第六章 魔王

 手にした小太刀を彦三郎に投げつけ、

「まだ、この身体を失う訳にはいかぬ」

 と、帯刀はかなり無理を押して牽制を掛ける。

 だがが、彦三郎はいとも簡単にその小太刀を手刀で払い落とし、反対の手で再び必殺の一撃を繰り出した。

「させん!」

 “竜気”を全力で身に纏い、後先考えずに仁兵衛は割り込むと、容赦なく彦三郎の左手を切り落とした。

「紛い物が拾ってきた浮浪児ばらが邪魔立ていたすなあッ!」

 激昂げきこうした彦三郎が、鋭い蹴りを放ってくるも、仁兵衛は難なく見切って反撃する。

「ならば、その浮浪児輩に斬り殺されるが良い」

 くらい、それこそ深淵の闇の奥底から響く冷たい殺気だった抑揚のない声で仁兵衛は答えると、躊躇なく彦三郎の右半身に斬り付けた。

 いつもの感覚で見切ろうとした彦三郎だったが、左手が切り落とされた所為で僅かにずれていた重心に気が付いていなかった。その為に致命傷とまではいかないがこのまま闘い続ける事は不可能と誰しもが見たら分かる重傷を負う。

「死ね」

 そのままうずくまった彦三郎に止めの一撃を仁兵衛は冷静に繰り出した。

 彦三郎はその一撃を見ようとも避けようともせずに蹲った儘、何やら異様な気配を漂わせていた。

 背筋に薄ら寒いものを感じた仁兵衛は瞬時に“竜気”を用いて父親を担ぐと部屋の入り口まで飛び退すさった。

 彦三郎が放つ異様な気配に仁兵衛は覚えがあったのだ。

「……流石は俺の倅。この気配に気が付いたか」

 咳き込みながら、帯刀は嬉しそうに笑う。

「父上。御無理はなさらずに。全て、この仁兵衛が片付けて御覧にいれます。例え、相手が魔王であろうと」

 既に気配を隠そうともしない彦三郎から父親を守らんとするべく間に入り、構えを左太刀へと静かに変えた。

「小倅如きが生意気な口を利く」

 重傷を負っていた傷口が得体の知れない毒々しい肉腫じみた組織で覆われ、切り落としたはずの左手が断面より生えた触手が絡み合い、意志の弱い者が見たら吐き気を催す様な融合を遂げていた。

 既に冒険者として数柱の魔王を倒してきた仁兵衛であったが、この様な得体の知れない上、人の身に宿っている奇っ怪な存在は初めて見るものであった。寧ろ、今までの経験上これほどの異形が未だに人型をとり続けているという時点で驚きを隠しきれなかった。

 姿形が人を模していたとしてもその間合いが人のものであるか、異形の動きをするか、将又はたまた彦三郎が修めた流派を使った動きをするかも全く以て不明なのだ。後ろに自力で動けない父親がいる以上、最早退く事許されていない。故に、手探り状態でこの怪しげな魔王と立ち会わなければならないのだ。

(そうは云っても、最初から退く気は無いが、どう攻めたものか流石に悩むな。何か分かったら教えてくれ、明火)

(御心のままに、我が主様)

 明火と短い遣り取りを心の中ですると、仁兵衛は臆する事なく彦三郎へと突っ込む。

 右で構えていた時に比べれば荒削りな動きだが、相手の間合いと推定する円周を鋭い動きで左に横滑り、右肩目掛け鋭く斬り込む。

 それに対し、彦三郎は左手を鞭のように撓らせ、人間では真似出来ない動きで仁兵衛の後頭部を狙った。

 それは端から見れば予測外の動きなのだろう。しかしながら、異形の難敵慣れした仁兵衛から見れば予想の範囲内に収まった動きでしかなかった。

 一気に“竜気”で動きを加速させ、懐に飛び込むと同時に右上段からの斬り下ろしを抜けて打った。

 猶も迫ってくる左手を返す刃で弾き飛ばし、再び右上段の構えに戻す。

 彦三郎は肩から切り取られた右手を左手と同じように融合させると、帯刀を気にする事もなくゆらりと振り向いた。

(中途半端だな)

 心中でぽつりと仁兵衛は呟いた。

(何がですか?)

 自身も何らかの違和感を感じていた為に、明火は主の疑問に対して敏感に反応した。

(何もかもだ。俺の一撃も、敵の姿形も、その動きも。どうにも腑に落ちん)

 内面の焦りを表には出さず、仁兵衛はじっと彦三郎を観察する。(魔王に浸食されているのに人の形を保ち続けているのは何故だ? “の混沌”そのものたる魔王を喰らって正気の儘でいられるはずは無い。ならば、何がそれを可能にしている)

 流石にその質問に対して明火は何も答えられなかった。

 事実、仁兵衛の疑問は明火からしてみても尤もなものだった。

 “混沌”とは世界が象られた時よりも前から在った存在ものの一つである。対になる“法”が全てのものをあるがままの状態で固定しようとする力だとすれば、“混沌”は全てのものを常に変化させ続ける力である。その二つが対消滅し、力だけ残ったものを気と呼び、中でも意思を有した気を竜と呼ぶ。

 “法”はその化身である創造神の意思の元に制御されている。だが、“混沌”は違う。“混沌”は“混沌”自体がありとあらゆるものの変化を望んでおり、何者かに御せられる事を嫌う。“混沌”自身も常に変化し続ける事を望み、それを行っている。

 故に、“混沌”が己の支配領域から他の何者かが支配している領域に顕現した状態を“生の混沌”と呼び、多大な被害をもたらすものとして他者から畏れられていた。

 世界に“法”だけが存在すれば何者であろうとその形から変化する事はなく、“混沌”のみが存在すれば一定の形に保つものはあり得ない。この世界がこの世界たらしめるには、そのどちらもが均衡を保った状態で必要なのである。故に創造神と袂を分かった御使いの一柱は均衡神となって世界のありとあらゆるものの均衡を保つ事を選んだのだ。

 だからこそ、この世界には常に“法”と“混沌”がどちらも存在する。“法”だけでは世界の進展はなく、“混沌”だけでは世界の安定はないのだ。逆を言えば、この世界には“法”も“混沌”も常に介入出来る状態であり、二つの勢力が各々の陣営一色に染めようとこの世界を狙い続けている。

 この世界において“混沌”の勢力に属するという事は、その身に“混沌”を宿している事──即ち、己自身を“生の混沌”と化している状態──と同義である。しかしながら、“混沌”の勢力の中でも己が身を“生の混沌”そのものとなった状態で無事でいられるもの等、そうはいない。ましてや、人類種でその様な真似をできる者がいるかと言えば、まずいる筈がない。余程の英雄か、神の領域に達した者の中でも一握りの者が漸く意志の力で押し込められるかどうかと言うものなのだ。

 そして、魔王はその数少ないものの中でも特筆するべき存在であり、最早“混沌”の化身と言っても過言では無い化け物である。些か逆説的ではあるが、“生の混沌”を受け入れて尚自我を保つものを魔王と称するのだ。

 だからこそ、人の身で魔王を受け入れると言う事は“生の混沌”をその身に受け入れる事に等しい。普通であれば、あっと言う間に何もかも“混沌”に犯され、変化に耐え切れず発狂して精神崩壊する。それどころか、余程の者でも無い限り、魔王と相対しただけでも精神に異常を来すのが関の山である。仁兵衛も片手の指で数える程度しか魔王と相対していないとはいえ、その様な場面をいくらかは見てきていた。

 例え旗幟八流の当主であろうと、ものには限度があるし、あそこまで名状しがたき変貌を遂げているのに本人の意志らしきものが残っていること自体が何かおかしいとしか言い様が無かったのだ。

(如何なる細工かは知らぬが、ある程度“混沌”の浸食を防いでいる上、どう見ても己の自我を保っている。どんな絡繰りがあるか見切りたいところだが……)

 仕掛けずに間合いを計る仁兵衛に業を煮やしたのか、今度は彦三郎が動いた。

 仁兵衛は敢えて経験則から導き出される間合いよりも大きく回避し、油断する事なく彦三郎から距離を取る。

(流石に考える暇はくれないらしい。何か思い当たる事はあるかい、明火?)

(いくつかは。ただ、魔王が何の代償もなく力を貸し与えるとは思えませんから、なんとも云えませんわ。一つでも多くの判断材料が欲しいところですわね)

 途方に暮れていた仁兵衛に、明火はそう助言した。

(……ならば、多少無理をするか。“竜気”を)

 明火に助力を促し、仁兵衛は一気に仕掛ける。

 先程とは違い、最初から“竜気”による強化で敵が動く前に懐に入り、再び右手を抜け打つ。

 相手が反応する前に振り返り、返す刃で左足を切り飛ばし、そのまま後ろに飛び退すさった。

 彦三郎が再生を始める前に再び斬り掛かり、今度は背中から左肩を切り飛ばした。

 そのまま、心臓を貫き、躊躇する事なく首を刎ねる。

「!?」

 刹那、何か嫌な予感を感じ、仁兵衛は大急ぎで間合いを大きく外した。

 次の瞬間、傷口の断面という断面から骨らしき何かが急激に伸び、仁兵衛の居た空間を貫いた。

 骨の槍衾はそのまま矢の雨となり、仁兵衛に降り注ぐ。

 何らかの細工がされている事を恐れ、仁兵衛は“竜気”を用いてその全てを叩き落とした。

 その間に、彦三郎は元の人の姿に戻っていた。

(……どうやら今までの経験は殆ど役に立たないらしい)

 忌々しそうに仁兵衛は心中で毒突いた。

(そうでもありませんわ、主様)

 落ち着いた様子で明火は仁兵衛に笑いかける。

(分かったのか?)

(いえ。大体の予想が付いただけですわ)

 がっつく仁兵衛に対し、明火は落ち着いた様子で答える。(要は、あの男が身の内に魔王を宿していないと云う事。そして、魔王があの男に力を貸す事が利益になると思っているか、魔王の意志がない状態で魔王の魂とでも云うべきものが何かしらの器に宿っているとしたならば、今の状態を説明出来ますわ。“生の混沌”を魔王が力に変換し、その力だけあの者が受け取っている。主様と私の関係に似ていますわね)

(大まかな事は分かった。要は“竜気”の代わりに魔王の力を用いているという事だな。ならば、やり様はある!)

 一つ大きく深呼吸をし、仁兵衛は一気に踏み込む。(魔王が何に宿っているか探ってくれ。それまでは何としてもしのぎきる)

(御武運を)

 祈るようにそう告げると、明火は静かに辺りを探り始めた。

 仁兵衛は仁兵衛で彦三郎の【刃気一体】の正体を探っていた。

 無手格闘術の【刃気一体】は大抵己の身を武器と見定め、気を身に纏う事で通常の二倍の気を使いこなす。しかしながら、それは通常の二倍の気を己が身に貯蓄し、制御する事と変わりないので武器を用いる【刃気一体】よりも扱いが難しいものとなる。その上、制御を失敗すれば気が己の身の内で暴走する事となり、良くて肉体の損傷、悪ければあっさりと死ぬ。無手格闘術の流派で【刃気一体】を用いる使い手が武器を用いた流派より少ないのは当然の理と言えよう。その分、使いこなせれば気の貯蓄量が武器次第で変わってくる武器使用の流派よりも己の肉体という分かり易い無手格闘術の【刃気一体】の方が使い勝手が良く、条件次第ではあっさりと他流派の達人を屠る。

 ところが、彦三郎は明らかに自分の肉体を用いた【刃気一体】を用いている様子が一切無かった。

 最初に帯刀を小太刀で刺した時も相手に警戒心を抱かれぬ為かも知れないが、【刃気一体】を使わずにそのまま懐に入り込んだだけだった。

 次に、止めを刺そうと手刀を繰り出した時も身体の強化が見られなかった。

 仁兵衛と交戦状態に入ってからも、魔王の力らしきものは使っても、決して【刃気一体】を使おうとはしていなかった。

 魔王の力を使う為に、細やかな制御が必要となる【刃気一体】が使えないという仮定を想定すれば納得はいくのだが、最大の武器を捨ててまで使う価値がある程、魔王の力が圧倒的な物には見えなかった。

(それとも、俺相手に【刃気一体】を使う必要すらないと見切られているのか。もしくは、今この時点ですら手の平の上で踊らされている位腕に格段の差があるのを隠していると云う事か?)

