九の章 武彦の思い、ツクヨミの奇策
アキツはツクヨミと共にヒノモトの国の森を抜け、アマノヤス川が流れる国境を目指していた。
「このままヤマトに戻っても、貴方は大丈夫なのですか、ツクヨミ殿?」
アキツが歩きながら尋ねる。ツクヨミは前を見据えたままで、
「恐らく、私は
「そうですか」
アキツは先程異界の者から聞いた話をツクヨミにした。
「それは、まさしく定めとも言うべき巡り会わせですね」
ツクヨミもその偶然に驚いたようだ。アキツは歩を進めながら、
「ですから、私はイワレヒコ殿に異界の方を降ろしてしまおうと考えているのです」
「ほう」
ツクヨミにはアキツの思惑がもう一つ理解しかねたが、イワレヒコがこの戦を左右する力を持っているのは否めない事実である。
「わかりました。さすれば、どうあってもイワレヒコ様と会わねばなりません」
ツクヨミは近過ぎるアキツの顔をまともに見る事ができず、俯いてしまう。
「はい。でも気に病む必要はないようです」
アキツの謎めいた言葉にツクヨミは辺りの気配を探った。
「これは……?」
言霊師は、自分の言葉を武器にできるだけでなく、他者の言葉を遠く離れていても捉える力がある。もちろん、面識のない者の言葉は捉える事はできないのであるが。
「イワレヒコ様ですね。兵を率いて、こちらに向かわれているご様子です」
「さすがですね、ツクヨミ殿。私はイワレヒコ殿の気は感じられますが、そこまではわかりませぬ」
アキツは立ち止まった。ツクヨミも歩を止めた。
「馬ですね。かなりの軍勢のようだ。しかし、ヒノモトを攻むるおつもりではない」
「ええ」
アキツは、イワレヒコが発するオオヤシマを覆い尽くしそうな悪意を感じていた。
「イワレヒコ殿は、貴方を探しているようですね」
アキツはツクヨミを見た。しかしツクヨミは前を見据えたままで、
「ええ。私を殺すと仰っています。あの方は、イスズ様と私の事をお疑いなのです」
「まあ」
アキツは、その事に関してはイワレヒコを責められないと思った。ツクヨミには全くその気はないようだが、イスズは明らかにツクヨミを男として見ている節があったのだ。
「だからと申して、イワレヒコ殿が貴方を殺めて良いということはありませぬ」
アキツは毅然とした口調でイワレヒコがいると思われる方角を睨む。
「はい。そして私は、今ここで命を落とす訳には参りませぬ」
ツクヨミはアキツをチラッと見て、力強く言った。
一方、アマノヤス川付近に陣を張っているホアカリの嫡男であるウマシは、イワレヒコの軍勢がアキツとツクヨミに近づいていると知り、色めき立っていた。
「イワレヒコめ、アキツ様を襲うつもりか。そのような事、断じてさせぬ!」
ウマシは騎乗した。そして、
「逆賊イワレヒコを
と叫んだ。しかし、周囲の兵は、ウマシの実力をよく知っている。イワレヒコが相手では、負け戦が見えているのだ。
「王子、ご冷静になってください。相手は一騎当千のイワレヒコ殿です。ここはご自重を!」
参謀役の老兵がウマシを諌めた。ウマシは老兵を馬上から睨みつけ、
「うぬはこのウマシが、イワレヒコ如きに劣ると言うか!?」
その通りなのだが、決してそれは口にできないのが下の者の
「いえ、決してそのような事は……。イワレヒコ殿は怪力無双です。馬ごと斬られた兵が何人もおります故、策を立てねば危ういという事です」
老兵はウマシの怒声に怯む事なく言葉を続けた。
「おのれェェッ!」
ウマシはやり場のない怒りを込めて叫んだ。
(私は兵に見くびられているのか!?)
