プロローグ
その国には、今は亡き美しい王女の霊が彷徨っているという。かつて艶やかに流れたぬばたまの黒髪は、死の恐怖が永遠に刻み込まれた為に白く振り乱れ、恨み言を吐きながら夜ごと封じられた離宮を彷徨うのだと、遠い国にまで噂が流れている。
生きていた頃の彼女は、まだ8歳だったにも関わらず、冬初めに舞う穢れない白雪を思わせる美しさと気品を持ち、美女の誉れ高かった亡き母と同じように、白雪姫と呼ばれていた。だが今、白雪を思わせるのはむしろ特徴的で悲哀感を伴う白髪の方であるという。その為、人々は密かに亡霊の彼女をこう呼ぶ――死ら雪姫と。
「お許し下さい! その麦まで持って行かれては、冬が越せなくなってしまいます!」
「黙れ! これでも足りぬくらいだ。税が上がったのは先の触れで知っていた筈だろうが!」
「無理でございます! 今年は特に不作で、あんなにはとても……」
年老いた農夫の哀願にも城から来た兵士は表情を変える事もない。
「王妃様のご命令なんだ。不作と言ってもどこかに蓄えを隠し持っている筈だからそれをとって来いと。王妃様の決めた事は絶対守らねばならぬのがこの国の決まりだ。命令に逆らえばおれがご不興をかう。現にほれ、おまえは麦を隠しておったではないか!」
「ですから、これがないと冬が越せず……」
「枯れ草でも何でも食っておけ!」
うるさげに言い放つと、兵士は老人を蹴飛ばし、無理矢理に麦の束を荷車に乗せようとした。
――その時。兵士の足下に、びぃんと空気を裂く音を響かせながら飛来した矢が、地に深く突き立った。
「なっ……何者だっ?!」
狼狽した兵士が喚きながら見上げたその先、農夫の粗末な小屋の屋根の上、そこには華奢な人影があった。
「あっ……!!」
思わず叫び声を上げそうになり、兵士はすぐに己の口を塞いだ。見てはならぬもの、そこにいると認めてはならぬものがそこにいたからだ。農夫も恐る恐る兵士の視線を追い、同じものを見た。
「……死ら雪姫さま……!!」
初冬の冷たい風になびかせた長い髪は煌らかに白く輝くよう。愛用の小弓に次の矢をつがえ、黒い瞳に燃える闇を浮き上がらせた娘は、粗末な衣服を纏い、枝のように細くしなやかな手足が寒風に晒していたが、それでも生まれ持った気品だけは外せずに、凛としてそこに立っていた。その存在感、確かに熱く……死人のものとは思えない。だが兵士は『その名』を口にした農夫を、
「忌まわしき亡霊など何処にも見えぬッ! それ以上言えば死罪となるぞッ!」
と怒鳴りつけた。
「ひぃっ……」
それを聞いて農夫も思わず我が目を覆い、這いつくばる。兵士の言葉を聞いて、娘はゆっくりと第二矢を放つ態勢に入ろうとする。今度は兵士の眉間を狙う。それを察した兵士は途端に怯えた表情になり、農夫から奪った麦の束を地面に放り投げると、
「もういい! こんな『枯れ草』しか持たぬならいらん!」
と叫び、振り向きもせずに荷車に飛び乗り、馬に鞭を入れて駆け去っていった。まみえるのは初めてだったが、その弓の腕前も、民から奪わねば娘もまた代償を奪わぬ事も、噂で充分に知っている。果たして娘は無言で弓を下ろした。軽やかに屋根から飛び降り、農夫の傍に立った。農夫は這いつくばったまま恩人に向かって顔も上げない。村の家々から、息を潜めて村人たちが見守っているのを知っているから。皆、親戚のような付き合いの小さな村だが、それでも、密告をした者には褒美が出る以上、迂闊な真似は出来ない。この年は本当に皆、暮らしが苦しいのだから。
農夫の様子に娘は軽く溜息をつき、去ろうとした。すると農夫は同じ姿勢を崩さぬまま、そっと小声で呟いた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。何も出来ねぇ儂らをどうかお許し下せぇ」
その言葉に娘は初めてきつい表情を崩してにこりと笑む。
「わたしはわたしの民を見捨てはしない。礼などなくとも恨みもしない。そなたたちはそなたたちのやりようでうまく生き延びるのだ……わたしが、あの女に償わせる日まで」
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