十の章 武彦の気持ち、アキツの誓い

 我々が生きる世界とは別の世界にあるオオヤシマは大きく動こうとしていた。


 嫉妬に狂ったヤマトの国の剣士イワレヒコはヤマトの国とヒノモトの国を隔てる大河、アマノヤス川を越え、言霊師であるツクヨミを襲撃した。

 しかし、ツクヨミは言霊師一族の能力で完全にイワレヒコを翻弄し、言霊によって彼を眠らせた。それを見た兵達はたちまち戦意を喪失し、ヤマトの国へと逃走した。

「牛車が参ります」

 アマノイワトにいるオオヒルメと心同士で交信していたアキツが告げた。

「やはり、ワの国の王族の皆様は、我ら一族より遥かに神に近いですね。アキツ様のお力、実に恐れ多いものです」

 ツクヨミが眠ったままで全く動かないイワレヒコを縄で縛り上げながら言う。

「私達は、王家の者同士で心と心で話ができるだけです。ツクヨミ殿は、そうではありませんでしょう?」

 顔を朱に染め、アキツはやや含羞はにかんで応じた。ツクヨミはアキツの反応に苦笑いをして、

「はい。その時によっては、心を閉じねば気が変になってしまう事もあります。言葉は、遠き近きに関わりなく、聞こえます故」

「そうなのですか」

 アキツも言霊師の一族に生まれたが故のツクヨミの心中を察したのか、顔を曇らせた。

「イワレヒコ様の兵達が事の顛末てんまつをウガヤ様に伝える前に、何とかアマノイワトまで戻れれば良いのですが」

 ツクヨミはヤマトの国の方を見て呟いた。

「案ずる事はありませぬ。あの兵共の言葉をウガヤ殿が信ずるとは思えませぬ。イワレヒコ殿がツクヨミ殿に負けるなど、思いもしないでしょうから」

 アキツは右手で口を隠して、クスッと笑ってみせる。その仕草がツクヨミには眩し過ぎる。

「そうですね。兵共の作り話と思い、彼等に罰を与えるやも知れませぬ」

 ツクヨミは目を細めて笑った。アキツもツクヨミが笑ってくれたので、ホッとしたようだ。実際のところ、ウガヤと言う王はその通りの人物である。疑い深く、人の言葉を信用しない。

「少しでも早く、異界の方をこちらに呼び寄せたい。そればかりを考えておりましたが、異界の方にもその方の暮らしがあります。それを思うと、私達の為そうとしている事は、あまりにも身勝手で……」

 アキツはふと気になっている事を口にした。するとツクヨミは、

「それならば私に良い案があります。お任せ下さい、アキツ様」

「そうなのですか。それは心強い」

 アキツはニッコリして言った。ツクヨミはアキツの笑顔に胸が高鳴るのを感じて思わず彼女から目を逸らせ、イワレヒコの様子を探るフリをした。


 ウガヤは謁見の間で、イワレヒコに付き従った兵達が揃いも揃っておめおめと逃げ帰って来た事に激怒していた。

「一体何が起こったのだ? イワレヒコほどの剣の使い手が、ツクヨミ如きにしてやられるとは考えられぬ」

 ウガヤは椅子から立ち上がり、怒鳴り散らした。

「陛下」

 そばに控えていたヤマトの国の将軍であるタジカラが声をかけた。彼はイワレヒコを上回る巨漢で、まさに一騎当千の強者つわものであるが、イワレヒコとは違い、無益な殺生を好まぬ温厚な男だ。しかし、一度ひとたび戦となれば、タジカラにかなう者はいないと言われている。

「言霊師は秘術を使います。イワレヒコ様は、ツクヨミの術に嵌められたのではないでしょうか?」

 タジカラは激高するウガヤを落ち着かせるためにゆっくりと話した。

「なるほど。イワレヒコは確かに強いが、考えなしに突っ込むところが悪しきところ。それはあり得るな」

 椅子に腰を下ろしたウガヤはタジカラの意見に頷き、すっかり怯えている兵達を見渡す。

「うぬらは兵舎に戻り、出陣の支度をせよ。再び、ツクヨミを攻むるのだ」

「ははっ!」

 兵達は転がるようにその場から走り去った。次にウガヤはタジカラを見る。

「うぬが隊を率いよ、タジカラ」

「はっ!」

 タジカラは深々と一礼し、退室した。

「陛下」

 ウガヤの妃であるタマヨリが言った。その面差しは娘のイスズに似ている。但し、タマヨリの方がイスズよりはかなそうに見える。身に着けている衣は王族の証である白地に緋色の縁取りがされていた。ウガヤより年下の彼女は、髪は未だ漆黒で頭頂部でまとめられ、髪留めで留められている。そこから下ろされた部分も艶があり、その肌も若々しくて張りがある。粗野なウガヤには勿体ないほどの美麗な女性だ。だが、ウガヤとの関係は悪化している。互いが相手を必要としていないのだ。