 自問自答しながら仁兵衛は彦三郎を冷静に観察する。(……むしろ、親父様を傷つける事で俺の行動に制限を課し、こちらの重しにしてきた感じがするな。そうなると、魔王の力を“竜気”と同じような使い方が出来ると考えていた方が良さそうか。どちらにしろ、“生の混沌”をそんな風に操ったら引き返せまいに)

 彦三郎の動きに多少の不審を抱きながら、仁兵衛は相手が如何なる動きをしてこようと即座に対応出来る組み立てを頭の中で展開する。

 そんな仁兵衛を嘲笑うかのように、突如彦三郎の動きが変わった。

 一瞬で懐に潜り込むと、瞬時に足を刈り取るように蹴り込む。

 虚を突かれた仁兵衛は蹴られた勢いの儘、後ろに倒れ込み、無理矢理手を突き倒立の形に持っていくと、相手の追い討ちが来る前に流れる動きで空中にて一回転し、仕切り直しの為に間合いを取ると見せかけて一気に斬り込んだ。

 当然のようにその動きを読んでいた彦三郎は太刀の軌道から身を逸らしながら、仁兵衛の腕を極めに来た。

 それを無理矢理柄頭で打ち払い、今度は仁兵衛が彦三郎の足を払う。

 彦三郎はそれを利用し、蹴られた足を軸足として、反対の足で仁兵衛の軸足を蹴り返したが、そうなる事を予測していた仁兵衛は“竜気”を使って一気に離脱していた。

「ふん、小倅がちまちまと小細工を」

 思い通りに事が動かなかった為か、彦三郎は悪態を吐いた。

「それを防げず、破れぬ方に問題があると思うが」

 仁兵衛も負けずと応答し、情報を引き出す為に敢えて挑発をしてみた。

「所詮は贋物の拾い者よ。兵法者の品格を知らんと見える」

「はっ、所詮剣術など殺伐をなす為の道具よ。あんたも治国平天下を唱えるれ者の類か? 活殺自在など云えるのは真の強者のみ。それこそ雷文公や竜武公でない限り、口にするのもはばかられる」

 最大限の侮蔑を込め、仁兵衛はさげすみの眼差しを飛ばす。「あんたの方こそ贋者だろうよ」

「俺が贋者だと」

 狂気を孕んだ瞳で彦三郎は仁兵衛を睨み付けた。

 柳に風とばかり、仁兵衛はそれをあっさりと受け流し、

「そうであろう。いくら御大層な御題目を唱えても、借り物の力を嬉々として振るっているようでは鍍金めっきが剥げて地金が見えたと云った処。所詮、器では無いという話だ」

 と、更に挑発を重ねた。

「小僧が、吼えおる」

 目を爛々と輝かせ、常人が見たならば卒倒しかねない表情で仁兵衛をめ付ける。「何も知らぬが故にこそ放言を許してきたが、度が過ぎるぞ」

 音も前触れもなく、滑らかな動きで仁兵衛の懐に入り込むと、瞬時に顔面に貫手を差し込んだ。

「流石に同じ手を二度も喰らわん」

 いつの間にか間合いを外していた仁兵衛が、彦三郎に声を掛けた。

「ふむ。それは確かに」

 渋い表情を浮かべながら、彦三郎はあっさりと認めた。

「本来ならば、【刃気一体】で行う入身いりみなのだろうが、いくら魔王の力を使おうとも本来の力を出し切れない技で俺をどうにか出来ると思っているのだとしたら、それこそ侮るのも程々にしろよ、無能が」

 感情を表に出さない仁兵衛が珍しく怒りを露わに毒突いた。

「若造が、知った顔で」

 苦々しい顔付きを隠そうともせず、彦三郎は吐き捨てる。

「知ろうが知らぬがどうでも良い。筋を通さぬ糞虫にあれこれ云われる筋合いは無い。それが旗幟八流の当主ならば猶更だ」

 小気味好い仁兵衛の啖呵を聞き、

「ふん、旗幟八流の当主だからこそよ。まがい者の皇尊すめらみことに忠義を誓えるものか」

 と、彦三郎は鼻で笑った。

「ハッ、何を云い出すかと思えば。柴原神刀流の当主を贋物というか、痴れ者が」

 仁兵衛は演技などでは無く本気で憤慨した。

「だからこそ何も知らぬと云うのだ」

 哀れみの表情で彦三郎はあざける。「その男は柴原帯刀などでは無いわ。柴原帯刀を名乗る慮外者よ。この俺が見定めたのだ、間違いは無い」

「世迷い言を」

 仁兵衛は鼻で笑った。

「それこそ俺の言よ。帯刀とは竹馬の友たる俺の目を誤魔化すような真似など誰にも出来ぬ。それこそ、その贋物ですら、な」

 彦三郎は自信満々に啖呵を切る。

「竹馬の友、だと?」

 流石にその話は仁兵衛にとっても初耳であった。

「そうよ。帯刀と俺は生まれる前からの付き合いでな。幼き日に我らで東大公家を支えていこうと誓い合ったものよ」

 過ぎ去った日々を思い出すかのように、遠い目で追憶に浸る。

「それがこの様とは皮肉なものだな、謀反人」

 大きく溜息を付き、仁兵衛は態とらしく処置無しとばかりに首を大きく振って見せた。

「何処の馬の骨とも分からん浮浪児がさえずるな! 帯刀が東大公となり、俺が帯刀を守る。そして、二人の意志で東大公家を変える。そう、この旧弊に囚われし東大公家に革命を起こすのだ!」

 ある種の熱に浮かされた狂信的な瞳で彦三郎は熱く語る。「そうだ、我ら扶桑人の末裔こそ、この優れた力を持つからこそ、世界に平和を与えなくてはならないのだ。それこそ、貴種の務めなのだ!」

「……成程。よく分かった」

 彦三郎とは対照的に仁兵衛は冷めた目で吐き捨てた。

「小僧、何が分かるというのだ」

 重みも何も無い軽く吐き捨てられた事に対し、彦三郎は心底胆が冷える口調で詰問する。

「あんたが救いようのない阿呆だと云う事だけが。何故、親父様があんたを重用しなかった理由が。そして、仮に親父様があんたの云うところの贋者で無かったとしても、あんたが信用されなかった原因が」

 仁兵衛は負けじと彦三郎を睨み付ける。「あんたは何一つとして理解していない。何故、雷文公が法度を定めたのかも、何故代々の東大公が野心を抱かずに信用を貯め続けていたのかも、西中原アルスラントの民が我ら扶桑人に何を期待しているのかも。だからこそ、あんたは信用も信頼もされず、重用されなかったのだ」

「弁口者め、口さがない減らず口を叩きおる」

 下らないとばかり、彦三郎が鼻で笑った。

「俺はこれでものを語るのが苦手だ。それに、身内に弁が立つ奴がいるからな。何時もはあいつに任せているから、より自分の言葉で語るのが苦手になる。それでも、俺は俺の言葉で語る事を求められる。生まれは知らねど、育ちは知っている。そして、その重みも」

 静かな口調で淡々と仁兵衛は語る。

「何が云いたい」

 先程までの小賢しさや嫌みたらしさが一切消え去った仁兵衛の態度に不審を抱いた。

「特には。特にあんたに対して云いたい事など無いよ。強いて云えば、俺のような若僧に指摘される程度の軽さなんだよ、あんたの言葉は。それだから、あんたは幼馴染みに信じて貰えなければ、信じてもいないんだ。親父様がどうであれ、あんたさえしっかりしていればあんたの云う改革だって日の目を見たはずなんだ。親父様は本当に大切な事なら敵の言であろうと受け入れる。結局、あんたは自分大事で他を見ていないんだよ。そこを親父様に見透かされたからその様なんだ」

 冷静に仁兵衛は言葉を連ね、彦三郎を哀れんだ。

 ある意味で彦三郎の姿は仁兵衛にとって他人事ではなかった。

 もし、あの日養父に拾われていなければ、自分は如何なる人生を辿ったのか。

 もし、柴原神刀流を修めなければ、自分は如何なる剣士になっていたのか。

 もし、家族を得なければ、自分は如何なる外道と成り果てていたのか。

 歴史にもしは無いとは言え、自分の辿たどってきた人生は何と幸運なものであり、それこそ本来ならばあり得ない選択を繰り返してきたのかを他ならぬ仁兵衛が一番理解していた。

 目の前に居る男は、間違えなく道を踏み外した自分そのものなのだ。

「貴様、愚弄するか!」

 年下の、それも己の子の様な歳の若者から見下げ果てられ、彦三郎は胸中に湧き起こる怒りを抑えきれなかった。

「他者を愚弄する程心に余裕は無いよ。その様な事をするぐらいなら、己の腕を磨くね。人の事を気にしていられるほど越えるべき山は低くない」

 激昂する彦三郎に対してつまらなそうに仁兵衛は答える。「こちらの気のせいか分からんが、さっきから感情が剥き出しのようだが、あんたの意志はまだ残っているのかね?」

「大きなお世話だ!」

 彦三郎はそう叫ぶや否や、三度みたび、目にも止まらぬ速さで飛び込んできた。

「同じ手は二度と喰らわん。そう云ったはずだ」

 仁兵衛は冷静に左足を後ろに下げ、そのままその場で彦三郎の右手を斬った。

「がッ!」

 切り落とされた右手を見向きもせず、彦三郎はそのまま体当たりと見紛う様な勢いで突っ込んできた。

 それを仁兵衛はすんでの所で見切ったが、身体が触れあうかどうかで擦れ違う瞬間、彦三郎が神業とも言える動きで態勢の崩れている仁兵衛の足を刈り、空を舞うその顔に不可避の一撃を叩き込んだ。

「最初からそう動いていれば、対応出来なかったんだがな」

 仁兵衛はいつの間にか右手で抜いていた小太刀を逆手で持ち、刃で手刀を受け止めていた。

 そして、転ぶ勢いの儘、右足を蹴り上げ彦三郎の顔目掛けて、山小人ドヴェルグ製の鉄靴グリーブの爪先を器用に叩き付けた。

「チッ!」

 彦三郎は手首から先が無い右手でその一撃を防ぐ。そして、丁度真下に来ていた仁兵衛の頭を左足で鋭く払い込むも、太刀を持った左手一本で床を飛び跳ね、仁兵衛は鮮やかに身体を宙に舞わせる。それは軽業師も唖然とする様な見事な動きであった。

 宙で身体を捻り、そのまま一回転して何事もなく着地した後、

「やれやれ。冒険者紛いな活動も無駄では無かったと来たか。どんどん自分の剣が邪道に落ちているように錯覚するな」

 と、仁兵衛は思わず苦笑した。

「我が流派でもそこまで身体を自在にこなす者はおらん。その点は誉め置く」

 仁兵衛が間合いを取った事で、彦三郎は己の右手を悠々と拾い上げた。

「お褒めに与り恐悦至極」

 意外にも真面目な顔付きで仁兵衛はそれを受け入れた。

「ほう、敵の褒め言葉に敬意を表するか」

「敵であれ、あんたは間違いなく本来ならば俺よりも上にいる手練てだれだ。人であるならば敬意を表するさ」

 右上段に太刀を戻しながら、仁兵衛は居たって真面目に返事をする。「まあ、人であるなら、だが」

 仁兵衛の問いには答えず、大きく左に回り込み彦三郎は後背より音もなく忍び寄ってきた。

 別段それに応じて振り向く事なく、仁兵衛はひやりとした感覚を感じた瞬間、右足を素早く左足の後ろに退くと同時に斬り付けた。

「……吹毛剣か」

 何事もなかったかの様に後ろにふわりと飛び退っていた彦三郎が呟く。「意外と小器用な事もする」

「伊達に当主直々に剣を教わっていた訳では無い」

 間違いなく何かを切り落とした手応えを得ていたのに、五体無事なまま後ろに下がっている彦三郎を見て、流石に違和感を覚えていた。

(主様)

 そんな時、明火が折良く話しかけてきた。

(何か分かったのか?)

