第五章 師弟
見張りの目を上手い事掻い潜り、二人は鳳凰殿を抜け、“奥之院”があるとされる場所まで密やかに移動してきた。
「流石に、ここには兵を置いているか」
気配を隠しながら、傍にいる仁兵衛にだけ聞こえる声で慶一郎は
仁兵衛は一つ頷き、どうしたものかと考え込む。
流石に重要な場所を任されているだけあり、並みの使い手でないことは一目で分かった。一人ならば兎も角、二人で入り口を固められている為、仮に一人ずつ受け持ったとしても二人同時に仕掛けられる程空間に広さがない。時間差で一人ずつ落とそうとしたならば、どちらかが壁と成りその間にもう一人の手で危急を他の者に伝える恐れがあった。
確実に殺す気で行けば問題なく殺せるだろうが、一連の問題が解決した後で新たなる火種を残すという真似も出来ない。
時間は掛けられない、
(……明火の力を借りて一気に勝負を賭ける、か)
一瞬でも全力で闘えば間違いなく異変に気が付く者が出るだろうが、時間には代えられない。
そう判断し、決意した瞬間、
「相棒、俺に任せちゃくれないか?」
と、慶一郎が肩を叩いた。
「……何か手が?」
真剣な眼差しで振り返った。
「まあ、勝手知りたる何とやら、ってね。お前さんが本気になったらあいつら殺しっちまうだろう。流石に、それは同門として忍びないわな」
苦笑交じりにそう返すと、慶一郎は自然体の儘、見張りの元へと歩み出した。
「誰ッ……?!」
誰何の声を掛けようとした見張りの二人は、慶一郎を見かけた瞬間、硬直した。
「ヨォ、御同輩。邪魔するぜ」
世間話でもしに来たかの様な気軽な態度で、何の
「原! 貴様、一体どの面目晒してここに来た!」
年配の男が慶一郎に食って掛かった。
「いやいや、御諚御尤も。ですが、俺の顔に免じて話ぐらいは聞いてくれませんかね」
にやにやと笑いながら、慶一郎は無防備の儘どんどん近づいていった。
「待て、流石にそこから動くな! 話は聞いてやる。貴様の間合いの外から話せ!」
男は慌てて慶一郎を制す。
「それでこそ。身を晒した甲斐があるってもんですよ」
軽口を叩きながら、慶一郎は制止した。
「して、何用だ。いや、用は分かる、通しはせんぞ?」
男は先に牽制を掛けた。
「ははは、御尤も御尤も。ですが、俺の話を聞いてもそうしていられますかね?」
人の悪い笑みを浮かべ、慶一郎は男に問いかける。
「ならば聞かぬぞ?」
「まあまあ。お聞きなさい、長谷川殿。あんた、一体何しているんですか? 流派を割るつもりですか?」
いきなり真顔で慶一郎は弾劾した。
「貴様、何を云い出すかと思えばッ! 割っているのは貴様の方だろうが!」
「まあ、今はそうなんですがね。近い将来もそうだと思いますかね、あんたほどの人が?」
激昂する長谷川を静かに諭す。「あのクソ爺が反旗を翻したからと云って、兄者が味方しますかね、この場合?」
「ムッ?」
初めてそれに考え至ったとばかりに長谷川は言葉を詰まらす。
「そりゃ無いでしょう。あの人、上様と父親どちらを取ると訊かれたら、上様を取りますよ。その上、自分の父親が上様を
「……確かに」
慶一郎の指摘に長谷川は渋々認めざるを得なかった。
「そしたら、うちの流派二つに割れますなあ。少なくとも俺は兄者に付きますが」
「だろうな」
その将来が見えたのか、長谷川は非常に渋い表情を作る。
「その上、こちらの総大将は間違えなく平崎先生だ。正直の処、勝てると思っているんですか?」
「……まず勝てまいな。平崎右近、東大公家随一の名将よ」
立て続けに間違いなく起こり得る未来を提起され、長谷川の顔は苦渋に満ちた。
「まあ、先生自体は恨んでないでしょうが、うちのクソ爺様があの人を旗幟八流の当主にさせなかったという実績がありますからねえ。これ幸いと爺を破滅させた上、先生の信奉者が紫を求めても俺は驚きを覚えませんよ。まあ、先生は断るでしょうが、上様のことだ。その代わりにあっちの流派を第二位に昇格させることは大いに有り得る。史上初めて、我らが流派は第二位から転落ですよ。その上、当主が謀反人。例え、兄者が汚名を
懸河の流れのように慶一郎の弁は勢いと説得力があった。
それに押されたのか、長谷川は黙り込む。
「まあ、これはうちの流派に有り得る未来を話しただけですがね。余り面白い状況じゃありませんよね」
にやにや笑いながら慶一郎は続ける。「正直云えば、どうでも良いことなんですけどね」
「どうでも良いとは何事だ、若造!」
流石の言い様に、長谷川は再び激昂した。
「まあまあ。これから話すことに比べれば、実は大したことないんですよ。刺身のつま程度の話題でしてね。ああ、ところで、近寄っても宜しいですか? これから話す内容は、今はまだ秘密にしておきたいものでしてね。お耳を拝借したいのですが」
慶一郎は珍しく控えめな口調で懇願した。
暫し悩んだ後、
「良かろう、変な動きはするなよ。儂を刺してもこやつが動くでな」
と、警告した。
「ははははは、この原慶一郎、同輩を騙し討ちにする了見など持ち合わせぬ。御安心めされよ」
朗らかに笑い、背に背負っていた弓と腰の物を二振りともその場に捨てると、静かに歩み寄った。
警戒心溢れる表情の儘長谷川はそれを見て受け入れた後、慶一郎の耳打ちを密やかに聞いた。
「まさかッ?!」
全てを聞き終わった後、驚きの表情で慶一郎を見据える。「謀ってなどおらぬだろうな?」
「これは手厳しい。されど、俺がその様な虚言を催す男でないことは長谷川殿も御存知のはず」
にやりと笑い、慶一郎はどんと胸を叩いた。
「……良かろう。それを示せたのならば、立ち退こう」
「長谷川様ッ?!」
急な展開に、長谷川と共に入り口の守りに就いていた男が驚きの声を上げた。
「黙れッ! 儂に二言はないわ」
神妙な顔付きで長谷川は男を制す。「それに、この男の言が真実ならば、話が根本から変わってくるのだ。今はそれを確かめる方が先決よ」
「納得して頂けたようで。相棒、ちょっときてくれ」
顔だけ後ろを見て、慶一郎は仁兵衛を呼び出した。
展開に付いていけない仁兵衛だったが、慶一郎の言うことを疑う気にはならずに正直に隠れていた場所から姿を現す。
「お初にお目にかかります。長谷川
長谷川は丁寧に仁兵衛に挨拶する。「この男から聞き及びましたところ、珍しき太刀をお持ちとか。宜しければ拝見させて頂けませぬか?」
流石の仁兵衛も、この展開には面食らい、大刀と小刀を拾っている慶一郎を見た。
「悪いがそうしてやってくれないかね。それがここを只で通して貰う条件でな?」
真面目な顔付きで、慶一郎は仁兵衛に促す。
それを聞き、仁兵衛は悩むことなく太刀を腰から外すと長谷川に手渡した。
「御免」
長谷川は両手でそれを捧げ持とうとして思わず顔を歪めた。
その態度に不思議なものを感じた仁兵衛が声を掛けようとするよりも先に、
「綺堂殿。貴殿、この太刀を何時から使われていたので?」
と、長谷川が問い糾してきた。
「物心ついた頃から持っておりましたが、それが?」
「いえ……、それならば宜しいのです。抜いても宜しいか?」
答えを聞いた瞬間、顔を僅かに強張らせ、間を置いてからそう尋ねてきた。
「御随意に」
何がここまでこの歴戦の勇士を怖れさせているのか理解出来ないまま、仁兵衛は許可を出した。
「ありがたく」
長谷川は丁重に鞘より太刀を抜く。
刃を見た瞬間、その顔は驚愕に彩られ、そのままの姿勢で暫く長谷川は凍り付いた。
「……結構です。お通りを」
気を取り直した後、鞘に収めた太刀を仁兵衛に返し、道を空けて片膝を突いた。
急な展開にどうして良いのか分からず、仁兵衛は慶一郎の方に振り返る。
「何、通って良いって云うんだ。
あっけらかんとした表情で慶一郎は返事をすると、扉を開け放ち“奥之院”があるとされる場所へと足を踏み入れた。
暫し中と長谷川を代わる代わる見ていた仁兵衛だが、意を決したのか、長谷川に一礼してから中へと入っていった。
「長谷川さん、何で見逃したんですか!」
一方、若い男は長谷川に食って掛かっていた。
