間章 内親王

 その変化が訪れたのは日も落ちた逢魔が時も終わりの時間。

 最初に気が付いたのはある意味で意外、近くにいたことを考えれば当然である光であった。

「沙月ちゃん、どうしたの?」

 急にしゃがみ込み、のたうち回るのをぐっと堪えて耐えている沙月に光は心配そうに話しかける。

「ひ、姫様……。お、お逃げ下さい……」

 己の中に湧き起こる、己以外の意志を必死に押さえ込みながら、沙月は自らが守らなくてはならない姫君に必死の想いで答える。「早く、早く右近様の元へ……」

「苦しいの?」

 怖れることは何もないとばかりに、光は両手で沙月の顔を支えた。

「お願いです……。姫様……。私は、もう、貴女様を、裏切りたく無いッ!」

 悲痛な叫びは、必死な抵抗となり、七孔噴血しながらも邪悪な意志を退ける。

「……無理しちゃ駄目だよ。私は、沙月ちゃんが苦しむ方が悲しいよ」

「いえ、姫様。私が苦しむのは自業自得。旗幟八流の当主足るならば、東大公家への忠誠を貫くべきだった。それを為さなかったが故の、この失態。命と引き替えにしてでも、今度こそは貴女を守り抜くッ! 私が私である今のうちに、右近様の元へお急ぎを! あの方ならば、私程度の使い手ならば如何様にも取り扱えるはず」

「それは私が望まない話なんだよ、沙月ちゃん」

 静かに光は首を振り、「私にとって望む未来はね、沙月ちゃんもその中に入るんだよ。父様が欠けることも、沙月ちゃんが欠けることも私は認めない。だから、沙月ちゃん、無理をしちゃ駄目。爺は不器用だから、沙月ちゃんが生き残ることはないんだよ」と、決然とした表情で言ってのけた。

「姫様……」

 血の涙を流しながらも、沙月はそれでも己にかけられた呪いに敢然と立ち向かっていた。

「それにね、大丈夫なんだ。にーちゃが居るからもう大丈夫。何があっても、にーちゃが全部叶えてくれるよ」

 全幅の信頼を兄に置いている光は全てを懸けた。「沙月ちゃん、無理をしちゃ駄目。その呪い、私を連れ去ることを命じているのでしょう? 問題ないよ。どこにさらわれようとも、にーちゃが私を救い出すし、沙月ちゃんを助け出すよ。ここは、沙月ちゃんの命の懸けどころではないよ」

「姫、様?」

 いつもの年齢よりも幼い言動の光とは違う、正に臣下のことを考えている上に立つ者としての神々しきまでの輝きを見せていた。

「大丈夫だよ。だって、沙月ちゃん、私を殺せと云う命令だったら、自害していたでしょう? 今、呪いに抵抗していると云うことは、死ぬまでもない指示だって事だもの。私はね、にーちゃも信じているけど、沙月ちゃんのことも強く信じているんだよ」

 満面の笑みを浮かべ、沙月の顔を胸に抱きしめた。

「姫様ッ! 如何為された!」

 不穏な気配を感じ取った兵四郎は慌ただしく光の元に駆け寄った。

「爺、大丈夫だよ。沙月ちゃんを助けるために、行ってくるね」

 にこりと笑い、光は沙月を連れ立ち厩へと向かう。

「姫様ッ!」

「私のことはにーちゃがいるから大丈夫。だから、沙月ちゃんを責めないであげてね。誰かが悪いとしたら、間違いなく父様だから」

 大人びた笑みを浮かべ、沙月を促した。

 沙月は後ろ髪引かれる思いで、馬に乗り、光を連れ去る。

「ひ、姫様ァァァァァァァァッ!!」

 兵四郎の叫びは、夜の静寂に響き渡るのだった。



 兵四郎の絶叫を聞きつけ、傘下の者は慌ててその元へと駆け寄ってきた。

 声を掛けようとする者もいたが、兵四郎の鬼気迫る表情と低い唸り声のような聞き取れないほどの小声による呟きに恐れをなし、その場で凍り付いた。

 誰もが知っていた。

 この老将が最も東大公家に篤い忠誠心を寄せる忠義の士であることを。

 誰もが知っていた。

 この老将が見かけ以上に怖ろしい驍将であることを。

 そして、知らぬ者はいなかった。

 現内親王、すめらぎ光に対して最も愛情を注いでいる守り役であることを。

「やってくれた、やってくれたのお」

 漸く聞き取れるぐらいの音量になったその呟きは、その場にいる誰しもを恐怖に陥れるには充分なぐらい強い怨嗟えんさまみれていた。

「善くも儂を出し抜いてくれたのお、舐めくさってくれたのお。久々じゃあ、儂がこれほど怒りを覚え、はらわたが煮えくり返るのは久々じゃあァッ!」

 その絶叫は山々を駆け巡り、怒りは寝ていた鳥たちを怯えさせ飛び立たせた。

 恐れおののく部下を後目に、

「貴様ら、何をやっている!」

 と、兵四郎は怒号を飛ばす。

 余りの剣幕に全員が直立不動の姿勢を取り、次の指示を待った。

「ド阿呆どもが! 姫様が攫われたのだぞ! それで惚けておるとは何事か!」

 兵四郎は雷声で一喝する。「直ちに出陣じゃ! 敵は宮城にあり! ド阿呆どもに真の戦とはどういうモノか教育してやるぞ!」

 その場にいる者全員が、一斉に準備に走り出す。

 兵四郎は猶も低い声で嗤い続けていた。 

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