 仁兵衛にしては珍しく期待に溢れた意志を隠さずに明火に尋ねる。

(懐に隠し持っている何か、それが力の源のようだと云う事はえましたけれど、それが何で、何を宿しているのかまでは)

 明火は幾分か申し訳なさそうに告げた。

(場所さえ分かれば良い……と云いたいところだが、懐、か。さて、どう攻めたものかな)

 さしもの仁兵衛でさえ、懐の内にあるものを壊せと言われ思考が止まる。

 お互いに平時を重んじる流派同士、防具は軽装と言えるものの、重要器官を守る部位はそれ相応のものを身に付けている。当然、心臓に近い胸部は明らかに業物と分かる一品を装備していた。

(右手を切り落とすなり、左手を切り落とすまでは出来るが、そこからの隙が実に判断が難しい。……まあ、遣り様はあるか)

 一つ呼吸を置いてから、仁兵衛はいきなり踏み込むといつも通りに左太刀右上段から相手の右手を打つ。

 何度も繰り返された為か、彦三郎はある程度の余裕を持ってそれを見切り、反撃に移ろうとした時、目の前に飛んできていた小太刀の存在に気が付いた。

 慌てて左手で小太刀を弾き返すが、その致命的な隙を突いて仁兵衛は返す刃で胴を薙ぎ払った。

 並の一撃ならば耐え切れただろうが、ここ一番とばかりにたっぷり“竜気”を上乗せしたその一撃は紙を切り裂くが如くあっさりと胸当てを真っ二つにした。

(どうだ?)

 小太刀を拾い直しながら間合いを取り直し、仁兵衛は明火に確認を取る。

(……捉えました)

 明火は今の一撃で見つけ出した魔王の核を仁兵衛に感覚を共有する事で誘導した。

(纏っている気や混沌の量からすると……妙に大きいな。今までの前例から水晶玉オーブか何かに封印されているものかと思っていたが)

 怪訝そうな意志を乗せ、仁兵衛は明火に尋ね返す。(間違いないのだな?)

(この私が“生の混沌”や魔王の気配を間違えるとでも? 主様とは云え、許しがたき侮辱ですわ)

 強い憤慨の意を明火は仁兵衛に飛ばす。

 元来、竜は世界を守る者であり、魔王は世界を侵す者である。不倶戴天の仇敵同士、互いの存在を見失う事などまず有り得なかった。

(ああ、すまん、云い方が悪かったな。その点は謝罪する。俺が云いたいのは魔王を封じている物の典型は術者が封印しやすい物だな? 少なくとも俺はそう聞いてきた。今目の前にある物は、おそらく俺が知りうる限り然う云う類の物ではなさそうだ。その様な物に魔王を封じられるのか?)

 明火の強い意志に慌てて弁解している間も、仁兵衛は相手の隙を狙いながら、再び胸元を斬ろうとり足で左にじりじりと移動する。

(……私もそこまで詳しい訳では無いので分かりかねますわ。天敵である魔王の気配を感じる事に関しては間違いないと云えるのですけれど)

 本来の意図を知り、申し訳なさそうに明火は仁兵衛に返事をした。

(そうか。お前さんの観察眼を疑ってはいないから狙いが定まったのは確かだが、謎が深まったな。どうやら、一筋縄ではいかないかも知れん)

 仁兵衛の仕掛けに焦る事なく応じてきている彦三郎を眺めながら、今後の組み立てを冷静に思考する。(何であれ、お前さんの力を借りれば核は斬れるのだな?)

(主様の腕と、私の“竜気”ならば断てぬものはありませんわ)

 自信満々に明火は太鼓判を押した。

(そうか……。ならば、押すまで!)

 仁兵衛は決断するや否や、真っ正面から突っ込んだ。

 迷い無く突っ込んでくる仁兵衛に多少虚を突かれたものの、既に狙いが何かを理解している彦三郎にとって、後の先を取る事は容易かった。

 あっさりと仁兵衛を捕まえるとそのまま顔に当て身を打ち込み、容赦なく投げ飛ばす。

 余りにも手応え無くあっさりといき過ぎた為に、彦三郎は狐につままれた気分に陥った。

「当然、罠だがな」

 投げ飛ばしたはずの仁兵衛が目の前に居た時、彦三郎は己が嵌められた事に気が付いた。

 殺気だけ飛ばし、あたかも斬り掛かってきたかのように錯覚させ、何も無い空間に迎撃させたのだ。

 無理矢理仁兵衛の攻撃を防ごうとするが、その動きすら仁兵衛の術中であった。

 剣気と殺気を巧みに操り、敵に無駄な動きをさせて不可避の剣を放つ。

 人と相対する時にだけ使う仁兵衛の初見殺しの策である。

 常日頃から行動を共にしている慶一郎相手には通用しないが為、衆目の前で使う事は無かったのが結果的に功を奏していた。

 先程はどこにあるのかを探るために当てずっぽうで斬ったが、今回は違う。

 狙い違わず魔王の核を捉え、

ねや、魔界へ!」

 と、裂帛の気合と共に“竜気”を全力で叩き付ける。

「グハッ!」

 骨が砕ける鈍い音と共に、彦三郎は壁まで吹き飛ばされた。

(仕留め損ねたか!)

 仁兵衛は心の内で舌打ちする。

 核となっている何かを叩き壊す前に彦三郎の身体が持たず、そのまま吹き飛んでしまったのだ。予想以上に核が硬かった所為と仁兵衛の技の冴えもあり、衝撃だけが人体に伝わったのだ。

 そして、その硬さは仁兵衛にも覚えがあった。

(主様、悪い知らせがあります)

(……大方、今の一撃で魔王が起きたか活性化したのだろう? 中途半端だった、すまん)

 禍々しい何かを垂れ流し始めている彦三郎を見て、明火が言わんとする事を仁兵衛は悟る。

(主様が討てない敵ならば致し方ありませんわ。それに、こちらの方が好都合やも知れません)

 もし、実体があれば明火は艶然と笑っていただろう。仁兵衛がそう感じるほど御機嫌な様子で明火が返事をしてきた。

(どうして竜という連中は世界を守れる場面になると嬉々とし出すのだろうね)

 一見苦笑しているような雰囲気で仁兵衛は昂ぶる。(全く以て度し難い。ああ、本当に度し難いよ、俺も)

 魔王の気配が充満すればする程、仁兵衛と明火の気は猛り狂う。

 世界に仇なすものに対し、扶桑人の奥底に眠る竜の因子が強く反応するのだ。

 世界の敵を倒せ、と。

「ガアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 一方、致命的な傷を受けた所為か、彦三郎の肉体再生が先程までのものとは比にならない程急激に、それも本人の意志で制御出来ているのか怪しいぐらいの性急さで行われていた。

 そして、当然のように魔王の力はその分多く放出されている。

 それこそ、勘が悪い者でも嫌な気配を察知出来るくらいには。

 当然、気の察知を得意としている者ならば、何が起きているのかを容易に把握出来た。

(さて、鬼が出るか、蛇が出るか)

 楽しそうに相手の出方を仁兵衛は待ち構える。

 未だに絶叫しながらも回復を続ける彦三郎は、懐に手をやると一本の扇を強く握りしめながら取り出した。

(主様。あれです)

 それから放出される禍々しき混沌の気配に多少気圧されながら、明火は仁兵衛に告げる。

(……鉄扇、か? 父上の物と瓜二つのようだが……)

 稽古の時にしこたま父親の鉄扇で叩かれ続けていた仁兵衛にとって、その姿形は見慣れた物であった。強いて言えば、色艶と先程愛刀で斬り掛かった時の感触から鋼で拵えたものではないとだけは分かっていた。

(あれは、まさか?!)

 驚きの声を上げる明火に何事かを問い返そうとした時、彦三郎の絶叫が止んだ。

 握りしめられた鉄扇からはあれほど溢れかえっていた魔王の気配が微弱な物となり、再び彦三郎が主導権を握った事を示していた。

「……まだだ、まだ、終われん」

 荒い息を付きながら、彦三郎は先程よりも強い狂気を孕みながらも、何らかの強い意志を感じさせる視線を仁兵衛によこした。

「随分と消耗しているようだが?」

 挑発がてら、嘲笑うかのように仁兵衛は疑問を投げかける。

「ほざくなよ、若僧が。まだ、俺の手は尽き果ててはおらん」

 正気か狂気かも分からない顔付きで、彦三郎は勝ち誇る。

「それがどうした? 兵法者の勝負に口合戦は無いぞ」

 気分が高揚した所為か、仁兵衛らしからぬ軽口を叩く。

 仮に、この場が“奥之院”で無ければ仁兵衛も明火もこの後何が起こるかを察知出来ていただろう。

 そして、分かっていればその対応を何とでもやってのけただろう。

 しかし、現実は過酷であった。

「ここまでよくぞやってのけて見せた。されど、これまでよ。得物を捨てよ」

 余裕の表情で彦三郎は哄笑しだした。

「何を云い出す……?」

(主様?!)