「主筋の方を守るのが我らの使命であろうが」
晴れ晴れとした表情で、若い男を諭す。「生きている内にあの様な貴人と出会えるとは思わなんだ。何と表現して良いのか、武骨な儂には言葉が思いつかぬ」
「御乱心召されたか?!」
若い男は声を荒立てる。
「ふむ、お主、雷文公様の逸話は知っている方か?」
何かを悟ったかのような静かな心境で長谷川は若い男に質問した。
「え、それなりに、ですが」
行き成りこの年配の同門の人物が何を言い出そうとしているのか想像も付かず、怖ず怖ずと若い男は口を濁すかのように返事をする。
初代東大公頼仁の逸話は山のように有り、全てを網羅するとなれば一生涯、話の収集に従事してやっと覚えられるかどうかといったところである。彼が知る限り、長谷川喜助はかなり詳しい方であり、東大公家への勤王の意志も又それに比例して強い人物であった。故に、下手な返事をすれば叱責を受ける事間違いなく、正直面倒事は避けたいと若い男は思っていた
「そうか。それでは、
「まあ、その程度ならば」
長谷川の問い糾してきた内容が初代様の中でも一二を争うほど有名な逸話で有り、彼自身も武人としてその武具に興味を有していたため、人並み以上に知っていることに安堵を覚える。
「そのうちの一振りを原の家が代々継いでいることも知っておるか?」
「は? あの慶一郎が、ですか?」
意外な切り口に男は思わずぽかんとした。
「如何にも。これは
「はぁ」
長谷川が何を言わんとしているのか全く見当も付かず、若い男は思わず気の抜けた相槌を打った。
「まあ良い。要は、山小人が雷文公様への友情と感謝の証として、扶桑伝来の鍛冶手法で優れた武具を打ったという事だ。ただし、玉鋼ではなく
「はっ? 金剛? あの、鋼よりも重くて堅い、あの金剛ですか?」
想像の埒外としか言い様の無い話を聞き、男は素っ頓狂な声を上げる。「気の伝わりが悪い癖にそれでいて莫大な量の気を溜め込めるという扶桑人の武芸者にとって致命的とも云える程、相性の悪いあの金剛?」
「然り。当時はまだ、金剛が気の通りが悪いとは知られておらなかったのでの。善意から硬くて強靱な金剛が材料として選ばれたらしい。結果として、最悪の選択になったという事じゃが、出来は良かったのでの。それぞれ功臣に褒美として授けられたそうじゃ。そのうち槍があの慶一郎の家に譲られたらしい」
「まあ、原の家は古い上、雷文公様の親友であったとされていますからね。それは有り得る話でしょう」
若い男も、長谷川の話に納得した。
原慶一郎は若輩者で奇矯な振る舞いはあるが、扶桑以来の武の名門の後継者である事までは否定できない。それこそ、彼の家に伝わる家宝は扶桑より持ち出した名品の一つや二つ処ではすまないであろう。
「調べれば分かる事だがな、太刀は二代目竜武公の養父であった阿賀真一郎孝寿様に長年の忠勤を
「すると、今は阿賀の本家に伝わっているので?」
話の流れからそう推測し、男は長谷川に聞き返した。
「否。儂も一時期そう思っていたのだが、どうも違うらしい。伝わっているのならば、阿賀本家当主の証として伝来されていてもおかしくないのだからの。今ではどこに伝わっているかも分からぬ秘法中の秘宝。……と、されている」
外聞を憚るかのように、長谷川は最後の部分を聞こえるか聞こえないかの囁き声で呟く。
「どういうことです?」
興味を引かれたのか、男は身を乗り出した。
「まあ、ここからは慶一郎の話の受け売りなのだが、金剛の太刀は当時孝寿公の手元で養育されていたとある貴人に譲り渡されたとの話だ」
長谷川は何気ない調子で、「まあ、原の家に伝わる口伝だがな」と、付け加えた。
「貴人、ですか?」
はたと何かに思い当たったのか、「その子孫があの男だと?」と、驚きの表情で問い返した。
「あの太刀の重さ、間違いなく金剛であった。その上、刃紋が見たこともない美しさで、古今東西如何なる扶桑の鍛冶師でも打ち出せそうにもなかった。付け加えるならば、既存のどの刀鍛冶門派でもあの刃紋は存在しない。彼の秘宝、金剛丸に相違ない」
確信を持って長谷川は断言した。
「……して、その貴人の正体とは?」
恐る恐る若い男は長谷川に問い尋ねる。どう考えてもそれが只の貴人では無い事はこれまでの話の流れから想像が付いた。そうでもなければ、生真面目一辺倒の長谷川が道を譲る訳がない。
「最初の虹の小太刀の持ち主たるあの孝寿公に預けられた貴人じゃぞ? 少なくとも養子であった竜武公由来ではないだろうな。竜武公からの預かり物ならば、別段隠す理由がないからの」
「まさか……」
ある推測に至り、若い男は絶句する。
「これ又一度だけ、慶一郎から聞いたことがあっての。原の当主に代々課せられた使命があるらしい。雷文公の親友である原宗一郎の血を引く者に自らが課した使命が、な」
感慨深げに長谷川はそう呟く。「全く以て、羨ましき限りよ」
「……それが、綺堂仁兵衛、だと?」
自分の想像が正しければ一体誰に刃を向けようとしていたのかを理解し、若い男は
「身を立てる証が太刀一振りしかなけれども、儂は懸けるに値すると見た。なればこそ、為すべきを為す」
長谷川はそう言い残すと、その場を離れた。
男は扉と長谷川を交互に見た後、慌てて長谷川の後を追った。
「……あっさり通して貰えたな」
不思議そうな表情を浮かべ、仁兵衛はぽつりと呟く。
「何、これも日頃の人徳ってものさね」
愉快そうに慶一郎は笑うと、ばんばんと仁兵衛の肩を叩く。
「素直に信じて良いのか分からん」
正直な感想を仁兵衛は述べた。
「ま、良いってことさ。それよりも、今は“奥之院”について調べねばな。ここが“奥之院”でないことは間違いないようだからなあ」
左右を見渡し、「少なくとも、あのクソ爺が現状一番頼りになる高弟を見張りに置いていたのだから、“奥之院”絡みの場所なのは間違いないんだが、さてはて。どこに“奥之院”への道筋が隠れているやら」と、探り始める。
仁兵衛も辺りを軽く見渡した後、素直に部屋の一番突き当たりへと足を進めた。
仁兵衛の経験上、何かあるとすれば入り口から一番離れたところか、思わず虚を突かれたと思える場所に何かあるものである。それを鑑みて、素直にまずは一番奥から調べることにしたのだ。
そして、目に入ってきたものは月明かりに照らされた一対の金属柱であった。
「相棒、何かあったか?」
「十中八九、“
至極冷静に仁兵衛は答えた。
「何だと?!」
流石にその展開は予測していなかったのか、慶一郎は慌てて駆け付ける。「ああ、確かにこりゃ“門”だわ。随分とぞんざいに置いてあるな」
「俺達にしろ、冒険者として迷宮やら遺跡やらを巡っていなかったならばただの金属柱にしか見えなかっただろうから、遣り方としては正しいのだろうが……ぞんざいにも程がある」
仁兵衛も又中半呆れ顔で溜息を付いた。
「それにしても“門”か。“奥之院”はこの先にあるとすると、
「そうなるか。だからこそ、誰もその実在を知らなかった。故に、親父様は敵を限定する意味で“奥之院”に籠城することと決めた」
「まあ、雑兵無数より、旗幟八流の当主数人を相手にした方がその後の処置が楽になるわけだからなあ。上様らしい深慮遠謀と云えるが……」
慶一郎は金属柱を調べながら、「さて、この“門”を活性化させるにはどうしたらいいものか」と、首を傾げた。
“門”。
“
「リングラスハイムのは起動しているものしか使えなかったからな。起動していない状態の門など、予測も付かん」
仁兵衛は金属柱に手を当てながら、何らかの力の流れがないものかと探るがうんともすんとも反応が無い。
「聞いた話に拠れば、何か所定の合言葉で活性化するものもあるとの話だが、心当たりあるかい?」
金属柱をグルグルと回りながら、慶一郎は仁兵衛に尋ねた。
「……多すぎて絞り込めん。親父様から聞き及んだ初代様絡みの昔話の中に答えがありそうなんだが……」
困り果てた顔で仁兵衛は首を傾げる。「この場でぴたりと当て嵌まる物が思い当たらない。そっちは?」
