二の章 武彦の悩み、アキツの思い

 連日のように夢で謎の女性の声に悩まされている磐神武彦、高校二年。

 そのせいで毎日高校に遅刻しそうになり、幼馴染で同級生の都坂亜希に迎えに来てもらっている。呑気の塊のような性格の武彦も、この「悪夢」には心身共に参ってしまった。

「病気なのかな?」

 そう思った武彦はある日の夜、思い切って母の珠世に相談した。

「母さん、僕、毎日同じ夢を見るんだ」

「そうなの」

 忙しい珠世母さんは残念な事に更にここ数日仕事が忙しく、可愛い我が子の相談に乗れるほど精神的に余裕がなかった。

「ごめん、またにする」

 武彦は小さい頃から母親の忙しい姿を見て育ったせいか、珠世の声のトーンでそれを感じ取れるようになっていた。学校の成績は振るわないが、生活能力は高いのが武彦の取り柄だ。

「姉ちゃん、時間ある?」

 次に武彦はバイトから帰ってこれから夜間の講義を受けに行く美鈴に声をかけてみた。

「何?」

 この時間帯の姉は特に機嫌が悪いのだが、弟が病気かも知れないのだから、話くらい聞いてくれるだろうと考え、思い切って言ってみたのだ。

「僕さ、毎日女の人の声が聞こえる夢を見るんだ」

「下らない事で私を呼び止めないでよ!」

 しかしポカンと頭を一つ殴られる。武彦が何も言い返す間もなく、美鈴は玄関を飛び出して行った。

「ああ」

 武彦は仕方なく、自分もコンビニのバイトに出かける用意をした。磐神家は彼がバイトをしなければならないほどには逼迫してはいないが、姉美鈴の、

「高校生になったんだから、自分の小遣いくらい、自分で稼げ」

という絶対命令があったので、高校入学と同時に開始したのだ。

「店長に相談する訳にも行かないしな……」

 武彦は結局、亜希に相談してみる事にした。


 翌日。残暑が厳しい日になりそうな日差しが照りつけていた。

 それにもかかわらず、性懲りもなく起きられない武彦を亜希が起こしに来る。

「武君、今日は起きるって約束だったでしょ!」

 昨日一人で起きると言ったばかりなのに、相変わらずの寝坊。さすがに亜希もムッとしている。可愛い口を尖らせ、ほっぺをプウッと膨らませている。普通の男子なら、

「付き合ってください!」

と言いそうだが、寝ぼけまなこの武彦にはそんな感覚はない。

「ごめん、その事なんだけどさ……」

 頼れるのは亜希しかいないと思って話し始めたが、

「話は後で! 早くして!」

とあっさり遮られてしまう。項垂れるまもなく、今日も亜希に引き摺られるようにして玄関を出る武彦。

「起きろ、武彦!」

 美鈴の尻への蹴りでようやく完全に目を覚まし、

「これ以上遅刻はできないよォ」

と叫びながら走り出す。


 そして休み時間。本当は眠りたいのだが、どうしても亜希に相談したい事があったので、

「委員長、話があるんだけど」

と亜希の席まで行って小声で話しかけた。

「何?」

 おかしな事に、相談したい武彦より話があると言われた亜希の方がアタフタしている。心なしか、頬が赤い。

「こ、ここで大丈夫な話?」

 亜希は呼吸を整えて尋ねる。武彦は一瞬だけ考えて、

「あ、そうだな。ベランダで話そうか」

「う、うん」

 そこもあまり人目を避けられないよ武君、と言いたい亜希だったが、それは言えない。亜希は高鳴る心臓の鼓動を鎮めようと深呼吸し、武彦と共にベランダに出る。

「あのさ」

 振り向きざまに武彦が切り出すと、亜希はますます緊張した顔になって、

「な、何?」

 ガラス越しに見ているクラスの連中がいる。亜希はそれも気になるのだが、武彦は全然気にならないらしい。

「僕、何かの病気かも知れないんだ」

「えっ?」

 予想していたのと全然違うコースにボールが飛んで来たので、亜希は危うくベランダから落ちそうになった。

「毎日さ、夢で、知らない女の人の声が話しかけて来るんだ。助けてって」

 武彦は真剣な表情で話しているのだが、亜希にはそれが伝わっていない。

「……」

 亜希は呆然としていた。

「それでさ、昨日はとうとう英語の授業中にも聞こえてさ。何の病気なんだろう?」

 亜希は呆れ返ったのを通過し、怒りを感じ始めていた。しかし、武彦はそれに気づかない。

「それはきっと、恋の病よ」

「えっ? 鯉? 鯉の病気が移ったの?」

 武彦はボケたのではない。真剣なのだ。それが更に亜希をイラッとさせた。

「そんな事、私知らないわ」

 亜希はプイッと顔を背けて、教室に戻ってしまう。

「ああ、委員長……」

 武彦は話し方が悪かったのかと思った。

「僕、話をうまくできないからな……。伝わらなかったのかな?」

 どうしたらいいのかわからなくなってしまった武彦である。


 

