オオヤシマ記 イワレヒコ伝

神村律子

始まりの章 二人のイワレヒコ

 二十一世紀、日本。東京の一角。季節は夏が終わり、秋の訪れを予感させる高い空。


 磐神いわがみ武彦たけひこ、十七歳。高校二年生。身長は高い訳でもなく低い訳でもなく、容姿は決して美男子ではないが、不細工でもない。言うなれば、本当に「絵に描いたような普通の男子高校生」である。元気で明るく、美人の母、そして元気過ぎて明る過ぎ、彼にとってはとても怖い姉との三人暮らし。

 父親のたけるは三歳の時、交通事故で他界。それでも彼はその事で人生が変わる事もなく、母と姉の愛情をたくさん注がれて、とてものんびりとした性格に育った。どちらかと言うと、のんびり過ぎるくらいに。

「武君、遅刻するよ。早く支度しないと」

 幼馴染みで同級生の都坂みやこざか亜希あきが、毎日武彦の家に来る。長い髪をポニーテールにして、クリクリした黒目がちの瞳、スッと鼻筋が通り、採れたてのサクランボのような潤いのある唇。多くの男子の同級生から、

「磐神が羨ましい。俺が毎日迎えに来て欲しいくらいだ」

と言われるほどの美人だ。でも、武彦は羨ましがられるような間柄だとは思っていない。むしろ、亜希に対しては、ほんの少しだけ恐怖心がある。しかし、亜希はそんな武彦の気持ちを知らない。

「毎日悪いわね、亜希ちゃん」

 母である珠世たまよはパートに行く時間だ。家の中で誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝る生活を十五年近く続けている。でも元気一杯である。年齢の割には肌艶のいい健康美人だ。武彦は、

「自慢の母親」

だと思っている。でも彼はマザコンではない。

「いえ、近所ですから。大丈夫です」

 亜希は何でもない事のように答える。社交辞令ではなく、亜希は本当にそう思っている。

「亜希ちゃんがウチの子だったら良かったのにね」

 珠世母さんのトンデモ発言にニッコリ微笑んで応じる亜希も、すっかり磐神家の一員である。

「母さん、行ってらっしゃい」

と言いながらも、武彦はまだ半分寝ている。目が死人ゾンビのようだ。

「武君、もう行かないと!」

 亜希は武彦を引き摺るようにして玄関に急ぐ。武彦は生欠伸なまあくびをしてフラフラと歩く。

「こら、武彦! いい加減目を覚ませ!」

 運送業のアルバイトをこなしながら、大学の夜間部に通学している二十歳の姉、美鈴が怒鳴る。珠世は化粧っ気がなく、見た目で損をしているが、美鈴の顔を見れば、本当は美人なのがよくわかる。美鈴の肩上でバッサリと切られた黒髪は、仕事を効率良くこなすため。高校生の時は、艶やかな長い髪で同級生を魅了していた。ちょっと釣り上がり気味の目と高い鼻と口角の上がった口のせいで、元々きつい性格がよりきつく見えてしまうが、それを補って余りあるほどの美人である。

「うーい」

 武彦はまだ寝ぼけていた。

「おらっ!」

 美鈴の容赦のないハイキックが武彦の顔面に決まる。亜希は美鈴の邪魔にならないようにサッと身を引いていた。

「フギッ!」

 気を失ってしまい、逆効果になるのではないかというくらい鮮やかな一撃だ。でも、そんな暴力にも慣れてしまった武彦は気を失いはしない。むしろ「気付け」代わりになる。

「おお、目が覚めた。姉ちゃん、行って来るよ」

「あいよ」

 美鈴はもう一発武彦の頭に拳骨を食らわせ、送り出した。

 そう、武彦はマザコンではなく、極度の「シスコン」なのである。


「ねえ、武君、もう高校二年なんだから、朝くらい起きられるようになろうよ」

 大通りの舗道を歩きながら、亜希が呆れ顔で言った。何しろ、高校までは徒歩で十五分程度なのに、武彦は毎日遅刻しそうなのだ。亜希が愚痴るのも無理はないのである。武彦はようやく頭が活動し始めたらしく、