「俺の方も、口伝にそれっぽいものはあるんだが、確かにどれだか分からんなあ。それに、合言葉だけで起動するかも怪しいか。とりあえず、柱を調べてみるか?」
「ああ、そうだな。軽く調べてみよう。何かありそうなら、灯りを
慶一郎の提案に賛成すると、仁兵衛は柱に何らかの細工が無いか手触りと月明かりで探り始めた。
「全くだ。しかし、それだと援軍の期待が出来ない籠城となるから、上様なら他の手を考えると思うがね」
「同感だ。親父様のことだ、何らかの方法で俺達が“奥之院”に到達出来ることを計算していなければ、他の手を打っているだろうさ」
ふと何かを思いついたのか、慶一郎の方を見て、「ここが囮という可能性は?」と、問い糾す。
「さっきも云ったが、現状師匠が切れる手札の中で最高の役を切っている。あの人はあれで予想外の一手を打てない人だからな。少なくとも師匠は“奥之院”に居る。俺達を誘い込む罠かも知れないが、師匠さえ抑えれば、この中に上様が居なくともこちらに勝ち目が見える。どちらにしろ、“奥之院”に行かねば始まらぬよ」
慶一郎は冷静に状況を推察して見せた。
「そうか。もう一つ聞いておきたいことがある。あんたの師匠は、俺達が来ると読んでいると思うか?」
「間違いなく。準備万端、入り口で待ち構えているだろうさ」
仁兵衛の問いに確信を持った口調で慶一郎は断言した。
「そうか。弟子であるあんたが云うなら、そうなんだろうな」
疑うことなく、仁兵衛はそれを受け入れ、柱を丁寧に手で触る。「勝てるか?」
「さて。そいつは自信ないな。なんやかんや云って、今では兄者に劣るとは云え、間違いなく東大公家屈指の兵法者な訳だ。今の俺で手が届いているかは怪しいところだな」
多少考える顔付きを見せ、慶一郎は苦笑した。
「助太刀はいるか?」
珍しく自信を感じさせない発言を聞き、真面目な顔で仁兵衛は提案する。
「それこそいらんお世話だ。俺が俺の力で勝たないと意味が無い。それに、今回は別にあの爺をどうにかしなくとも、上様を救い出せばそれだけで勝ちなんだ。お前さんは無理せず、上様を救い出し、どうにか爺を出し抜いて逃げれば良いだけさ」
慶一郎は強い意志を込め、力強く拒絶してきた。
「気軽に云ってくれるな。当主格を数人出し抜かねばならないというのに」
低い声で笑いながら、仁兵衛は幾分か楽しそうに呟く。
「何、お前さんだからこそ頼めるってもんだよ、相棒。他の奴なら頼んだところで無駄だろうしな」
再び柱を一回りして、慶一郎は溜息を付く。「なんと云うか、もう少し真面目に冒険者をやっているべきだったか」
「そうだな。全く以てそうだ」
やはり、溜息を付き仁兵衛は途方に暮れた。
「“門”であることは間違いなさそうなんだがなあ」
二本の柱を行ったり来たりしながら、慶一郎は首を傾げる。
「さてはて、どうやったらこの先に進めるのやら。クラウスなら何とかなるのかね、これ?」
真顔で仁兵衛はぽつりと呟いた。
「さてなあ。初代様が絡んでいるなら、これの製作者は知識神ウルシムか、その嫁さんの魔王ザーハムラームか。力押しで何とかするなら、二人の息子の南の魔王様でも怪しいところか……」
真面目な顔で慶一郎は考え込んだ。
「まあ、居ない相手に頼るのは馬鹿馬鹿しいから、二人でそれらしい合言葉を探していくか」
そう仁兵衛が提案した時、
「なんだ? こんな時に管弦の宴でもしている酔狂な奴が居るのか?」
突然の事態に、呆れた口調で慶一郎は
「待て。この音は扶桑の物ではなく、むしろ──」
言葉を選んで続けようとしていた仁兵衛は、目の前で起きている出来事を見て絶句する。
「活性化してやがる?!」
慶一郎は驚きの声を上げた。
「罠か?」
怪訝そうな表情で仁兵衛は呟く。「……どちらにしろ、やることは変わらないか」
「然う云う事だな」
にやりと笑い、慶一郎は背中に背負っていた弓を弓手に
「征くか」
瞬時に迷いを捨て去り、慶一郎の返事を聞く前に柱と柱の間に生まれた光の渦へと仁兵衛は身を投じた。
「応ともさ!」
力強く相鎚を打ち、慶一郎はそれに続いた。
二人が消えた後、暗がりの中から
直後、“門”は再び光を失い、その場に何者かがいた証拠を何一つ残さず、再び部屋は闇に飲まれた。
魔導による転移特有の筆舌し難い水中を
取り戻した感覚で手早く気を探り、直ぐさま闘わねばならない距離に敵が居ないことを確認する。
「そんなに気を張らなくても、師匠はこんな狭い場所で待ち構えないさ。あの爺は、馬に乗っているだろうから縦横無尽に駆け回れる場所で待ち構えているだろうよ」
何事もなかったかの様に、慶一郎は仁兵衛に声を掛けた。
「そうか」
「ああ。それとどうやら現世ではないようだな」
廊下の柱と柱から見える光景は、どこまでも真っ白な何もない空間が存在しており、居心地の悪さを感じさせた。
「リングラスハイムの迷宮に似ている気がするな」
「もしくは、魔王が作り出した疑似空間とやらに、だ」
二人は銘々今まで経験してきた中で似た感覚を持っていた場所を口にした。
「確かに、並みの使い手ならば、心が折れるやも知れんな、この場所は」
仁兵衛は纏わり付いてくる不思議な圧迫感を意志の力で撥ね除けながら観察する。「様式から見るに、初代様の頃の扶桑建築か。ただ、全くと云って良いほど劣化していないな」
「魔導の力か、この場所に何らかの力が働いているのか。興味深いところだが、とりあえず、今はどうでもいい話だな。特にそれが問題で何かが起こると云う事もなさそうだ」
さばさばとした表情で慶一郎は笑い飛ばした。
「そうか。ならば押し通るのみ」
「だな。相棒は上様の元に行くことだけ考えていてくれ。お前さんの背中は俺が何とかしよう」
自信に満ちた笑みを浮かべ、慶一郎は仁兵衛の肩を叩く。
「分かった。任せる」
短く返事を返し、仁兵衛は廊下を前へと進み出した。
慶一郎はその後に続き、いつでも矢を番える態勢を取った。
廊下は直ぐに終わり、慶一郎の予測通り騎乗した武者が待ち構えていた。
「初めてお目に掛かる。儂が星馳騎突流当主一色
「だが、断る」
仁兵衛が何か言う間もなく、口上が終わるや否や、慶一郎は神速としか形容出来ない動きで矢を射掛けた。
何の造作も無く、与次郎は片鎌槍を一閃して矢切をする。
「フン、莫迦弟子が。戦場の作法も知らぬと見える」
「ハッ、引き際を間違えているクソ爺に教わることなぞ無いよ。お迎えが近いんだ、さっさと
瞬時に矢を番え、目に止まらぬ速さで二矢三矢と打ち込む。
当然のようにあっさりと矢切をするが、大きく動く前に牽制の矢を放たれ、与次郎は足止めされていた。
仁兵衛は加勢するべきか、それとも脇を抜けて先に進むべきか悩んだ。
「相棒! ここは俺に任せてさっさと先に進め! このクソ爺に二人がかりで勝ったところで、俺達にとっての勝ちが転がり込んでくるわけじゃない。見え見えの時間稼ぎに乗るな!」
慶一郎の叱咤激励を受け、瞬時に覚悟を決めた仁兵衛は行きがけの駄賃とばかりに右手で抜いた太刀を与次郎に叩き付け、そのまま脇を抜け居ていった。
当然、それを止めようと与次郎は動いたが、至極正確に急所に射込まれた矢を防ぐために行動がいくらか遅れたため、一撃防いだ後の反撃をする暇が無かった。
猶も仁兵衛を追おうと馬を返そうとするが、慶一郎の殺気に馬が気圧され、間を逸した。
「この莫迦弟子が。師匠の為す事の邪魔をするか!」
「間違っていることを止めるのも弟子の務めと云うがね、クソ爺」
与次郎を鼻で笑い、慶一郎は啖呵を切った。
「ほざけ、青二才が! 我らが世を纏めずして、誰がこの乱世を治めるというのだ!」
そう言うや否や、与次郎は片鎌槍を振るい慶一郎に襲いかかる。
「ハッ! 雷文公が我らに与えた本分を忘れ、戦に
轟音撒き散らし、迫り来る片鎌槍を手にした弓で受け流し、必死に馬の進路から身を逃す。
「抜かしおるわ、若造が! 得意の得物も馬も無く、この儂に勝てると思っておるのか、増上慢めっ!」
「やってみなければ、分からんさ!」