 そして、どこにあるのか、いつの時代なのかわからないオオヤシマ。

 元はワの国という一つの国家だったが、後継者争いが激しくなり、野心を持った者が現れ、国が二つに分裂した。「ヒノモトの国」と「ヤマトの国」。兄と弟が骨肉相争う事になってしまったのだ。

「お前の呼びかけに答えし方は、どうされた? 何かご返答があったか?」

 オオヤシマの北の果てにある洞窟のアマノイワトで、ワの国の先代女王のオオヒルメが後継女王になるはずだったアキツに尋ねた。

「いえ。でも、以前よりその方の心が近づいた気が致します。近いうちに、こちらに呼び込めるのではないかと」

 アキツは額ずいたままで答えた。

「そうか。心が近づいているのがお前にわかるのなら、その方はこちらにいらっしゃるであろう。否、いらしてもらわねば困る」

 オオヒルメは深刻な顔で言った。アキツは顔を上げて、

「はい。もはや時は迫っております。ヒノモトにもヤマトにも、悪しき気が満ちておりまして、戦が大きくなるのは避けられませぬ」

「そうか」

 オオヒルメの顔は悲しみで暗くなった。

「私が早く二人の心の内を見抜いておれば、このような事にはならなかった……」

 オオヒルメの嘆きに、アキツは、

「そうではありませぬ、大叔母様。起こりは、ナガスネの悪しき心でございます。あの者がホアカリ殿をそそのかさねば、戦は起こりませんでした」

「ありがとう、アキツ」

 オオヒルメは微かに笑みを浮かべてアキツを見た。。アキツは深々と頭を下げてから、

「大叔母様、ご相談がございます」

と切り出した。オオヒルメは居ずまいを正して、

「何か?」

 アキツは顔を上げてオオヒルメを見ると、

「私の呼びかけに答えし方を何としてもこちらに呼び込むため、お力をお貸し下さい」

「私の力をか?」

 オオヒルメは何かに思い当たったかのように眉をひそめる。

「はい」

 アキツは力強い眼差しでオオヒルメを見ている。オオヒルメは、

「何を考えておるのだ、お前は?」

 アキツはススッと前に動き、

「その昔、遠き場所から呼ばれた者がおり、その者の力でオオヤシマは鎮まったと聞いた事がございます。それをまた、為してみたいのです」

 オオヒルメの顔つきが変わった。

「アキツ、それは禁呪ぞ。ワの国では、禁じられた術。ならぬ」

 オオヒルメの声がイワトの中で反響する。

「ですが大叔母様」

 アキツはすがるような目で大叔母を見た。

「オオヤシマの一大事と言うても、ならぬ」

 オオヒルメは立ち上がり、クルリと踵を返すと、足早に奥の間に入ってしまった。

「大叔母様……」

 反対される事は承知していた。だから、アキツも簡単に諦めるつもりはなかった。


 ヤマトの国。オオヤシマのほぼ中央を流れる大河のアマノヤス川の東側にある、ウガヤが治める国である。

 その国の軍の中に一人、特殊な力を持つ者がいた。その者の名はツクヨミ。言霊師ことだましと呼ばれる一族の最後の生き残りである。黒い服に白い襟が一族の証だ。美形と呼ぶのが相応しい中性的な面差しのお陰で、ヤマトばかりではなく、ヒノモトの女性にまでその名を知られるほどだ。そしてまた、女装をすれば絶世の美女にもなれそうである。

 彼の能力を簡単に言ってしまうと、言葉に呪いを乗せて放てばその言葉を聞いた者は呪われ、言葉に火の力を込めて放てば、その言葉を聞いてしまった者は焼かれてしまうのだ。そして、彼の使う言霊は一切の防御ができない。但し、その言霊の届く範囲は狭く、せいぜい二人か一人にしか攻撃できない。だからこそ、彼の出陣は稀で、決戦の時以外はウガヤ王の三男であるイワレヒコの許嫁であるイスズのそばに仕えている。以前は勝気な姫であったが、イワレヒコの許嫁と決まってから口数が少なくなり、俯いている事が多い。イスズはイワレヒコの姉でもある。オオヤシマでは近親婚は禁じられておらず、かなりの頻度で行われている。イワレヒコは美しいイスズが小さい頃から大好きで、必ず自分の妃にと考えていたのである。