 ここに至り──感覚が鋭い二人だからこそ──部屋に彦三郎の切り札が入ってくる前に何が起きたのかを気付いた。

「にーちゃっ!」

 駆け出そうとする光を血涙流しながら取り押さえている沙月の姿を見て、仁兵衛は全てを悟った。

「……そうか、彼女に呪いをかけたのは貴様か、下種げすが」

 怒りに打ち震えながら、それでも感情を表に出さず、仁兵衛は言葉を絞り出す。

「戦いとは実際に干戈かんかを交える前に勝敗を付けるものよ。全てを己の腕だけで片付けるなど、匹夫の剣。上に立つ者のやる事では無いわ」

 得意満面とばかりに畳み掛け、「さあ、武器を捨てて貰おうか、綺堂仁兵衛」と、再び勧告した。

 仁兵衛は父親の前まで下がり、構えを崩さずに居た。

「ほぅ、妹の命が惜しくないと見える」

 彦三郎のその台詞と同時に、光を取り押さえている反対の手で沙月は小太刀を首筋に当てる。しかし、その手は必死に反抗しようとカタカタと震えており、無理をすればするほど沙月の顔は苦痛にまみれていった。

(……無念。最早ここまでか)

 沙月が嬉々として光に害意を有していたら最後まで仁兵衛は抵抗しただろう。

 しかし、必死にあらがう沙月の姿を見て、仁兵衛の心はある意味で折れた。

 それでも、魔王相手に武装解除をする愚かしさをおかすほど、愚かでは無かった。

 構えを解き、太刀を鞘に納める。

「こちらの云うことを聞かぬのか?」

 勝ち誇った表情で彦三郎は脅しを掛けてきた。

「魔王の甘言に乗るほど、俺は無能では無い。光の命の保証を得るまでは、降らぬ」

 仁兵衛は警戒を解こうともせず、彦三郎を睨む。

「小僧、貴様に選択の余地は無い」

 彦三郎は酷薄な笑みを浮かべ、「指の一本でも落とせば気が変わるか」と、脅してきた。

「命さえあれば、寺院に駆け込むさ。東大公の一門ならば、下にも置かぬ扱いを受けよう。指どころか、腕であろうと天神てんじん地祇ちぎの奇跡にて再生してくれようぞ」

 脅しになど屈服せず、一見堂々とした態度で仁兵衛は応じた。

「別に、俺としては命を奪っても一向に問題ないぞ?」

 一向に言うことを聞かない仁兵衛に業を煮やしてか、彦三郎は最後の手段を口にした。

「……その時は、あんたはこの世と別れを告げるだろうさ」

 それまでの冷静な遣り取りとは正反対に、凄まじいまでの殺気を撒き散らし、「後先考えぬ、俺の全力を見たいのならば、な」と、仁兵衛は凄む。

 その剣幕に、彦三郎は流石に鼻白んだ。

 仁兵衛からしても、これは博打だった。

 何の打開策が無い以上、いずれは屈服することになるだろうが、少なくとも義妹を見捨てる気にもならないし、魔王相手に莫迦な真似をする気にもなれない。

 自分の命だけが懸かっているのならば兎も角、この場に居る全ての人間の命が懸かっている以上、軽々しい真似を迂闊にも選べない。魔王を知らないのならば兎も角、如何なる存在かを知っている以上は脅しに屈して一歩でも退くわけにはいかなかった。

「……まあ良い。ならば、気を変えさせるとしよう」

 軽く右手を挙げ、「抵抗しようとは思わぬ事だ」と、彦三郎は何らかの力を解放する。

(主様!)

 明火の悲鳴にも近い絶叫を受け、仁兵衛は両手を顔の前で交差させ、“竜気”にて後ろに居る父親ごと身を守った。

「中々小器用なことをする。しかし、いつまで保つかな?」

 混沌の波動を撒き散らし、さして大した力も使った様子も無く、仁兵衛に対し更に強い圧迫を与える。

 仁兵衛は咄嗟に小手を使った【刃気一体】に“竜気”を上乗せして得体の知れない攻撃を凌いでいた。

(主様、このままでは……)

 強い焦燥を篭めた明火の言葉に、仁兵衛は苦い思いを抱く。

 このままいけばじり貧になることは無理矢理この攻撃を受けている仁兵衛の方が嫌でも理解していた。

(“竜気”で相殺そうさい出来ると云うことは、“生の混沌”そのものと云うよりはそれを変換した魔王の力そのものを衝撃波として放っていると見るべきか。防ぐことは何とか出来るが、いくら真銀ミスリル製の小手と云えど、これだけの威力、然程長くは持つまい。反撃しようにも、妙な動きは光を傷つけかねない。どうした物かな、全く)

 八方塞がりの中、仁兵衛は努めて冷静に思考する。(何か突破口は無いか、明火?)

(申し訳ありません。先程から探ってはいるのですが、魔導の呪いの痕跡を見つけ出せずにいます)

(そうか。竜には森羅万象の理が見えても、魔導の理は見えぬのだから致し方なし、か。光を救い出そうにも、父上を見捨てるわけにはいかぬしな。よしんば、見捨てたとしても光を救い出すのに旗幟八流の当主二人を相手は分が悪いな)

 不敵に笑いながら、仁兵衛は彦三郎を見据えた。

「……仁兵衛……」

「父上ッ!? 傷は浅くないのです、無理はなさらないで下さい」

 仁兵衛にやっと聞こえるか聞こえないか位のか細いかすれ声で話しかけてきた父親に慌てて返事を返す。

「いざとなれば、俺を見捨てろ。お前さえ生きていれば、最悪光も死のうが東大公家は何とでもなる……。“ぬえ斬り”と“青嵐せいらん”は持っていけ。この二つさえあれば、正当なる東大公として認められる……」

「お気を確かに。父上を越えてもいないのに、その二つは頂けません」

 仁兵衛は確固たる意志で返事をした。

 “鵺斬り”と“青嵐”。

 どちらも柴原神刀流の当主たる証の品にして、初代東大公雷文公の残せし遺産である。

 “鵺斬り”は扶桑の王朝伝来の神器であり、大王おおきみが最も信頼した兄弟に軍権と共に預けたとされる陽緋色金ひひいろかね製の小太刀である。並の使い手でさえこの小太刀にて【刃気一体】を用いたならば、魔王をも屠る程の力を得ると言われている。柴原神刀流の当主が用いれば、六大魔王すらこの世から退散せざるを得ないとまで謳われる伝説の品である。

 一方“青嵐”は柴原神刀流の開祖たる武幻斉刃雅が愛用した鉄扇として知られる。娘の仇敵である“狂王”の進撃を止める為に打って出た際、今生の別れとばかりに孫の雷文公に免許皆伝の証として“青嵐”を授けた。武幻斉自体は六大魔王の一柱と契約していた“狂王”と相討ちと終わり、扶桑史上最強と言われる武芸者の意地を見せ付けて果てた。雷文公も又、後継の竜武公に免許皆伝の証として“晴嵐”を授けたと伝えられる。只、柴原神刀流に今現在伝えられている“青嵐”は山小人が作った金剛アダマンタス製の鉄扇であり、本来の“青嵐”は竜武公に全てを託した後、姿を消した雷文公と共に行方不明の儘である。

 どちらもその性質上、東大公が代々伝えてきているものであり、東大公の代名詞とまで言っても過言では無い国宝である。

「……俺を気遣うのは別に構わん。だが、【刃気一体】の応用で傷を塞いでいるとは云え、そうは長く保たんぞ。どちらにしろ、策に溺れた俺の責よ。お前が気にすることは無い」

 帯刀は諦念した意志を淡々とした口調で語った。

「父上がなんと云われましょうと、俺は家族を見捨てない。また、失うために腕を磨いてきたわけでは無い」

 仁兵衛は決意を定める。(明火、“竜気”を。勝負を掛ける!)

(……それが主様の決断なれば、私はどこまでもお供致しますわ)

 明火もまた、仁兵衛の決意を知りそれを後押しする。

 【刃気一体】の境地に即座に入り込む為、右手で敢えて気の許容量が小さい小太刀を抜き放つと同時に気を篭める。瞬時に【刃気一体】まで高め、気合一閃、魔王が現世の理へと干渉する力を断たんが為、捨て身の勝負に打って出た。

 彦三郎が仁兵衛の動きになにがしかの反応をする前に、爆発的な踏み込みで間合いを詰めた。そして、一撃必殺の信念の元、いつの間にか手にしていた愛刀を最も自信のある左太刀右上段で構える。限界まで注ぎ込んだ“竜気”と共に、今一度、核である鉄扇目掛けて振り下ろした。

 それまで反抗する素振りすら見せなかった仁兵衛の突然の仕掛けに、彦三郎は人質を害する指示を出す余裕も無かった。仁兵衛が決して博打に打って出ないと踏んでいたからこその余裕であり、乾坤一擲の大勝負を仕掛けてくると考えていなかった時点で彦三郎の負けである。

 それでも、仁兵衛が狙ってくるであろう鉄扇への直撃を咄嗟の動きで己の身を犠牲にする事で防いで見せたのは見事の一言であろう。

 当然、仁兵衛はそんなのをお構いなしに只ひたすらに鉄扇目掛けて斬り込もうと力を入れ続ける。

 彦三郎も必死だが、仁兵衛もまた決死の覚悟である。

 この一撃を凌ぎきられれば、最早仁兵衛に打つ手は無い。今は向こうも防ぐ事に必死だから、光に対しての行動も、帯刀に対する止めを刺す行動も取れないだけで、少しでも余裕、余力が生まれれば即座に行動に移すだろう。

 故に、仁兵衛はこの一撃で全てを極める必要があった。

 相手に余裕を与えれば、即ち、この一撃を凌がれたら、家族を二人とも人質に取られるか害せられる。先程とは違い、時間稼ぎすら出来ないだろう。父や妹を見捨ててまで勝ちを得ようとは思っておらず、況してや殺された後に仇を取ったとしてもそれを勝利と思う様な心を仁兵衛は持ち合わせていなかった。

 後も先も無く、全てを一撃に掛ける仁兵衛と、この一撃を凌いで反撃に出る事を考える彦三郎の今に掛ける思いの差が勝負を決した。

「覇ァッ!」

 珍しく口から突いて出た気合声と共に、仁兵衛は渾身の一撃を全身全霊の力を持って振り切った。

 強い意志の力を持った気は“竜気”と相乗効果を現し、魔王と“混沌”の力を一気に吹き飛ばし、核たる鉄扇を今度は狙い違わず真っ二つに斬り裂く。

 荒い息を肩で付きながらも、残心を忘れず、うんともすんとも言わない彦三郎をじっと見続けた。

(主様……来ますッ!)

 切迫した明火の呼びかけに応じ、仁兵衛は落ち着いてそれと相対する。

 仁兵衛からしてみれば最初から分かり切っていた事なのである。

 如何に優れた人間であろうと、魔王を如何なる形であれ操ることなど出来よう筈が無いのだ。

 逆を言えば、今の今まである程度制御していた彦三郎を褒め称えるべきなのだろう。

 だからこそ、仁兵衛は消耗しきった身体に鞭を入れ、じっと待っていたのだ。それが本性を現すのを待っていたのだ。

──人間風情が良くもやる……

 何とも言えない不安を醸し出す声色でそれは直接仁兵衛の頭の中に語りかけてきた。

(……お出ましだな)

 心の中でくつくつと笑いながら、明火に語りかける。

(ええ、お出ましですわ。封じられていたのか、中に隠れていたのかは分かりませんが、燻し出せたようですわ)

 明火も楽しそうに言葉を返す。

「お褒めに与り恐悦至極だ。後の予定が詰まっているのでな、お別れだ」

 仁兵衛はそう言うや否や、凝縮された魔王の気配を見切り、“竜気”を纏った刃で問答無用とばかりに斬り付けた。

 かつて闘った魔王との経験より、深傷ふかでか致命傷に近い一撃を見舞った感触を両手に得ていた。実際、仁兵衛としてもこれ以上無い会心の一撃であった。

──並の魔王ならば、不覚を取ったであろうが、余には効かぬ

 その声を聞いた瞬間、仁兵衛は今まで決して見せなかった最速の足捌きで一気に父親の傍に飛び退った。

──ほぅ、余の恐ろしさが見えたか。ならば褒美をやらねばなるまい

 先程彦三郎が使っていた力の気配などよりも剣呑な何かを感じさせる圧倒的な殺気を仁兵衛は真正面から受ける。その瞬間、初めて帯刀の前に立った時と同じ恐怖を覚えた。

 彦三郎だったものが軽く手を手を振ると魔力の塊らしきものが数個仁兵衛目掛けて飛来してきた。

 瞬時に“竜気”を全開で太刀に展開し、全ての力を振り絞り迫り来る魔力の塊を叩き切る。

「!?」

 想像を絶する重さに驚きを隠せず、待ち受けるのでは無く、迎撃を選んだ自分の直観の正しさを直ぐさま悟った。

 一発目を切り捨てた後、直ぐさま二発目を斬り、息を整える間もなく三発目を斬る。

 彦三郎がやっていたものよりも威力があるのは当然だが、この攻撃だけでも仁兵衛が知っている魔王が放った最大威力の攻撃並かそれ以上である。明らかにまだ本気を出していない状態でこの威力。流石の仁兵衛も冷や汗が止まらなかった。