慶一郎は目一杯虚勢を張り、縦横無尽に駆け巡る与次郎が放つ必殺の一撃を何とか避けて反撃の機会を探る。
「避けるだけで儂に勝てると思うなよ、若造」
容赦なく与次郎は避けるので精一杯の慶一郎は徐々に追い詰めていった。
慶一郎も動きを先読みして矢を射るも、与次郎は巧みに馬を操り射線に決して身を乗り出さず、一手を失うことになっても慶一郎が決して反撃できない間を支配し続けた。
「どうした、時間稼ぎのつもりか? 儂に小細工が通用すると思うなよ?」
嘲笑いながらも、決して油断すること無く与次郎は着実に慶一郎に一撃を重ねていく。
どれもこれも致命の一撃を何とかかんとか紙一重で見切り続けるも、細かい傷が刻み込まれていった。
「大口叩いた割りには何も出来ぬでは無いか! まあ良い、師弟の義理だ。苦しまずに逝かせてやろう!」
与次郎はついに体勢を崩した慶一郎に決めの大技を叩き込む。
「それを待っていたぞ!」
慶一郎はにやりと笑い、まるでそこに槍が来るのを知っていたかのような動きで軽やかに避けると弓を身体の真後ろに隠すように構え、そのまま一気に振り上げる。
「弓で虎乱だと? 儂を舐めておるのか!」
与次郎は慌てること無く、振り下ろした槍を勢いの儘再び掲げ上げ、渾身の力で振り下ろした。
「誰もただの弓だとは云っていない!」
大きく軌道は弧を描き、その勢いの儘弓の先端が分離し明後日の方向に飛んでいった。
瞬時に何が起きたのかを理解した与次郎は、槍の軌道を慶一郎の弓の先端にあわせ、弾き返す。
「
「誰もただの弓だとは云っていなかったんだがね」
にやりと笑い、慶一郎は反対側の鞘も外す。「さて、仕切り直しといきましょうか、御師匠様」
舌打ちしたい気分を堪え、与次郎は再び間合いの支配を開始した。
別段弭槍自体珍しい武器では無い。弓兵にとって近接された時の対処手段の一つとして弓に穂先を付けることは古来より行われていた手法の一つである。
ただし、名のある将が好んで使うような物ではない。所詮弭槍は弓で有り、本物の槍に比べればあらゆる点で劣る。事実、慶一郎が好んで使う近接武器は至って普通の十文字槍である。
武芸十八般を修めるのは扶桑武芸者の
慶一郎も師である与次郎と同じく槍術を主眼とし、遠間のために弓術を嗜んでいた。故に、二人の戦術はほぼ似たり寄ったりであり、愛用の得物である十文字槍を予選の決勝で鍛冶屋送りにされた以上、師である与次郎の優位は動かせないはずであった。
その上、“奥之院”に騎乗した儘やって来るほど思い切った事はしないと与次郎は慶一郎を見極めていた。地の利も“奥之院”が如何なる場所か最初から知っている与次郎が有利であるし、どう考えても負ける要素が見当たらなかった。
唯一気掛かりがあるとするならば、遠距離戦である。
与次郎とて騎突星馳流の当主で有り、流鏑馬をはじめとした騎射は御箱の一つである。しかし、慶一郎の弓術はその上を行った。息子であり現在最高の扶桑武者として名高い一色助三郎義晴ですら、事弓術に限定すれば慶一郎に及ばない。弓の技を競う行事で五月雨流の達人を抑えて危うく優勝しかける前代未聞の珍事を引き起こすほどの腕である。その大会が騎射であったならば間違いなく慶一郎が優勝したであろうが、平場の大会であったために当時まだ他流派には名も知られていなかった遠藤沙月が賜杯を賜ることとなった。
故に、現状騎乗しているとは言え、どうやってかして遠距離戦に持ち込まれた場合流石の与次郎でも不覚を取る可能性が生じる。その為の近距離戦だったのだが、代わりの槍を持って来ていなかった事で油断した挙げ句がこの様である。
当然ながら、弭槍と本式の槍ならばどう足掻いても只の槍の方が優勢である。こればかりは武器の構造上仕方の無い話だ。所詮弭槍とは一時しのぎの武器に過ぎない。
過ぎないはずなのだが、与次郎の直観と一合交えたその感触をして慶一郎の弭槍がただの弭槍で無い事を告げていた。
与次郎の片鎌槍とて、慶一郎の十文字槍に多少劣るとは言え、只の片鎌槍では無い。気の伝わりが良い桃製の柄を当代随一と云われた
(いや、あるとするならば、雷文公の三秘宝。原に伝わるとされる金剛の槍。だが、あれは我らにとって諸刃の剣。だからこそ、この場にこの莫迦弟子が持ち出していない。……だが、何だ、この違和感はッ!?)
先程からやけに引っ掛かる何かを無理矢理押し込め、
慶一郎はそれに弓の両端に備え付けられた穂先で応じた。
(主様、近いですわ)
明火に誘導されながら、知らぬ道のりを最短で仁兵衛は駆けた。
流石の仁兵衛も慶一郎が完全武装した己の師匠を打倒できるとは考えていなかった。仁兵衛でさえ慶一郎の助力さえ在れば──時間を掛けることが許された場合──何とか下せるかどうかと言う達人である。同門、それも師匠筋に当たる上位者を相手に勝とうとなれば余程のことが無ければまず無理であろう。友を過大評価する事も、敵を過小評価する事も今この場に於いて自殺行為であった。
(……強いて云うならば、兵四郎殿ならば打破できる可能性を有していたか)
(あの方ならば勝てたやも知れませぬね。主様と盟を結んで以来、あれほどの使い手を見たことはありませんわ)
慶一郎の推測に明火は同意の相鎚を打つ。(主様も負けてはいないと思いますけど)
(俺の力は人を相手に振るう物で非ず。この世界の森羅万象を害する外なるモノを断つ剣なり)
己の師より送られた座右の銘を宣言すると共に、心中に深く刻み込み、父を救う決意を新たにする。
(……その扉の先です)
明火は静かに主に告げる。
仁兵衛もここに至り、強大な気が満ちあふれていることに気が付く。
(やはり、気が探りにくいな、ここは)
これだけの気を至近距離まで察知できなかったことなど今まで無かった仁兵衛からしてみれば、まるで目隠し鬼をしている心境であった。
(かなり特異な空間のようですわ。気自体の力は変わっていないようですけど、ある程度の距離まで近寄らなければ察知しにくいようですわ)
(気の察知に頼りすぎると不覚を取る、か)
渋い表情を浮かべ、太刀を右太刀に構えた。
(左太刀では無いので?)
不思議そうな雰囲気を漂わせ、明火は仁兵衛に尋ねる。
(親父様に左太刀は右太刀を掴みきるまでなるべく使うなと云われていてな。どうも、癖が強いらしく、複数人と闘う場合は右太刀にしておけと云われた。左太刀は、親父様に習った物ではない我流だから、右太刀を極めてからそれを下敷きにしようと思っているんだが、未だに上手くいかない。慶一郎と遣り合えば何か見えてくると思ったんだが、達人相手の間の取り方は見えてきたが、足捌きの方がまだまだだな)
心中で溜息を付いて仁兵衛は、(まあ、今ある武器だけで闘っていくしかあるまい)と、覚悟を決めた。
深呼吸を一つし、そのまま扉に駆け寄り、容赦なく蹴破った。
槍を携え、帯刀と対面していた男はぎょっとした顔付きで振り返った。
「父上ッ!」
仁兵衛は奥に父親が居るのを確認し、まずは胸を撫で下ろした。
「よくぞ参った、仁兵衛」
満面の笑みを浮かべ、帯刀は厳かに告げた。
「上様、お下がりを」
彦三郎は前に出ようとする帯刀を制す。
「……致し方あるまいな」
不承不承と言った顔付きで、帯刀は床机に腰を掛けた。
そのまま、彦三郎は帯刀と槍を構えた男の間に入り、牽制を掛けた。
「うむ。
帯刀は男にそう宣言すると、太刀を鞘に納め、柄頭に両手を乗せて足と足の間に立てた。
仁兵衛は事の成り行きを見守り、又三郎と呼ばれた男の間合いを計る。
「我は降魔牙穿流当主、山下又三郎。いざ、尋常に勝負せん」
高らかに宣言し、槍を仁兵衛相手に向けた。
「綺堂仁兵衛、推して参る」
短く名乗り上げると、
多少意外そうな表情を浮かべながらも、又三郎は慌てずに大身槍を振り回し、踏み込もうとしていた場を制圧する。
仁兵衛は何事もなかったかの様に元の位置に戻り、静かに構えを取り直す。
(慶一郎の槍捌きより速くて強い、か。見積もりが甘かった。世の中上には上が居る。高を括ると俺が死ぬな)
仁兵衛は一人反省する。
(力を使いますか?)