「何だ?」

 ウガヤはこの何もできない妃を疎んじている。タマヨリにもそれはわかっていた。ウガヤの心はアキツに向けられている。彼女はそう考えていた。しかし、嫉妬ではない。もはや二人の間には、愛も思い遣りも存在しないのだ。

 元より、この戦はナガスネがそそのかしてホアカリに始めさせたものだが、それに乗った形のウガヤにも野心がある。タマヨリを追放し、アキツを新たな妃として迎える。タマヨリはそんな話を人伝ひとづてに聞いたのだ。根も葉もない噂である。ウガヤには野望しかない。アキツの事も人心掌握のために必要と思っている程度だ。決して妃になどと考えた事はない。彼には物欲と征服欲はあるが、性欲はないのだ。

「アキツ様には、手荒な真似はなさいませぬように」

「わかっておる。ツクヨミをしいするためだ。アキツ様には何もせぬ」

 ウガヤはつまらぬ事に口を挟むタマヨリが鬱陶うっとうしかった。


 他方、ヒノモトの国にも、イワレヒコがツクヨミに倒されたという情報が入っていた。アキツの力に腰が抜けていたナガスネは、更に驚愕した。

「イワレヒコがツクヨミにだと!?」

 もはや人ではない。ナガスネは改めて言霊師という一族を恐怖した。

「ナガスネよ、考え直せ。アキツ様とツクヨミは、我らとは違うのだ。敵う相手ではない」

 ホアカリ王がナガスネの動揺を見かねて言った。

「しかし、イワレヒコは、気が緩んでいたのやも知れませぬ。こちらが気を引き締めておれば、ツクヨミに負ける事はありませぬ、陛下」

 本当は、膝の震えが止まらないほど怖じ気づいているのに、ナガスネは尚も強がりを言った。

「兄上、お控えなさいませ。陛下のお言葉ですぞ」

 王妃トミヤが口を挟む。忌ま忌ましいと思うが、妹の言葉の方が正当である。ナガスネは、

「失礼致します」

と言うと、玉座の間を出て行った。

「愚かな兄で申し訳ありませぬ、陛下」

 トミヤは悲しみに満ちた目でホアカリを見た。

「お前が悲しい顔をするな、トミヤよ。私には其方のその顔が一番辛い」

「はい」

 トミヤはホアカリの言葉に涙を拭って頷いた。

「それよりも、ウマシが気になる。彼奴は、アキツ様に心惹かれていると聞く。まさかとは思うが、ツクヨミを追うかも知れぬのだ。そちらの方が気になる」

「はい。あの子は、おのれの力をわかっておりませぬ故、誠に気ががりにございます」

 トミヤはホアカリの考えに同意した。



 磐神武彦はヘトヘトになりながら、何とか補習を終え、校舎を出た。もうすっかり日が傾き、校庭にはほとんど生徒の姿はない。運動部の部員達も、すでに片づけを始めている。

「あっ……」

 その時、武彦にはまた声が聞こえた。

『たけひこ様、私達に力をお貸しください。オオヤシマをお救いください』

「また聞こえた……」

 武彦は立ち止まった。そして項垂れてしまう。それでも、気になる事があったので尋ねる事にした。

(貴方は、日本の人なのですか? ワの国って、昔の日本なのでしょう?)

