第四章 潜入

 河を下る船の舷側げんそくから流れゆく光景を眺め、仁兵衛は物思いにふけっていた。

「おいおい、相棒、どうしたんだい?」

 なにやら不思議なものを見る目で慶一郎が話しかけてくる。「らしくないじゃないか」

「そうもなる。全く以て、俺向きの状況ではない。複雑怪奇なる事情など、柄ではない」

 心底嫌そうな口調でぼやく仁兵衛に、

「ははは、そう云うなよ、相棒。生まれが悪かったんだ、諦めな」

 と、慶一郎がおどけた。

「生まれ自体は如何なるものか俺には分からん」

「ああ、そうだったな。じゃあ、云い換えるか。育ちが悪かったと」

 茶化す慶一郎に対し、静かに仁兵衛は溜息を付いた。

 処置無しとばかりに肩を竦めてから、慶一郎は隣に立った。

 暫し、無言のまま二人は岸辺を眺めた。

「で、何がそうまで悩ませる?」

 先程とは打って変わった真摯な表情で慶一郎は仁兵衛を問いただした。

「何もかも。気が付いたらどうしようもないほど面倒事に足を突っ込んでいたこと全て、かな」

 苦笑しながら仁兵衛は愚痴った。

「まあ、気分は分からんでもないな」

 慶一郎は相鎚を打つ。「俺もこれで大流派の上から数えた方が早い使い手だからなあ。ただ戦人としていきたいと思っていても、思わぬ争いに巻き込まれることは多々ある」

「そうか。お互い難儀だな」

 憂鬱そうに仁兵衛は笑った。

「まあなあ。だが、俺の場合はそうなることぐらいは覚悟していた。それこそ、生まれが生まれだからな」

 力強い意志を感じさせる目を向け、慶一郎は言ってのけた。

「東大公家が出来て以来の武門の名家、だったか?」

「大体そんなところだ。ま、正確に云うと、御先祖様が初代様の友だったってだけの話でな」

 慶一郎は肩を竦める。「それも、まだ武幻斉様との修行の旅の途中で出会ったらしくてなあ。出会った時から馬が合い、正に莫逆ばくげきの友と云うべき存在だったらしい。長じて雷文公が朝廷に出仕してからもその配下として八面六臂ろっぴの大活躍で、本来ならば雷文公が扶桑を追われた時、共に国を出ようとしたらしいんだが、竜武公のことを重ね重ね頼むと云い含められたみたいでな、扶桑に残って常に先陣を切っていた。扶桑を離れる時も殿を務め、この地に渡ってきたのも最後の船だったそうだ」

「騎突星馳流の当主だったんだろう?」

「ああ。お陰で代々騎突星馳流を学ぶ羽目にあっているよ。俺は性に合っているから構わないんだがね」

 にやりと笑い、慶一郎を見やる。「別に、親父さんを助けることに違和感を覚えている訳じゃないんだろう?」

「当然だ!」

 語気荒く、仁兵衛は言下に断じた。

「そいつは重畳。そこからして悩んでいるんだったら処置無しって奴だ。だけど、相棒、お前さんはそうじゃない。だったら、今は悩まずにいる、それで折り合いは付くだろう?」

 慶一郎はいとも簡単に言ってのけた。

「そこら辺は、な。光を見捨てることなど出来やしないし、親父様の助太刀をすることもやぶさかじゃない。ただ、なあ」

 仁兵衛にしては珍しく言葉を濁した。

 慶一郎はせっつくこともなく、ただ流れゆく光景を眺めていた。

「ただ、なあ」

 仁兵衛は珍しく言いよどむ。「なんと云うべきか……一介の武芸者の為すべき仕事ではないだろうと思えてなあ」

「まあ、確かに。そいつは云えている」

 慶一郎はあっさりと相鎚を打った。

「父親の仕事を手伝う、百歩譲ってこれは良しとしよう。御前試合にまつりごとの意図が絡まり、父のために勝ち抜く。これも問題ない。武芸者ならば、天下一の称号を目指すのは当然のことわりとも云える。その結果として、父上の為となるならば、喜んで引き受けよう。だが、この状況はどうだ? 既に戦ではないか。俺は武芸者であって、兵法家ではない。己の手に余ることを周りから期待されるというのは一体全体何だと云うのだ」

 憤懣ふんまんやりきれずとばかりに、一気に捲し立てた。

「そりゃ仕方あるまい。親父さんが親父さんなんだ。その上、お前さん自体剣の腕が滅法めっぽう強いと来ている。周りの期待は高まる一方よ」

 苦笑しながら、慶一郎は仁兵衛をなだめた。

「余計な話だ。俺はただ、剣の腕を磨き続けたいだけなのだがなあ」

 静かに溜息を付くと、仁兵衛は川面かわもを眺めた。

「それは贅沢な悩みだな」

 慶一郎は笑い飛ばす。「武芸者ならば、誰しもが願う望みだ。それが得られるかどうかは別として、な」

「分かっている」

 むすっとした顔で仁兵衛は答える。

「ま、納得出来る話じゃないだろうが、折り合うしかあるまい」

 取りなすように、仁兵衛に慶一郎は助言した。

「折り合う、ねえ。何でこうなったんだろうなあ」

 自分自身に言い含めるかのように繰り返した後で、思わず仁兵衛はぼやいた。

「そりゃあ、帯刀さんに拾われたからだろう?」

 慶一郎は即答した。

「親父様かあ。あの人に出会っていない俺など、今からだとちっとも考えられないしなあ」

 静かに頬笑み、空を見上げる。「野垂のたれ死にしそうなところを助けてくれた、生き方を教えてくれた、男の生き様というものを見せてくれた。何一つ、この恩を返せそうにない。だから、俺は何か一つでも親父様の力になりたい」

「良いんじゃないの。それが理由で」

「そうだな。そうだろうな。親父様を救う理由など、これぐらいで良いか。他の面倒事は、関係ない」

 慶一郎の答えを聞き、仁兵衛は一人納得する。

「ああ。余計なことまで背負わずとも良いんだよ、俺達は。然う云う面倒事は全部上様と先生に押しつければいい。その為にも、今回の策は成功させないとな」

「策、か。上手く行くと思うか?」

 半信半疑といった表情で、仁兵衛は慶一郎を見た。

「さてねえ。戦場での先生の読みが外れたことがないのは確かだが、今回は微妙な処だねえ。博打みたいなもんさね」

 慶一郎は思わず苦笑する。「何にせよ、先生があんな策を立てると云う事は割りと追い込まれているって事だからねえ。潜入するまでは上手く行くと思うが、そこから先は俺達次第、敵さんの動き次第って処かねえ」