(……まだ止めておこう。何が起こるか分からない。なるべく奥の手は隠しておきたい)
明火の提案を暫し考えてから断り、仁兵衛は刃気一体を発動させる。(まずは小手調べといこうか)
慶一郎との決勝を再現したかの様に、消耗を顧みず仁兵衛は一気呵成、目にも止まらぬ速さで斬撃と踏み込みを繰り返す。
それを柄で受け、穂先で受け流し、最低限の動きで
(……親父様と俺の距離を離させようとしているのか? 一体何のために?)
何となく相手の狙いを読んだものの、意図が見えてこず、仕方なく誘導されるが儘、又三郎を壁へと追い込む。(態々壁際を陣取ることに何の意味があるのだ? こちらより、あちらの方が動きが限定される気がするのだがな)
(相手は旗幟八流の当主なれば、何らかの奥の手があるのやも知れません。主様、用心なさいませ)
明火は思考の袋小路に
(ああ、分かっている。どう考えても罠だからな。慎重にいくさ)
見えてこない意図を最大限に警戒しながらも、仁兵衛は着実に相手の動きを封じていく。(自分が不利な場所に陣取って、この
有利な状況に事が進んでいる仁兵衛の方が、先の見えない不安から焦りが生じ始めた。
一方、又三郎は黙々と仁兵衛の攻撃を去なす事に集中し、状況を膠着させる。
(……泥仕合こそが相手の狙いでは? 事態が長引けば長引くほど、慶一郎の危険が増していきます)
(それなのか……。確かに、それが狙いと云うのならばすんなりと納得は出来るのだが……)
明火の助言に何らかの違和感を感じつつも、仁兵衛は他にこの状況を説明し得る何かを持っていなかった。
どちらにしろ、悩み続けるという選択は許されていなかったので、仁兵衛はあらゆる意味で決断を迫られていた。
(……仕掛けるぞ。罠が在ろうとも、罠ごと砕く!)
悩みも迷いも全て一瞬で捨て去り、己の全てを眼前の敵に叩き付ける決意を定めた。
(未だに向背定かではないものも居るようですが?)
その心根が何れの方にあるのか確定していない男の存在を明火は仁兵衛にそっと耳打ちする。
(親父様に任せる。俺を討つために動くのならばそれはそれで良し。親父様を討つために動くのならば、それこそ問題なしであろうよ)
一度決断したのならば、
だからこそ、仁兵衛は闘いの前に全ての想定を為し、あらゆる可能性に対応出来る方策を練ることを好んだ。
何の計画も情報も無しに行動を起こすことはまず有り得ず、その為に読みや意図を外したときにある種の脆さを有していた。
然う云う意味では、慶一郎とは見事なまでに対照的であり、だからこそ互いに惹かれあうところが有るのだろう。
当人達も己の欠点を補い合える関係である事を強く自覚しており、互いに苦手な分野を分かち合うことで大概の危機を乗り越えてきていた。
逆を言えば、現状、二人が二人してある種の焦りと危機を感じているのは、分かり合っているからこその相手への思い遣り──互いが互いに自分ならば兎も角、不向きな戦場に相棒が居ると言う事を良く理解している状況──が裏目に出ているという処もあった。
今、この時も、それ故の不覚を仁兵衛はを取ろうとしていた。
(取り越し苦労じゃったというのか?)
先程から感じている違和感の正体が分からない儘、与次郎は慶一郎を完全に追い詰めていた。
弭槍はどうやっても所詮代替武器、一度種が割れれば、対処は
しかし、万策尽きた形の慶一郎は猶も粘り続け、幾度となく与次郎が自信を持って確実に止めを刺しに行った必殺の一撃を細かい傷は作りながらも受け流し、継戦能力の維持には成功していた。その粘りは正に賞賛に値するものであり、格上相手にこれだけ闘える事態が異常とも言えた。
そして、その事が与次郎の不安を増幅する。
彼の知る慶一郎という弟子は明らかに勝ち目が無い状態で意味も無く粘り続ける男ではないのだ。勝てないなら勝てないと悟った時点で撤退し、次の機会を待つ。慶一郎はその種の勇気を持ち合わせた、明日の栄誉の為に今日の恥をかく事を当然と考える男である。
勿論、戦人として、自分の利害など度外視して戦場で死人としての働きを為すこともある。今この場が慶一郎にとってそうでは無いと言い切れはしないが、いつもの慶一郎ならば、仁兵衛なり帯刀なりに合流し、最善策を構築し直す。
今、この時の様に、勝ち目のない勝負を何時までも続けたりはしなかった。
(勝負を捨てたわけでもなく、だからと云って勝ち目があると思っているわけでもなさそうじゃて。ならば、狙いはなんだというのだ? 何故、あそこまで爛々とした
後一歩を何時までも詰め切れない苛立ちを抑えきれず、与次郎の技は徐々に荒くなる。
「おいおい、御師匠様? もう穂先がぶれるなんて、寄る年波には勝てないって処ですか?」
いやみったらしく慶一郎は嗤い、間を大きく取ると一矢を放った。
「
苛立ちをそのままぶつける罵声を発し、与次郎は最高の一撃を叩き付ける。
「チッ!?」
強い舌打ちをすると、慶一郎はその一撃を必死の思いで受け流した。
「フン、今度こそ貰ったぞ!」
その結果、大きく体勢を崩した慶一郎にこれまでとばかりに如何様にも避けられない追い討ちを与次郎は叩き込んだ。
「ガハッ!」
肺腑より空気を無理矢理一気に叩き出されながらも、力に逆らわず慶一郎は素直に後ろに吹き飛ぶ。「……そうそう上手くは行かないか。全く、相棒ぐらい気の制御が上手ければここまで苦労しなかったんだがな……」
「何?」
気になる言葉を耳にし、与次郎は思わず聞き返した。
「おや、未だに気が付いていなかったので、
「何が云いたい?」
時間稼ぎをさせてはならないと直感が告げていたが、胸の内にある違和感を解消する為、与次郎は慶一郎の誘いに乗った。
「【刃気一体】。さっきからこいつに気を叩き込んでいるんですよ、俺は」
にやにや笑いながら、弭槍を掲げて慶一郎は与次郎の問いに答える。「仁兵衛は生まれついてかどうかは知りませんがね、気の制御が異常に上手いんですよ。だから、気の伝わりが極端に悪い金剛製の太刀であろうと、一瞬で【刃気一体】の境地にたどり着ける。あいつの【刃気一体】が異様に大きいのはね、玉鋼製の太刀ではなく、金剛製の太刀を使っているからですよ。まあ、流石に溜め込めるだけ溜め込むわけではなく、我々が玉鋼製の太刀で行う【刃気一体】より多少気を余分に溜めている程度ですませているみたいですがね」
「莫迦なッ!」
即座に与次郎は否定した。
「いやいや、嘘じゃありませんよ。あれは金剛製の太刀で、あんたらが怖れたあいつの【刃気一体】の絡繰りは、我々が想定している玉鋼の太刀よりも気の許容量が莫大な特質と、あいつ本人の資質が組み合わさった、本来ならあり得ないし考えも付かない偶然の産物って話ですよ。ま、対処法など考えつかないというか、答えに辿り着くわけ無いですなあ」
気息を急速に整え治し、慶一郎はこれ見よがしに【刃気一体】へと駆け上がりながら、与次郎を嘲笑った。
「だとしたら、あの男は何者だというのだ! 儂らの存在意義すら無くしかねない偶然じゃと?! 到底認められるものではないわ!」
「まあ、そうなるでしょうねえ。ところで、我々は
喚き散らす師匠を後目に、慶一郎は静かな口調で質問した。
「竜顔よ」
迷うことなく、与次郎は答える。
「全く以て正しく。我ら扶桑からの珍客を快く受け入れ、その上、本来ならば許されない尊称を扶桑人同士身内の中で使うことを許した聖皇パルジヴァル。それどころか、彼の方は初代様が皇の意を持つ
滔々と慶一郎は歴史を語る。「初代雷文公様こそ我らから見れば竜にも等しい御方。……いや、我らは知っている。初代様は竜の血を間違いなく引いておられた。武幻斉刃雅とその太刀を教えた竜の姫君の間の子こそが初代様の母君なのだから」
「その程度のことならば、我ら旗幟八流の当主に口伝として伝わっておるわ。我ら扶桑人と中原の人間の差はその身に流れる竜の血よ。竜の血が混じっているからこそ、我らは気の制御が他の人類種よりも圧倒的に
慶一郎から注釈をされなくても、その程度のことを与次郎は知っていた。
この世界最強の生物である龍は肉体を持っているが故に滅ぼすことが出来る。
ならば龍は何なのかと言えば、意志ある気の塊と言われる竜が受肉したものとされる。故に、龍こそがこの世界で最も気の制御に長けた生物と言える。