 そんな事を訊かれても、昔の人に「昔の国」という言い方は通じない。そして何より、アキツ達がいるのは、昔の日本ではない。全くの別世界である。

『貴方がお眠りになった時、お会いしましょう。その時に全てお話し致します』

 声の主であるアキツが答えた。

「はあ……」

 武彦が溜息を吐いた時、

「武君!」

 幼馴染みで同級生の都坂亜希が、校門の前から彼を呼んだ。

「あ、委員長」

 武彦は我に返って亜希を見た。亜希は鞄を両手で持ち、左右に動かしている。武彦が近づいて来ないので、イライラしているようだ。

「そう言えば、あの声、委員長の声に似ているかな?」

 武彦は亜希の声とアキツの声を頭の中で比べて、そう結論づけた。

「どうしたのよ、独り言を言って。また変な夢を見ているの?」

 それでも、最近様子がおかしい武彦の事が心配になった亜希が自分から近づいて来て尋ねる。武彦は苦笑いをして、

「いや、夢は見ないんだけど、声が聞こえるんだ」

 その方が危ないんじゃないの、と亜希は思う。確かにその通りだ。

「でさ、その声が、何となくなんだけど、委員長の声に似ている気がしてさ……」

 武彦の思わぬ言葉に、亜希は何故か耳まで真っ赤になる。

「な、何よ、変な事、言わないでよ!」

 亜希は鞄を後ろ手に持ち直して、大声で言った。

「えっ?」

 武彦の方は、亜希の動揺が理解できない。

「いつも、委員長に怒られてるから、委員長の声に聞こえちゃうのかな?」

 そしてまた、火に油をタップリと注ぎ込んでしまう。「委員長」を連発された亜希はすっかり気分を害していた。

「し、失礼ね! 私は武君の事、怒ってばかりいないわよ!」

 亜希はプイッと背を向け、そのままスタスタと駆け去ってしまった。

「ああ」

 またやってしまったと思う武彦だった。

「委員長って、時々意味不明に怒るんだよなあ」

 武彦には怒られる理由がわからないとは言え、酷い言われようの亜希である。フウと小さく溜息を吐くと、武彦はトボトボと寂しそうに歩き出した。


 そしてその夜。

 武彦は夕食を済ませて風呂に入って部屋に戻ると、あの女性の声が言っていた事を思い出した。

「眠った時に会いましょうって、ここへ来るのかな?」

 武彦は、その人が来た時、姉や母が部屋に入って来たら何と言えばいいか考えた。

「困るよなァ。何て言い訳すればいいんだろう?」

 心配しなくてもそんな事は起こらないから、とアキツが知れば教えていただろう。

「その時はその時か」

 難しいと思う事はあまり深く考えないのが、武彦の短所であり、長所でもある。

「寝よう」

 彼は布団に入り、目を瞑った。そして、しばらくして眠りに落ちた。


 そう、眠ったはずだった。しかし、武彦は何故か起きていた。

「どこだ、ここ?」

 周囲を見回すと、霧がかかっていて、ほとんど視界ゼロである。明るいのか、暗いのか、それもよくわからない。

「異界の方、お呼び立てして申し訳ありませぬ」

 例の女性の声だ。

「あ、いつもの方ですか?」

 武彦はビックリしてキョロキョロした。しかし、相変わらず霧が深く、見えるものは何もない。

「はい。私の名はアキツ。ワの国の者です」

 その声と共に、霧の向こうからフワッと女性が現れた。その姿は、武彦が図書室で調べた古代日本の女性とよく似ていた。服装も髪型も、武彦が「山田国」だと思っていた「邪馬台国」の想像図に出て来た人物にそっくりだったのだ。しかも顔は、

「あれ、もしかして委員長なの?」

と訊いてしまうくらい、亜希にそっくり、いや、亜希そのものだった。そのせいで武彦は思わず緊張してしまった。

「私はアキツです。『いいんちょう』という名ではありませぬ」

「名前も似てる。ホントに委員長じゃないの?」

「はい。私はワの国の王家の者です」

「OKの者?」

 武彦はそんな天然ボケを連発していた。でもアキツにはそれがわからない。

「これから、私の住むオオヤシマにおでいただきます」

 アキツの言葉に武彦はギョッとした。

「あ、でも、僕、学校行かないとだし、勝手に出かけたりしたら、姉ちゃんと母さんに怒られちゃうし……」

「それは案ずる事はございませぬ」

 アキツは微笑んで言った。武彦はその笑顔にドキッとしながらも、

「えっ、そうなの?」

「はい。私を信じてください、たけひこ様」

 アキツは亜希にそっくりだが、亜希と違って怖くないので、そんなアキツに「たけひこ様」などと呼ばれて、武彦は照れてしまった。身体のあちこちがむずがゆくなる感じだ。

「では、参りましょう」

 アキツがゆっくりと霧の中を歩き出す。

「は、はい」

 武彦もアキツに続いて霧の中を進む。足下も見えないのに何故か不安にはならない。

 遂に武彦はオオヤシマに行く事になる。本当の戦いが始まろうとしていた。

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