三の章 アキツの願い、ツクヨミの決意

 どこにあるのか、いつの時代なのかもわからない。しかし、その島も国も、確かに存在している。そこはオオヤシマという島の「ワの国」という国であったが、後継者争いが激化し、先代の王であるオオヒルメ女王がそれを嘆いて王位を去り、オオヤシマの北の果ての王家の聖なる洞窟であるアマノイワトに籠ってしまった。

 収拾のつかなくなったワの国は、オオヒルメの遠戚である二人の兄弟ホアカリとウガヤによって二分され、兄ホアカリの国はヒノモト、弟ウガヤの国はヤマトと名乗った。

 正統な後継者はオオヒルメの近親者であるアキツであったが、ヒノモトとヤマトはそれを認めず、争い事が嫌いなアキツはオオヒルメの元に身を隠した。そして、ワの国は完全にその系統を途絶えさせてしまったのである。

 そもそもの争いの発端は、ホアカリの妃トミヤの兄であるナガスネの野心である。彼はワの国の王位を奪取するため、ホアカリを焚き付けた。

「アキツ姫は確かにオオヒルメ様に一番近しい方ですが、お優し過ぎます。あれでは遠き海の果ての大国が攻め入りし時、勝てませぬ」

 ナガスネの愚かな思いがホアカリの判断を誤らせ、ワの国は分裂へと向かった。ヤマトとヒノモトは刃を交え、多くの血が流された。ナガスネは退かず、ウガヤは怯まなかった。

 戦はやがて膠着状態に陥り、互いに一進一退を繰り返し、兵は疲弊し、民は痩せさらばえて行った。


 そして、それから数日後の事である。 

 ワの国の後継女王候補であったアキツは、ヤマトの国の言霊師であるツクヨミが異界の者に対する自分の呼びかけに気づいている事を悟り、ヤマトの国に赴く事にした。先代女王のオオヒルメはアキツの行動を快く思っていなかったが、それを止める理由もないため、何も語らないまま、彼女を送り出した。

「アキツ、如何いかなる事になろうとも、禁呪はならぬぞ……」

 アマノイワトから出て行くアキツの姿をオオヒルメは心配そうに見守っていた。

「ツクヨミ殿なら、力を貸して下さるはず」

 アキツは、ヤマトの国にいるツクヨミがかつてこのオオヤシマの最高位であった言霊師の最後の生き残りである事を知っていた。そして、言霊師の一族のみが有する秘術も知っていたのである。彼女はそれに賭けてみるつもりでいた。只心配なのは、言霊師であるツクヨミが、ワの王家を恨んでいるのではないかという事だった。

(例えそうであっても、お願いするまで)

 アキツの決意は固かった。必要であれば自分の命も差し出すつもりでいた。


 ツクヨミもまた、ヤマトの国の王であるウガヤの娘のイスズ姫の部屋で、アキツが自分のところに向かっている事を感じていた。

「アキツ様……」

 アキツは彼にとってまさに憧れの存在である。アキツが望めば、ツクヨミは喜んで自分の命を差し出すだろう。彼はワの王家への恨みを抱いてはいるが、アキツ個人には何も悪感情はないのだ。まさしく、彼とアキツは、互いに自分の命を惜しまないほどの敬意を抱いているのだ。

「ツクヨミ、如何したのですか?」

 イスズが訝しそうな顔で尋ねた。

「失礼致しました。考え事をしておりましたので……」

 ツクヨミはすぐに平伏し、イスズに詫びた。イスズは相変わらず悲しそうな顔で、

「今日、イワレヒコ様が戻られるそうです。お出迎えせねばなりません」

 その言葉にツクヨミは顔を上げる。

「そうでありましたか」

 ツクヨミは急なイワレヒコの帰還を意外に思っていた。

「私は嫌です。イワレヒコ様は私の弟。それなのに、私は……」

 イスズは感情が高ぶったのか、声を荒げた。

「イスズ様、それは口にしてはなりませぬ」

 ツクヨミはイスズの発言を遮った。彼はイワレヒコの密偵が潜んでいる事を知っている。だから、迂闊な事を言わせたくないのだ。もちろん、いくらイワレヒコが乱暴者でも、姉であり、許嫁であるイスズに危害を加える事はないであろう。しかし、乱暴ではなく、他の方法で彼女を苦しめる可能性があるのだ。例えば「マグワイ」等によって。