ただし、受肉する竜は竜の中でも気の密度が薄い個体である。その為に、そのまま肉体を構成した時に弱体化する。それを嫌い、二度と竜に戻れぬと知りながらこの世の生物を喰らい、森羅万象の理を受け入れ受肉し龍となり、世界の守護者としての意地を通すのである。
扶桑人は龍が人としての形を取った者と本来人間として生きていた者の混血である為、気の制御を他の人類種より得意としていた。
「然り。中でも初代様は、竜の因子が強かった武幻斉の血を濃く引いていたことと、竜の姫の直系であった為、人と云うよりはむしろ竜に近かったと伝えられている。受肉した龍ですらなく、世界を守護することに誇りを持つ竜に、だ」
「ふん、然様な事は坊主どもに任せて置けば良い事よ。我らは持ちうる力を振るえば良い」
「否ッ! 竜の血を引くからこそ、その意志を継がねばならない。それ故の初代様の決断なのだ!」
普段は飄々としている慶一郎が、珍しく熱い意志を語る。「力を求め、それだけに固執するようでは、かの堕天せし竜、六大魔王第四位邪龍王と同じではないか!」
六大魔王。
混沌に属する魔を統べる存在の中でも特に力を持つものを魔王と呼び、その中でも頭抜けた六柱の存在が六大魔王である。筆頭は既に名すら忘れられた法の絶対神を弟である均衡神と共にその身を以て封じた偉大なる堕天使、第二位が知識神の配偶神でもある冥界の女帝、第三位が人類に魔導を伝えた人を愛する魔王、第四位が世界の守護竜たる兄に勝つ為だけに受肉した上、堕天したとされる力を渇望する邪龍王、第五位は混沌をその身に受け入れすぎた為に自我を崩壊させた狂えし魔王、第六位は他の魔王の中で最も力のあるものがなる為に時代によって異なるとされる。
ただの人の身では、魔王にすら匹敵すること能わず、扶桑人街の冒険者互助組合の酒場に居る人の域を超えた者ですら何とか勝ち目が見える程度。世界の守護を担う竜でも無い限り、魔王と遣り合って無事にいられるなど本来あり得ない。あり得ないのだ。
だが、扶桑人の兵法者となれば話は異なる。
限りなく竜に近い状態まで上り詰められる兵法者が魔導師や神官の援護さえあれば、充分に勝算が計算できるところまで勝ち目を引き上げることが出来る。当てにならない竜よりも、受肉したことで本能を得てしまった龍よりも、扶桑人の兵法者は人類にとって計算できる切り札となり得る存在なのだ。
だからこそ、雷文公はその価値に懸けた。
「そう、雷文公は正に見事な博打打ちよ。我らの居場所を何者とも役目が被らぬ処に作り出した。今の我らがあるのも雷文公の賭が大勝ちだったからよ。根無し草となった我らの御先祖にとって、どれだけそれがありがたかったことか計り知れぬ」
瞑目しながら、与次郎は過去に思いを馳せる。「されど、足りぬ。足りぬのだ!
「この慮外者が! 噛みつく相手も分からぬ狂犬め! 外道に落ちた先達を討って止めるのも若輩の務め。阿呆は斬って捨てん!」
慶一郎は啖呵を切ると、静かに弓を構えた。
「フン、【刃気一体】に入りおったか」
つまらなそうに吐き捨てると、与次郎も又【刃気一体】の境地に突入する。
「さて、仕切り直しといかせて貰いますよ、御師匠様」
にやりと笑い、一足で間合いに入ると、慶一郎は鏑矢を番えた。
「それで奇襲のつもりか! 片腹痛いわ!」
与次郎は一喝し、馬上から槍を叩き付ける。
「誰が奇襲と云ったんだ?」
げらげらと笑いながら眼を見開き、「来たれ、弓に宿りしモノ!」と、絶叫するや一矢を放つ。
放たれた鏑矢はそのまま与次郎を素通りし、ひょうと
「一体、何を……?!」
矢に気を取られた与次郎の脇を【刃気一体】で強化された脚力で一気に駆け抜け、慶一郎は今度こそ大きく間合いを取った。
「さてはて、ここまで時間稼ぎに付き合って下さったお師匠様に、種明かしをしますかねえ」
戯けた声で慶一郎は与次郎から一時も目を離さずに肩を竦める。「我が友、綺堂仁兵衛も有している金剛の武具。御存知の通り、雷文公様に山小人から献上されたのは三種。太刀、槍、鉄扇と伝えられていますが、実は違う」
「何を云い出しているのだ?」
「いえ、大した話ではありませんよ? 雷文公様は、最初から、与える者を決めて山小人に武具の発注をしていた。そう、最初から贈られる側の要望は山小人の鍛冶師に伝わっていたという話です。竜武公様は鉄扇、阿賀真一郎様は太刀、そして、我が御先祖は持ち替えずに槍としても弓としても使える武具を」
「……何、だと?」
与次郎の顔が驚愕に彩られた。
「流石に勘づきましたか? そう、この弭槍こそが、我が先祖原慶一郎が望みし金剛の武具。ただの弭槍ならば槍の模造品でしか無いが、最初から弭槍として作ることを想定し、世界最高峰の鍛冶師が打ったものならば? 既存の弭槍とは一線を画した実用品としての弭槍が完成する……はずだったんですがねえ」
慶一郎は深々と溜息を付く。「知っての通りある一点で欠陥品でしてね」
「フン、気の通りが悪いなど、無用の長物では無いか」
「……何を云っているんです? そんな事、使い手の努力でどうにでもなることでは無いですか」
慶一郎は呆れた口調で己の師匠を見た。
「【刃気一体】が無用とでも云うのか? 否定はせぬが、無ければ無いで不便極まりないものぞ?」
与次郎は与次郎で、慶一郎の方こそ気でも違ったかとばかりに気遣うような口調で反論する。
「……おや? どこかで何か勘違いされておられる」
考え込む顔付きで、慶一郎は首を傾げる。「金剛の武具を下賜された御二方はどちらも道を極めていると云っても過言では無い達人。如何に金剛の気の通りが悪く、金剛の気の貯蓄量が桁外れと云えど、それに対して四苦八苦するような腕の持ち主は一人たりとも居りはしません。御師匠様ともあろう者が、その程度のことにも気が付かないので?」
「何が云いたい?」
遠回しに莫迦にしているような物言いに対し、与次郎は殺気を篭めて問い返した。
「“
険しい表情の与次郎に、慶一郎は静かにその言葉を告げた。
「“点睛”じゃと? それがどうしたというのだ?」
与次郎は中半ぽかんとした表情で尋ね返す。
与次郎の反応も当然である。
“点睛”とは玉鋼で作られた兵法者向けの得物に鍛冶師が最後に刻む仕上げ法のことである。扶桑人ならば兵法者であろうとなかろうと、その工程を知らぬ者はいない。特定の鍛冶師一門の秘伝というわけでも無く、昔から当たり前に伝えられている技法なのだ。
そして、名刀は使い手を選ぶと兵法者は良く語るが、その原因が“点睛”にある。
何故なら──
「ええ。これが莫迦な話でねえ。扶桑の鍛冶師は余すところなく山小人の鍛冶師に技の全てを伝えたのに、“点睛”を伝え忘れた。扶桑人からしてみると常識と言えるこの工程が他の国では全く以て行われていないことを知らなかった。いやはや、本当に悲劇でしてね。完璧な扶桑拵えだったのに、“点睛”を欠いたから武具に魂が宿らなかったんですよ。お陰で、気が溜まってもすぐに発散する欠陥品になりましてね」
お手上げとばかりに慶一郎は苦笑した。
「莫迦な?! 兵法者の得物に魂を入れぬ、だと……?」
余りのことに思わず与次郎は絶句した。
然う、“点睛”とは鍛冶師が最後の最後に得物に魂を入れる工程のことである。竜が意志を持つ気であるように、己が得物を竜と見立てるべく扶桑人は工夫を重ね、得物に文字通り魂を入れることで【刃気一体】中の得物を擬似的な竜と為した。
扶桑兵法全般に於ける最も重要な見立ての一つである。
「御師匠様の反応は当然ですな。全く以てその通り。ですからね、我ら兵法者の
首を傾げてから、鏑矢が消えていった天を慶一郎は見上げる。「さて、そろそろですかね」
疑問を問い糾そうとしていた与次郎は、何事かと思い慶一郎の視線を追って呆然とした。そこにあり得ない光景を見出したからだ。
「……“奥之院”の空で雷鳴轟く、だと?」
彼が知り得る限り、“奥之院”に天候というものは無かった。上下は在れど、天地は存在せず、何も無い空間に
「さて、話を続けますか。うちの御先祖様は変わり者でしてね、武器として完成していない金剛の弭槍を奇貨とし、敢えて【刃気一体】を使えぬ武器として愛用し続けたそうで。ある時、大変珍しい獣を射掛け、射落とすことに成功したそうです」