ウマシのそのような考え方が兵に疎まれる理由だという事を彼は気づかない。
イワレヒコの軍勢は確実にアキツ達に近づいていた。
「よいか、ツクヨミだけだ。間違ってもアキツには手を出すなよ。アキツを殺めれば、民の心は離れ、戦に敗れる」
イワレヒコはその巨体を支えるだけの大きな馬に乗り、周囲の兵達に命じた。
「はは!」
兵達は畏まって応じる。イワレヒコはニヤリとして、
「姉上への手土産は、ツクヨミの首だ」
と呟いた。その言葉を聞き、イワレヒコの近くにいた兵達は思わず身震いした。
「アキツ様はアマノヤス川までおいでです」
そこへ、先発していた斥候が戻って来て報告した。
「よし。川を渡るぞ。物の怪の血で、ヤマトの土を汚したくない」
イワレヒコの命に兵は驚いた。
「し、しかし、川の向こうはヒノモトです。軍勢もおります」
「腑抜けのウマシの軍なぞ、気にする事はない。動きはせぬ」
イワレヒコは、ウマシが動こうとしても、周囲がそれを止めに入る事を見抜いていたのである。
アキツとツクヨミはアマノヤス川が見えるところまで来ていた。川の流れが作る緩やかな風が二人の頬を撫で、アキツの長い髪をフワフワと舞わせる。大河の中を、流れをものともせずに進むイワレヒコの姿が見えた。兵達の馬は思うように進めず、イワレヒコに怒鳴られているようだ。
「イワレヒコ殿の軍勢が、川を渡り始めましたね」
アキツが言った。ツクヨミは頷いて、
「はい。ヒノモト側の軍勢はホアカリ様のご嫡男のウマシ様の軍です。イワレヒコ様は、ウマシ様を軽んじておられます。動かぬとお思いなのでしょう」
「そうですか」
アキツはウマシの容姿を思い出していた。一度だけ、ワの国の宮殿で見かけた事がある。どう見ても勇猛果敢とは言えない、ひ弱そうな男だった。
「イワレヒコ様は、私の首をイスズ様への土産にするおつもりのようです」
ツクヨミは苦笑いをして言った。アキツはキッとして進撃するイワレヒコ軍を見て、
「そのような事、決してさせませぬ!」
と声を荒げた。ツクヨミはその言葉に感激していた。
磐神武彦は放課後、あまり行った事がない図書室で調べ物をしていた。
「ワの国、ワの国……」
彼は「ワの国」が昔の日本だとその時初めて知った。
「そうだったのか……。じゃあ、あの人は、昔の人なのかな?」
どんな女の人なのだろう? そんな事を考えていると、
「あ、こんなところにいた!」
と都坂亜希がやって来た。
「あれ、委員長。どうしたの?」
委員長という呼び方に一瞬ムッとした亜希だったが、
「補習サボって何してるのよ、武君?」
「あ、そうだった!」
武彦は慌てて本を書棚に戻し、鞄を掴むと、
「ありがとう、教えてくれて!」
と走り去った。亜希は、
「全く、何なのよ、あのチャランポランな性格……」
でもそんな武彦が好きなのは事実だ。
「私って、変わってるのかな?」
自分に苦笑する亜希だった。
そしてもう一人の「変わってる」人である磐神美鈴は、別の病院をネット喫茶のパソコンで検索していた。
「同じ夢を見る……」
検索を開始する。しかし、最初にヒットしたのは、先日「ヤブ医者」呼ばわりした大学病院だ。
「ここしかないの?」
美鈴はぼやきながらもその下の病院のサイトを開いてみる。
「心療内科は、この前の病院が一番有名みたいだなあ……」
彼女はブラウザを閉じ、電源を落とした。
「もう、あのバカのせいで、どうして私がこんなに気を揉まないとならないのよ!」
しかし、誰かに頼まれた訳ではない。
「武彦……」
それでも心配なのは変わりない。美鈴は携帯の待ち受けにしている幼い頃の二人の画像を見て呟いた。
アキツとツクヨミは、ようやく川を渡り終えたイワレヒコの軍に囲まれていた。
