第二章 血路

 虫の知らせというものか、仁兵衛は自然と目が覚めた。

 騒がしいわけでもない、誰かに起こされたというわけでもない。

 何かが自分の感覚に訴えかけ、即座に戦闘態勢へと肉体が覚醒していく。

 寝間着から着慣れた着流しに着替え、すぐにたすきで袖を掛ける。

 手早く昨日の試合で装備した具足を身につけ、最後に最も頼りになる相棒を腰に佩く。

 手にした相棒が強く何かを訴えていることを悟った仁兵衛は、すぐに妹の部屋へと駆けだした。



 その日、東大公陣営で最も早く動き出したのは間違いなく仁兵衛であり、それがなければ為す術もなく敗れ去ったと誰もが認めた。

 気が付き戦支度をする強者は幾人もいたが、最大の急所に気が付いたものは一人もいなかったのである。

 ただ、仁兵衛の場合は、気が付いたのではなく、本当に守りたかったからいの一番に駆けつけただけなのだが。



「謀反、謀反!」

 仁兵衛が慌ただしい人波に苦戦しながらも光の部屋へと向かう途中、門の方より騒がしい声が聞こえてきた。

 それと共に、東大公屋敷は騒然とし始める。

 心の中で舌打ちしながら、仁兵衛は屋敷が混乱に陥る前に光の部屋に辿り着かんと足を速める。

「仁兵衛!」

 同じく完全武装した慶一郎が庭先から声を掛けてきた。

 返事もせず、軽く左手で鞘を叩いてみせ、そのまま加速した。

「俺は馬に乗り次第表門を守る。血路を開くならこっちに来い、良いな、分かったな!」

 大声を張り上げ、慶一郎はうまやへと向かった。

 自分の意図をすぐに悟った戦友を心強く思いながら、仁兵衛は道なりに進むことを諦め、最短距離を駆け抜けた。

「光!」

 部屋の障子を乱暴に開け、仁兵衛は妹の安否を確認する。

「にーちゃ!」

 侍女達に着替えを手伝わせながらも、光は既に起きていた。

「状況は理解しているな? 直ちに正門より血路を開き、街の外まで逃げるぞ」

「うん、分かった~」

 明るく返事をしてきた光を抱え上げ、

「君たちは裏から逃げ延びろ。表は地獄になる」

 と、侍女達に短く伝えるとそのまま厩へと駆け出す。

「父様はどうするのだ?」

「あの父上様ならほっといても何ともなる。むしろ、俺達がいる方が足手纏いだ」

 複雑そうな表情で答え、息一つ乱さずに厩まで駆け寄ると、帯刀の代え馬の中で最も良い馬を選び、光を乗せてから自分も乗った。

 馬の腹を軽く蹴り、ほぼ裸馬に近い状態で仁兵衛は駆け足させる。

「にーちゃ、馬得意なの?」

「慶一郎程ではないが、並みの騎馬武者が相手ならどうとでもできる」

 馬との呼吸が合ってきたところで疾駆しっくさせ、まだ混乱が残る東大公屋敷から抜け出すために表門へと直走ひたはしる。

 怒号と喚声が塀の外からは聞こえてくるのに、表門に近寄れば近寄るほど無音の世界が近づいてきた。

 そんな異常事態に気が付かぬはずのない仁兵衛は平然とした顔付きのまま一気に表門に駆け寄った。

 開け放たれた表門の前にはただ一人の武者が立ちはだかり、謀反人達の屍山を築き上げ、悠然と馬上で槍を構えていた。

「よぅ、予測より早かったな」

 ニヤニヤと慶一郎は笑いながら、仁兵衛に声を掛ける。

「こっちは予測以上の活躍だな。敵の正体は?」

「旗幟八流。驚きの旗印ばかりだ」

 かんらかんらと笑い飛ばし、槍の穂先で敵を指し示す。「流石に柴原神刀流はないが、うちの流派、降魔がま牙穿がせん流、玉光ぎょっこう明鏡めいきょう流、五月雨さみだれ流の旗印が見えるな」

「出ている人数に比べれば、旗印だけが多い流派も見えるな」

「ああ。こっちの陣営にも少なからず敵方に付いた連中の流派の人間もいるからな。揺さぶりにはなるさ。まあ、玉光明鏡流みたいな素肌剣術がこんな完全武装の戦場で役立つとは思えねえから、頭数としてこっちを威圧するために出していると云うよりは、既にそっちに付く気はないという意思表示で間接的な圧力として使っている可能性もあるがな」

「流石は戦上手。そう云う事を読ませれば理路整然としているものだな」

「俺ならそうするってえだけさ。ま、街中で完全武装した侍を歩き回らせるより、玉光明鏡流の連中を果たし合いの装束で見廻りさせた方が町民の感情を逆立てないだろうから、適材適所ってヤツかもしれねえけどな」

「どちらにしろ、頭が回るヤツがあっちの上に立っていると見るべきか」

「何せ帯刀様でもこうなると見抜けなかったほどだ。俺達がどうこう云っても始まるめえ」

 にやりと笑い、槍を大きく振り回して慶一郎は敵陣に穂先を向ける。「それで、どこに逃げる? 俺に心当たりはねえぞ?」

「さて、どうしたものか」

 敵陣を見やって、仁兵衛は気負いもせずに、「突破するだけなら、光を連れても問題ないが、行き場所がないのはな。流石に、クラウスの世話になるわけにもなるまい」と、苦笑する。