(世界は広いな、全く)

 息を整えながら、仁兵衛はこれからの相談をしようと明火に話しかけた。

(……まさか、あり得ない)

 だが、明火は驚愕にまみれた声色で譫言うわごとの様に呟いていた。

 何があったのかを確認しようと仁兵衛は声を掛けようとした時、

──ふむ、やはり扶桑人の兵法者は一筋縄でいかぬか。かつて余を追い詰めただけのことはある

 と、魔王が語りかけてきた。

「誉められたのかな?」

 幾分皮肉そうな口調で、仁兵衛はそれに答える。

──少なくとも見下しては居らぬ。余は力持つ者を認めぬほど狭量ではないからのお

 一言一言意志を発現させていくだけで、辺りの空気が冷え込んでいく。それが魔王から受ける圧迫感から来る精神的なものか、それとも魔王の力が森羅万象の理に干渉することで物理的に生じているものか、若しくはその両方なのかを冷静に判断する余裕は無かった。

「それで、人間を演じるのは辞めたのか?」

 未だに人質に取られている光と動けない父親を視界の端で確認しながらも、決して魔王から目を逸らさずに仁兵衛は問い糾した。

──ふむ、少し勘違いをしているようだのお。余は人間の振りなどして居らぬよ。余に興味を持った者に対し、少しだけ後押しをして居ったに過ぎぬ

 波動の端々から愉悦の感情を隠そうともせず、魔王は哄笑する。

「……最初から、人の心をもてあそんでいた、と?」

 感情を殺しながら、仁兵衛は問い返す。

──余にその様なつもりは無いな。教えて遣っただけだ、如何にすれば望みが叶うか、とな。まあ、人にとってはそれが実際は有り得ぬ可能性であれ、余からすれば話は別だからのお。有りもせぬ可能性にその身を託させたと云われれば否定は出来ぬがな

 人を玩具にして遊んでいることを隠そうともせず、魔王は哄笑を続ける。

「“生の混沌”による現実干渉を事実と誤認させたのか」

 苦々しい表情で仁兵衛は呟いた。

 “生の混沌”とは、言ってしまえば“混沌”の本質たるありとあらゆる可能性を現世うつしよに現出させたものである。但し、この可能性とは今現在の流れから存在する可能性だけでは無い。過去かつてあったかも知れない可能性すらも今あるものとして扱うのである。その上、そこから存在したであろう可能性すらも含めた、それこそありもしないものを含めたありとあらゆる可能性なのである。

 現世に森羅万象の理がある以上、その様な事は決して起こらない、然う言う可能性すらもあたかも本当に存在している様に見せかける。魔王の様な“混沌”が如何なるものか理解している存在ならば兎も角、只の人間ならば自分が望む都合の良い可能性に心が呑み込まれてしまうのが関の山であった。

──己の分を弁えぬ者が阿呆と云われるのは、現世であれ、魔界であれ共通認識だと余はそう覚えているのだがなあ

 相も変わらず人を小馬鹿にした態度を改めようともせず、この世界のありとあらゆるものを見下すかの様に嘲笑う。

「然う云う考え方は余り好かんな」

 仁兵衛は静かに右上段に構えを直した。

──弱者は絶対者の意志に従うのがこの世の理よ。それを知らぬほど愚かでもあるまい

「さて、とんとお偉いさんとは縁の無い人生でねえ。そんな世迷い言、知ったことでは無い!」

 瞬時に【刃気一体】を練り直し、ありったけの“竜気”を愛刀に纏わせ、迷い無き一撃を魔王の核目掛けて叩き込む。

 核の位置は先程の魔王が魔力を放った時に大体の場所に見当を付けていた為、探りを入れるという真似をせずに最短の距離を最速の剣技で仕掛ける事に成功していた。魔王との闘いに慣れるとまではいかなくとも、何度か経験している仁兵衛としては既に人質が三人居る上、これ以上の不測の事態が起きかねない持久戦にだけは持ち込ませたくなかった。故に、怒濤の勢いを以て短期決戦を図ったのだ。

 そして、その一撃は正に狙い通りの一撃であり、全てが計算通りにいけば勝負を決したかも知れない。

(明火、“竜気”が足らんぞ! 早く……!)

 そう、何時如何なる時も盟約主たる仁兵衛の意志に沿った行動を的確に取ってきた明火の反応が想像以上に悪くなければ、だが。

 先程の反応から、明火が何かに気を取られていること自体は理解していたが、常日頃から冷静沈着である存在が上の空で戦いに集中していないなどということ自体、仁兵衛にとっては流石に計算しきれることでは無かった。

 明火が正気に戻った時には時既に遅く、勝機を逸していた。

──余の危険性を認識し、何かをされる前に討ち倒さんとする意志、誠に見事。されど、詰めが甘かったのお。まあ、よい。余を楽しませた褒美よ。受け取るが良い。汝の考える最悪の事態を、なあ

 辺り一帯に響き渡るほどの哄笑と瘴気を垂れ流し、“生の混沌”より導き出した仁兵衛の怖れる未来を現出させる。

「父上、光!」

 魔王の狙いを瞬時に覚り、仁兵衛は絶望の叫びを上げた。

「ク、おのれ……!」

 傷を庇って動いているためか、帯刀の動きは明らかに鈍く、魔王の振りまく“混沌”より現れた得体の知れない触手らしきものに刺し貫かれる。

「と、父様? 父様が……ま、また死んじゃう……」

 それを見た光は、譫言の様に呟くと、気を失う。

 追い討ちとばかりに、帯刀の止めを刺そうと今一度触手の槍衾を魔王が呼び出す。

「させぬわッ!」

 間に合わないと思った時から父親に駆け寄っていた仁兵衛が咆吼とともに止めを刺しに来た触手を全て切り捨てた。

──愚かよの、既に死んでいる者を助けに向かうとはなあ

 魔王が気になることを口にしたが、仁兵衛はそれを気にする余裕は無かった。

「抜かったわ、この姿で光の前で不覚を取るとは……」

 血反吐を吐きながら、“鵺斬り”で己の身に喰らい付いている触手を断ち切り、帯刀は片膝を突く。「俺のことを気にせず、光を! 俺の方は陽動だ!」

 帯刀の言を聞き、はたと魔王の狙いに気が付くが、既に光と沙月の周りには触手の槍が取り囲んでいた。

「光! 遠藤の姫さん!」

 やられたとばかりに顔をしかめ、仁兵衛は慌てて仕掛けようとするが、

──良いのかの、動いても

 と、魔王に脅され、その場で凍り付く。

──人とは愚かで脆い者よ。守らずに良い者を守り、守りたい者を見捨てる。死人など、守る価値があるまいに

「先程から何を云っている? 父上が死人、だと?」

 嘲笑う魔王に対し仁兵衛は思わず反問する。

 それこそ、魔王の思う壺だと分かってはいたが、現状打開するための手が何も無い為、時間稼ぎをするにも相手の手の内で踊るしか無かった。

──然り。そやつは死人よ。余が殺したのだからなあ

「殺した、だと?」

 仁兵衛は胡乱な目付きで魔王を見る。「戯言も大概にせよ」

──哀れよ。真実を知ろうともそれに目を向けようともせぬ。……そのお陰で余は生き延びたとも云えるのだがのお

 嘲笑の波動を撒き散らし、魔王は悦に入る。

「何が云いたい?」

 意味深な言葉を手を替え品を替え矢継ぎ早に投げかけてくる魔王に対し、仁兵衛は苛つきを隠すので精一杯となっていた。明らかにこちらの動揺を誘うための手練手管だと分かっているのに、心のざらつきを増してくるのは正しく魔王の真骨頂と言えよう。

──余があの様な器の内で恥辱に堪える羽目に陥ったのは、貴様らの先祖の行いよ。あの迷宮での余の計画を邪魔しただけでは飽き足らず、討ち滅ぼそうとする増上慢。余の魂が逃れ得るほどの器があの場になければ、危うく滅びるところであったわ

 我を忘れるほど怒り狂っているのか、徒人ただびとならばそれだけで死んでしまうだろう殺気を魔王は振りまく。

「それが金剛の鉄扇だったという事か」

 何事もないかの様に殺気を受け流し、仁兵衛は冷静に魔王の言葉の内容を素早く解析する。

 先程自分の一撃から感じた衝撃、自分の勘が確かならば、あの鉄扇は鋼ではなく金剛製だと囁いていた。

──皮肉なことに、余を滅ぼした者が有していた鉄扇だけが、余の逃げ場であった。お陰で、貴様ら扶桑人共に不和と疑心を中枢部で振りまくことが出来たがの

 如何にも楽しそうに魔王は哄笑する。

「……待て。すると、この騒動も……」

 はたと気が付いた仁兵衛は、考えを纏めるために思わず口にする。

──多少は頭が回る様だの。不満を抱く者の心を少しずつ後押ししたら、余の望む争乱が起きるのだから世の中面白い。中でもこの者は拾いモノであったぞ

 既に物言わぬ屍となっている彦三郎を見えざる力で動かす。

「やはり、貴様の意図通りに動いていたのか、その男は」

──然り。余が宿っていた鉄扇の持ち主に最も近しく、その上、煽らずとも元から不相応な野心の塊であったからのお。程良く突いたら、その親友を殺してまでも余の身柄を奪いに来おったわ

「道理で。貴様がそれを持っているのが不思議であったわ」

 か細い声で帯刀は咳き込みながら呟く。「柴原神刀流の当主を操れないとみて、不破彦三郎に奪わせたのだな?」

「父上、落ち着いて下さいませ。身体に悪うございます」

 興奮気味の父を仁兵衛は宥めた。

──これほどの器を空にしている方が悪いのよ。お陰で良き茶番を最高の席で見る事が出来たわ。特に、信じた親友に裏切られた死に顔など良き見世物だったものよ。力を貸し与えた途端、力に溺れて滅多刺しにしたのは流石の余も驚いたがの。鉄扇を隠し持ち、意気揚々と戻ってみたら、殺したはずの親友が生きていたので多少錯乱しおったがの。……まあ、そのお陰で貴様への疑念が強くなった故に扱いやすくなったのは嬉しい計算外であったのお。余の力を使ってまで殺した人間が生き返るとは思わんのだが……貴様何者だ?

 魔王は帯刀に問い糾すが、帯刀は無言を以て答えとする。

──まあ、良い。今一度殺せば同じことよ

 魔王は低く笑うと、触手の槍衾を帯刀の周りに展開した。

──さて、動かぬ事だ。別に動いても良いのだぞ? まあ、その場合はこの娘達を殺すがのお

 父親を守ろうとしていた仁兵衛を牽制する。

 仁兵衛は苦渋に満ちた表情を浮かべ、歯軋りをした。

──クカカカ、愉悦、正に至極の時。これこそ絶対者の……

「で、その人質とやらはどこに居るのかねえ?」

 カラカラと豪傑笑いをし、その男は宙で見得を切る。「押し掛け助っ人、原慶一郎、只今遅参。高々魔王風情が人間様を出し抜けると思うなよ?」

「慶一郎?!」

 流石の展開に、仁兵衛は面食らった。

 仁兵衛の目をしても見抜けぬ速さで触手の檻を掻い潜り、光と沙月を雷獣に引き上げていたのだ。

「いよォ、相棒。その間抜け面を拝めただけでも、無理を通した甲斐があったもんだぜえ?」

 宙を舞う雷獣に跨がり、慶一郎はその場を見下ろす。「沙月ちゃんが姫様を連れて歩いている姿を見た時は、何が起きているのか分からなかったが、成程成程。魔王の呪いたあ、流石にこの俺も見抜けなかったぜ」

──貴様、余の楽しみを邪魔するとは、覚悟は出来ているのであろうな?