「先生、こいつは正気ですかい」

 滔々とうとうと語られた兵四郎の策を聞き終わり、思わず慶一郎はそう口にした。

「どうした、臆したか、若いの?」

 兵四郎は笑い飛ばす。「儂の若い頃は、これよりも酷い綱渡りをしていたもんじゃて」

「先生の若い頃って、この乱世の始まりになった“ドゥロワの乱”の末期じゃないですか。乱世の中の乱世と妙に安定した均衡状態の乱世を一緒にしないで下さいよ」

「余り変わらん。この儂が言うのだ、間違いない」

「いやいや、違いますから。間違いなく違いますから」

 自信満々に告げる兵四郎に、慶一郎は慌てて否定する。「相棒も何か云ってくれ!」

「綱渡りなのは一向にかまわない。ただ、これで親父様を救えるのか?」

 真剣な顔で仁兵衛は周りに問う。

「さて、の。そこまでは明確に何とかなるとは云い切れぬのお」

 兵四郎は真面目な顔付きで答え、「まあ、儂の予測ではお主らの働き次第じゃが、割りとどうとでもなると出ておるがの」と、笑い飛ばした。

「その根拠をお聞きしたい」

 仁兵衛は猶も食い付く。

「良かろう。まず、敵の布陣じゃが、斥候の情報とお主らからの報告から推察し、玉光明鏡流が宮城の外を担当しておる。これは妥当な処じゃろうな。奴らは素肌剣術故に、装備が軽装。そこまで威圧的でないが、何かあった時即座に対応出来る程度ではある。無用に民を逼迫ひっぱくさせることなく抑えられよう。無辜の民を傷つけた時点で、奴らの云い分は誰も聞く耳を持たなくなるからのお」

 扶桑人街の詳細な地図を指差し、兵四郎は淡々と説明した。

「まあ、街廻り役の壬生狼みぶろを追い出したんですからそれはそうでしょうな」

 先程とは打って変わって、冷静な表情で慶一郎は頷いた。

 壬生狼。

 中原諸国では狼人コボルトと呼ばれる種族の扶桑に於ける蔑称べっしょうであったのだが、まだ扶桑にいた当時の雷文公が誉め言葉として使ったことにより、転じて扶桑系の狼人、特に彼らが先祖代々伝えてきている天浪神刀流の使い手を指す敬称となった。

 元々、扶桑にいた当時は時の帝との契約により、首都の治安を守る為に使い手を遣わしていたのだが、後に狂王と呼ばれる様になった親王が引き起こした戦乱により帝の片腕たる近衛将軍宮しょうぐんのみやにも力を貸すようになった。その流れで雷文公と竜武公にも大いに力を貸し、狂王から恨みを買う事となった為に一族総出で扶桑より中原へと移住する事を決めたのである。

 移住後も各地にある扶桑人街の治安を守ることを務めとしており、西中原東部にあるハヴァリア地方に元々住んでいた西中原種の狼人達との交友や混血も進んでいる。

 雷文公とその父親により地位を高められた恩義から、東大公家への忠誠は扶桑人よりも厚く、その為にそれと知らない内に“一統派”の面々からオストシュタット扶桑人街の治安維持から密やかに外され、今では中央山脈を越えた先にある扶桑人街へと追いやられていた。

「そこら辺は上様も計算しておったのだろうが、今となると一部でも手元に残されておられたら話は別だったんじゃがなあ」

 珍しく兵四郎は愚痴った。

「おや、先生は上様のお考えに反対だったので?」

 意外そうな表情を浮かべ、慶一郎は尋ねた。

「もう少しやりようがあると云っておるだけじゃ。儂に相談あらば、もう少し危険な橋を渡らず様に済ませたわ」

 東大公家最良の戦略家と呼ばれる翁はそうぼやいた。

「でもそうしますと、上様の狙い通りに敵は動きませんでしたよね、不利な訳ですし」

 冷静に解析した状況を慶一郎は披露する。「何せ、東大公家のみに忠誠を誓っている壬生狼に、扶桑時代も含めて五指に含まれるという名将がいて、上様秘蔵の一番弟子がいる訳で。そんな状況で、誰が謀反を起こすんですか」

「起こすのではない。起こさせるのだ」

 渋い表情で兵四郎は端的に答えた。

「……待って下さいよ。もしかして、今回の件って、あっちの暴走などではなく……」

 嫌な予感でもしたのか、慶一郎は思わず声を潜める。

「儂の認識が正しければ、上様は間違いなく“暴発”させたのだ。時期にずれが生じたが、な」

「まさか」

 余りの物言いに慶一郎は顔をひそめる。

「いいや、上様は昔から然ういう処があった。変なところで博打に出るのだ」

 深々と溜息を付きながら、「ここ一番の土壇場になると何故か勝負師の血が騒がれるようでな。伸るか反るかの大博打を打たれる。非常に心の臓に悪い」と、ぼやいた。

「んー、父様、そんなに賭け事好きだったのかなあ?」

 光は独り首を捻った。

「何、男児たる者、この様な大博打は兎も角、賭け事は好きなものですよ。自分の子供の前では表に出すことはないでしょうがね」

 慶一郎は共感したかのように頷く。「それはそうと、先生。そこまで云うからには、何かしらの証拠があるのでしょうね?」

「まあのお」

 兵四郎は懐に仕舞っていた封書を数通取り出した。

「それは?」

「宛先を見れば分かる」

 つまらなそうに慶一郎に手渡した。

「どれどれ。えっと、兄者宛、柏尾かしお豺蔵さいぞう宛、米山よねやま左近さこん……。上様に近しい部将ばかりですなあ」

「何かあった際、儂が檄文と共に送る手はずになっておる。まあ、要するに、今、じゃが」

 七面倒臭そうに兵四郎は溜息を付いた。

「ああ。成程。確かに、東大公殿下に在らせられては斯くなる事を予見していたと考えられますなあ」

 苦笑しながら慶一郎は嫌味っぽく口にした。

「どういうことだ?」

 それまで静かに二人の言い合いの行き着く先を見届けようとしていた仁兵衛は慶一郎に疑問をぶつけた。

「まあ、平たく云えば、自分に手兵しゅへいがいない状態で、相手を動きやすくしたらどうなるか分かりきっているから、包囲殲滅の為の手駒を外から呼び寄せるしかない訳だ。その為の正当な口実を先に用意しておいたという話だな」