「にーちゃ、突破できるの?」

 光は遠巻きにこちらの様子を見ている大軍を指さし首を傾げる。

「ははは、随分と過小評価されているじゃないの、仁兵衛」

「過大評価されるよりはマシか。敵はそう思ってくれていないようだがな」

 明らかに突破させまいと重厚な陣を敷く敵を見て、予選で活躍しすぎたかと仁兵衛は心の中で舌打ちする。

「いやいや、お前さんの所為じゃなくて、間違いなく俺の所為」

 ニヤニヤ笑いながら、慶一郎は槍を大きく頭の上で旋回させて見せた。

 それだけで、最前列の敵が最低でも半歩後退あとじさる。

「……ああ、既に戦場で有名だったか、慶一郎は」

 重傷を負い、呻き声を上げる左右の山を見て成る程と仁兵衛は納得する。「伊達に朱鞘と葡萄色えびいろを許されている男は違うね」

「ま、その俺の愛用の得物ごと叩き折ったお前さんはもっと恐れられているかもしらんがねえ」

 他人事のように笑うと、「そういうワケだ、御姫さん。仮に、姫さんが俺達じゃあ突破出来ないと思っていても、敵さんはそうは思っていないようなんでな。そのお陰で、逆に突破は容易なんじゃねえの、あの腰の引けた連中相手なら」と、光に軽々と請け負って見せた。

「そーか。だったら、山の中のジイのところに行けるね」

 ニコニコと光は自信を持って口にする。

「山の中のジイ?」

 初めて聞く言葉に仁兵衛は首を傾げた。

「うん。にーちゃの事も気に入ってくれると思うな~」

 不思議そうにする仁兵衛に気が付かないのか、光は自信満々に意見を述べる。

「山って、アレかい?」

 慶一郎は顔を街の外にあるぽつねんと存在する割りと高い山を見る。

「そうだよー。ジイは教導隊とか云うところにいるんだってー」

 その言葉を聞いた瞬間、仁兵衛と慶一郎の目の色が変わった。

 お互いに視線をよこすと、大きく頷きあう。

「当面の行き先は出来たな」

 派手に大見得みえを切るが如く、槍を振り回し、慶一郎は眼前の敵を睨む。

「そうだな」

 静かに笑みを浮かべ、音もなく太刀を右手で抜き放つと、「光、落ちないようにな」と、仁兵衛は左手で光を固定する。

「にーちゃ、殺しはダメだよ? みんな父様の民なんだから」

「分かった」

 仁兵衛は力強く頷いてみせる。

「俺もかい?」

「けーちゃんも殺しはダメだよ?」

「やれやれ。姫様の御下命とあらば、遵守じゅんしゅする努力はしないとな」

 楽しそうに笑い出すと、慶一郎は馬の腹を蹴り敵陣目掛けて単騎駆ける。

「光、舌をかまないように口を固く閉じておくんだよ?」

 呼びかけに無言で頷き返した光を見て、慶一郎に追いつかんとばかりに仁兵衛は馬を駆る。

「ハァッハハッハッハハハハーッ!! 原慶一郎のお通りだ! 我こそはと思うものは道を妨げて見せよ!!」

 信じられないくらい上機嫌に高笑いをしながら、慶一郎は槍を振り回し、上手いこと邪魔する者を殺さぬように薙ぎ払いながら愛馬で逃げない者を蹴散らしていった。

(星馳騎突流の達人は一軍に匹敵するとも云われるが、慶一郎を見ていると、それが誇張どころではなく、過小評価に見えるから恐れ入るな)

 相変わらず戦場働きをするとはしゃぎ過ぎる友人を見て畏怖と近しさを感じた。

 馬上での戦働きでは決して届かぬ境地にいる友への羨望や恐怖をない交ぜとした畏怖に、所詮剣術は殺伐としたものを地でいく同志としての連帯感、そして、戦場を漢の花舞台だとばかりに全力で大暴れする様。

 いつ見ても胸がすく戦舞いは憧れであり、目標であった。

(俺も負けてはいられないな!)

 左手で光を抱え込み、両脚で確りと馬体を挟み、右手で太刀を抜き放つと、

逆風さかかぜ!」

 気合一閃、右上段から太刀を振り下ろす。

 剣風が衝撃波となり、慶一郎の右脇を抜けていく。

 予測もしない攻撃が襲いかかってきた討ち手側の虚を衝き、慶一郎の攻撃よりも派手に吹き飛ばす。

 慶一郎はそれを見るやいなや、愛馬に気合いを入れてさらなる加速を駆け、一気に敵陣奥深くに斬り込んだ。

 そんなに早く斬り込んでくるわけがないと高をくくっていた敵を思うが儘に蹂躙じゅうりんし、さらなる混乱を生み出す。

「ご機嫌じゃないか、相棒!」

「お前程じゃないさ!」

 二人は声を荒げ、笑いあう。

 十重二十重に囲んでいた猛者達も当初と比べると腰が引けていた。

 優勢に進んでいた戦が、たった二人の攻勢であっさりと崩れ去ったのである。自分たちのところ以外では勝っているのだから、勝ち戦の尻馬には乗りたい。だが、死にたくはない。そんな気持ちが綯い交ぜになって元より気乗りしない戦いに駆り出されていた旗幟八流の門弟達は逃げ腰になっていたのである。

 従って、二人の前に展開している部隊が戦慣れしていたり、先を見通せる指揮官がいれば話は変わったのだろうが、天は仁兵衛達に頬笑ほほえんでいた。

 その機を見誤る二人ではなく、勢いのままあっさりと包囲を抜け、城門を突破するために人気のない大路を駆け抜けていく。

「……温いな?」

 外に通じる朱雀門が見える場所まで来て、慶一郎は呟く。「水も漏らさぬ包囲陣だった割りにはあっさりし過ぎている。こっちが街に出たら、向こうも強攻策を使えないはず。何を考えているんだ、連中?」