何事もなかったかの様に、慶一郎は話を再開した。
「それが今と何の関係がある?」
「御師匠様の疑問は御尤も。何もかも意味が分からないのは辛いことでしょう」
慶一郎は二度三度首を縦に振り、意味深な笑みを浮かべる。「話が多少逸れるんですがね、竜が何で龍になるか御存知で?」
「力が足りぬからよ。竜のままでいるには気が足りず、気を溜め込もうにも核となる気が薄い為に溜めにくい。故に受肉することで気を拡散せぬようにするのよ」
つまらなそうに与次郎は吐き捨てる様に言った。
気もまた森羅万象の一部なれば、高きから低きに流れるが如く、密度の濃い方から薄い方に移りゆく性質を持つ。ただし、核となるものを持つか、何らかの強い力が働いている場合逆の動きをする。
当然兵法者にとっては基本知識であり、旗幟八流が一角の当主ともなれば息を吸って吐くのと同じくらい当たり前の事である。
「腐っても騎突星馳流の当主ですなあ。流石にお詳しい。でしたら、竜として存在するには気が足りず、龍になるほど気が少なくない竜ならば、何を欲するのでしょうね」
「謎解きか?」
今までの話の流れから、与次郎は心の中で思わず身構えた。
「あ、いえ。どちらかというと一般論ですよ。俺が知る限り、竜穴に篭もって気を高めるというのが良くある話らしいですがね」
真面目な顔で慶一郎は答える。「竜が淵に潜むのは天に昇らんが為。我らが見る竜とはこの種の竜ですな」
「見る者の方が少ないがな」
特に否定する要素もない為に与次郎は同意した。
「まあ、運が良いのか悪いのか知りませんが、我が家の偉大なる初代様は扶桑時代もこちらに来てからも淵に潜む竜と縁があったらしく、書き置きに良く出てきていましてね。その中の一つに面白い相手が居まして」
そこで言葉を止めると再び天を見上げる。「その淵を通った折り、矢庭に天が崩れ、
「何の話じゃ」
いきなり朗々と語って聞かせた慶一郎に対し、与次郎は何故か嫌な予感を拭えなかった。
「原宗一郎より伝わりし、我が家の口伝の一つ。この弭槍に宿りし竜の物語」
目線を己の師匠に戻し、「さて、竜が淵に潜むのは気を得るが為。ならば、気が散らぬ住み処があるのならば、そこに住み着くも道理」と、にやりと笑った。
「まさかッ!?」
与次郎の顔が驚愕に彩られる。
「ええ。如何なる盟約を結んだか分かりませんがね、この弭槍には魂が宿っているんですよ。飛びっ切りのね」
弭槍を高々と掲げ、慶一郎は叫ぶ。「盟約に従い来たれよ、
先程慶一郎が自ら語った口伝の如く、俄に雷が頻りに降り注ぎ、余りの異常事態に与次郎の馬が極度の興奮状態に陥った。
与次郎は必死に馬を宥め、慶一郎のいた辺りから間合いを取る。
──ひぃぃ、ひょぉ
うら悲しい鳴き声が響くと共に、雷は収まり、視界は開けた。
やっと宥めることに成功した馬の上で、与次郎は信じられない光景を目にする。
「……雷獣、じゃと?」
辺りに紫電を発しながら、その獣は静かに佇んでいた。
「如何にも。当家に伝わる雷上動、それに宿りし雷獣。まあ、姿形が定まらないところから、鵺とも呼ばれますな」
形容しがたい獣の上から、慶一郎はつまらなそうに答えた。
「その様なこと、聞き及んだことが無いぞ!」
激しい口調で与次郎は
与次郎の態度も尤もと言えた。
代々騎突星馳流を修め、流派の主要門派の一角を担う原家が同門に対して隠し事をしていたとなれば、信用問題に関わる大事である。それも、師匠筋に当たる自分が何も知らないとなれば、弟子が全く以て彼の事を頼りにしていなかった証拠とも言えた。
「それはそうでしょうな。これを見て生きて帰った者はいないと聞きますし。それに、本来ならば、人間相手に使うべきものではない」
心底情けなさそうに慶一郎はぼやく。「非常事とは云え、人間相手に奥の手を出さざるを得ないとは、つくづく俺は未熟者だ」
「儂を愚弄するか!」
激昂する与次郎を後目に、
「旗幟八流当主とは云え、人類種であるのには変わりありませんよ。人ならざるモノとの戦いのみに雷上動を用いるのは継承する者に課せられた定めですから」
と、首を横に振った。
「この増上慢が!」
与次郎は愛馬の腹を蹴ると、一気に慶一郎向けて駆け出した。
驚くべき速さで間合いに入り込み、容赦なく片鎌槍を勢いの儘突き出してきた。
慶一郎は為す術もなく貫かれる。
「流石に黒風だったら負けてましたな」
何事もなかったかの様に、先程まで与次郎がいた辺りまで移動していた慶一郎が声を掛けた。
「貴様、いつの間に?」
手応えが無かった事で実体を刺したわけでは無い事に気が付いてはいたが、流石に瞬時に元居た場所に移動されたことまでは気が付いてはいなかった。
「ついさっきですよ。こいつの移動は文字通り雷光石火ですから」
世間話をする調子で慶一郎は何事もなかったかの様に答える。「云ったでしょう? こいつは人間を相手に使うべきでは無い存在だと。人が相手をするには強すぎるのですよ。何せ、広義で云うところの竜には間違いないのですからね」
慶一郎の言を聞き、思わず与次郎は呻った。
限りなく龍に近い竜とは言え、紛う事なき竜である事には間違いない。最強の生物である龍よりも実体化した竜の方が何もかも優れている。アルスラント皇国最強と謳われる
目の前に居る弟子は、あらゆる意味で常識を逸していた。
「さて、師匠に敬意を表してもう少しゆるりと勝負したい処なのですが、我が友を待たせていますのでね。次の一撃で終わりと致しましょう」
そう言うと、気息を整え、弭槍を静かに構える。
瞬時に危険を感じ取った与次郎は受ける姿勢を取ったが、
「がはッ!」
と、次の瞬間には建屋の壁にめり込んでいた。
弭槍を振り切った姿勢でじっと己の師匠を慶一郎は見ていた。
「……退き際を誤りましたな。兄者なら、少なくともこの一撃は得物で受けましたよ?」
中半気を失っている自らの師匠に対し、一抹の寂しさを覚えた。
「き……きさ……ま……」
「本当は弟子の責任として、師匠の首を上げるのが上様への忠義立てなのでしょうが、既に越えたと分かっていても御師匠様を立てていた兄者に免じて命だけはお助けいたしましょう。無駄にされぬ事だ」
決別の言葉と共に、慶一郎は与次郎の意識を刈り取った。
ぐったりとしてぴくりとも動かなくなった与次郎を確認し、大きな溜息と共に残心を解く。
気を抜いた事でへたり込み、大鎧が大きな音を立てた。
心配そうに側に寄ってきた雷獣を見て、
「大丈夫だ、相棒。すまんな、扱き使って」
と、詫びた。
雷獣はうら悲しい鳴き声を上げ、慶一郎の心に答えを送った。
「気にするな、だと? 高々腹の足しにもならなさそうな俺の気を譲った程度でこれだけの働きをして貰ったんだ。流石に気が引けるわ」
苦笑しながら慶一郎は雷獣に笑いかける。「あー、もう。暫く動きたくないぞ。相棒の元に駆け付けなければならんのに、気を抜いたら意識を持って行かれそうだ。腐っても旗幟八流の当主の一人、か。きついわ、敵わんわ。二度と遣り合いたくない」
倒れ込んで大の字になってぼやいている慶一郎の傍に雷獣は寄り添い、心配そうに顔を覗き込んでくる。
手をひらひらと振りながら、慶一郎は精一杯笑って見せた。
だが、次の瞬間、そこに居るはずの無い人影が彼の視界に入ってきた。
「……やれやれ。どうやら、天は俺に休息を与えてはくれぬらしい」
苦笑しながら悲鳴を上げている身体に鞭打ち、気力だけで立ち上がると、この場にはそぐわない二人組が向かった先へと足を進めるのだった。
仁兵衛は戸惑っていた。
相手の意図がちっとも見えてこないのだ。
自分が押している事は間違いない。相手の得物が不利に働いている事も演技ではあるまい。だが、何か腑に落ちない。
旗幟八流の当主を父親以外直接知らないとは言え、ここまで何も無く優勢に立てるほど甘い相手だとは考えてはいない。
その上、父親の傍に居る男がどうにも不気味であった。
(……やはり、何らかの罠はある。あるのだろうが……読めん。全く以て意図が見えん)
焦る内心を表には出さず、詰め将棋の様に一手一手確実に相手の手を潰していく。
(罠ごと一気に蹴散らしますか?)
