十五の章 ナガスネの悲願、オモイの策略

 ヤマトの国の嫡男であるイツセは、早馬で届けられた父王ウガヤの命令書を読んで驚愕していた。

「何という事を……。ツクヨミはいざ知らず、アキツ様を討てとは、父上はご乱心されたのか?」

 イツセは計り知れない衝撃を受け、書状を握り潰した。そして馬に跨ると、

「城に戻る。父上と話さねばならぬ」

 イツセは軍を率いて、ヤマトの国へと戻り始めた。


 タジカラは、イワレヒコの魂が武彦のものと変わっている事を知らないため、残虐なイワレヒコが豹変したのを信じられないでいた。

「私を偽者と思うか、タジカラ?」

 イワレヒコが不意に尋ねた。タジカラは自分の心が見透かされたようで、ギクッとした。

「いえ、そのような事は思っておりませぬ。あまりに思いもよらぬお言葉故、驚いただけにございます」

 タジカラは頭を下げて弁明した。冷や汗が全身から噴き出し、危うく震えそうだ。何故これほど恐怖を感じるのか、タジカラにもわからない。イワレヒコはそれ以上追及するつもりはないらしく、

「ならば、軍を退くが良い。私も同行しよう」

と言うと、タジカラの乗っていた馬車に向かって歩き出す。

「はは」

 タジカラは救いを求めるようにウズメを見た。ウズメは只頷き、

「イワレヒコ様のお言葉通りに」

と言っているかのような目でタジカラを見た。タジカラは考えるのをやめ、立ち上がった。

「全軍、城に戻るぞ。支度致せ!」

 タジカラの大声が遥か後方の兵にまで届いた。タジカラは足早にイワレヒコの前に出て彼を馬車に乗せ、自分達も乗り込むと、先陣となり、ヤマトへと戻り始めた。

『ツクヨミさん』

 イワレヒコの中の武彦は、心の中でツクヨミに話しかけた。実はツクヨミが姿を消して、武彦の代わりに言霊によってイワレヒコの声を真似て喋っていたのである。武彦は只口を動かしていたのだ。タジカラがイワレヒコに恐れを抱いたのも、ツクヨミの言霊の力である。

『はい、たけひこ様』

 武彦はあまりの緊張に気を失いそうだった。

『大丈夫なんですか、このままで?』

 しかし、ツクヨミは、

『大丈夫にございますよ』

『そ、そうですか』

 ツクヨミの力強い言葉に武彦はホッとした。ツクヨミは完全に姿を消していて、誰にも気づかれるはずはないと思っていたが、何故かウズメが自分を見ているような気がしてならない。

(ウズメ様も舞踏師と言う特別な存在。もしかすると、私の気を感じているのかも知れぬ)

 しかし、見えてはいないとツクヨミは安心していた。

「全軍、支度整ったな」

 タジカラが窓の外に気を取られている時、

「ツクヨミ殿ですね」

とウズメが小声で話しかけて来た。ツクヨミは驚きのあまり、もう少しで声を出してしまうところだった。武彦もウズメがツクヨミに気づいた事に驚いている。

「私が見えるのですか?」

 ツクヨミは驚いて小声で尋ね返した。ウズメはクスッと笑い、

「見えはしませぬ。ですが、貴方の気は感じます」

「そうですか。実は……」

 ツクヨミは慌てて説明しようとしたが、

「ご心配には及びませぬ。貴方の志は良くわかっております故。また後程」

 ウズメはそう言うと、タジカラと話を始めた。ツクヨミはホッとした。武彦も思わず安堵の溜息を吐きそうになり、慌てて抑えた。

(やはりな……。ウズメ様なら、気づくとは思ったが……)