「流石に冒険者組合の方は抑えを送り込んでいるだろうが、町衆の気質を考えればそれ以上の強攻策は取れないと考えるのが常道。ならば、俺達の予想以上に連中がド阿呆なのか──」

 言葉を途中で切り、仁兵衛は何もない虚空に剣風を巻き起こす。

──ピシュぅ

 微妙に気の抜けるような音がした後で、地面に乾いた音が落ちてきた。

 間髪入れず、今度は大量の雨の如き矢が空を覆い尽くす。

「矢による狙撃だって? 五月雨流も本気で敵に回っているのか、糞ッ垂れめッ!」

 悪態を吐きながらも、槍を素早く旋回させて矢切やぎりを行い仁兵衛と光を守るべく盾として立ちはだかる。「気を抜くなよ、仁兵衛! 連中の本気になった【刃気一体】は厄介だぜ!」

「成る程な。これほどの手札を隠し持っていたなら、ここら一体に見える兵を置く必要もないか。やってくれる」

 辺りを見渡し、気を探りながら仁兵衛は興が乗った表情を浮かべた。

「おいおい、俺が云う台詞じゃネエが、そんな気取った暢気なこと云っている場合か、おい?」

 深刻な台詞とは裏腹に、明らかにこの一瞬を楽しんでいる表情で慶一郎は笑った。

 そんな慶一郎の隣に馬を寄せると、

「任せた」

 そう言い放ち、光を慶一郎の馬へと移した。

「待てよ、どういうつもりだ?」

 流石にその行動は読めなかったのか、慌てた口調で慶一郎は仁兵衛に問い糾す。

「お前なら、このまま街を抜け、山まで駆け抜けられる。そして、五月雨流の使い手を捜して始末するには俺の方が向いている。悩む理由がない」

 下馬しながらそう言うと、仁兵衛は物陰に馬を隠した。

「チッ、面白くネエなあ。後でおごれよ、仁兵衛」

 真後ろから飛んできた矢を振り向きもせずに叩き落とし、「行くぜ、黒風」と、愛馬に声を掛け、一気に駆け去る。

「にーちゃぁぁぁぁ、殺しは駄目だぞぉぉぉぉ」

 光はあらん限りの声で仁兵衛に念を押していた。

 駆け去っていく二人を見届けることもなく、仁兵衛は素早く【刃気一体】まで駆け上がると、当たりを付けた方へと走り出す。

 予測通りの方向から飛んできた矢を叩き落とし、相手が矢を放った一瞬で放った気を察知し、進行方向を変える。

(……埒が明かないな)

 死角から飛んできた矢を叩き落とし、再び方向転換しながら仁兵衛は思い悩む。(五月雨流の【刃気一体】は弓を射る際にのみ解放し、それ以外の時は気の高ぶりを抑えている為、気の察知による索敵が至難。その上、達人ともなれば、射ると同時に次の場所へと移動を完了させている。後の先でどうにかなる相手ではない。さて、どうしたものかな、相棒?)

(……手を出すなと云っていたじゃない)

 ふて腐れた女の声が、仁兵衛の心の内に響く。(貴方の勝負なんでしょう?)

(そう云うなよ。お前の力を使ったら、それこそ面白い勝負などできなくなる。俺の楽しみを奪う気か?)

(変われば変わるものね。死合いを面白いと云い出すのだから。それで、私に何をして欲しいの?)

(索敵と云いたいところだが、それはお前でも出来ないはずだったな。とりあえずは敵を燻り出すために力を借りるぞ)

(仰せのままに、我が主)

 仁兵衛がさらなる気を愛刀に送り込むと、ほのかな紅い光が灯る。

 またもや死角から飛んできた矢を振り向き様に斬り下ろすと、そのまま一息にそちらへと踏み込んだ。

 相手の驚愕する気配を感じ取りながら、微かに残っている相手の気を頼りに追撃を開始する。

(……流石に、気配をここまで消されると方向までは探れてもそれ以上は見つけにくいものだな)

 仁兵衛は溜息混じりに心の中で舌打ちをする。

(ですが、相手も主様の動きの変化に付いてこられていない様子)

(それはそうだろう。突然動きが大きく変わればな)

 倍以上になった一足長、矢切すら必要なくなった回避行動、そこから攻撃に転じるまでの速さ、要は一挙手一投足全ての切れが格段に良くなったのである。その上、徐々にその速度を上げており、明らかに相手は仁兵衛の正確な動きを予測出来なくなっていた。その為か、あれほど正確だった射撃もはたと止んでいた。

 その所為で、今度は逆に相手の居場所を探る術を失った仁兵衛が時々立ち止まり相手の攻撃を誘わざるを得なくなり、結局、先手を奪い返せなかった。

(……どうしたものか?)

 これほどまでの腕前の弓使いと戦った経験は仁兵衛にはなく、手詰まりを自覚せざるを得なかった。

(燃やしますか?)

 何気ない調子で女は仁兵衛に問い掛ける。

(流石に宮城内を燃やすと後々面倒だ。それに、燃やすものの中に人がいたら間違いなくお前の火なら殺すことにもなる。手っ取り早い方法だが、流石に是とは答えられないな)

(ならば如何致します?)