明火の何度目か分からない助言に仁兵衛は頭を悩ます。
“竜気”を使えば間違いなく勝てる。それだけの見切りは付いた。付いたのだが、沙月に行えた奇襲のように一合の元に切り落とせるかと言えば疑問が残る。長柄の武器であっさりと必殺の一撃を受け流された事を考えれば、一撃の下に降す事は現実的とは思えない。そして、手の内を晒した後で追い詰められた相手が何をするか、それを止められるか、それを判断する為の情報が余りにも無かった。
だが──
(仕掛ける。“竜気”を)
仁兵衛は決意した。
悩んでいても時間が無駄に過ぎるだけである。そして、今この時に限って言えば、時間は彼の敵であった。莫逆の友を失う事は彼にとって我慢ならない事だった。
結局、何をするにも眼前の敵は邪魔であり、罠の有無を考えている暇は無い。何もかもを最短で済ませる以外に道は無かった。
(承知しましたわ。御存分に)
明火は主の背中を後押しすると、
「ほぅ」
それを見ていた帯刀が面白そうに思わず身を乗り出した。
一瞬、彦三郎が動く素振りを見せたが、何故か自制した。
その様な動きを露とも知らず、仁兵衛は勝負に出た。
一度決断したのならば、一切の迷いを捨て眼前の敵にのみ集中する。他は一切考慮しない。
当然、又三郎も達人なれば、その気配の変化に敏感に察知した。今までの年に似合わぬ老練な手練手管から、ただの力任せの兵法者でない事ぐらい理解していたし、今まで見てきたもの以上の底が何かある事ぐらいは勘付いていた。故に、当初の作戦通り、態と窮地に立ち、切札を見せぬ事に専念してきた。お陰で一枚一枚薄皮を剥がされる様に他の手札を明かされ、追い詰められていった。然う言う筋書きだったとは言え、態とから本当に窮地に立つ事になるまで時間は然程掛からなかった。
侮っていた訳では無い。然りとて、自分より出来ると考えていた訳では無い。だからこそ、楽とは言えまいが、やってやれない事は無い、その認識だった。その僅かな慢心がこの状況を呼んだのだから、皮肉としか言い様が無い。
従って、仁兵衛が初手から飛ばしていたらどうなったか分からない。仮に彼がこの男の性格を知っていれば、容赦なく初手から“竜気”を用いて罠も何も噛み砕けただろう。
しかし、現実はそうでは無かった。
仁兵衛はその太刀筋からは豪快な性質と思われがちだが、己の師匠から一本も取れなかった修業時代の所為か、反撃を受けない立ち回りを好む。派手な一撃を見せ札にし、じわじわと相手を追い詰め、二進も三進もいかなくなったところで止めを刺す。
然う言う意味では、慶一郎との勝負は例外中の例外であった。勝負度外視で遣りたいように技を交わした。逆を言えば、それしか仁兵衛の立ち回りを見ていない者がいたとしたら、まず何もかもを勘違いするだろう。
その勘違いがこの膠着を招き、どちらも相手を推し量る事を失敗した。
仁兵衛がこの膠着で先に動いた事は結果的には動かざるを得なかったからなのだが、この勝負に於いては、又三郎にとってはある意味で予想外、ある意味で想定通りの展開にやっとなったのである。
従って、仁兵衛の手に対し、又三郎が取るのはただ一つ──
「降魔牙穿流奥義、|水鏡《みつかがみ)」
取って置きの切り札を使う事だった。
「!?」
“竜気”により飛躍的に身体能力が向上していた仁兵衛はそれを察知した瞬間、無理矢理大きく間を取った。踏み込んでいる最中に空中を蹴るかの如く動きを変えた為に勢い余って転がり込んだが、それが逆に命を助けた。
如何なる手段かは知れないが、仁兵衛が踏み込んだ辺り一帯何かに薙ぎ払われた気の痕跡が残っていた。
又三郎の槍の間合いでは無い上、槍の軌道は明らかに何も無いところを斬っていた。
(主様。水月意射、かと)
明火は素早く相手の技をそう断じた。
(……水月、か。月は無心にして水に移り、水また無念にして月を写す。相手の心の動きを察知し先を取る技法が極まって、先を打ったという事実だけを現実のものにしたとでも云うのか? 玄妙を通り越して玄妖だな)
思わず心中で苦笑しながら、素早く立ち上がった。
相手を視て見ると又三郎の気がかなり減じていた。【刃気一体】のために蓄えられた気が見るも無惨な状態である。
(かなり無理をしたようですわね。無理矢理森羅万象の理を書き換えるのですもの。代償は大きいですわ)
明火の指摘に仁兵衛は心中で深く納得した。
一件妖術のように見える技も、【刃気一体】中の兵法者ならばやってやれない事は無い。何故ならば、【刃気一体】とは人の身で有りながら竜に近づく為の手法であり、竜ならば森羅万象の理を意志の力で操るからである。
ただし、竜と人では気を操る量が違い、竜にやれる事全てやれる訳ではないし、その威力も格段に落ちる。それでも旗幟八流の当主ともなれば、只ではすまない威力となる。その分、気の消費も激しいが、状況次第では一発逆転の切札となり得るのだ。今この時も、“竜気”を用いる仁兵衛で無ければ間違いなく上手く嵌まっていたであろう。
(同じ威力で放つならば、あと一回、死力を尽くして二回。面制圧では無く、点で穿つのに切り替えたのならばまだまだ放てそうか。しかし、奥の手は見せて貰ったのだ。反撃と洒落込もうか)
心の中でにやりと笑い、仁兵衛は“竜気”を用い、一気に又三郎に肉薄した。
当然、読み違えている又三郎は慌てて守りに徹しようとするが、ただでさえ【刃気一体】が先程の気の消耗で緩んでいる上、緩急付けた仁兵衛の攻めに対応しきれず、大小様々な傷を作りながら追い込まれていった。
しかし、又三郎も旗幟八流の当主である。直ぐさまその動きに対応すると、本の一瞬の隙を突いて鋭い反撃を仕掛けた。
虚を突かれた仁兵衛は無理矢理動きを変えた。又三郎の反撃に合わせた入身で小太刀すら振り回せぬほど密着すると、仁兵衛は左肘で相手の顔面目掛け当て身を狙った。“竜気”で補助されていたとは言え、無理矢理の動きであった為に相当粗い動きであった。
当然、そこまで粗い動きならば練達者である又三郎にとって寸前で見切るのは容易く、その儘流れるように石突きで水月を突いた。
仁兵衛もそれを量っていたかの様に間を外すと、そのまま距離を取った。
又三郎も又、無理して追う事無く、仕切り直さんが為に間を取る。
手に汗握る展開に、思わず帯刀は周りの事を忘れてその勝負を見る事に没頭していた。
それは、帯刀が東大公位について以来初めて見せた隙であった。
そして、その好機を見逃すほど、その男は甘くなかった。
「!?」
「漸く隙を見せたな、贋者が」
仇を見るような険しい表情で彦三郎は吐き捨てた。
「クッ、これは不覚を取ったか……」
彦三郎から瞬時に右脇腹を刺している小太刀を奪い取り、転がり込むように間合いを取る。「俺とした事が、飛んだ間抜けだ」
「父上ッ!」
仁兵衛は又三郎を打ち棄てて駆け寄ろうとするが、又三郎が計画を邪魔されぬ為、命懸けで足止めを決行した。
「退けェっ!」
それこそ力任せに太刀を叩き付け、受けに回った槍の柄を中半から真っ二つに斬り裂き、その勢いの儘、刃の中半で又三郎の兜の鉢を叩き割った。
衝撃で意識がふらついている又三郎を蹴倒し、仁兵衛は父親を救わんと真っ直ぐに突っ込む。
「素っ首、頂く」
嘲るように笑い、抜き手で動きが取れない帯刀の首を貫かんと構えを取った。
如何に“竜気”を使おうと仁兵衛の足では間に合いそうにもなく、最早仁兵衛に打てる手は無かった。
「父上ぇーーーーーーーーーーッ!!」
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