 怒りを隠そうともせず、魔王は慶一郎に敵意を向けた。

「あ? 覚悟だあ? 下らないねえ」

 ニヤニヤ笑いながら、慶一郎は仁兵衛の傍に寄る。「そんなもん、戦人いくさびとたるこの俺がしていないものとでも? 活きる時は活きる、死ぬる時は死ぬるものだぜ、魔王さんよお。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死すものなりってな。昔の偉い人は良い事を云うもんだぜ。要はお前さん、油断しすぎって奴だ」

 今度は帯刀の周りの触手を斬り払い、雷獣を床に降ろす。そのまま、帯刀の傍に当て身で気絶させていた沙月と失神した光を降ろし、ゆっくりとした動きで弭槍を構える。

「すまん、助けに行こうと思っていたのだが」

 仁兵衛は慶一郎にだけ聞こえる声で謝罪する。

「なぁに、こっちだってお前さんを楽させるためにやった事よ。気にするな。それに、流派の恥は自分でそそがないといかんだろう。己のためにやったんだ、それこそいらんお世話よ」

 快闊な笑みを浮かべ、慶一郎は頷いて見せた。

「ところで、当て身だけで充分なのか?」

 気絶している沙月を見ながら、仁兵衛は質問する。

「さて? ただ、意識がある時だけ然ういう行動取っているところを見ると、推測が正しければ身体を操っているのでは無く、魂か意志に呪いをかけることで行動を制限している様に見えたんでね」

「……成程。確かに、その傾向はある、か」

 慶一郎の考えに仁兵衛は納得する。

 仁兵衛の知り得る限りでは、術に掛かった相手が自由に思考できる状態であろうとも、身体だけを術者が好き勝手に操ることは可能である。嘗てクラウスより聞いた話だと、魔導により相手の無意識を操り、相手の意志に関わらず身体を誤動作させることで操るとの事なのだが、術に精通していない仁兵衛にはぴんとこなかった。

 もう一つは、精神を洗脳することで操る方法だが、こちらの場合は自分の意志が変わってしまうために周りから怪しまれるとの事らしいので、今回の件では向いていないと仁兵衛は判断していた。

 どちらにしろ、対象者の意識が無い状態では操れない術式であり、意識を失った身体を操るための術式は又別の方式で、生きている者に使うには余程衰弱している時ではないとまず不可能との話であった。

 血涙を流しているところから見て、己の意識が望まぬ行動を取らされている呪いと類推すれば、確かに意識を断てば相手に操られることは無い。その上、今相対している魔王の性格からして、己の望まぬ行動を無理矢理取らされることで感じる焦燥感、屈辱感、無力感といった感情を嘲笑いながら眺めるのを愉悦と考えている節があった。

「だが、方針を変えてくる可能性や、意識を取り戻した場合、何が起こるか分からないと云うことか」

 推測から導き出された結論を口にしながら、仁兵衛はどうしたものか悩む。

 一番手っ取り早いのは当然止めを刺すことだが、短いながらも言葉を交わした経験より沙月に対して兵法者として好感を抱いていた。付け加えるならば、光が懐いている相手を光を守る為に殺すことは避けたかった。

「……短時間ならば、手はある」

 そう呟くと、帯刀は手にした“鵺斬り”を気合一閃、床に突き刺す。「“鵺”とは形が定まらぬモノを指す言葉。それ即ち、“鵺斬り”の本領とは魔王の力を断ち切ること。我が気を以て“鵺斬り”の力を発すれば、暫しの間魔王の力は我が傍に張り巡らされた結界により及ぶ事は無い。……しかし、これを守りに使うと云うことは、魔王を“鵺斬り”の力に頼らず、自力で倒さねばならぬ事を意味する。やれるか、仁兵衛よ?」

 仁兵衛は強い目線を帯刀に送り、静かに頷いてみせる。

「ならば良し。……耳を貸せ、仁兵衛。一つだけ云っておくべき事がある」

 近寄ってきた仁兵衛に一言二言帯刀は耳元で囁く。「それが俺の見立てだ。後は自分で判断せよ」

 一瞬驚いた表情を見せた後、

「ありがとうございます、父上。後は静かに見守っていて下さいませ。直ぐに終わらせて、寺院に連れて行って差し上げます」

 と、力強く言い切り、仁兵衛は爽やかな笑みを浮かべた。

「任せる。まあ、寺院よりも、こちら側の互助組合の酒場の方が術者の実力から考えて、確実やもしれんがな」

 嫌な音の咳をしながら、背中を壁で支え、全てを見届けようとする。

「……上様は大丈夫かい」

 仁兵衛にだけ聞こえる声で慶一郎は呟く。

「分からない。だからこそ、急いで終わらせる」

 焦りも気負いも無く、静かな心持ちで仁兵衛は答えた。

「そうか。だったら、相棒。お前さんの“相棒”とよく話し合うんだな。“鵺斬り”が使えない以上、切り札は“金剛丸”だ」

 真面目な表情で慶一郎は仁兵衛を見る。「その間は俺が引き受けよう」

 親友が“金剛丸”の秘密を理解している事に驚きを覚える事無く、

「すまん」

 と、仁兵衛は渋い表情で詫びを入れた。

「何、気にするな。互いに迷惑掛け合い、それを共に解決するってえのが親友って奴だろう?」

 慶一郎は豪快に笑い飛ばし、雷獣に合図を送る。

──ひぃぃ、ひょぉぉぉ

 もの悲しい鳴き声と共に、雷光石火の動きで魔王に肉薄する。

──雷獣如きが、小賢しい

 苛立ちを隠せず、魔王は力を無差別にばらまく。

「当たりはせんよ」

 牽制がてら、慶一郎は矢を放つ。「……ただの矢では効かぬか、やはり。出費覚悟で、特製の退魔術仕込んだ真銀の矢を使わんとならんか」

──随分と余を侮ってくれるな、小僧。手加減は終わりぞ!

 瘴気と共に“混沌”を散蒔ばらまき、“混沌”から異形の化け物を呼び出した。

「チッ、眷属召還か。面倒な真似をしてくれる!」

 大量に現れた異形の化け物を弭槍で斬り裂き、突き刺し、弾き飛ばす。「ふん、この程度の雑魚に後れを取る俺では無いわ」

──その強がり、どこまで続くものかな?

 魔王の哄笑と共に、これまでにばらまかれていた“混沌”、切り捨ててきた魔王の欠片からも眷属が呼び出されてきた。

「何て数だ。鬱陶しいったらありゃあしねえぜ!」

 愚痴りながらも、慶一郎は冷静に対処する。

「……こっちも手短にやらねばなあ」

 慶一郎が数に押されているのを見て、仁兵衛は一度太刀を鞘に納める。(明火、何があった?)

(主様。申し訳ありません。取り乱しました)

 明火は悄気込んだ意志を仁兵衛に伝える。

(気に病むな。確認を取らずに勝負に行った俺の責だ。それで、何があった?)

 慰めるかの様に優しい口調で明火に語りかける。

(……敵の正体を見極めました)

(ああ、六大魔王であろう、あれは)

 事も無げに仁兵衛は答えを先読みした。

(主様?! お気づきだったので?)

 仁兵衛の予想外の回答に、明火は思わず驚きの声を上げた。

(いや、親父様に云われるまでは確証を持てなかったが、ただの魔王で無いのは数合斬り込んだ際に気が付いていた。俺の人生の中でも一二を争う最高の出来と云っても過言では無い一撃を幾度受けてもびくりともしないとなれば、流石に己の腕を疑うより前に敵の強さを悟るさ。嘗て魔王をほふった技が効かない魔王とは何者か、とな)

 鋭い目付きを魔王に向け、仁兵衛は静かに推し量る。(魔王を越えたる魔王とは何者か、と。後は、あの眷属召喚。いくら何でも数が多すぎる。今まで相手をしてきた魔王もそれなりの相手であったが、限度も無く呼び直すとなればただ者ではあるまい)

 仁兵衛の疑問も尤もなことである。

 眷属召喚とは魔王の切り札の一つである。己の身、もしくは“混沌”を媒介として魔界との“ゲート”を開くことで、己と近しい魔族を現世に呼び寄せる大技となる。当然、それ相応の代償を払うこととなる為、そう何度も気軽に行える術では無い。それも、大群を何度もとなれば、異常な事と言えた。

(確かに、主様の疑念の通りですわ。……ただ愚考致しますに、今の六大魔王の一柱ではございません。かつての六大魔王の成れの果てだと思われます)

(どういうことだ?)

 明火の指摘に、心中で仁兵衛は首を傾げた。

(あの鉄扇、間違いなく私が宿る“金剛丸”の共打ちの一つですわ。“点睛”を欠く金剛の武具。故にその器に惹かれて、己を保てなくなった魔王が入り込んだ。六大魔王とは云え、第六位は時と場合により就いている者が変わる地位。故に大きな力を望み、更なる“混沌”を得る為の生贄として現世に生きる者の血や魂を求めて乱を起こす。東大公家が全力を挙げて討伐することもまた多いかと思われますわ)

(……止めを刺し損ねたか、止めを刺したと勘違いして見逃した六大魔王が金剛製の鉄扇に入り込んだ、と。そして、現在は他の者が六大魔王となっている為に、誰しもがその存在を忘れている。故に、見逃されてきた。確かにそれならば筋は通る。まあ、分かったところで状況が好転するわけでも無いがな)

 仁兵衛は思わず苦笑する。(だが、謎はいくつか解けた。今のままで勝てるか?)

(……今のままでは核を破壊するための“竜気”が足りませぬ)

 仁兵衛の問いに、明火は正直に答えた。

(腐っても六大魔王と云う処か。奥の手を使う場合は?)

(それならば、後れを取ることはありません。……しかし、主様に力をお貸しすることが……)

 明火は思わず口籠もる。

(何、今まで以上に慎重に戦えば良いこと。それに、慶一郎もいる)

 明火の懸念を仁兵衛は笑い飛ばす。

(主様ッ! 私が顕現すると云うことは、私自身に全ての“竜気”を用いることになるのですよ? 魔王を斬ることが出来る様になるとは云え、主様が予想外の魔王の攻撃を避けきれなくなる目算が高い上、主様の特質である人並み外れた速さの練気に対する助力も出来なくなるとあれば、慎重などと云う言葉で片付けられるとは思いませぬ)

 鬼気迫る口調で明火は猶も仁兵衛に諫言する。

 それを聞いてか聞かなくてか、

(まあ、“竜気”無しの足捌きでは眷属込みの魔王相手に左太刀は使えんか。それも又一興。どちらにしろ道が無ければ、道無き道を突き進むほかあるまい、明火?)