 オオヤシマの多くの民は近親婚を忌み事とは思っていない。しかし、ごく僅かであるが、近親婚を嫌う者もいる。イスズはその類いの人間ではなく、只単にイワレヒコが嫌いなだけであるが。

「ツクヨミ?」

 元々明るくて元気だったイスズが、塞ぎ込む事が多くなり、ツクヨミはそれを悲しんで、ウガヤ王に申し出、イスズのそばについているようになったのだ。おおらかに育ったイスズは謀略とは無縁だ。ツクヨミが何故自分の言葉を遮ったのか彼女にはわからない。

「イスズ様、アキツ様がお出でのようです。こちらにお招きして、お話されては如何でしょうか?」

 ツクヨミはそう言ってイスズの疑問をはぐらかしてしまった。

「アキツ様が?」

 イスズにとっても気品に溢れたアキツは尊敬の対象であり、高貴な女性として憧れを抱いていた。

「はい。アキツ様なら、イワレヒコ様にご意見してくださいましょうし、ヒノモトの国との取りなしもしてくださいましょう」

「そうですね」

 ツクヨミの進言にイスズは顔を綻ばせた。ツクヨミもそれを見て微笑んだ。



 そして。

 磐神家。仮眠を取ってアルバイトに出かけた磐神武彦が帰宅した。夜中の十二時である。本当は、武彦がそこまで働かなくても、磐神家の家計は支障がない。武彦がアルバイトをしているのは、自立のためなのだ。姉美鈴の命令なのである。

「男が自立してなくてどうするんだ、バカ武! 自分の小遣いくらい、自分で稼げ」

 高校入学と同時に姉にそう言われた武彦はコンビニのバイトを始めた。彼は、尊敬する姉が昼間フルタイムで肉体労働をして、そのまま夜間の大学に通学している姿を見ていたから、別に何の抵抗もなく素直に姉の言葉に従った。それくらいは当たり前だと思ったのだ。

「お帰り、武彦。身体は大丈夫?」

 ちょうど風呂上がりの珠世母さんが出迎えてくれた。ほんのりピンク色の頬をしている。

「うん」

 武彦はニッコリして応じた。珠世母さんは、

「よし、それじゃ、サッサとお風呂入ってね。出たら、栓抜いて。美鈴は先に入ったから」

「うん」

 武彦はそのまま風呂場に行き、服を脱ぎ始めた。その時だった。

『私の声が聞こえる方。答えてください』

 また幻聴が聞こえる。武彦は頭を振って、幻聴を振り払おうとした。

「ああ、もうやだ」

 武彦は泣きそうだった。実際、彼のまなじりは潤んでいる。

「誰なんだよ? どうしてなんだよ?」

 彼はどこから聞こえて来るのかもわからない声に向かって文句を言った。

「本当に誰かが呼びかけているのなら、名前くらい言えよ。このままじゃ、気が変になりそうだよ」

 いや、本当に武彦は精神崩壊一歩手前なのかも知れない。



 ヤマトの国の城に到着したアキツは、貴賓の間でウガヤ王と対面していた。ウガヤは、白髪交じりの髪を後ろに撫で付けて黄金色の紐で結わえ、頬、顎に髭を伸ばしている。衣は白地に緋の縁取りがしてある。帯は紐と同じく黄金色だ。小柄で痩せているが、気性が激しく、部下にはあまり慕われていない。今まで幾人もの兵や使用人をその手にかけていると噂が立つほどだ。

「アキツ様には、ご機嫌麗しく……」

 腹の底では全く敬っていないのに、言葉だけは丁寧なので、アキツはウガヤが嫌いだった。彼は兄ホアカリがお人好しで、妃のトミヤの兄であるナガスネに利用されている事を憂えているようだが、決して兄の事を心配しているのではない。呑気な性格の兄のせいで、ナガスネが力を身に着け、いつかこの国全体を乗っ取ってしまうのではないかと心配しているのだ。だがそれは只の取越苦労である。ナガスネは野心はあるが、王家乗っ取りを画策するほど身の程知らずではない。

「挨拶はその辺で」

 アキツは用意された椅子に腰を下ろし、ウガヤを見た。椅子もウガヤの方が大きいもので、アキツに出されたものより良質の木材で装飾も華美に作られている。どう見ても、アキツの方が身分の低い者の扱いである。