「ごめん、委員長。明日はちゃんと起きるから」

「……」

 武彦のその言葉を聞き、亜希はムスッとして先に行ってしまう。彼女は武彦が自分の事を

「委員長」

と呼ぶのが気に入らない。だったらその事を言えばいいのだが、何故か亜希はそうしない。

「知らない!」

 だから、武彦は亜希の機嫌が悪くなっても、その理由に気づけないのだ。

「ああ、どうしたの、委員長。僕、何か怒らせるような事言った?」

 それでも武彦はびっくりして尋ねる事はする。亜希が怖いからである。

「別にィ」

 亜希は武彦の問いに振り返らずに答え、走り出した。ある女優を真似たような言い方。でも委員長の方がずっと可愛いと思う武彦だった。そんな時でも「委員長」ではあったが。

「ホント、遅刻だよ、武君」

 陸上部のエーススプリンターでもある亜希は足が速い。風を巻いて走り、武彦を置き去りにしてしまう。

「わああ、ヤバい! 今日遅刻したら、停学だよー」

 武彦は、追いつくのは到底無理だと思いながら走り出した。


 だらしない弟を送り出し、姉の美鈴はほんの一時ひとときの安らぎを満喫する。

 出勤前の熱いお茶が彼女のエネルギー源だ。

「さてと。私も出かけるか」

 自分に気合を入れ、美鈴は立ち上がる。その名に恥じない美貌とスタイル、おまけに頭脳明晰、社交性抜群。弟の分まで取ってしまったのでは、というくらいできた姉だ。

「にしても、心配だな、あのバカ」

 携帯の待ち受けは小さい頃武彦と一緒に写した写真。顔を寄せて写っている二人だが、満面の笑顔の美鈴に比べて、どこかおどおどしている武彦の顔。でもそれを待ち受けにしているのは弟には内緒。彼氏もいるのに、弟が心配で仕方がない、ある意味「弟萌え」な「姉ちゃん」だ。本人はそれを言われると烈火の如く怒るが。

「戸締り、よーし!」

 美鈴は指差し確認をして、家を出た。

 そう、美鈴は極度の「ブラコン」なのである。


 

 どこにあるのか、いつの時代なのかもわからない。

 しかし、その島も国も、確かに存在している。

 オオヤシマ。気候が温暖で緑豊かなその島にあったのは「ワ」という国であったが、後継者争いが激化し、先代の王であるオオヒルメ女王が王位を放棄し、オオヤシマの北の果てにある大きな洞窟であるアマノイワトに籠ってしまった。

 オオヒルメの王位放棄により収拾のつかなくなったワの国は、オオヒルメの遠縁に当たり、王位継承権を有しているホアカリとウガヤの兄弟によって二分され、兄の国は領土の西半分を有してヒノモトと名乗り、弟の国は東半分を有してヤマトと名乗った。

 正統な後継者はオオヒルメの近親者であるアキツであったが、ヒノモトとヤマトはそれを認めなかった。争い事が嫌いなアキツは大叔母であるオオヒルメの元に身を寄せ、ワの国は完全にその正統なる血筋を途絶えさせてしまった。

 そもそもの争いの発端は、ホアカリの妃トミヤの兄であるナガスネの野心である。彼はワの国の王位を奪取するため、ホアカリを焚き付けた。彼は王位そのものを欲する事はなかったが、権力には惹かれていた。

「アキツ姫は確かにオオヒルメ様に一番近しい方ですが、お優し過ぎます。あれでは遠き海の果ての大国が攻め入りし時、勝てませぬ」

 ナガスネの愚かな思いが元来は温厚で争いを好まないホアカリの判断を誤らせ、ワの国は分裂へと向かった。

 もちろん、ヤマト側にも原因がなかった訳ではない。常に兄と比較される人生だったウガヤは兄に必要以上の敵対心があり、機会があれば兄を潰そうと考えていた。兄と違って激しい気性の持ち主なのだ。ナガスネが軍を動かした事を知るや否や、ウガヤもすぐに反応し、二国は両勢力を隔てるアマノヤス川を挟んで睨み合いを続けた。


 両国が実質的な戦闘状態に突入したのは、それから三日後の事だった。


 ナガスネの率いる精鋭部隊が勇み足で弓矢を射てしまったのだ。それが運悪くウガヤの嫡男であるイツセの右肩を射抜いた。憤激したヤマト軍の先鋒がアマノヤス川を越え、合戦が始まった。

 こうなると両軍の王にもいくさは止められなくなった。ヒノモトとヤマトは、ズルズルと国全体を巻き込む戦いに雪崩れ込んでしまった。

「何をしている!? こちらは皇太子を狙われたのだぞ! 何としても、ホアカリの首を獲るのだ!」

 兵に檄を飛ばしているのは、ウガヤの三男であるイワレヒコだ。身の丈はヤマトの国の男子より頭一つ大きく、胸板は大木の幹のように厚い。性格は荒々しく、戦を好み、話し合いを潔しとしない。彼はヤマト一の剣士なのだ。彼はヒノモトの国を滅ぼし、オオヤシマを平定する事を悲願としていた。