 そこまで言ってから慶一郎はふと考え込み、「先生、ここまで準備万端で、何で後の先が取れなかったんですかね?」と、真面目な顔で尋ねた。

「それよ。正にそれが問題よ」

 我が意を得たりとばかりに膝を叩き、兵四郎は口調を強める。「あの何事にも周到な上様が相手に裏をかかれる。有り得ぬ、まず有り得ぬ。ならば、何があったのか。そこが問題よ」

「心当たりは?」

 事の重大さに気が付き、慶一郎は深刻な表情を浮かべた。

「ない。あるとすれば、予測もしない大物が裏切っているとしか思えぬ」

 兵四郎は静かにそう答えた。

「予測もしない、ねえ。俺と相棒は西中原東部域にはあまりいなかったんで、こっちのことには詳しくないんですがね、上様を取り巻く情勢は如何だったのです?」

 嫌な予感を振り払うかのように、慶一郎は真面目な顔で問い糾した。

「良くもなし、悪くもなし。先代が乱世に向いた方ではなかった分、その後始末に苦労なされてはいるが無闇に敵を作っていたわけではない。その証左にアレよ、明田の連中が敵に回らなかったであろう?」

「どういうことで?」

 慶一郎はに落ちないとばかりに聞き返す。

「明田は文官の家系故にな、物事を数で見る癖がある。そう見ると、東大公家の無駄が見えてきてな。それを是正したくなるのよ。まあ、皇家無き今も土地の租借そしゃく料を払っているのは莫迦らしく思えるのは分からぬでもない」

 苦笑しながら、兵四郎は右手で顎髭を撫でる。「上様はそれを辛抱強く説得し、明田の連中も又納得したわけだ。租借料を払い続けることが、我らの大いなる利益になると云う事にな」

「租借料ってあれですよね? 初代が皇国に土地を借りる際に毎年その使用料を払うという約束をして、代々払い続けてきたという。“ドゥロワの乱”の時も払っていたんですか? 皇家に逆らっていたというのに?」

 信じられないとばかりに渋い表情を浮かべ、慶一郎は首を横に振った。

「そう考えるのが並みの人間よ。代々の上様は我ら凡夫の想像の上を行った。租借料を払うことで得られる莫大な資産の為にの」

 兵四郎はにやりと笑い、我が事のように自慢した。

「莫大な資産ねえ? 租借料って、東大公家五百万石とも六百万石とも呼ばれている広大な土地の使用料でしょう? 並大抵の額とは思えないんですがねえ」

「……友よ、答えは前に出ていたぞ」

 仁兵衛は暫く悩んでからぽつりとそう言った。

「ほう」

 慶一郎が仁兵衛に問い返す前、興味深そうに兵四郎が息を付いた。

「信義、だ」

 短く、仁兵衛は断言した。

「……見ているところは見ていると云うことか。流石は上様、良き者を拾いなさる」

 その答えを聞き、兵四郎はにやりと笑った。

「随分と高い買い物だなあ、信義だとしても」

 まだ得心しないとばかりに、慶一郎は反論した。

「いや、むしろ安い。この国における我ら扶桑人の身の安全、交易による収支、冒険者互助組合から出る利益。数え上げれば、我らが手に入れている富は想像以上になる。どうして、中原の民がそれに嫉妬しないと云える? 我らが律儀者で、その財貨を中原の為に使っていると示し続けているからこそ、排斥されずにすんでいるのだ。ならば、租借料などその為の必要経費に過ぎぬ。額はどうあれ、我らの中原への忠誠を示せるのならば安いものだ」

「“ドゥロワの乱”でも払い続けていた理由は?」

 興味深そうに慶一郎が仁兵衛に続きを訊く。「そこまで見えたんだ。理由は分かるんだろう?」

「皇家への忠誠を示す為。東大公家が従えぬといった相手は皇太子であり、皇家ではないと形で示し続けた。故に、東大公家に対して、表だった討伐はなかった。……と、父上から聞いたことがあるから、俺の考えではないなあ」

 苦笑しながら仁兵衛は肩を竦めた。

 元々仁兵衛の頭の回転は良い方である。それを師である帯刀が気が付かぬ筈もなく、様々な事を教え込んではいた。

 そして、仁兵衛の方も帯刀と別れてから西中原を冒険者として見聞していた。政に疎くとも、冒険者として経済観念や扶桑人が西中原の民からどのように思われているか、扶桑商人がどれだけ世に溢れているかを実地で見ているのだ。只、それを口で説明出来る程に考えが纏まって居らず、他人とその様な話をしてきていなかった為に心の内にある達見を開陳した事がなかっただけである。更に付け加える事があるとすれば、武の道に専念したいが故にそちらを敢えて踏み込んでいなかっただけと言う理由もある。

「ああ、そういえばそうか。お前さんに知識を授けたのは上様か。そりゃ、一度答えが纏まれば懸河けんがの弁って処か」

 納得がいったとばかりに、慶一郎は笑い飛ばした。

「そこまで分かっておるなら後は分かるじゃろう。“一統派”の危うさ、がな」

 至って真面目な顔付きで兵四郎はそう口にする。「あやつらはあやつらの見たいモノしか見ておらぬ。他の者の意志など考え及ばないのだ。だからこそ、あの様な無謀な真似をして自分たちに支持が集まると信じておる。明田の一門が東大公家の政から抜けた時点で東大公家が回らなくなるのも理解せずに、な」