 と、仁兵衛は呵々大笑する。

「我、盟約主として盟約を結びし赤竜、明火に命ず。我が気を喰らいて、盟約に応じ、我が前にでよ」

 右手で太刀を抜くと、【刃気一体】の要領で仁兵衛は大量の気を“金剛丸”に送り込んだ。

 “金剛丸”はその気を貯める様子も無く、中にいるかに気を流し込む都度怖ろしい勢いで喰らい尽くしていく。

 そして、仁兵衛の気を喰らえば喰らうほど、“金剛丸”は神々しいまでの赤気せっきを放ち出した。

「来たれ、明火!」

 強い口調で仁兵衛が命じると同時に、当たりを赫赫かっかくと赤く辺りを照らした。

 その光は徐々に人影となり、

「盟約に従い、赤竜明火、御前に推参致しましたわ、主様」

 と、艶然とした笑みが似合う佳人が片膝を付き、控えていた。

 しかし、佳人は佳人なれど異形の佳人であった。耳の後ろからは角が生えており、首筋辺りには美しく光り輝く赤い鱗が、そして全身から赫々たる焔を放ち、悠然たる態度で佇んでいた。

「盟約に基づき、我、汝に命ず。魔王をちゅうせよ」

 毅然たる態度で、仁兵衛は声高らかに宣言した。

「盟約に従い、我が主の命を承りましたわ。魔王、誅すべし」

 姿形からは想像出来ない冷然たる口調で静かにその命を承り、明火は炎の塊となって“金剛丸”に取り憑く。「御存分に我が力を振るわれませ。……御武運を」

 大きく深呼吸をし、消耗し尽くした気を取り戻すべくゆっくりと気を練り直す。

 その間も、目は魔王の呼び出した眷属の動き、混沌より呼び出される眷属の配置、魔王の行動をじっくりと観察していた。

「主様、仕掛けないので?」

 泰然を通り越し、悠長の域まで足を踏み入れている仁兵衛に明火は焦れたかの様に声を掛けた。

「流石に気の消耗が激しすぎる。“竜気”を補助に使えない以上、【刃気一体】を万全にして仕掛けたい。“奥之院”に居る所為か、将又はたまた六大魔王が場に顕現している所為か、辺りの気を身の内に収めることが何時もより不安定だ。慶一郎には悪いが、焦って勝機を逸することだけは避けたい」

 落ち着き払った態度を崩さず、仁兵衛は慎重に気を練り続ける。「それに、慶一郎がやると云ったからにはやってのけるさ。問題は、俺の太刀が六大魔王に届くか、だな」

「私の全てを懸けて、刃と為すのですもの。同じ失態は二度と犯しませんわ。ただ、何度でも云わせて戴きますけれど、主様が如何なる窮地に陥ろうとも、“竜気”による力添えは一切出来かねません。正しく、背水の陣、本当に宜しいのですね?」

 明火はくどいと分かっていても盟約を交わした主の身を心配せずにはいられなかった。

「あの程度を切り抜けられねば、俺もそこまでだ。その上、今日は慶一郎が居る。これで勝てねば、何のための兵法ぞ。付け加えるならば、父上と光、それに橘に連なる遠藤の姫君を後ろに置いている時点で元より背水の陣よ。高々自分の命がそれに加わっただけ、何ほどのものか」

 呵呵と笑い飛ばし、仁兵衛は太刀を右手で構える。「さて、行こうか」

 【刃気一体】に達した途端、仁兵衛は雷光石火の動きで魔王の本体に肉薄する。

 それを防がんと眷属や荒ぶる“混沌”が行く手を阻むも、それを物ともせずに鎧袖一触、あっと言う間に魔王を己の間合いに捉える。

──定命者モータル如きが、余を侮るな

 それまで気配が漂うだけの存在であった魔王が、急速に肉体を作り上げていく。

 鋭い豪腕の一撃を仁兵衛は臆すること無く踏み込んで交わし、魔王が肉体を作り上げると同時に隠された魔王の核に狙いを付けると迷い無く太刀を振り下ろした。

──ガアアアアアアアアアアアアッ

 天敵たる竜が全ての意志を攻撃に回した“竜気”の威力は嘗て六大魔王に至った魔王ものからしてみても想像を絶する物であった。明火の発する焔が“混沌”ごと魔王の肉体を再生する端から焼き払う。仁兵衛の攻撃に合わせて反撃を狙っていたのに、それを為す為の意志すら集中出来ぬ程の苦痛を断続的に与えられ、正しく為す術もなく斬り裂かれていく。

(捉えたっ!)

 前もって父親から耳打ちされていた魔王の核の片割れを探り当て、強い意志を持って仁兵衛は“金剛丸”を振り抜いた。狙い違わず、魔王の核となっていた金剛製の鉄扇の片割れを焔と化した竜気で焼き斬る。

──貴様ッ、何時の間にッ?!

 驚愕の声を上げる魔王に、仁兵衛は返す刃でもう一方の器を叩き切らんと慶一郎張りの虎尾を放つべく構えを取る。

──同じ手は二度喰らわんのはこちらも同じぞ!

 攻撃態勢に入っている仁兵衛に豪腕を振り下ろした。

 仁兵衛はそれを寸前の見切りで交わすが、交差する豪腕より骨の槍やら触手やらが飛び出した。

「相棒!」

 仁兵衛の危機を察知し、雷獣を瞬時に操ると、慶一郎は仁兵衛を拾い上げた。

「助かった」

 仁兵衛は素直に礼を述べる。「焦っていないつもりでも、焦っていたか」

「魔王相手に速攻は基本だが、無茶はなしだろう」

 にやりと笑い、魔王の間合いの外に仁兵衛を降ろした。

「まだやれるか?」

 気遣う様に、仁兵衛は慶一郎を仰ぎ見た。

「ま、かなりきついが、やれない事は無い。ただ、余り期待はするなよ?」

 仁兵衛にそう答えると、再び慶一郎は魔王の眷属相手に雷獣を飛ばす。「扶桑武士を舐めるなよ、魔王がッ!」

 獅子奮迅の働きをする慶一郎を眺めながら、仁兵衛は今一度気を練り直す。

(……さて、啖呵を切ったは良いが、どうしたものかね)

 魔王が構築した肉体を観察するに、並の一撃ではもう一つ残っているだろう核に到達し、尚且つ破壊せしめることが出来るか怪しいと見立てた。

 先程の一撃と同じものならば、何とかなるやも知れないが、奇襲に近い初撃と同じ効果を期待するには難しいものがあろうし、完全に肉体を構築された後では核までの通り道を作る一撃と止めの一撃の二段構えが必要と想定した。

(まず無理か)

 仁兵衛は甘い考えをさっさと捨てた。

 先程でさえ、二撃目を放つ余裕が無かったのに、来ると分かっている今度の攻撃で同じ場所に二回も斬り掛かる隙を作るほど敵は愚かしいと期待出来ない。

「主様」

 沈思黙考を続ける仁兵衛に、明火は怖ず怖ずと声を掛ける。

「どうした、明火」

「今のままでは勝てませぬ」

「……そうか」

 はっきりとした物言いに、仁兵衛は溜息を付いた。

「お気付きだったので?」

「薄々とは、な」

 気遣うかの様な口調の明火に、仁兵衛は静かに答える。「並の相手ならば、右太刀で後れを取るとは思っていないが、本来の利き腕たる左よりも力が落ちるのは明らか。その上、此度の敵は並の相手ではない。勝つ為の算段なり、細工でもあれば話は別だろうが、こうも真っ向勝負ではそうも云ってられまい」

「左太刀で立ち回るわけにはいかないのですか?」

 明火は主に己の意見を提案した。

「俺もそこまでは自惚れていない。左太刀の足捌きでは、魔王の元まで辿り着けん」

 魔王の元に斬り込む道筋を想定しながら、仁兵衛は脳内で何度も算盤を弾く。「……一体どういう風の吹きまわしだ? お前さんがそこまで俺の太刀に拘ったことは無かった様に思っていたが」

「口に出さぬだけで、気にはなっておりました。右太刀と左太刀では刃に乗せられている意志の力に違いがありすぎます。その一撃に対する己への信が全く以て」

 竜から見た仁兵衛の左太刀と右太刀の違いを正直に明火は言った。

「ああ、成程。それならば納得がいく。確かに、俺は右太刀よりも左太刀の方を深く信じている。親父に出会うまでは左太刀で生きながらえてきたし、親父から左太刀右上段の神刀流に於ける太刀名義を聞いた後は猶更だ。右太刀は親父から習った剣だから信じていないわけでは無いが、やはり、俺にとって左太刀右上段だけは別格だな」

 自信満々に仁兵衛はにやりと笑う。

「はい。主様の左太刀右上段と私の力を合わせれば、あの魔王ならばどうとでも料理出来ます」

 阿諛あゆ追従ついしょうなどでは無く、明火は心の奥底から信じていることを言ってのけた。

「……それ故に、親父様は俺の左太刀を封じたのだろうがなあ」

 仁兵衛は大きく溜息を付く。「手加減出来ない必殺の一撃など、この様な場面でしか役にたたん。剣術を商売道具にするには不要と云えば不要。親父様は俺には人間相手の剣術をしていて欲しかったのだろうと思うが、当主に推挙する気があったのならばそうも云ってられなかっただろうに」

「……それこそ親心という物でしょう」

 意外な人物から声を掛けられ、思わず仁兵衛は絶句する。

 明火はあからさまに警戒心を露わに、殺気を飛ばす。

「御迷惑をお掛けしたみたいですね。申し訳ありません、綺堂様」

 沙月はふらつきながらも、座った儘三つ指突いて謝罪をした。

「いや、あんなのが裏に居れば仕方の無いことだ。それと、無理はするな」

 仁兵衛はねんごろな言葉を沙月に掛ける。

「これでも旗幟八流の当主の一人。斯様かような手落ちは一門の恥。それを雪げず、主家に弓引いてしまった今、腹を切らねば誇りは守れませぬ。しかし、腹を切る前に一矢報いねば、死んでも死にきれず。なにとぞ殿下、私に死に場所を賜りたく」

 真剣な眼差しで沙月は仁兵衛を見詰めながら言った。

「……俺は、一介の兵法者に過ぎないよ?」

 困惑を隠しきれず、仁兵衛は応える。

「原の現当主の見立てと上様の振る舞いを見れば、殿下が貴人であることに察しは付きます。それに、当家にも“金剛丸”の由来は伝わっております。貴方様こそ、最も東大公に近く相応しい血筋を引いておられます。柴原仁兵衛様」

 思わず見蕩みとれてしまいそうな優雅な所作で沙月は平伏した。

「誰も彼も、俺が知らないことを勝手に云いつのる。全く、どういうことだろうな、これは」

 事の次第に付いていけないとばかりに、仁兵衛は苦笑する。「まあ、良いさ。俺は俺でしか無い。やれることをやるだけだ。……その結界より先に出ない限り、好きに動けば良い。ただし、一矢だ。それ以上は許さん」

 仁兵衛の見立てでは、魔王の呪いの為に沙月は動くことすら儘ならぬ筈であった。その状態で、呪いの元に弓引くことなど自殺行為以外の何ものでもない。

 だが、どうせ止めても何かをやらかすのは間違いない。ならば、限定した仕事を命じておけば、動きを制御出来るし、無駄死にさせることも無い。

 素早くそう計算した仁兵衛は結果的に何もせずに済むであろう指示を出したのだ。

「相棒! 血路を開いてくれ。勝負を決める!」

 強い決意を込め、仁兵衛は叫んだ。

「分かった。先駆けは任せろ!」

 二つ返事で引き受けると、慶一郎は真っ正面から魔王に向けて斬り込んでいった。

 群がる眷属や何処からともなく現れる触手や骨の槍を叩き落とし、見る見る間に道を作り出す。

「流石は騎突星馳流。多対一に良く慣れている」

 右手に太刀を構えたまま、慶一郎が作り出した道を仁兵衛は頓駆ける。

「主様、逆風では……」

「多少賭けになるが、手はある。後は、俺次第だ」

 明火の懸念を仁兵衛はばっさりと切り捨てた。

「賭け、ですか?」

 胡乱な計画だとばかりに、明火は怪訝な口調で問い返す。

「まあ、小細工に近いが、足りない部分は慶一郎の機転に任せるさ」

 先行する慶一郎の大暴れを眺めながら、仁兵衛は淡々と呟く。

「ならば御随意に。私は私の務めを果たすだけですわ」

「頼りにしている」

 仁兵衛は屈託の無い笑顔を浮かべ、「我、父より与えられた仁の心を捨て、今一度悪しきを討つ刃とならん。綺堂刃兵衛、推して参るッ!!」と、一転気合声を上げて吶喊した。

 気配を察した慶一郎は魔王の間合い寸前で雷獣の脇を蹴り、一気に離脱する。

 突如狙っていた獲物が姿を消したことで、魔王は一瞬だけ虚を突かれる。

 その一瞬に、仁兵衛は全てを懸けた。

 素早く左足を大きく引いた右半身、下段に構えた刃を身体の後ろに隠し、間合いを詰める。

 目で見るのではなく、気配で周囲を探っている魔王からすれば仁兵衛が居る事自体気が付いていたのだが、慶一郎をまず排除することを重視していた事と、先程の一撃から逆算して、一撃ならば耐え切れると踏んでいた為に、迎撃に意識を払っていなかった。

 気合一閃、魔王の肉体に取り込まれている鉄扇の欠片向けて神速の太刀を見舞う。

──グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!