 しかし、イスズはイワレヒコが嫌いである。乱暴で礼儀をわきまえず、兄であるイツセを全く敬っていない。そのくせ、周囲の目を気にしているので、おおやけにはイツセを立てている腹黒さも嫌だった。

あに様が可哀想」

 そう言って悲しそうな顔で窓の外の月を眺めるイスズを、ツクヨミはとても気の毒に思っていた。

 そのツクヨミは、この数日、アキツの呼びかけの声を聞いていた。

「アキツ様は、大変お嘆きなのだ」

 彼は、自分の祖先達がその昔はワの国王からも崇拝されていた一族でありながら、戦争の道具としての価値を見出した歴代の王によって絶滅寸前にまで追い込まれた事から、王族を快く思っていなかった。だからこそ、アキツの無念を理解できるのだ。

「このオオヤシマを救ってくださる方が早くいらっしゃると良いが……」

 ツクヨミはアキツに心惹かれている。しかし、身分の差があるため、決して叶わぬ思いである。それは彼もよく承知していた。それ以上に、言霊師には「他族との交わり」を固く禁じる掟があったのだ。


 イワレヒコの連戦で、イスズはここ何日か明るい。元々は明るい性格のイスズの表情が冴えないのは、イワレヒコのせいなのだ。彼がいると必要以上に用を言いつけられるため、気持ちが休まらない。戦が終わってからという父王の命があるため、婚儀はしていないのだが、イワレヒコは毎夜イスズを求めた。イスズは弟との婚儀を心の底で嫌がっていたが、父が決めた事であるので、逆らう事ができないのだ。

「婚儀が終わってからにしてくださいまし」

 イスズにはその程度の抵抗しかできなかった。


「どうしました、ツクヨミ? 悩み事ですか?」

 そんなイスズであるから、彼女はツクヨミには心を開き、信頼もしていた。だからこそ、ツクヨミの表情にかげりが見えると気になってしまう。その上イスズの部屋で二人きりになる事が多いため、口さがない者達は、

「ツクヨミはイスズ様と添おうとしている」

などと噂をしている。言霊師であるツクヨミは、そんな根も葉もない噂を全て把握していたが、歯牙にもかけない。あり得ない話だからだ。

「いえ、別に。戦がはよう終われば良いと思うておりました」

 ツクヨミはそう言ってしまってから、自分の失言に気がついた。

「そうですか」

 イスズの悲しそうな顔を見て、ツクヨミは慌てた。

「申し訳ございませぬ。イスズ様のお気持ちも考えずに……」

 彼はイスズの前で平伏ひれふし、詫びた。

「構いませぬ。この国の誰もが、戦が早う終わるのを待ち望んでいるのですから」

 イスズは声を震わせてそう言った。

(イスズ様はイワレヒコ様をお嫌いどころか、お恐れなのではないか?)

 ツクヨミはそんな風にさえ思ってしまった。

 皮肉な事に、イスズとツクヨミの深い信頼関係はイワレヒコの嫉妬の元となり、混乱の一因ともなって行くのである。



 武彦は結局誰にも相談できないまま、一人で家に帰った。いつもなら頼まなくても彼と一緒に下校する亜希は、朝の一件以来一言も口を利いてくれないのだ。

「委員長はずっと機嫌悪いしなァ。どうしよう?」

 亜希が不機嫌な理由がわからない武彦だが、それを確認する勇気はない。その時、再び彼の耳に声が聞こえて来た。

『助けて。私の声が聞こえる方、私の声にお答えください』

 まただ。武彦は怖くなっていた。

「僕、どうしちゃったんだろう? 死ぬのかな?」

 家に着いたが、姉もまだ帰って来ていない。母が帰るのはもっと後。今日のバイトは遅番なので、仮眠をとってから出かける事になっている。

「寝たら、もっと聞こえるのかな?」

 武彦は怖くて眠れそうになかった。



「進めーっ!」

 返り血を浴びて赤黒く染まった顔で、イワレヒコは叫んだ。その右手には討ち取ったヒノモトの武将の首を持っている。

「ヒノモトの兵なぞ、一人残らず殺してしまえ! ヤマトこそがこのオオヤシマに相応しい国なのだ」

 イワレヒコの顔は物の怪のように兇悪だった。そして彼の背後には、闇がうごめいていたのである。

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