「もしかして、上様がいの一番に明田を説得したのは……」

 真剣な顔付きで慶一郎は兵四郎を見た。

「お前の懸念通りよ。明田が抜けたことにより、政がはかどらなくなることを怖れたが故よ。あの方は常に二手三手先を最低でも読む。そして、その為の努力をおこたることはない。だからこそ、裏をかかれることが少ないのだ」

「しかし、今回ばかりは腑に落ちないことが逆に多い」

 慶一郎は真面目な顔で呟く。「扶桑人の中でも上様ほどの先を見通す“目”を有した才人は少ない。先生が上様の対局者ならば兎も角、ここまで綺麗に裏をかく謀を為せる知謀の士ねえ……。先生が内通者の存在を確信するわけが分かりましたよ。これはどうにも焦臭きなくさい」

「故に急がねばならぬ。奴らの動きが変わる前にな。幸いな事に、こちらが仕掛ける時間にはまだ余裕があるから良いモノの、こうも長々と説明させられるとは危うく無駄な時間になるところであったぞ」

 微妙な表情を浮かべた後、兵四郎は光の傍に控えている沙月を見る。「それで、心当たりはないかね?」

「無い訳ではないと思うのですけれど……。何やら怪しいと思える記憶にもやが掛かっているというか……」

 沙月は申し訳なさそうに答えた。

「ふむ。記憶があやふやとはなあ。やはり並大抵ではない術者が敵方にいると見える。陰陽師おんみょうじならば兎も角、中原様式の魔導師ならば厄介な事になりるぞ」

 深刻な表情で兵四郎は頭を悩ます。

「魔導師ねえ。相棒、お前さん、生まれてこの方何人見たことある?」

 何か考える顔付きで、仁兵衛に水を向ける。

 指折り数え、

「片手で数える程度だな。腕がいいを付け加えると、クラウスさんぐらいだろうな」

 と、仁兵衛は淡々と答えた。

「魔術師はごろごろしているんだけどなあ」

 慶一郎は笑い飛ばす。「どんどん焦臭くなってきたなあ、おい」

 扶桑人にとってあやかしの術というものは故郷にいた頃から存在している陰陽道を修めた陰陽師が用いる方術が強いて言えば身近なものと言える。旗幟八流をはじめとした武芸と違い、必要となる資質を持った者が明らかに少ない為、他に流れないように東大公家が囲い込むが故に秘匿性が高いのである。その所為か、勘違いされていることも多々ある。

 一方、西中原におけるあやかしの術とは魔術であり、術を使える者を魔術師、その法則性まで踏み込んで学んでいる者を魔導師と呼び分けている。こちらも術を使いこなすことに資質が要り、魔導として法則を理解することも特殊な資質が必要な為に更に数が少なくなる。但し、魔導を認識する能力は、魔術を使いこなす内に後天的に鍛え上げられることもあり、余程のことがない限り魔術師が魔導師になれないと言うことはない。その代わり、最初から資質がある者に比べれば能力的に数段劣ることとなる場合が多いとされる。

「それに、同じあやかしの術とは云え、陰陽師が魔導師ほど器用に何かをするとは聞いたこと無いけどなあ」

 慶一郎は話が突拍子もない方に転がった所為で目を白黒させている沙月に対し、軽く解説する。

 冒険者にでもならない限り、扶桑人であれ陰陽師が使う術だろうと魔導師が使う術だろうと縁が無いものである。真面目な顔で術が原因の何かを真っ当な者が話し合う事など考えられる事ではなかった。

「向いている方向性と、由来が違うからな。元来、陰陽師とは森羅しんら万象ばんしょうことわりを以て、自然の運行を読み通し、場合によってはそれを多少なりとも最悪の事態に至らぬようにする為の方術。人間好きの魔王が魔界の理をこの世界に導き込む方法を伝えたとされている魔導とでは、意味合いが違いすぎる」

 付け加えるかのように、仁兵衛は慶一郎の言を捕捉した。

「よくもまあ、そこまで御存知ですのね」

 沙月は半分呆れたように驚きの声を上げる。「東大公家の政に近かった私よりも詳しいなんて」

「魔導師の知識に関して云えば、冒険者をやっていれば死活問題となる。知らなければ死ぬこともざらだからなあ。そりゃ、必死にもなるさ」

 苦笑する慶一郎の言葉を継ぎ、

「陰陽師の方は多少なりとも冒険者互助組合で東大公家寄りの依頼を受けていれば、向こうからやって来る。大抵の人間はそこで魔導師との違いを聞くこととなる。これも又、命に直結する話だからな」

 と、仁兵衛は真面目な顔付きで答えた。

「どちらにしろ、冒険者互助組合絡みの仕事をしていれば、東大公家か南大公家絡みの話が出てくるでのお。あやかしの術が割りと身近な話として話題となるのは当然の帰結であろうな」

 二人の話を兵四郎はそう纏めた。

「ああ、先生も組合絡みの仕事していたんでしたっけ、若い頃」

 慶一郎はそれに思い当たり、ぽんと手を打つ。

「まあのお。この鎧も南大公猊下より直々に拝領したものよ」

「成程。道理で、南大公家の象徴色である緑をおどしに用いているわけですな」

 得心がいったのか、仁兵衛は深々と頷いた。

 黄色が東大公家の象徴色として名高いように、緑色も又南大公家の象徴色として中原中に知れ渡っている。正確に言えば、南大公イアカーンではなく、その父知識神ウルシムが好んでいた色なのであるが、子であるイアカーンも好んで使う為に長い時の流れの間で南大公家の象徴色として認識されるようになった。

 別段、誰が使っても問題ないのだが、公の場でその種の象徴色を使った衣装や装飾物を着用していると所縁ゆかりの者として認識されがちの為に、避けるようにするのが習慣となっている。

 特に、扶桑人の武人は小太刀の柄糸の色絡みの問題もあり、己に許された色だけをまとうことを慣例としていた。ただし、貴人の色である、黄色と緑色は畏れ多いとして使う者はまずいない。