(これほど見事な隠形を為せるとなれば、放置して逃げるにしても危険だからな。どうあろうとも勝負を付けざるを得ないが、こちらの舞台に立たせようとしても立ってはくれないだろう。だからといって、相手の舞台で勝たせて貰えるほど甘い相手でもあるまい。ならば、相手の舞台とこちらの舞台が重なる場に誘導するしかないわけだが……)

 外面からはそうは感じさせないが、内面は焦りを押し隠すので仁兵衛は手一杯であった。

 自分の命だけならば兎も角、ここで相手を見逃す事は後々身内の禍根となる事が余りにも見え透いた状態なのである。自分一人で相手すれば良い今こそがこの恐るべき相手をどうにかする最大の機会であった。

 そして、それが分かっているからこそ、結局何も出来ないことに焦りしか覚えないのである。

(思いつかれない、と?)

(そういうお前はどうだ? 火計以外で何か手はないか?)

 藁でも掴む気持ちで、仁兵衛は相棒に問いかけた。

(逃げるのが一番かと)

 悩みもせずに、間髪入れずに女は答える。

(それが出来れば苦労はしない)

 心の中で溜息を付く。(俺達は兎も角、あれほどの妙手から光を守りきれるか怪しい)

(それでも逃げるべきかと。ここで望む戦いが出来ないのならば、望む戦いが出来る場所まで逃げるのがよろしいと思います。先程の主様とあの粗野なる者の会話からすれば、敵方も街での戦いを避けたいのでは?)

(……確かに。お互い、町衆を敵に回したくはないはず。街に逃げ込めば、少なくとも相手も攻撃はしてこないな)

 女の言っている逃げるが単純な意味ではないと悟った仁兵衛は考えを改め、逃げることで生じることに思いを巡らす。

(今、相手が優位に立てるのは、主様が気を察知できないために敵を見いだせないからです。でしたら、敵が姿を隠せぬ場所に行くか、敵の攻撃できる場所を限られたところからしか出来ぬように誘導すれば──)

(敵を討てる、か。ならば、敢えて馬に乗り、堂々と朱雀門へと行くか。確実に俺をるには朱雀門内で狙撃できる地点に動くはず。少なくとも相手の姿を確認することぐらいは出来るだろうしな)

(仕掛けてこなかった場合は?)

(そのまま街を抜ける。街の外でならば、多少の犠牲が出ても、仕方あるまい。最低限、扶桑の民の死は避けられよう)

(中原の民にとばっちりが行きそうな気もしますが?)

(流石に、城壁の外にいる者たちまではなんともな)

 苦笑混じりの思考を相棒に伝え、馬の隠し場所へと一気に突き進んだ。

 そのまま馬に駆け乗り、朱雀門へと駒を返す。

(さて、どう動いてくれるかな?)

 幾分楽しそうに、仁兵衛はまだ見ぬ相手の行動を待ち侘びた。



 沙月さつきは悩んでいた。

 元々、彼女は“祖法そほう派”でも“一統派”でもなかった。一人の武人として東大公の剣でありたかった。武の名門たるたちばなの一門に属する以上、武人として生きることが跡継ぎとして課せられていると考えていた。一門といってもそう名乗るのも烏滸 おこがましいぐらい傍流ではあるが、先祖の中には旗幟八流の継承者に選ばれる者もそれなりにいたので、遠藤の家は橘の中でも重んじられていた。

 沙月本人も、師から内々に次の継承者ということを言い含められており、流石は遠藤の姫と周りより本人の評価以上に目されていた。

(でも、今回は間違いなく、その所為で要らない苦労をしている気がするわ……)

 男の行動を見張りながら、沙月は内心で溜息を付く。(先代や一門の宗主様がどうお考えだろうと、私には関係ないのに……。断ろうにも、断れない状況に流される辺りがまだ若輩者じゃくはいものって事よね)

 彼女が、“義挙”と呼ばれているこの一件に加わることになったのも彼女の意志で、ではなく、彼女の所属する五月雨流の先代が血判状に加盟していたことが事の発端であった。

 先の争乱で討死にした先代の代わりに“義挙”に加わらねば遠藤の家を取りつぶすと宗主に言われれば、流石に従わざるを得ない。

(先代様も、どうしてこんな莫迦なことに与したのか。東大公様を討てば如何なる理由があれども、扶桑の民が従うはずもない。その程度のこと、分からぬほど耄碌もうろくしているとは思えなかったんだけれど……)

 沙月が今の考えを強く持つようになったのは、家の教えもあったが、師の教えの比重もまた大きい。その師がこの様な愚挙に一枚かんでいたとは到底考えられなかったのだが、物証がある以上、反論材料のない沙月には否定する要素がないのであった。

 そんなめた目で見ていた所為か、“義挙”の花形とも言える宮の攻撃から外され、後方で逃げ延びてきた者を足止め、もしくは射殺せとの指示を受けた。

 実際、やる気がなかった沙月は軽い気持ちで引き受けたのだが、とある人物から、

「“玉”は確実に確保せよ。山に逃げ込まれては厄介なことになる」

 と、去り際に耳打ちされてぞっとした。

 浮かれている者たちは兎も角、少なくとも一人はちゃんとものを見据えている上、山に何がいるかを知った上で、あの命を出していたのだ。

(それも、“玉”が体勢を立て直すために教導隊を掌握することまで想定している。今回の件はただの権力簒奪さんだつ劇じゃない。明らかに、今上きんじょうしいする事だけに主眼が置かれた計画。五月雨流を用いてまで確実に殺ろうとしている。ただの、“義挙”なら殿下を押し込めるだけで良いはずなのに、争乱のどさくさに紛れて確実に弑虐しいぎゃくを狙うとなると……この“義挙”、見た目より何か焦臭きなくさいものがある気がするわ)