「これはこれは、アキツ様。馬上よりの挨拶、お許しください」
イワレヒコは勝ち誇った顔で言った。アキツはイワレヒコを見上げて、
「どこまでも礼儀を知らない方ですね、イワレヒコ殿。馬を降りなさい」
「はい」
イワレヒコは苦笑いをして馬から降りた。そしてツクヨミを睨み、
「私は貴女には用はございませぬ。この物の怪に用があるのです」
ツクヨミはイワレヒコの挑発に眉一つ動かさない。
「物の怪とは、無礼でありましょう!」
アキツの言葉はイワレヒコに届いていない。
「言葉を操り、人の命をも奪える者が物の怪でなくて何でありましょうか、アキツ様。ささ、お離れください。私がそやつを退治致します故」
「……」
アキツは救いを求めるようにツクヨミを見た。するとツクヨミは、
「わかり申した。ならばイワレヒコ様、一騎打ちを致しましょう」
ツクヨミの言葉に、一瞬呆然としたイワレヒコだったが、やがて大笑いをして、
「何を言い出すのだ、ツクヨミ? うぬ如きが、このイワレヒコと一騎打ちだと? 戯言を申すな!」
「私との一騎打ちが怖いのですか、イワレヒコ様?」
ツクヨミの挑発にアキツは驚いていた。どう考えても、ツクヨミに勝ち目はないと思ったからだ。
(何を考えているのです、ツクヨミ殿?)
アキツにはツクヨミの意図が読めない。
「戯けた事を申すな! 何故このイワレヒコが、うぬを恐れる事がある!? 承知、受けて立つ!」
イワレヒコはツクヨミの挑発に乗り、剣を抜いた。ツクヨミは、
「私は剣を持っておりませぬ。お借りしたいのですが?」
イワレヒコは、アキツが秘剣アメノムラクモを持っている事に気づいていたが、
(王族の証であるアメノムラクモは使えぬか。どこまでもつまらぬ男よ)
と腹の中でツクヨミを笑った。
「誰か、剣を!」
イワレヒコは兵が差し出した剣をツクヨミの方へ投げた。
「ありがとうございます」
ツクヨミはその剣を拾おうと前に出た。
「ツクヨミ殿!」
アキツが声を振り絞って叫ぶ。ツクヨミ目掛けて、イワレヒコが凄まじい形相で突進していたのだ。
「死ぬるがいい、ツクヨミ!」
イワレヒコの剣が、ツクヨミに振り下ろされた。
「く!」
アキツは思わず目を伏せた。
「ぬうう!」
イワレヒコは歯軋りしていた。不意を突いたつもりが、ツクヨミに剣をかわされてしまったのだ。
「卑怯でございますよ、イワレヒコ様」
ツクヨミの構えた剣は、イワレヒコの喉元すれすれにあった。
「くっ……」
イワレヒコは身動きがとれない。
「我が言霊師一族は、あらゆる事に秀でた一族です。剣術もまた然り」
「おのれ……」
イワレヒコは形勢逆転をしたいのだが、それは万に一つもない状況だ。
「お眠りください」
ツクヨミの言霊がイワレヒコに放たれ、彼はそのまま前のめりにドスンと倒れ伏した。
「ひいいい!」
イワレヒコ軍の兵は、イワレヒコがあっさり倒されたのを見て、我先にと逃げ出した。
「情けない兵共だ」
ツクヨミは剣を投げ捨て、まだ目を伏せたままでいるアキツに近づいた。
「アキツ様、終わりました」
「え?」
アキツは恐る恐る目を開けた。そしてイワレヒコが倒れているのを見た。
「こ、これは?」
「お眠りいただきました。私が声をかけぬ限り、イワレヒコ様は目覚めませぬ」
ツクヨミの力は、アキツが思っていた以上だった。
「ただ、この巨体を運ぶ手立てがございませんね」
「それならば、大叔母様の牛車を呼びましょう。あれならば、運ぶ事ができましょう」
アキツは微笑んで言った。そして確信した。ツクヨミならば、必ず異界人を呼び込んでくれると。
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