「腑抜け共が! このイワレヒコが、うぬ等の代わりにヒノモトの兵共を退治(たいじ)てくれるわ!」

 イワレヒコは鎧兜を身に着けると一人馬を駆り、敵陣に突っ込んで行った。


「イワレヒコが一人で突っ込んで来るだと?」

 アマノヤス川の河原にあるヒノモトの本陣のナガスネは呆れ返っていた。彼は味方をも身じろがせるその風貌を更に険しくし、重い鎧兜をものともせずに立ち上がる。

「どこまでもたわけな男よ、イワレヒコ。返り討ちにしてやる!」

 ナガスネは騎馬隊を投じ、イワレヒコの首級を獲りに行かせた。


 しかしイワレヒコは動じなかった。彼は水飛沫を上げて向かって来る騎馬隊を見て高笑いし、

「笑止! このイワレヒコを止めたくば、千の兵を差し向けよ、ナガスネ!」

と怒鳴った。


 オオヤシマの北の外れにあるアマノイワト。ワの国最後の王であるオオヒルメが籠り、洞窟の奥を向き、正座をしてオオヤシマの安寧を祈念していた。イワトの奥には、代々のワの国王が祀られているのだ。彼女が祈っている場所は、油を注いだ深皿に入れたった糸に灯した火を明かりとしており、薄らと周囲が確認できる程度である。オオヒルメは老いてはいるが、その昔は美麗であった面影を残していた。長く伸ばされた髪は銀色に近い白髪で襟元で金色の紐で結わえられている。その顔には艶があり、皺も少ない。目は精悍で、力強さを感じさせる。着ている服は白地で爪先まで隠れる長めの裾になっており、帯で締めてある。

「大叔母様」

 オオヒルメの後継者だったアキツが跪き、声をかけた。大きな瞳に憂いを湛えた美麗な顔立ち。彼女も爪先まで隠れる裾の服を着ている。色はオオヒルメの服と違い、薄い紫色だ。アキツは長い黒髪を髪留めで結わえ、襟元から返して頭の上でもう一つの髪留めで留めている。これはオオヤシマの未婚の女性の髪形なのだ。オオヒルメは前を向いたままで、

「アキツ、の者達は如何いかがしておる?」

「とうとう戦になりました」

 アキツは頭を下げて話した。その言葉にオオヒルメは天を仰いだ。

「やはり滅ぶのか、この国は。そして沈むか、このオオヤシマは」

 オオヒルメの嘆きの言葉にアキツは、

「いえ、そうならぬように私が必ず……」

「何をするつもりか、アキツ?」

 オオヒルメは鋭い眼でアキツを見た。アキツはオオヒルメを見たままで、

「必ず戦を止めます。この命に代えても」

と胸に右手をかざす。

「それは私がなす。お前は命を粗末にするな、アキツ」

 オオヒルメはワの国の女王であると同時に国中の民が敬う最高の呪術者でもあった。彼女はその力で争いを止めようとした。しかし、止めらなかったのだ。アキツは頭を下げて、

「恐れながら、大叔母様はすでにお力を失われています。今は私が代わりに」

「ならぬ。それはならぬ。お前は戦が終わりし時、今一度ワの国を治める女王となるべき身。命を捨ててはならぬ」

 オオヒルメはアキツの身を案じ、断固としてアキツの行動を止めるつもりでいた。

「このままではこの国は滅びます。それでは女王も何もございませぬ。私に、今動かずしていつ動けとおっしゃるのですか、大叔母様!?」

 アキツは普段は決して出さないような大きな声でオオヒルメに反論した。

「アキツ……」

 オオヒルメはアキツに何か考えがある事に気づいた。

「何に気づいたのだ、アキツ?」

 アキツはオオヒルメにスッと近づき、

「私の呼びかけに答えた方がいらっしゃいます」

「呼びかけに答えた方?」

 オオヒルメは眉をひそめた。

「はい。その方がこの国にいらしてくだされば、オオヤシマは救われ、ワの国は元の平和な国に戻りましょう」

「その方はどこにおわすのだ?」

 オオヒルメはにわかにその話を信じられない。

「わかりませぬ。しかし、確かにおわします。私にはわかりまする」

 アキツの眼は自信に満ち溢れていた。オオヒルメはニッコリして、

「わかった。そなたに任せよう。その方を必ずこの国にお連れするのだ」

「はい」

 アキツは再び深々と頭を下げた。



 武彦は英語の授業中だった。その担当は学校一厳しく、生徒指導の責任者でもある尼照あまてる富美子ふみこ。武彦が一番苦手とする先生だ。しかし、それにも関わらず、彼は全く授業に集中していなかった。尼照先生が武彦を睨んでいるのにも気づいていない。そんな武彦を亜希がチラチラ見ている。

(誰だ? さっきから声が聞こえる)

 武彦は何日か前から、不思議な夢を見ていた。どこの誰なのかわからない女性の声が、

『助けて。私の声が聞こえる方。私の呼びかけに答えてください』

と言っている。そんな夢を何日も続けて見ていた。そのため、普段以上に朝起きられなくなっていた。

 そして今日になって、とうとう起きている時までその声が聞こえるようになったのである。

(僕、ヤバいのかな?)

 武彦は何かの病気なのかと思っていた。呑気な彼でも、これはさすがに心配のようだ。

(病院に行った方がいいかな?)

 彼は本気でそう思っていた。


 二人のイワレヒコが、少しずつ近づいていた。国の行く末を憂う一人の女性によって。

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