 朱雀門の外に出ようと辺りを窺っている男の足を射貫くと、沙月は次の地点に移動する。

 先程から、宮の方が騒がしく、嫌な予感がしたのである。

 旗幟八流の当代ともなれば、勘働きもまた常人などとは比べものにならないぐらい鋭い。その鋭さが、並大抵では収まらない危機を告げていた。

 喉が渇くほどの強い緊張を感じながらも、喧噪けんそうの方に目を向ける。

 争乱の気が強く発せられている場所を注視して、思わずゴクリと喉を鳴らした。

 沙月の目は弓使いだけあって非常に良い。しかしながら、【刃気一体】であろうと流石に視力の強化はあり得ない。ならば何で視るかと言えば、【刃気一体】で強化された【心眼】とも言うべき気の察知能力である。気の大小、細やかな動きなどから、弓の間合いより遠い場所の相手が誰であるか知っている者ならば看破できた。その【心眼】こそが、彼女の狙撃能力を唯一無二と言えるものに押し上げていた。

 そして、【心眼】が訴えているのだ。こちらへ突破を計っている二騎の騎馬武者が先頃の予選決勝で死闘を繰り広げた二人であることを。

(何で、突破してきているのよ?!)

 平静を保とうと、沙月は深呼吸を繰り返す。(あの二人を抑えきるための宮襲撃でしょう! “義挙”の前倒しになった前提条件すら理解できていないの?)

 沙月の焦りは彼女からしてみれば当然である。

 本来、“義挙”は御前試合の本戦が終了した直後に行われるはずであった。

 何故ならば、御前試合の勝者の褒賞が東大公に為せることならば一つ願いを叶えると言うものである為、同志の何れかが優勝してその場で勝者が大義を語り、大衆の賛同を得る。それを持ってして東大公へ挙兵の認可を求め、受け入れられなければ“義挙”にて事を決する。その様な流れを計画の基本骨子としていたのだ。

 だが、予想外の因子が御前試合に乱入してきた。

 それが綺堂仁兵衛と原慶一郎である。

 慶一郎は次期騎突星馳流の継承者の一人と目されているため、予想外というと言い過ぎであるが、誰もが彼が態々御前試合に出場する気があるとは考えてもいなかったのも事実であった。それまで御前試合に興味すら持っていなかった人物がいきなり出場するとなれば誰しもが驚くのは仕方あるまい。

 事実、彼の師匠は彼の存在すら計算に入れていなかった。不世出の名手と呼ばれている彼の兄弟子に関しては色々と手を回し戦地へと出陣させることで行動を封じていたが、中半なかば素浪人すろうにんと化している慶一郎に関しては完全に無視していた。世俗に興味があるとは考えていなかったのである。

 逆を言えば、何に興味があるのか分からない以上、行動の予測が付かなかったという事でもある。結局、彼に近しい者を以てしても彼が御前試合に参戦するとは考えていなかったのだ。

(あの老人なら勝てるでしょうけど、本気であの男をその他大勢で止められると思っていたのかしら?)

 沙月は深呼吸をしながら考える。

 旗幟八流の継承者候補で、別格と言われるのが慶一郎の兄弟子一色いっしき助三郎すけさぶろう義晴よしはるで、次ぐのがその弟弟子の慶一郎である。騎突星馳流の竜虎とか双璧とも呼ばれる二人にまさるのは旗幟八流の現当主達で何とかと言われる始末、二人の師である箕鎚みづち喜三郎きさぶろう金定かねさだですら勝てるかどうか危ぶまれるほどである。只、箕鎚喜三郎は老境に入る年齢から来る評価であり、円熟した技自体は旗幟八流の中でも屈指のもので、それこそ彼の老人に勝る者を探す方が大変であった。

 付け加えれば戦場に於いて、騎突星馳流の皆伝者は一騎当千と言われている。中でも、当主や次期当主候補は“万人の敵”と評される。これは比喩表現ではなく、実際それ以上の働きをする者が多い。

 沙月も戦場でその姿を見ており、この“義挙”で最も当たりたくない相手が慶一郎であった。

 そう、彼女は一度だけ戦場で慶一郎を見たことがあり、箕鎚喜三郎と一色助三郎の二人に匹敵、もしくはある条件下でならば上を行くと見立てていた。

 だからこそ、慶一郎が万全の態勢で対応しかねない、この“義挙”が早まることを危惧を抱いていた。御前試合の組み合わせ次第では、如何に慶一郎といえど、優勝まで勝ち抜くことはあり得ない。むしろ、“義挙”の様に如何なる場面で慶一郎と相対するか分からない状況よりも、確実に舞台が分かっている御前試合で相対した方が勝算が高いと沙月は力説していたのである。そしてそれは“義挙”に荷担している大半の者の意見でもあり、それを理由にして強行することに反対する者もそれなりにいたのだ。

 しかし、それ以上に高い評価を受ける事となった者がいた。

 綺堂仁兵衛。

 流派は不明、我流の動きが多々見られる中、細かい挙動は間違いなく今上たる現東大公柴原帯刀の癖が見受けられる。そして何よりも、ほぼ無制限に使いこなせる【刃気一体】。介者剣術の色が濃く出る柴原神刀流の流れを汲むのならば、【刃気一体】は素肌剣術に特化した流派ほど重視されていない。それなのに、【刃気一体】を自在に使いこなし、【刃気一体】に頼らず、【刃気一体】を用いずに【刃気一体】を駆逐する術に優れた騎突星馳流の名立たる使い手を一蹴したのである。その事実が、“義挙”の計画指導者達に与えた衝撃は大きく、誰であろうと御前試合の形式でならば仁兵衛に勝る者なしとの結論に達した。

