第2話
一階には管理室、リネン室、食堂に浴場、共用トイレ。あとは談話室といったところだ。学生の部屋は上の階にあるのだろう。寮と呼ぶにはこじんまりしていて、どちらかと言えば合宿場のような雰囲気だ。
試しにスイッチを触れば電気もつくし、洗面所やトイレは水も流れる。生活感がまだ残っている気がして、幾ばくかの不安が今更沸いてきた。何処かの部活やサークルで使用している可能性も捨てきれない。だとしたら、紛うことなき部外者の僕にとって、これまで以上のアウェーということになる。
どうしたものか。引き返してしまおうか。
そうだ、誰かに見つかる前に帰ろう。あの綺羅びやかな道に戻るのは気後れするけれど、今誰かに見つかって気不味くなったり、叱られるよりはずっといい。
僕の大冒険はここまでだ。始まって間もないが、さあ帰ろう。無念の帰還ではない。これは戦術的撤退だ。
――そう、自分の身体に命令をしているというのに、僕の足は一向に踵を返そうとしない。それどころか前へ前へと進んでいくのだ。
違う、違う違う。僕は外に出たいんだ。この旧学生寮になんて、もう用事なんてない。
念じれば念じるほど、それに反して僕の身体は出口から離れていく。サーッと血の気が引いていき、背中に冷たい汗が流れるのが分かる。感覚だけが鋭敏になって、身体のコントロールが効かない。
不思議な力で引っ張られていくかのように、僕の足は迷いなく学生寮の二階へと進んでいく。
誰かに手をひかれているかのように。誰かに背中を押されているかのように。ぐんぐんと進む僕の身体は、いつの間にか二階のフロアに立っていた。階段をショートカットでもしたのか、と思うほどに一瞬のことだった。
二階は一階よりも更に薄暗く、全く同じ造りの扉が廊下の両側にいくつも連なっていた。
暗がりに向かって進んでいく。扉が開かれたままの部屋を、通りすがりにちらりと覗く。
白を基調とした扉の奥、内装は至ってシンプルだった。寝具の取り払われたベッド、何も置かれていない机。カーテンで外の光が閉ざされた室内からは、人の生活している様子は伺えない。一階の、僅かな生活感すらここにはない。
他の部屋も確認してみよう。
けれど、またしても僕の手足は言うことを聞こうとしない。突き当りの部屋が、どうしても気になるのだ。
いや、部屋が気になるのではない。あの部屋に誰かいるのを、僕の頭は理解していた。何故、と自分に尋ねても、それに返答する気にもならないほど、僕の身体は知っていた。身体だけが、その部屋を目指していく。
部屋、というよりも、そこにいる人物に向かっていく。
もう帰りたい。言うことを効かない自分の身体が怖くて仕方がない。恐怖に勝る、使命感や執着に近いものが、全てを押しのけてこの身体を動かしていた。
◆
ひとつ、瞬きをした後、僕は二階の一番奥にある部屋の前に立っていた。通路の突き当りに位置するこの場所は、酷く暗かった。
いつの間に、と驚く僕の中身などお構いなしに、身体は急いている。
ドアノブに手が伸びる。この部屋だけは、ほかの部屋とは造りが扉からして異なっていた。アンティーク調のダークブラウンの扉。古びた金の取っ手。学生寮の一室にあるまじき拵えだ。
つるりとしたノブを握ろうとした瞬間、パチンと乾いた音と共に、指先から背骨を通って脳天まで衝撃が走った。
あまりの痛さに、霞がかっていた意識がはっきりとする。酷い静電気だ。未だに痺れて震える右手を、握りしめたり擦ったりして痛みを和らげようと試みる。あまり意味はなさそうだけれど。
そこで、はたと気付く。
身体が自由に動かせるようになっていた。途端に、じわりと手が湿り気を持つ。
こうしてはいられない。さっきの確信に突き動かされていたおかしな状態を信じるわけではないけれど。正気に戻った今誰がいるとも知れない悪趣味な部屋を尋ねる理由も、この場所に留まる理由もない。――よし、足も動く。さあ、帰ろう!
意気揚々と踵を返す。
けれど、再び僕の足はビタッと止まってしまった。それどころか身体は硬直し、一体何処から出ているのか不思議になるくらい変な声も出てしまった。
これは、僕の心とリンクした正常な反応だった。
何故なら、二三歩離れた場所で、女の人が訝しげにこちらを見ていたからだ。
「あー、えっと、その……ご依頼です? ま、いいや。立ち話もアレだし、どうぞどうぞ。」
促されるがままに、僕は結局例の部屋に足を踏み入れることになったのだった。
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