 ツクヨミは心強い味方を得たと思った。


 ホアカリは斥候からの報告で、タジカラ軍が引き上げて行く事を知った。

「退いてくれたは良き事なれど、如何なる事が起こっておるのか、全くわからぬ」

 ホアカリは尚も不安になっていた。妃のトミヤも心配そうにホアカリを見る。

「ナガスネ様、ご到着にございます」

 兵が駆け込んで来て告げた。

「陛下!」

 ナガスネはスサノ、クシナダを伴い、玉座の間に入って来た。

「大儀であった、ナガスネ。タジカラは退いたぞ」

 ホアカリがようやくホッとして言った。するとナガスネは、

「すぐに追い討ちをかけまする」

と出て行こうとした。ホアカリはそれに驚いて立ち上がり、

「待て、ナガスネ。追う必要はない。タジカラは戦上手ぞ。追い討ちはいかん」

 ホアカリはいつになく強い口調で言った。ナガスネはその声に呆気にとられたが、すぐさま跪き、

「はは」

と従った。そして、

「うぬらは、出陣の支度をしておけ。折りを見てヤマトに向かう」

と小声でスサノに言った。

「はい」

 スサノとクシナダは、ホアカリとトミヤに深々と頭を下げ、退室した。

「ナガスネ」

 ホアカリが声をかける。ナガスネは顔を上げて、

「はい、陛下」

 ホアカリはニッコリとして、

「良い機会じゃ。ヤマトと和議を結ぶ事はできぬか?」

「何と!」

 ナガスネはホアカリの出し抜けの提案に仰天した。

「何を仰せです、陛下。そのような下手したて話は、ヤマトから申す事。こちらからではありませぬ」

 ナガスネの顔が険しくなった。ホアカリは思わずトミヤに救いを求めた。トミヤは夫に頷き、

「兄上、そのようなお考え、お捨てくだされ。このまま戦を続けては、民が苦しむばかりです。どうか陛下のお言葉に従い、和議をお進めください」

 しかし、ナガスネは聞く耳持たなかった。

「如何に陛下のお言葉と言えども、それだけは聞けませぬ。陛下は長兄なのですぞ。弟君のウガヤ様の方から、そのような話が出てしかるべきなのです」

「しかし、ナガスネ……」

 ホアカリが異を唱えようとしたが、

「いいえ、私は和議など致しませぬ。何としてもヤマトを平伏させて、ホアカリ様をオオヤシマの王にするが、我が願いにございます」

 ナガスネは涙を浮かべて力説した。ホアカリは困り果て、トミヤを見た。トミヤも兄の頑固さに唖然としていた。

(噂では、兄上はヨモツに魅入られていると言う……。それは真であったか?)

 トミヤは悲しくなって涙を浮かべ、夫と兄に知られぬように俯いてそれを拭った。


 イツセの軍はヤマトの城に帰還して、玉座の間に向かった。

「何故戻って来たのか、イツセ!?」

 ウガヤは激怒して椅子から立ち上がり、イツセを問い質した。イツセは跪いて、

「父上、アキツ様を討つなど、天に背くと同じ大罪にございます。お考え直しください」

と諫言した。ウガヤはその言葉にますます怒り、

「戯けた事を申すな! アキツなど、もはや何者でもない! 我が行く手を阻む者は、全て死ぬるのだ!」

 イツセは父の言葉に愕然とした。そしてこの人はかつて自分が尊敬した父ではないと落胆した。それは妃であるタマヨリも同じであった。

「これは申すまいと思うておりましたが、このままではヨモツが蠢きますぞ。オオヤシマは今、悪しき気が覆い尽くしております。危うき事です」

 イツセは殺されるのを覚悟で、ウガヤに言った。するとウガヤは、

「この腑抜けが!」

と椅子の脇に立て掛けられている剣を振りかざし、イツセに斬りかかった。イツセはそれをかわし、ウガヤから剣を取り上げて、右手をねじ上げた。

「血迷われましたか、父上! 心をお鎮め下さいませ!」

 イツセは涙を浮かべて訴えた。

「放せ、イツセ! 国王に対して無礼であろう!」

 ウガヤの怒りは尋常ではなかった。しかしイツセは父の腕を放さない。彼は部屋の隅に控えているオモイを睨んだ。

「オモイ、うぬは父上に何事かしたのか?」

 普段は温厚なイツセが声を荒げたので、タマヨリもそばに仕えている者達も驚いてイツセを見た。

「滅相もございませぬ」

 オモイは平伏して答えた。しかしイツセに見えぬところで、彼はニヤリとした。

(オオヤシマが揺れている……良きかな、良きかな)

 オモイとは対照的に、イツセは恐ろしい未来を感じていた。

「イワレヒコ様、お着きにございます」

 そこに駆け込んで来た兵が伝えた。イツセは思わぬ弟の帰還にギョッとした。

「イワレヒコが? どういう事だ?」

 彼は兵に尋ねた。兵は跪き、

「タジカラ様とご一緒にお戻りです」

とだけ答えた。

「如何なさいましたか、兄上?」

 イワレヒコがタジカラとウズメを従えて玉座の間に入って来た。イツセはイワレヒコに斬られると思ったが、いつもの猛々しさがないイワレヒコに、少しだけ違和感を持った。

「父上がアキツ様を弑するとおっしゃったので、おいさめしていたのだ」

 イツセはウガヤの右手を放し、イワレヒコに説明した。イワレヒコはよろけたウガヤを椅子に座らせて、

「父上、それはなりませぬ。アキツ様を弑すれば、オオヤシマはまさにヨモツのものとなりますぞ」

 イワレヒコのその言葉に、イツセもウガヤも、そしてタマヨリまでもが驚いた。オモイも意外そうに顔を上げ、イワレヒコを見た。イワレヒコはウガヤとイツセを見ながら、

「オオヤシマを覆う悪しき心が、ヨモツを蠢かせております。私は、アマノイワトでそれをはっきりと感じました」

「……」

 ウガヤはイワレヒコのあまりの変わりように声もない。イツセも同じだ。オモイはイワレヒコの変化に、

(これは何とした事だ……)

と歯噛みした。

(思惑が狂うではないか)

 オモイは何かを企んでいる。それは紛れもない事実であった。

「イワレヒコ、ようやく其方もわかってくれましたね」

 タマヨリが涙を流して言った。すると、

「えっ、か、母さん?」

とイワレヒコの中の武彦が、つい声に出して言ってしまった。タマヨリが自分の母である珠世にそっくりだったからだ。

「は?」

 ほんの一言だったので、他の者は聞き取れなかったようだったが、タマヨリとオモイにははっきりと聞こえてしまった。

『どうされたのです、たけひこ様?』

 ツクヨミが語りかける。武彦は、

『ごめんなさい、ツクヨミさん。あの女の人が、僕の母親にそっくりだったので』

『そうなのですか』

 ツクヨミも、その偶然に驚いたが、

『今後はお気をつけください』

『はい、すみません』

 アキツは亜希にそっくり。タマヨリは珠世にそっくり。武彦は動揺していた。

「……」

 そんな武彦の動揺をオモイは見逃さなかった。彼は目を細めた。

(イワレヒコ様が妙だ。一体どうしたのだ?)

 彼はジッとイワレヒコを見ていた。

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