 その上、仮に仁兵衛が優勝したならば、“義挙”の正当性を大衆に訴える場を得られなくなる。それどころか、優勝者の仁兵衛が現東大公である帯刀を支持すれば“祖法派”への追い風が吹き渡り、“一統派”そのものが危うくなる。なればこそ、下策と言われていた御前試合直前の挙兵による東大公の身柄の確保を選択せざるを得なかった。

 そうなると今度は戦場での働きがどうなるか分からない仁兵衛より慶一郎の方が危険と目され、その封じ方で論議を呼んだが、朝駆けによる急襲で武装をする暇を与えずに制圧すると言う策とも言えぬ策を取ることとなった。完全武装させず、馬にも乗らせずの状態ならば、万全の構えで事に望む自陣営の側が有利だという判断である。

 それを末席で聞いていた沙月は、成功の目を想像だにできなかったので、その後の陣立てで後方に置かれたことを安堵していた。彼女の知る慶一郎ならば、敵を全て駆逐せんと十重二十重と囲んでいる軍勢を相手に大立回りをするだろうし、仁兵衛のそれとなく流されている噂が本当であれば、育ての父を見捨てて一人逃げ出すとは思えなかったのである。

 だが、現実は違った。

 慶一郎を露払いとして、仁兵衛は逃げを打っていた。

 彼らは“玉”というわけではないから、いざとなれば取り逃がしたところで叱責しっせき程度で済む。

 むしろ、囲いを破られた玉光明鏡流の者たちこそ酷く名を落とすこととなるだろう。

(……ならば、形だけでも止めないとね)

 一矢も報いずに逃がせば流石に問題となろう。

 そう思い、沙月は静かに矢を番え、先を行く慶一郎に向けて必殺の一撃を射る。

 矢を放った指には的に当たった特有の手応えが残った。射た時には既に当たったと分かる、いつの頃からか、沙月はそんな感覚を有していた。

(それを矢切にしてくれるとは、やってくれるわね、原慶一郎!)

 即座に近くに伏せていた同門の者に合図を送り、数多の矢を隠れ蓑に、本命の矢を番える。狙いを定めようとした時、沙月はその存在に気が付いてしまった。

(嘘、姫様?!)

 側にいる二人の気があまりにも大きすぎた為、遠方を探る【心眼】に特化していた沙月ですらいることすら気が付かずにその姿を見逃していた。

 彼女が逡巡しゅんじゅんしている間に、仁兵衛は光を慶一郎に託し下馬すると、そのまま沙月へと真っ直ぐ向かってきた。

 番えた矢を牽制代わりに放ち、そのまま五月雨流の奥義の歩法で位置を素早く変え、再び沙月は矢を番える。

(最悪だわ。“玉”に準ずる者がここを通るなんて)

 沙月はこの時点で“義挙”の失敗を悟った。

 唯一勝機があるとすれば、姫を射殺すことだが、完全に虚を突いたはずの第一矢を矢切された時点で、慶一郎に対して尋常な方法で矢を当てる自信がなかった。

 もし、この時点で彼女が、最初の矢に反応したのが仁兵衛だと気が付いていれば、違う展開もあり得たかも知れない。

 しかし、彼女は最後まで、仁兵衛の本当の意味での恐ろしさに気が付いていなかった。

 先ずは何のいさかいもなく殿しんがりをあっさりと仁兵衛が務めているという事である。殿は基本的に陣営で最強の存在が任じられるものである。何故ならば、殿が必要な場面というのは相手に追撃されていると言う事であり、勢いに乗って襲いかかってくる相手という者を相対するにはそれ以上の何かを示さねば流れに飲み込まれるだけなのである。故に殿は相手の勢いを断ち、尚且つおののかせる何かを持っていなければならない。相手の意表を突く策であったり、思わず足を止めてしまう財宝や、当たれば砕け散る様な圧倒的な武などであり、陣営一の勇猛の士をそれに当てるのは当然の帰結であった。戦場往来の激しい【騎突星馳流】の兵法者ならば他流派の者にそれを譲る真似などする訳がない。慶一郎が包囲を突破した後、敵の追撃の恐れがある状態下でその儘仁兵衛に後ろを任せているのは先の予選で負けた事もだが、戦場で殿を任せても問題ないと認識している事に他ならない。

 次に、確実に当たるはずだった意識の死角から射たれた矢をあっさりと矢切にして見せた事である。これは沙月が【心眼】で見ていてもどちらが矢切をしたか分からなかったのだから酷と言えば酷だが、慶一郎の強さを知り過ぎていた為に仁兵衛がそれを為したと思いもしなかった。知らず知らずの内に仁兵衛を相対的にとは言え過小評価していたのである。

 そして、御前試合の予選で見せた無制限とも言える【刃気一体】。今の自分にとって一番相性の悪い手合いなのに、この場が戦場という事で矢張り慶一郎の方を重視しすぎていた。

 その他にも幾つもの正解に至る示唆があったにもかかわらず、彼女は決してそこに達せなかった。常日頃ならば、疑問に思うようなことも、ある意味で予想外なことが重なりすぎたために、無理矢理受け入れて平常心を保とうとしていたのが裏目に出たのだ。

