽装とはいえ、婚約するんだからお互い相手のことは深く理解しておかないとだろう」

「わたしはまだ『はい』とは言っていません。大体、なんだって偽装婚約なんですか。わたしのことばかり質問して、あなただって自分のことはちっとも話さないじゃない」


「それもそうだね。私が偽装婚約をするのは簡単だよ。まだ結婚なんてしている場合じゃなくってね。けど、私ももう二十七だ。周りがうるさいんだよ。とくに家族が。だからとりあえず婚約でもしたら、少しの間は静かになるかなって。アルンレイヒ人で探しているのは、ミュシャレンで仕事をしていると外国人の私だけだとまだ色々と融通のきかないことが多くてね。てっとりばやくアルンレイヒ貴族と婚約したってことにすればこっちでも色々と便利かなって」

 フレンは本当に結婚なんて考えていないんだろう。どこか他人事のように笑った。


「確かに二十七っていったら十分行き遅れ、いえ、貰い遅れの年ですね」

 世間一般大抵の男性は所帯を持っている年頃だ。

 同年代の王太子は確か二人の子持ちである。この春に二人目が生まれた。

「きみは本当に辛辣だね」

 オルフェリアの率直な物言いにフレンは少しだけ呆れたように返した。

 こうやって思ったことを口にしてしまうのはオルフェリアの悪い癖だった。

おおらかな家族はあまり気にしなかったのでとくに矯正されることもなく育つこと十六年。現在進行形で苦労する羽目になっている。


「ようやくファレンスト銀行のミュシャレン支店開設するんだ。やれ恋人だ、婚約者だ、結婚だ、そんなことにかまけている時間はなくてね。とりあえずすべてを承知で偽装婚約すれば一番手っ取り早いかな、なんて思った次第さ。もちろん私と契約をしてくれたからにはきみにも相応の見返りは用意するよ。メンブラート伯爵家と領地運営について助力する。投資を呼び込んだり、やり方はいろいろだ。どうだい、公平な取引だと思うけれど」

「けれどいずれは婚約破棄ということになるのでしょう。わたしばかりが損をすると思いますが」

 婚約破棄となればオルフェリアのただでさえよくない評判はさらにガタンと地に落ちるような予感がする。


「それは大丈夫なんじゃないかな。きみと私じゃ私の方が身分が劣るし、きみから振ったことにすれば名誉はそこまで落ちないと思うけど」

 フレンは大したことじゃないと思っているようだった。

 確かにオルフェリアは貴族でフレンは商家の出だ。身分の高い女性の方から振ったとなればそこまで批判はされないだろう。


 しかし。


「それってわたしが悪女っていうふうになるじゃない」


 利用するだけ利用して飽きたら、ポイっと婚約者を捨てる。一体どんな噂が流れることだろう。賭けてもいい、いまよりももっと豪華な飾り名がつくに違いない。


「あれ? きみ気にしているの。あの噂」

「あたりまえです!」

 オルフェリアは間髪いれずに叫んだ。

 誰が好き好んで意地悪令嬢だなんて言われてうれしいのか。

「わたしは別に……お高くとまっているわけでもないし、いじわるなんてしているつもりもないし。なのに、いつもわたしが悪いことになってしまう……。昨日だって、叔母上は確かに会の開始時刻が変更になったって」

 オルフェリアはぎゅっと膝の上でスカートを握りしめた。


「ふうん。ま、私には女同士の力関係とか牽制しあうとかはよくわからないけれど。私と婚約したふりをしたら多少はそういったことも和らぐと思うよ」

 フレンの言葉にオルフェリアは思わず彼へ視線を向けた。


「どういうこと」


「要するに他の令嬢たちはきみのことを脅威に思っているんだろう。お金が無くてもそれだけ立派な伝統と血筋を持った家柄だから結婚相手となればまた別だろう。見目麗しく血統書つきの古い家柄。競争相手は少ない方がいい。だから先手必勝で悪い噂を流して自分たちの正当性を示す。女の子ってさ、仮想敵を作った方が他は仲良くなるからね」

 フレンに説明をされてオルフェリアはやっと自分の置かれている状況が理解できた。没落しかけた伯爵家なんて誰も相手にしないと思っていたのに、他の令嬢にとってはそうではなかったということか。


「わたしって見目麗しいんですか?」

 オルフェリアは他人が聞いたらそれこそ嫌味か、と殴り飛ばしたくなるような質問をした。

 フレンは面白そうにオルフェリアのことを見つめた。

 黒檀のような艶やかな黒髪に、水晶を思わせる薄紫色の瞳。陶器の人形のような白い肌は、青白いということでもなく、頬はうっすらと赤く血色の好い顔色をしている。筋の通った形のよい鼻梁に、小さな唇。