「戦場往来している連中にすれば有名な話さ。“翠緑の颶風ぐふう”と云えば、泣く子も黙る戦場の代名詞だからな」

 我が事のように慶一郎は語って聞かせる。

「何、儂なぞまだまだよ」

 兵四郎は首を横に振る。「雷文公様のように、戦わずして勝つことこそが目指すべき道よ。戦働きを怖れられるようでは、将として未熟」

「その威名が争いを避けるのにも役立ちましょうから、一概にそうとも云い切れないかと」

 仁兵衛は思ったままに口にした。

「それまでに流した血の量が未熟を表すのよ。それを自戒として抱き続けるのみ。お主らは真似ぬようにな」

 苦笑しながら、兵四郎はその場にいる若い者へ述懐する。「さて、それで御主らこれまでの話から今をどう見る?」

「そうですな。先生の居場所が分からない限り、連中も大きな動きをすることはなさそうだな」

「現在盤面を唯一力押しでひっくり返せそうな存在だからな。その上、俺達が逃げ込んだ。奴らの云う処の“玉”を完全に取り込めていない以上、有利な状況を態々投げ出す真似もすまい」

 ふと、なにやらおかしな様子の沙月を見て、「如何為された?」と、仁兵衛は尋ねた。

「いえ……、なにやら急な頭痛がしただけで。問題ありませんわ」

 仁兵衛の問いに答えながら、心配そうに見詰める光に沙月は頬笑み返す。

「ならば良いが。無理は為されぬ事だ」

 当人を打ち倒した手前、何らかの違和感の元凶である可能性が高い為にそれ以上強く言えない仁兵衛は労る態度を示した。

「ま、俺も云えた口じゃないが、相棒と遣り合っている時点で無理をしている気もするがね」

 冗談めかして慶一郎は戯けてみせる。「それに、調子が悪いなら無理して何かを思い出す事はないさ。オストシュタットにいる旗幟八流の当主全員が怪しいと分かっていれば、それで充分。後は何とでもなるさね」

「全く。誰も彼も敵に見えるとはのお」

 顎髭を扱きながら、兵四郎はぼやいた。

「当然、親父様もこのことに気が付いていたと云うことかな?」

 誰に言うとでも無し、仁兵衛は思わず呟いた。

「ふむ。その可能性は高いやもしれぬな」

 兵四郎は思いのほか真剣な表情でその疑問に答える。「敵方を思い通りに操る為に、敢えて情報を流して泳がすことぐらいやってのけられよう。裏切り者を捜すよりも、泳がせていた者を探す方が手っ取り早いやもしれぬな。この状況では、その様なことをしている暇はないが、上様を取り戻した後は考える必要があるやもしれぬ」

「もう勝った後のことを考えるんですか、先生?」

 呆れた口調で慶一郎は笑い飛ばす。

「その場その場の成り行きしか考えない者では、何も成し遂げることなぞ出来ぬわ。まずは落着すべき位置を認識し、その勝ち筋を見出し、反撃の間を与えず、己の最善を尽くす。一つの勝利におごることなく、次の勝利の為に万全の態勢をとり続ける。勝ちては兜の緒を締め、負けては雪辱の機に備えよ。一度東大公家の武者として生きると決めたならば、途中で投げ出すことなど許されぬ。全ては天下大義のために命を懸けよ」

 厳かなる口調で、静かに兵四郎は告げた。

 慶一郎と沙月は反射的に片膝を付き、首を垂れる。

 仁兵衛は瞑目し、その言葉を口の中で反芻はんすうする。

「今は分からずとも、いつか分かる日は来る。お主らが真に東大公家の大義を知る日が来れば、だがの。……まあ、お主らがそれを知らぬ儘に死ねるとは思えぬがのお」

 最後の呟きに哀れみの思いをにじませる。「何はともあれ、まずは先にも云った通り上様を救い出すこと。このことから始める。上様の無事を確保した後、儂が手勢を以て逆賊どもを打ち砕く。お主ら二人には辛い思いをさせるやもしれぬが、他にこれにあたう者が居らぬ。伏して頼む」

「先生頭を上げて下さい」

 慶一郎は慌てて兵四郎を止める。

「子としての当然の責務です。気に為されぬよう」

 仁兵衛は真剣な眼差しで兵四郎を見た。

「お主らの好意に甘えよう。故に急ぐ。夜半までに上様を確保し、払暁に仕掛けるのが理想じゃが、そうはいくまい。敵とてそれぐらいは予測しておろう。だからこそ、その上を行かねばならぬ。取り急ぎ為さねばならぬ事をお主らに任せる。即ち、宮城への潜入じゃ」

「先生が先程の策の説明で、俺にも上様の身柄を取り戻すことが重要なのは分かったんですがね、宮城にどうやって忍び込むというのですか?」

 慶一郎は首を横に振る。「正直、俺にはそこが理解出来ない」

「ああ、お主が先程から無謀、正気を疑うなどと否定しておったのはその点か」

 兵四郎は納得したとばかりに一つ頷いた。

「抜け穴でも使うんですかい? 本町と扶桑人街の“冒険者互助組合”に秘密の地下道が繋がっているって云う噂は聞いたことありますけどね、生憎宮城には続いていないでしょう、それ?」

「であろうな」

 兵四郎は同意する。「ちなみに、その抜け穴は実在する。“冒険者互助組合”の東大公家から出向した目付役以上ならばその使用も許されるでな。敵方も知っておろうし、抑えに掛かっているじゃろうて」

「それにどちらにしろ、“冒険者互助組合”の酒場から宮城までは距離がある。潜入するには派手な動きになり過ぎよう」

 仁兵衛は冷静に判断した。

「然り。仮に潜入出来たとて、“奥之院”があると思わしき場所までは遠すぎる。旗幟八流の当主を相手にすると仮定するならば、それまで大立ち回りをすることは避けておきたいからのお」

 戯けた口調とは裏腹に、兵四郎は真剣な眼差しで盤上の絵図面を見据えた。

「他に手立てがある、と?」

 兵四郎の態度を見て、慶一郎は類推する。「姫様の言を聞き、そこからなら近いと云われたこと、“冒険者互助組合”の抜け穴を知りながら特に用いようとしないこと、それでいながら強攻策をとろうとしないこと。宮城に、誰もが気付かない穴でもあるのですか?」