「戦は止められませぬか、ウガヤ殿? このような事、決してオオヤシマの民のためにはなりませぬ」

「これは異な事を仰せですな、アキツ様。戦は兄ホアカリが仕掛け申した。我らに非はありませぬ。そのようなお話は、ホアカリになさってくだされ」

 兄を敬う気持ちが欠片もないウガヤの言葉にアキツは怒りを覚えたが、それを胸の奥にしまい,

「ホアカリ殿のところには、後に伺うつもりです。今は貴方に問うております。お答えくだされ」

「無論、我が方は戦を好んでおる訳ではありませぬ。ホアカリが詫びを入れれば、すぐにでも兵を引き上げまする」

「……」

 アキツは呆れていた。ウガヤは、大義は我にあり、と思っているのだ。

「承知致しました。ところで、ツクヨミ殿はおられますか?」

「はい。イスズの元におります。こちらに呼びましょう」

 ウガヤが兵に命じようと手を動かしたのを見て、アキツは立ち上がり、

「それには及びませぬ。私がイスズ様のところに参ります」

「そうですか」

 ウガヤはニヤリとして立ち上がった。そして会釈程度にこうべを垂れ、

「アキツ様、くれぐれも道中お気をつけくだされ。ヒノモトの者共は、我らと違って無礼な輩がおります故」

「お心遣い、感謝致します」

 アキツは白々しいウガヤの言葉を聞き終わらないうちに、貴賓の間を出ていた。

(今、私の声に応えてくれた方が、私に返してくださった……)

 アキツには、武彦の声が聞こえていた。彼女は声が聞こえた事をとても喜んでいるのだ。

「確かに名は名乗るべきですね」

 彼女は相手の指摘に苦笑いした。

「それには、どうしてもツクヨミ殿の力がなければ……」

 貴賓の間から廊下を歩き、アキツはイスズの部屋の前に来た。そして呼吸を整える。彼女はツクヨミの力を必要としていたが、ツクヨミ自身には畏怖の念を抱いているのだ。言霊師の最後の生き残りであるツクヨミが、果たして一族の怨敵であるワの国の王族の一人である自分に力を貸してくれるのか? ツクヨミが何故ヤマトの国にいて、イスズに仕えているのか、その真意も測りかねているのだ。

「失礼致します」

 アキツは意を決して扉を押し開き、中に入った。

「アキツ様!」

 ツクヨミとイスズは、まさかアキツの方から部屋まで来るとは思っていなかったので、非常に驚いていた。

「わざわざのお運び、恐悦でございます」

 ツクヨミとイスズは床に平伏して言った。アキツは微笑んで、

「堅苦しき挨拶はおやめください。私は今日はツクヨミ殿に頼みがあって参ったのですから」

「私にですか?」

 ツクヨミはアキツにそのような事を言われて酷く胸が高鳴った。顔も火照っている。イスズとツクヨミはアキツのために椅子を用意し、自分達は床に正座した。当然の事ながら、ツクヨミはイスズより下がった位置に控えた。

「言霊師としての貴方の力をお借りしたいのです」

 アキツに真っ直ぐ見つめられてツクヨミは頬を赤らめる。イスズはその様子に気づき、クスッと笑った。

「言霊師としての? それは如何なる事でございましょうか?」

 アキツは椅子から立ち上がってツクヨミに近づき跪いた。それに驚いたツクヨミとイスズであったが、アキツは二人を手で制し、声を低くして、

「こことは違う世界の方をオオヤシマに呼び込みたいのです。そのために、お力を貸して頂きたい」

「は……」

 ツクヨミは話の重大性より、体温がわかるくらい近い距離にあるアキツの顔の方が気になってしまった。何とも無礼な事だと思うツクヨミである。

「私と一緒にアマノイワトにいらしてください。大叔母様とお話をして頂き、何としても異界の方をオオヤシマにお迎えしたいのです」

 アマノイワト。ワの国の代々の王が祀られているオオヤシマ一の聖地である。王家の血筋以外の者がその地に足を踏み入れた事は未だかつてないのだ。ツクヨミは身体が震えそうになった。

「はい」

 しかし、ツクヨミには断わる理由など何もないので、二つ返事をした。アキツはあまりにもツクヨミの返答が早かったので、少し面食らってしまったほどだ。

「ありがどうございます。私は断わられてしまうのではないかと考えておりました」

 アキツの嬉しそうな顔が目の前にあるので、ツクヨミは自分の顔の火照りを気づかれないように頭を下げた。

「滅相もございませぬ。アキツ様のお言葉とあらば、私はどこへでも参りまする」

 アキツはイスズと思わず顔を見合わせてしまった。

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