 そう、仁兵衛をここで相手するという事が最悪の選択であるという結論に至れなかったのだ。

 何はともあれ、既に対応しきれなくなった同門の人間に撤退の指示を出し、沙月は仁兵衛を独りで討つべく、狙撃と移動を目まぐるしく繰り返した。

 仁兵衛はまるでどこにでも目が付いているかのように全ての矢に反応し、確実に矢切をする。矢切をするや否や、矢が来た方向に走り出す。

 沙月が並みの使い手ならば、三度目当たりで確実に斬られていただろう。

 だが、彼女も旗幟八流の当主に選ばれるだけの力を持ち、狙撃と奥義の歩法においては五月雨流始まって以来の天才と謳われるだけの女傑じょけつである。仁兵衛をしても捕らえることは出来なかったが、沙月をしても仁兵衛を射殺すことは出来なかった。

 時間を稼げば援軍が来る沙月の方が多少有利になることは確かだったが、この場に所謂並みの使い手が現れた処で足手纏いにしかならず、どう考えても犠牲者が増えるだけである。この膠着状態をどうしたものかと沙月が悩み始めた途端、仁兵衛の姿が消えた。

 慌てて、【心眼】で辺りの気を探ると、想像以上に自分に近づいていることに気が付き、矢を射る前に再び移動した。

 死角から死角へと移動していたため、本当に紙一重の差で仁兵衛に捕捉されることなく次の地点に移動できたが、沙月は全身から止め処もなく冷や汗が流れ落ちていっているのを自覚した。

 呼吸を整えようと静かに深呼吸をし、遮蔽物に身を隠しながらこちらの場所を探し続けている仁兵衛を観察する。

(笑っている?!)

 赫赫かっかくと光り輝く得物を構えながら、未だにこちらの居場所も掴めず右往左往しているだけなのに、怖れることも怯えることも慌てることもなく、泰然自若とばかりに悠々と辺りをうかがっていた。

 その瞬間、沙月は“義挙”を早めた判断が間違いではないことをようやく悟った。

 綺堂仁兵衛は格が違う。

 仮に騎乗した原慶一郎とあの決勝で戦っていたとしても最後に勝ったのは仁兵衛だと沙月は確信した。

 そして、自分が判断を誤ったことも直ぐに気が付いた。あの時矢切に成功していたのは、慶一郎ではなく仁兵衛だったという事を。

 “玉”を逃がすよりも、“玉”に次ぐ姫を逃がすよりも、この男を生かす方が危険である。今日この日、“義挙”に荷担した者を敵と見なされたら、誰も彼もがこの世の者ではなくなるだろう。

 しんば、“義挙”自体を悪しきものと彼が思わなくとも、“玉”と姫が噂通り身内ならば、それを害した存在を許すとは思えない。態々足手纏いになる姫をここまで自ら守ってきたことを考えれば、身内に対する情が薄いとは到底思えなかった。

(……ここで討つしかない)

 沙月は覚悟を決める。

 如何なる五月雨流といえど、徒で騎馬に追いつける脚力はない。【刃気一体】の極致であれば追いつくだろうが、馬が疾駆できる時間より長く保てるわけもない。

 だからといって馬で追えば、今のように身を隠しながら戦うという事はできなくなる。その上、騎馬同士の戦いで【騎突星馳流】の使い手に勝てるとは考えてはいない。その屈指の使い手である慶一郎にも勝る仁兵衛相手に真っ向勝負で勝てよう筈もない。。

 故に、僅かながらでも優位に立てているこの場で仕留める以外に術がなかった。

 例え“祖法派”の誰かが山の中にいるあの部隊を姫と一緒に掌握しようとも、“玉”さえこちらが握っていればどうにも出来る。

 しかし、仁兵衛に合流されれば、そんな暢気なこともいっていられなくなる。

 “玉”を抑えたと言ってもあの柴原帯刀を無力化出来るほどの使い手は“義挙”の参加者多しと言えど、居よう筈もないのだ。人質として活用するには説得力がない。流石に押し込めた儘でいれば、突破までの時間を考え上手く遣れば膠着状態に持ち込めるかも知れない。その間にこちらの要求を呑ませるか、他の手立てで“義挙”を成功させれば良い。そうこちらが考えてその通りに進んだとしても、“玉”を抑えている強者を仁兵衛が駆逐したらどうなろうか。盤面を力尽くで引っ繰り返す事が出来る、それだけの力を仁兵衛は有していると沙月は直感的に見切ったのだ。

 今のこの場でならば、まだ沙月にも分がある。仁兵衛が強いと言っても今回の“義挙”に参加した将兵を全て駆逐出来るほどではないと見ていた。だからこそ、仁兵衛は姫を連れて逃げているのだ。

 逆を言えば今の仁兵衛は逃げの一手しかない。そこに付け込むところがある。

(絶対に合流されては駄目!)

 そう、沙月は今ここが分水嶺であると“義挙”の参加者の中で只一人正しく認識していた。

 仁兵衛が姫を連れてどこと知れぬ処に逃げていくだけなら問題にもならない。精々最近“一統派”が残らず検挙された迷宮都市に逃げ込むのが関の山であろう。

 だが、彼らが一直線に逃げていく方向は間違いなく“義挙”を引っ繰り返すだけの戦力を持った“祖法派”の大物が控えている処なのだ。

 その上、その男が率いて来るであろう部隊は、現在の東大公家が有する戦力の中でも最強であり、【騎突星馳流】の使い手を何人揃えたところで鎧袖一触がいしゅういっしょくとばかりに蹴散らされるだろう。それこそ旗幟八流の当主や継承者候補を束にして漸く敵うか、敵わないか、その領域にいる西中原最強の戦力なのだ。そんな部隊に仁兵衛と慶一郎が駆け込めばどうなるかは火を見るよりも明らかであった。

(少なくとも、姫と原慶一郎は既に合流したと見るべきか……)

 この時点で“義挙”が破綻していると見なしたのは沙月一人であっただろう。

 既に破綻している“義挙”に最後まで心中する義理は沙月にはないが、これまで育ててくれた父母や何かと取り立ててくれた一門への義理ぐらいは流石にある。

 父母が人質となり、一門が“義挙”に賛同している以上、自分だけが降るという選択肢は既に失われていた。

(機会は騎乗する瞬間か、宮城から脱する瞬間を狙い撃つのみ!)