「まあのお」

 慶一郎の推測に対し、曖昧な答えを兵四郎は返す。

「問題でも?」

「潜入自体には問題はあるまい。お主らならば、儂の計画通り宮城に入り込めようよ。問題はその後よ……」

 眉間に皺を寄せ、兵四郎はこの場に居る誰もが気が付いていない難題の解決法を悩む。

「その後、ですか?」

 不思議そうな顔付きで慶一郎は聞き返す。「上様を捜し出して終わり、じゃないんですか?」

「それはそうなのじゃがな。救い出す前に大きな壁があろうに。ふむ……儂や仁兵衛なら兎も角、お主、馬無しでアレに勝てるか?」

 酷く思い詰めた顔付きで、慶一郎を兵四郎は見た。

「……ははぁん、アレというと、師匠のことですか?」

 興味深そうな笑みを浮かべ、慶一郎は兵四郎を見返す。

「有無。今回の件で、一点だけ問題があるとすれば、あの男よ。宮中だろうとお構いなしで、あやつは馬に乗っておろうが、儂の計画でいくならば、お主は馬無しでアレの足止めを最低でもやって貰わねばならん」

「ああ、そりゃあ、きつい話ですね」

 慶一郎は笑い飛ばし、「まあ、足止めぐらいならやって見せますよ。そろそろあの戦狂いの爺にも隠居が近いことを教えてやらないとねえ」と、凄絶なる表情を浮かべた。

「相手方の旗幟八流当主どもがどう動いているかまでは流石に読み切れん。全員“奥之院”に集結しているやもしれぬし、宮城を掌握するために宮の内で動いているやもしれぬ。何が起きるか儂も読み切れぬ故、無理だと悟った時点で退くのじゃぞ。最悪、儂自らが力押しをすることも考えておるからのお」

「流石にそれはさせませんよ、先生。宮城に攻撃を仕掛けるなど、上様の許可があっても後で如何なる沙汰が降るか分かりはしませんぜ」

 悲壮なる覚悟を決めている兵四郎に、慶一郎は心配そうに声を掛けた。

「覚悟の上よ。所詮は本来隠居の身。上様の好意でこの役目を頂いたのだ。上様のためならばいつでも捨てる覚悟よ」 

 強い決意を込めた口調で兵四郎は言い切る。

「爺、無茶は駄目だよ」

「ははは、姫様、問題ありませぬぞ。この兵四郎、無茶は為しませぬ。やれることをやっているだけですからな」

 不安そうな表情を浮かべる光に、兵四郎は自信満々豪快に笑い飛ばした。

「先生の云う処の時を無駄にする説明のお陰で、何ら不安無く策通りに動けそうですがね、如何なる奇術を以てして、宮城に入り込むのかを何時になったら教えていただけるんですかね?」

「良かろう。一刻も争う事態なのは変わりない。まずはお主ら二人、山を越えた先にある街の東大公家代官所に駆け込み、檄文を送り届けよ。代官所は明田の管轄であるから、儂らの味方じゃ。それに、儂の息が掛かった者が幾人か居る故、それらの者に便宜を図らせ、お主らは雑踏に紛れ、河を下りオストシュタットに荷を運ぶ船に紛れ込め。この時、こちらを見張っているであろう追っ手の目をくらますために、代官所の荷運びに混ざるが良い。鎧は鎧櫃に入れ、荷の中に入れておけ。オストシュタットに着いたならば、そのまま本町の奉行所まで荷を運び込む様見せかけ、途中で教導隊の隠れ家へ移るのだ。前もって、お主らを案内する者は潜ませておく。日が暮れてから、外洋船の出る船着き場へと向かい、海を経由して扶桑人街の北に在る三日月湖の対岸に送り届けて貰え。お主らが辿り着く前にその様に手配しておく。後は三日月湖に隠してある舟より鳳凰殿にある隠し船着場に潜り込む。それより後は、姫様の云われた場所にお主らが行くだけじゃて」

「云うは易く行うは難し、ですなあ、正に」

 思わず苦笑しながら、眼下の絵図面を慶一郎は穴を空けんばかりに見る。

「我らが山越えする時点で、相手に気取られませんか?」

 仁兵衛の疑問に、

「当然お主らが動いた時点で警戒し始めるじゃろうな。ただ、嫌という程攪乱かくらんはするがのお」

 と、兵四郎はにやにや笑った。

「随分と人が悪そうなことを考えているみたいですねえ、先生」

「何、然程さほど酷くはないよ。手始めに、代官所からお主らに似た背丈の者を選んで檄文を早馬で飛ばすのと、お主らに似た様な気配を持つ者を使者にして、オストシュタットの奉行所に駆け込ませる程度のことをするだけじゃ。どちらも偽物だと分かっていても、本人達を見つけ出すための材料にはならんだけじゃしのお」

「手始め、ね。他にも何をする気やら」

 楽しそうに笑う兵四郎を見て、慶一郎は肩を竦めた。

「仁兵衛の云う通り、気取られはするじゃろうが、何をするかまでは読み切れまい。上様を救うか、それとも強襲に懸けるかを見切れぬ以上、いずれかに戦力を集中させるという博打は打つまいて。打って貰っても儂は一向に構わぬのじゃが、そこまで莫迦が揃っていたかのお?」

 顎髭を扱きながら、視線を沙月へとやる。

「仁兵衛様のことを異様に怖れていましたから、むしろ宮城の警戒を厳重にする可能性の方が高いかもしれませんわ」

 淀むことなく、沙月は自信満々に答えた。

「それはそれで癪に障るのお。儂も舐められたものじゃて」

 殺気だった笑みを浮かべ、兵四郎は目を細めた。

「物騒な喜び方をしますな。まあ、先生らしいと云えばらしいですが」

 苦笑する慶一郎に、

「何、彼奴きゃつばらに教えてやることが増えたのは喜ばしき事よ。役目柄のお」

 と、殺気を抑えることなく大笑した。

「猛るのは一向に構わないんですが、やり過ぎないで下さいよ。ああ、でもある程度は先生が目立たないと俺達がやりにくくなるのか。しかし、先生が前に出過ぎたら出過ぎたで、今度は上様を人質に取られる可能性も高いから、痛し痒しですなあ」