 一撃を受けられると言えど、明火の焔に焼かれる痛みをえることなど出来ず、再び魔王は絶叫する。

 しかしながら、魔王とてただ斬られるだけではなかった。同じ轍を踏まぬ為に、眷属を己の影の中に召喚していたのだ。

「当然、その程度は読んでいる!」

 高らかに啖呵を切り、慶一郎は仁兵衛の後ろから襲いかかろうとしている眷属を一刀のもとに斬り捨てる。「背中は任せろ、相棒!」

 声を掛けられた仁兵衛は最初から慶一郎を信じていた。

 上手く虚を付けたところで、一度見せている遣り口の対策ぐらい立てられているのは承知の上での突撃だったのだ。伏兵の手当ぐらいは間違いなく慶一郎ならば何とでもすると踏んでいた。

 故に、仁兵衛の賭はこの後の一手である。

「主様、意志の力が足りませぬ!」

 兵法者を疑似竜と為す【刃気一体】とは言え、この世ならざる存在ものと相対するのに最大の肝となる意志の力が魔王のそれよりも劣っていれば、余程の幸運が無い限り浅い一撃となる。

 それも当然、最初から仁兵衛の計算の内である。

 明火の悲鳴を無視するかの様に太刀を振り上げ、返す刃で右上段に構えを取る。

「右太刀では……?!」

 今の一撃から明火は既に右太刀で止めを刺すことは不可能と見切っていた。

 故に、仁兵衛が右上段に構え、右手を太刀から手放すとは思っていなかったのである。

 そのまま太刀を重力の儘滑らせ、左太刀の構えを取ろうとする。

──余が、それを見逃すとでも思っておるのか?

 魔王の方も、仁兵衛が一撃で勝負を決められないと悟っていること位は読んでいた。

 そして、その一撃目をどう足掻こうと受ける事もである。

 最盛期ならば兎も角、現在力を取り戻そうと足掻いている状態なのだ。兵法者として既に並の魔王を越える腕を有している達人とそれなりの力を蓄えている竜が発する“竜気”の焔を受けて、己の集中力を保ち続ける事が出来ると過信してもいなかった。

 故に、一撃目が終わった時点で即座に狙った反撃を出来る様に様々な仕込みをしていた。

 例えば、両脇から一対の腕を作り出して即座に攻撃させる、その様な罠を、である。

「だから、やらせねえって云っているだろうが!」

 怒号と共に、慶一郎はえびらより独特の雰囲気を有する二すじの鏑矢を手にする。「“水破すいは”、“兵破ひょうは”、俺に力を貸せ!」

 傍の眷属を全て吹き飛ばした後、恐るべき速さで騎射の態勢に入り、目にも止まらぬ早業で二筋の鏑矢をそれぞれの腕へと連射した。鏑矢は咆哮を上げ、それぞれの腕を文字通り喰らい尽くす。

──ガハッ!?

 当然妨害されるものと計算していたが、それでも予想の上を行かれることは間々ある。この時の慶一郎の鏑矢も魔王からしてみればその様な一撃であった。

「どうだい、竜が宿った鏑矢の威力は? うちの初代様が“雷上動”に着想を得て、鏑矢の方に宿らせてみたのさ。まあ、流石に宿している竜は“金剛丸”や“雷上動”より劣るがね」

 悪態を吐くほど身体が受けた衝撃から回復していなかった為、魔王は慶一郎に返事すら返さず、左太刀に持ち替えた仁兵衛を見る。

 未だに慶一郎の方が切り札を持っていたことは計算外であったが、それを使わせたことは大きかった。

 元より狙いは、一番危険である仁兵衛と相打ちに持ち込むことであった。

 核を潰されても今暫くは身体を保っていられる。その際にこの場で唯一自分を滅ぼすだけの力を持つ仁兵衛だけは確実に殺しておかねば拙かった。

 本来ならば、宿主やそれに同調していた者の心に大きく危機感を植え付けた時点で、こうなる前に排除出来ていた筈なのである。性急な心変わりの所為で、違和感を覚えた何者かが自分の存在に気が付く事すら覚悟して迄の行動だったのだ。この魔王がどれだけ仁兵衛の事を怖れていたのかがそれだけでも分かる。

 ところが、仁兵衛は魔王が用意した全ての罠と策を駆逐して、この場に──それも滅びるかどうかの瀬戸際まで追い詰める場所まで──やって来ているのだ。

 その可能性を考えていなかった訳ではないが、ここまで追い詰められるとは今の今まで思いだにしていなかったのである。

 そうは言ったものの、一度は扶桑人の兵法者に不覚を取ったのだ。それが二度重なる事がないとまで断言する程耄碌もうろくしていた訳ではない。何時如何なる時であろうとも、奥の手の一つは隠し通している。

 だからこその、最後の罠であったのだ。

 ここまで全て本命でありながら、最後の一手を不可避にするためだけの布石でもある。

「助かった、相棒!」

 左太刀に構え直し、ここが正念場とばかりに仁兵衛は全ての力を“金剛丸”に篭める。「明火、決めるぞ!」

「全て、主様の御心のままに」

 明火もまた、勝負を付けるべく残った力を全て振り絞った。

「いざ、勝負ッ!」

 乾坤一擲、仁兵衛は気合声と共に今までの中で最も美しい太刀筋で魔王の核を目掛けて“金剛丸”が走る。

 そして、それは魔王にとっても乾坤一擲の大勝負の懸け処であった。

 先程の慶一郎の一撃による衝撃は未だに抜けきっていないものの、仁兵衛が彦三郎相手に左太刀右上段に拘り続けていた為、最後に選ぶ技が何であるかぐらい容易に予測が付いていた。

 従って、それに対応する策も始めの始めから用意していたのだ。

(主様ッ!)

 明火の悲鳴の様な警告と、仁兵衛が魔王最後の罠に気が付いたのはほぼ同時であった。

 踏み込むと同時に数多の触手と骨の槍衾が仁兵衛に襲いかかってきた。

 それら一つぐらいならば動きを止めることもないだろうが、空間を制圧する数の暴力ともなれば話は別である。

 本来ならば退かねばならぬ場面、それでも仁兵衛は悩まず太刀を振るう事を止めない。

 次は無いと体力が訴え、幾度も見せた技は相手に見切られつつあった。他の種々の不安要素も心中を駆け巡る。その不安を全て呑み込み、仁兵衛は一切合切を受け入れ決断した。

 それ故の不退転。

 だからこそ、己の剣技の中でも最も意志が煌めく最高の技を選んだのだ。

(この魔王だけは俺が倒す。例え、どうなろうとも、だ)

 逆境は仁兵衛の意志を更に強くし、気力は漲り、闘志は燃え立つ。

 既に、己の命を捨て去っている兵法者にとって、その罠は塵芥よりも価値が無かった。

 そして、その考えこそが、魔王の思う壺であったのだ。

 大技を放った直後の為、慶一郎は初動が遅れた。

 罠すらも対処して魔王に止めを刺せただろう帯刀は最初に脱落している。

 お互いに相打ち覚悟の一撃ならば、只の人である仁兵衛が六大魔王に勝てる道理は無かった。

 しかし、この場にはもう一人、もう一人だけ状況を引っ繰り返すだけの力を持った兵法者が居た。

「我が命、この一矢に全てを懸ける!」

 この機会を除けば最早文字通り一矢を報いる事など不可能と悟った沙月が己の身体を顧みずに大技を仕掛ける為、正しく捨て身の一撃の為に残った気を振り絞る。しかしながら、沙月が乾坤一擲の大勝負を仕掛けてくるのも魔王からしてみれば予測の範囲内であった。

 そして、それを止める手段など仁兵衛や慶一郎を相手するよりも容易であった。

 如何に“鵺斬り”の結界に護られていようとも、沙月との繋がりは未だに健在である。それを伝い、沙月の魂に穿ち込んだ呪いを強く押し込み、呪殺すれば事足りた。

 漸く取り戻した意志の力に魔力を乗せ、魔王は沙月を無力化しようと動く。

──余の魔力が掻き消されているだと?!

 力の波動が発動すらせず、魔力は霧散していく。

 妙なる弦歌げんかがにどこからともなく響いていたのだが、それを認識出来ている者はこの場には居なかった。

「淵に潜みし竜は天に昇りて慈雨を与えん」

 厳かに沙月は扶桑人に伝わる俚諺をまるで祈るかの様に呟く。「慈雨、五月雨となりて、邪を洗い流さん」

 極限まで集中した精神は悲鳴を上げる肉体を無視し、明鏡止水の境地に達する。

 目では無く、心眼にて魔王直上目掛けてつがえた矢を放った。

 虚空に放たれた矢は、あたかも竜の咆吼が如き飛来音を伴い、弾け飛ぶ。

 無数に割れた細かい気が五月雨の様に魔王の触手や骨に降り注ぎ、仁兵衛の行く手を切り開く。

 薄れゆく意識の中、無事に魔王へと突っ込んでいく仁兵衛を確りと見届け、その場に崩れ落ちていった。

──人間如きが……

「ならば、その人の思いの丈、その身で篤と味わえ!」

 魔王を大喝し、右上段からの袈裟切りを抜けて打つ。

 残心を崩さず、仁兵衛はゆったりした動きで振り返った。

 どこからともなく、一陣の風がさあっと吹き込み、それが引き金だったかの様に物言わぬ魔王の身体が静かに崩れ去り始めた。

「天日神刀流を滅ぼし、我らが開祖武幻斉刃雅をして戦う事無かれと云わせしめた伝説の剣技。雷文公が縁あって我らが流派に組み入れた奥義の名を“必勝”という」

 冥土の土産とばかりに、仁兵衛は淡々と己の一手の来歴を語った。

 同時に消え去っていく“混沌”と魔王の眷属を確認してから、“金剛丸”を取り出した懐紙で拭き取り、それを宙へと投げ捨てる。

 舞い散る懐紙の中、にやりと笑って寄越した慶一郎を見て、

「これにて、一件落着」

 と、笑い返して見せるのだった。

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