第一章 「おいでませ、カクリヨ」
第1話
白藍の空には、薄紅色の欠片が舞い、柔らかな風が鼻先を擽っていく。見上げれば麗らかな景色が目の前いっぱいに広がっている。ほう、と溜息が溢れるほどの、沁み入る春。
爽やかな風景を満喫できたのも束の間。どんっ、という鈍い衝撃に、僕は現実に引き戻された。
反射的に小さく謝罪を口にするも、既にぶつかったであろう相手の姿はない。残されたのは、人混みに佇む僕だけ。誰も僕のことなど気にしていないのは百も承知だが、人の目というのはやはり怖い。
逃げるように、僕は人の波に身体を滑り込ませた。
道の両脇には、様々な服装でプラカードやポスターを持った人間たちが、客引きよろしく手当たり次第声をかけている。通行人の殆どは、キョロキョロと周囲を見回し、目的のもの或いは興味を引くものを探しているようだ。
誰も彼もが明るい表情をしている。これから始まる新生活に胸を踊らせている人、自分の大学生活が楽しいものであると信じて疑わない人。
どいつもこいつも邪魔くさい。煩わしいったらありゃしない。
――誰も僕に声をかけてくれないからといって、拗ねているわけではない。そりゃそうだ、恨めしそうに暗い表情をしている新入生を誘うサークルなんてないだろう。あっても、宗教の勧誘くらいだ。いや、それすらまだ出会っていないのだが。
考えれば考えるほど鬱々とした気持ちが沸いてくる。それを振り払うように、僕は人混みを掻き分けた。
◆
足元を見つめたまま、我武者羅に進んだからか、気がつけば僕は知らない場所に来てしまっていた。
鞄のなかでくしゃくしゃになっていた学園の見取り図で場所を確認する。目印になりそうな建物は、ひとつだけ。
学園の敷地内、南の方角にぽつんとある古い建物。紙面には「
崩れ落ちそうな壁に、何年も磨かれていないであろうガラス窓。雑草は伸び放題だし、手入れがあまりされていないのは一目瞭然だ。現在は使われていないのだろう、人気が全くない。
取り壊しを待つだけの、旧を冠する建物。もう、必要とされない存在。
薄気味悪い場所ではあるが、賑わいから退避してきた僕には安息の地にすら思えた。徐々に胸にざわめきが生まれてくる。
中に這入ってみたい。
僕は小さい頃の探検ごっこを思い出していた。
どうせこの後は予定も何もないのだから、少しくらいならいいだろう。
周囲に誰もいないことを確認し、僕はそろりと足を運ぶ。コンクリートの玄関はひび割れて、土埃がかかっている。靴跡があるが、用務員か誰かだろうか。もし見つかっても「間違えました。」でなんとかなるだろう。
勧誘のアーチに怯えていたときとは比べ物にならないほどに、今の僕は肝が据わっている。
鉄の色が剥き出しになったドアノブに手をかける。鍵はかかっておらず、容易く扉は僕を迎え入れた。ぱちん、と微かな静電気が走るが、そんなことよりも薄暗いエントランスの奥が気になっていた。
「お邪魔しまぁす……」
か細い僕の声すら反響するほどに、屋内は静まり返っている。
中は、外に比べると綺麗に整えられている。掃除はされているのだろうか。流石に土足での探索は気が引ける。近くに置かれていたスリッパを拝借し、僕は旧学生寮へと上がり込んだ。
こうして、僕の怖いもの見たさの探検ごっこが幕を開けた。
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