 慶一郎は思わず苦笑した。

「どちらにしろ、親父様を救わねば話が始まらないと云うことだ」

 強い意志を篭めた瞳で、兵四郎を見る。「救出後の脱出経路は?」

「逆に辿るも良し、中央突破するも良し。合図さえあれば、儂らはいつでも飛び込めるようにしておこう」

 にやりと笑い、兵四郎は易々と請け負った。

「すると、どうやって連絡を取り合うかが問題になりますな。狼煙のろしでも使いますか?」

「止めておけ、止めておけ。何が起こるか分からぬ以上、単純すぎる手は齟齬そごを生む。ある程度硬い手を使うべきじゃろうな」

 暫し考えてから、「儂の手の者を使おう。確実とは云えぬが、この距離ならば何とでもなろう」と、決断した。

「先生の手の者? 忍びの者ですか?」

「如何にも。古くから使っておる者共故に、心知れたる者が多い。それに、鳳凰殿に送り込むときに使う船頭もその中の一人故、丁度良かろう。どちらにしろ、夜明けには本陣をオストシュタット付近まで押し上げる必要があろうし、忍びの者を使番つかいばんがてら使うのも問題あるまいて」

「連絡を密にするのは良いことですな。出来れば、の話ですが」

「まあのお。流石に手練が集まっていよう宮城には送り込めぬからの」

 兵四郎は苦笑する。「こちらも手練揃いじゃが、当主やそれに準じる使い手の目を誤魔化すほどの忍びはそうはおらんからの。まあ、宮城の外ならば問題なかろうて」

「内に入れば何ら支援無し、と。ははは、戦人の血が滾りますな!」

 低く吼えるように慶一郎は笑った。

「滾らすよりも冷静、冷徹に気を内に秘めるべきだと思うがね」

 仁兵衛は溜息を付く。「我らの仕事は密やかに親父様を救うことであり、道場破りをすることでも、陽動を仕掛けることでもないのだから」

「分かっている、分かっている」

 ちっとも分かっていない表情で、慶一郎は浮かれて鼻唄交じりに具足を脱ぎ出す。

「やれやれ」

 再度大きな溜息を付くと、仁兵衛も身に纏う具足を取り外した。



 あしが生い茂る三日月湖の北岸から鳳凰殿を眺めれば、ひっそりとしており、普段の様とは明らかに違った。むしろ、ここまで何の咎めもなく入り込める時点で異常と言えた。

「やれやれ。宮城を抑えるので敵さんは手一杯ってことかい。今のところ、先生の読み通りだねえ」

 慶一郎は慨嘆がいたんする。「全く、ここを抑えなければ忍び込まれてお終いだろうに」

「今はその方が都合が良いから何とも云えないな」

 仁兵衛は苦笑で返した。

「それはそうだがな。不用心にも程があろうに」

 むすっとした顔で慶一郎はぼやいた。

 慶一郎の言い分にも一理も二理もあることぐらい仁兵衛も理解していた。

 元々、鳳凰殿とは扶桑より渡ってきた時に、扶桑で発達してきた建築技術の粋を失わせまいと考えた雷文公や一部の貴人が水上宮殿を己らの威信に懸けて築き上げたものである。当然、警護面から反対意見や三日月湖を大きく囲んだ縄張りを進言する者もいたが、当時の情勢からそこまで資金を回せなかった為に、警護の兵を置くことで代わりとした。