 傍目から見てもオルフェリアは儚くきれいな容姿をしている。


「あれ、自覚ない? かなり目立つ部類だと思うけど」

「姉も妹も弟も似たような顔立ちをしていますから」

 オルフェリアにとっては姉弟みんな同じような系統の顔をしているから特別だとは全く思わない。

「ふうん。ま、ほかの令嬢が思わず先手必勝でオルフェリア嬢は悪い子ってしちゃいたくなるくらいにはきれいなんじゃない。女の子はよりよい結婚をするのに必死だからね。その点私と婚約をしたとなればきみは競争相手ではなくなる」

 年頃の令嬢にとって結婚とは死活問題だ。親同士が決めた政略結婚が一般的だが、同じ階級であれば、とくに家同士がいがみ合っていなければある程度相手を選ぶことはできる。それは男性も同じで、彼女らは自分たちが選ばれやすくなるようにわざと競争相手の悪い噂を先に流してしまおうとしたのだろう。


「め、面倒くさい……」

(別にわたしは結婚願望とかないのに……)

 率直な本音だった。


 オルフェリアは本を読んで静かに暮らせる環境があればそれでいいと思っている。結婚なんて雲をつかむような非現実的な話。

 伯爵家の支援者探しもオルフェリアが結婚相手を見つけるというよりも、領地に投資してくれる実業家探しとか、そういうのが目的だった。

 という次第で、フレンのような相手はオルフェリアにとっても願ったりな相手だ。


「その面倒くさいのが女性というものだよ。とくに寄宿舎に入っている令嬢たちは休みの日しか自由に出歩けないからね。きみのように年中ふらふらしている競争相手がでてきて脅威に映ったんだろう」

「悪かったわね、ふらふらしていて。わたしだって寄宿舎に入ってみたかったわ」

 ただ家令が許してくれなかった。伝統的な貴族の家の娘は家に家庭教師を呼んで教育を受けるものだから。

 現在弟で長男のリュオンが寄宿学校にいるが、これもしぶる家令らを説得に説得を重ねてようやく納得させた。リュオンには狭い領地だけでなく沢山の人と出会ってほしい。


「もしかして王太子妃の影響?」

 正確に心中を言い当てられたオルフェリアは黙り込んだ。

 ちょうどその時料理が運ばれてきたのでオルフェリアには都合がよかった。一度にいくつかの皿が用意され、テーブルの上が一気ににぎやかになった。

 密談中ということもあってこの形式にしたのだろう。

「王太子妃はずいぶんと若い女性に人気のようだね」

「わたしが彼女にあこがれたらおかしいですか」

 羞恥に顔を真っ赤にしたオルフェリアは運ばれてきた料理に口をつけた。


「いや、別に」

 三年前に王太子が結婚した相手、レカルディーナ・パニアグア侯爵令嬢は隣国フラデニアの寄宿学校で青春時代を過ごした。大陸西側の流行の発信地でもあるフラデニアの王都ルーヴェの影響を受けている王太子妃のドレスの着こなしなどはミュシャレンに住む若い女性たちの憧れだった。時代を先取ったような肩につくくらいの短い髪形も印象的で、ミュシャレンから遠く離れた領地で過ごしていたオルフェリアの元にもその噂は届いていた。

 しきたりに縛られた王家に嫁ぎながらも短い髪を貫き通す姿に、新しい時代の女性像を感じ取った。

 一度でいいから直接お会いしたい、との思いで昨日は公爵邸に赴いたのに結局は挨拶するどころか姿を見ることもかなわなかった。


「わたしだって、その……王太子妃様にあこがれてみたりくらいは……します」

「だったらなおさら私と契約しようよ。知っての通り私と彼女は従妹同士だから一度くらいは紹介できる機会があるかもしれないよ」

 にっこり笑ってフレンは畳みかけてきた。

 悪い噂の払しょくと憧れの王太子妃との対面。ついでに領地運営の助力。

 オルフェリアの天秤が偽装婚約のほうへ傾き始める。


「けど! 結局は婚約破棄するのでしょう。そのときわたしまた色々と言われるじゃないですか」


 けれどやっぱりこれが引っかかる。婚約破棄後は悪女に祭り上げられる気がしなくもない。

「大丈夫。十八くらいまでのことだったら大抵は、あの時は若かったですから、とかなんとか言えば水に流してくれるものだよ。人はみんな一つ二つの黒歴史を持って生きていくんだよ」


 この男、偽装婚約を黒歴史の一言で済ませる気か。


「とりあえず期間は一年間。まあ悪いようにはしないよ。はい、これ。契約書。二枚あるからここにサインして」

 フレンは自身のサインが書かれた書類をカバンの中から取り出してオルフェリアに提示してみせた。

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