 知らぬ事とは言え、しくも仁兵衛の狙い通りの結論に達した沙月は、騎乗しようと馬へ向かった仁兵衛を後目しりめに、朱雀門で討ち果たすべく、最良の場所へと気配を断ちながら向かった。



(……動いてくれたみたいだな)

 強化された【心眼】の視界の端をかするかのように映るちらりちらりと素早い動きを察知し、仁兵衛はにやりと笑う。(武芸者たる者、こうでなくてはな)

(戦わずして勝つのが上策と知識神は云っていた気がしますが?)

(戦ならばそうだろうな。これは仕合よ。もしくは喧嘩か。ならば、存分に得物で語り合うが作法というもの。戦などと云う我ら武芸者から見て美しくないものと比べられまい)

(慶一郎辺りが聞いたら噴飯ものの言い種ですわ)

(まあ、慶一郎とはその辺りの美学が違うのは認めるさ。俺は兵法者ひょうほうもの、慶一郎はどちらかと云えば戦人だからな)

 仁兵衛は狙撃可能地点を脇目で確認しながら、気が付いていない振りをしたまま朱雀門へと馬を走らす。

(あら、違いますの?)

(竜のお前に云っても分かるとは思わんがね、兵法者は理を重んじ、戦人は熱気を愛すると云ったところだ。俺は兵法をろくに理解しないものが、なにやら喚き散らしながら力任せに得物を振り回す戦場を好かぬ。今の様に武芸者同士が息を殺し、お互いの理を限界まで振り絞り、一瞬に生死を懸ける仕合を好む。慶一郎をはじめとする戦人は、何ものかが命を燃やし尽くし発する熱気を帯びた場に華を思う。故に、戦舞いとは儚くも美しい。俺もそれは分からんでもないが、好みではない。熱気に当てられることはあるが、自らその熱気を創り出そうとは思わない。俺は、親父がかつて見せた兵法の極みに達したい、ただそれだけだ)

(然う云う事でしたら、我が主の望むがままに)

 珍しく熱の篭もった演説をぶった仁兵衛に、相棒は艶然と笑って見せた。

(……柄にもないことを云ったな。忘れてくれ)

(我が主がそれを望むならば)

(さて、目的地が見えてきた。相手がこちらを射た刹那、こちらの間合いに持ち込む。“竜気”を頼む)

(承知いたしましたわ)

 鞘に収めた太刀がカタカタと音を立てながら眩い赤光が洩れる。

 仁兵衛は気を配りながら、朱雀門へと一気に駆け抜ける。

 朱雀門へとさしかかる瞬間、仁兵衛の予測よりも早く矢が飛来した。

(何?)

 気を張っていた為にその矢の軌道を直ぐに気が付いたが、気が付いたが故に仁兵衛は相手の意図を一瞬見失った。

 何故ならば、その矢は明らかに早過ぎたのだ。

 馬を棒立ちにさせるにしても、進路を変更するにしても、避けるにしろ、矢切をするにしろ、何もする必要がない、そんな間の抜けた一矢であった。

 一件意味のない行動、それこそが沙月が考えついた唯一の勝機。油断も隙も見せない仁兵衛の虚を突くことで、次の必殺の一撃に対して反応を少しでも遅らせる。

 その為に、沙月はもう一手打ってきたのである。

(我が主!)

 本の刹那にも満たない時間、集中が乱れた仁兵衛に相棒が警告する。(真正面です!)

 その警告に気が付いた時には既に手遅れであった。

 朱雀門の外、先程の一矢を放った後移動したのだろう沙月は既に矢を番え狙いを定めきっていた。

 むしろ、矢を放った瞬間よりも前に反応した仁兵衛を誉めるべきであろう。相手の虚を突いた後、更に虚を突く真正面に身を晒して立つ。即ち、己に残った最後の利である隠形を捨ててまで、捨て身の攻撃をすることで、今一度隠れて狙撃してくると思っていた仁兵衛の心の内の虚を更に突く。

 事実、仁兵衛はこの二度の奇襲で致命的な隙を作った。

 そう、本来ならば挽回不能な決定的な隙だったのだ。如何なる仁兵衛でも、この距離で矢を射掛けられたら、即座に反応していなければ流石に死ぬ。

 しかし、沙月が相手をしているのは仁兵衛一人ではなかった。仁兵衛よりも厄介な存在がこの場には居たのである。

「ぐッ!」

 ぎりぎりで反応はしたが、どう考えても矢切にも回避にも間に合わない状況下で、仁兵衛は短く呻きながらも太刀を抜き放つ。(頼む、明火あきほ

(我が主の望むがままに)

 明火と呼ばれたモノは、煌々と刀身を赤く光らせ、仁兵衛の前面に赤光の障壁を構築する。

 刹那、障壁に矢が当たり、矢は燃えさかりながら砕け散った。

 何が起こったか理解できなかった沙月は、呆然とした表情で仁兵衛を眺める。

 仁兵衛はその隙を見逃さず、一気に馬を沙月まで駆け寄らせると、擦れ違い様に鳩尾に柄頭つかがしらで当て身をすると、そのまま馬に引き摺り上げて走り去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る