 その後も鳳凰殿の守りに関する奏上は幾度も行われたが、様々な情勢への配慮から保留案件として先送りされてきた。その分、北岸警備の兵は精鋭を当てることとなった。

「本来は誰が守っているはずだったのだ?」

 仁兵衛は独り言のように呟く。

「さあな。先生の口ぶりからすると、鳳凰殿の船着場すら知らない木端こっぱ武者の様だがな」

 不機嫌そうに慶一郎は返事を返し、辺りを見渡す。「居ないって事は、敵方について持ち場を離れたんだろうよ。どちらにしろ、風上にも置けぬ奴よ」

「確かに、味方にしろ、敵にしろ、身内には居て欲しくない輩だな」

 仁兵衛は相鎚を打った。

「さあて、何時まで待つことになると思う?」

「そんなに待たずにすみそうだがね。気配はある」

 そう答えた後、「問題は、どこにいるかが分からない事だが。中々どうして、怖ろしい使い手だな」と、呟いた。

「お褒めに与り恐悦至極」

 闇よりぬっと現れた人影は、二人の間合いから少しだけ離れた位置に跪いていた。

「こいつは驚きだ。俺達の間合いを読んでやがる。そいつも、偸盗ちゅうとう術ってやつかい?」

 そう楽しそうに顕れ出でた人影に慶一郎は問いかけた。

「忍びの技は全て偸盗術なれば」

 伏した人影は短く答え、「舟の用意は出来ておりますれば、こちらへ」と、蘆の中へと分け入った。

 二人はその後を追い、隠されていた船着場へと辿り着く。

「こいつは驚いた。蘆の陰に隠してあるとはね。他にもあるのかい?」

 純粋な興味から慶一郎は先導する男に尋ねた。

「いくつかは。そろそろ参りましょう」

 男に促され、二人は小舟へと乗り込む。

 静かに舟を岸から離すと、これまた静かに櫓を漕ぎ出した。

「目印もなく行けるものなのかね?」

「慣れておりますれば」

 慶一郎の問いに短く答え、男は静かに櫓を漕ぎ続ける。

「敵方に付いた忍びはいるのかね?」

「おりませぬな。我らは使命を理解しておりますれば」

 立て続けに質問を飛ばしてくる慶一郎に対して嫌な気配一つ見せずに男は答えた。

「使命?」

「左様。東大公家に課せられた使命にございまする」

 聞こえるか聞こえないかの低い声で男は答える。「“冒険者互助組合”にて仕事を為されていたのならば御存知なのでは?」

「……誰でも彼でも知っている内容だとは思わないがねえ」

 慶一郎は思わず苦笑した。

「されど、御二方は御存知のはず」

 確信を持った口調で男は返事をした。

「この世ならざる者を討つ、か。音に聞く古伝の神刀流や天狼神刀流の理念に近いな。柴原神刀流は対人剣術、だが」

 苦笑気味に仁兵衛は呟いた。

「まあ、余程のことがない限り、滅多にないことと考えるだろうしな」

 慶一郎も肩を竦めた。

「御二方とも、既に魔王と戦われている。なればこそ、その危険性を認識される。我らも又、闇に生きる者なれば、使命の重さも又理解しておりますれば」

 男の返事に二人は黙って首を縦に振った。

 その気配を感じたのか、男は何も言わずに舟を漕ぐ。

「鳳凰殿から余り強い気配を感じないな。さてはて、何が出るやら」

 暫く黙って気配を探っていた慶一郎がぽつりと呟く。「こっちから奇襲はないものと高を括っているか、もしくは俺に気配を探らせないほどの使い手を密やかに配置しているか」

「……居ないわけではないらしいが、思っていたより少ないようだな」

 明火の力を借り、鳳凰殿一帯の生気を探った仁兵衛は力強く断言した。

「先生が何か動いているか、それとも他の理由からか。罠の線も捨てられないが、ここから侵入されると想定していない可能性も大、か」

「確かに。俺ならば、友が馬無しで仕掛けてくるとは考えないな。自分の師匠が敵に回っていると理解していると分かっているのならば」

 二人は冷静に現状を解析していく。

「その上、先生の元にいるのならば、姫様を旗印に攻め込めば問題ないわけだからなあ」

 仁兵衛の考えに慶一郎は頷く。「もしくは、余人に“奥之院”を知られたくないか、だが……」

「無いとは云い切れないな、それは。先生ですら実在を知らなかった場所だ。当主連中がひた隠しにする理由にはなる」

 一理あるとばかり、仁兵衛は頷いた。

「実在が不明な場所で弑虐すれば、こっちに責任を擦り付けることも出来なくもない。何せ、誰も知らないのだから、どこで殺されたか分からないのだしな」

 さらりと慶一郎は考え得る最悪を口にした。

「そこまで外道ではないと信じたいがね」

 仁兵衛は苦笑する。「そういえば、貴公は“奥之院”を知っているのかね?」

「実在することは知っておりまするが、場所までは」

 男は低い声で答えた。

「在るのは確かなのか」

 多少驚きを含んだ声で、仁兵衛は男に問い糾した。

「それは。使命と裏表の関係なれば」

「……使命と? 意外な話が聞けたな」

 慶一郎が興味深そうに呟く。

「不思議ではないかと。旗幟八流は本来この世ならざる者を斬るための刃なれば。我ら忍びの者はそれを補佐する役目を頂いておりまする。そして、その役目に誇りを抱いておりますれば」

 静かな口調とは裏腹に、怒気を篭めた眼差しで鳳凰殿を見据えた。

「くくくくく、いやあ、面白いねえ。実に面白い。俺達表芸の侍が誇りを忘れ、裏に生きる忍びの方が大義のために死する覚悟を有す。雷文公がこの世を見ていたら何と思われるか」

 気を抜けば大笑してしまいそうな心持ちをぐっと堪え、慶一郎は腹を抱える。

「その一人が自分の師匠だと云うことはどうなんだ、友よ?」

「ああ、あのクソ爺には引導を渡したかったから、丁度良いのさね。まあ、兄者には悪いが、一門の恥を何時までも晒しているわけにもいくまい。先生に対抗意識を持ちすぎて、退き時を誤ったんだ。過ちは正さなければ、な」

 凄絶な笑みを浮かべ、溢れ出んばかりの闘気を押さえ込む。

「そうか、分かっているならば良し。後は、目的地まで気付かれずに向かうことだが」

 考え込む仁兵衛を見て、

「なるようにしかならんだろう」

 と、晴れやかな口調で慶一郎は笑い飛ばす。

「そろそろ鳳凰殿にも声が届きかねない辺りなので、御自重を」

 男の忠告に二人は黙って首を縦に振った。

 全くと言って良いほど櫓の音を立てず、男は静かに船を進める。

 真っ暗闇の中、ほんのりと照らし出される鳳凰殿に近づくにつれ、二人の緊張は増していった。自然体を心掛け、気配を殺し、得物を手元に引き寄せる。

 誰にも気が付かれぬ儘、男は鳳凰殿の床下へと舟を漕ぎ入れた。

 柱と柱の間を行く舟の中、低く身を伏せ、頭に当たりそうな梁を避けながら、目的地へと静かに進んでいく。

 やがて、それと知らなければ気が付かない柱と柱の陰に上に登るための梯子が現れた。

 二人は顔を見合わせ頷きあうと、梯子へと手を伸ばした。

 舟をその場に固定し、

「ご武運を」

 とだけ、男は告げた。

「帰りはどうすればいいのかね?」

 低い声で慶一郎は疑問を口にした。

「合図さえあればすぐにでも参りますが、御二方ならば如何なるやり方でも抜け出せるでしょう」

「そうだな。上様にそこら辺の判断はお任せするとしよう。そうでもなければ、こんな他人任せの経路など俺の主義にはあわん」

 慶一郎は苦笑で返した。

 仁兵衛はその間に梯子を登り切り、頭の上にある床板を丁寧に調べる。

 冒険者として様々な場所に入り込んだ経験から、仁兵衛は抜け穴というものを熟知していた。一見するとそうは見えない姿に偽装されている以上、他の場所よりも用心して作られているものだ。故に、用心して当たらなければ折角の好機を上にいる敵に知られる場合もある。

(主様、周囲に人の反応はありません)

 明火の言を得て、仁兵衛は手早く動きそうな部位を確かめようとした。

「相棒」

 そんな仁兵衛を慶一郎は呼び止めた。

 作業を止めることなく、目線だけ慶一郎の方に向けた処、

「焦るな」

 と、諭された。

 一つ大きな深呼吸をして、気を鎮める。

「落ち着いたか。お前さんの親父さんは天下一の武芸者だ。俺達が束になっても適わないような、な。一歩一歩着実に行こう」

 仁兵衛にだけ聞こえる声で喋りながら、ゆっくりと梯子を上がってきた。

 仁兵衛は心の中で一つ頷き、静かに床板をずらした。

 音もなく慶一郎は一気に梯子を駆け上がり、素早く床の上へと上がり込んだ。

 慶一郎の反応を見てから、仁兵衛は慎重に鳳凰殿へと身を滑り込ます。

 左右を見渡し、人が居ないのを確認してから、互いに頷きあい、慎重に決めていた道筋で“奥之院”であろう場所へと足を進めていった。

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