今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを  人づてならで 言ふよしもがな 6

                ◇◆◇◆◇◆


2月下旬から咲きはじめたミモザの花の盛りの時期がすぎた4月。

藤の蕾も綻びはじめ、いよいよ開花が近くなった。


日に日に大きくなるシュラインに対する愛おしさと少しの不安を抱きながら、グレースは彼女の家に向かおうと部屋を後にした。

部屋の前の廊下で金色のふわふわとした天パ頭を見つけ、グレースは足を止める。


「お疲れ様ですっ。お出かけですかグレース様」

「あぁ、何か用だったか」

「いや、たまたま通りかかっただけですから気にしないでください」


ホークはひらひらと手をふり、何も持っていないことをアピールした。

彼はそのおちゃらけた雰囲気のまま、さっと周囲を窺い声を潜めた。


「最近外出されることが多いみたいですけど、気をつけてください。ナンバー4のやつがどうも最近グレース様のことを調べてるみたいで。まだグレース様の近辺に見張りがついてるわけではなさそうですけれど」

「ああ…。以前の尋問の時、絶好の機会だったにも関わらず俺を蹴落とせなかったのがそんなに気に食わなかったか」

「みるからにプライド高そうなやつでしたね。どうします?」


碧眼を鈍く光らせ、獰猛な雰囲気を漏らしながらホークが尋ねる。

ナンバー6を消す算段をしていた時を彷彿とさせる姿だ。

どうするかとはつまり、ナンバー4を消すか否かの判断を委ねているのだろう。


「…番犬の出番はまだだな」

「引き続き情報だけ集めときます。必要になったらいつでも命令してください」


待て、の指示にホークはあっというまに暗い雰囲気を取り払った。


「まー物騒な状況ってのは確かなんで、外出する際はお気をつけて。グレース様だったら俺に心配されるまでもないでしょうけど」


いってらっしゃいませ、と普段どおりに笑うホークに見送られグレースは今度こそシュラインのもとへ向かった。


                ◇◆◇◆◇◆


今日は絶好の散歩日和だと思う、と切り出したのはやはりシュラインからだった。

いつものようにカモミールティーを飲んでいる時に、そう彼女が近くの公園に行くことを提案してきた。

彼女の発言に拒否をするわけもなく、グレースはともに公園を歩いていた。

ホークの忠告が気にならないわけでもなかったが、まさかこんな真昼間に襲撃はおろか、見張りなんてつくはずない。


「本当にいいお天気!太陽が気持ちいいわ」


太陽の光をさんさんと浴びて、シュラインの栗色の髪がつやつやと輝いている。グレースが思わず彼女の髪を撫でると、気持ちよさげに猫のような顔をした。


「ここの公園はね、秋が一番いいのよ。イタリアだったらどこもそうかもしれないけど、秋になったら焼き栗の屋台が出ていて、そこの焼き栗が絶品なの」

「珍しく花より団子だな」

「もちろん、黄色く色づいたイチョウも綺麗よ」


頬を赤らめ慌てて取り繕うシュラインを見て、グレースはくすくすと笑った。

最近からかうことが多くなったわ、なんてぶつぶつ呟くものの、グレースの楽しげな様子にシュラインもすぐに尖った唇を元に戻した。


「家の中でマロングラッセとカモミールティーを飲むのもいいんだけど、木枯らしが吹いてちょっと寒い中でほかほかの焼き栗を食べながらイチョウを眺めるのが私のおすすめ」

「それは風情があるな。ほかの季節はどうなんだ?」

「もう過ぎてしまったけれど春はミモザが綺麗だし、夏はひんやりとした木陰でゆったり読書をしているの。今の季節だったら、お弁当を持って軽いピクニックをするのが一番」


次回はそうしましょう!と、名案を思いついたかのように言うシュラインにグレースは頷いた。


ピクニックだなんて何をするのか予想もできないが、彼女とならばきっと楽しいだろう。


そう想像していると、ぐるるると低い唸り声がグレースの耳に入った。

足元に視線をやると、大型犬が尖った歯をむき出しにして威嚇をしている。

首輪があるから散歩中の飼い主から離れて走りよってきたのだろう。

獰猛そうな碧色の瞳に、見たことがある光景だとグレースがその人物を重ねた瞬間、火のついたように激しく吼え始めた。


シュラインと会う手前血の臭いはもちろん、硝煙の臭い等させていないが、犬の嗅覚の前では無駄だったろうか。


全身で警戒を表している大型犬を前に無表情で見下ろしていると、グレースの腕がきゅっと僅かに引かれた。

視線をやると、顔を真っ青にして震えているシュラインが両手でちょこんと控えめにグレースの右腕に縋っていた。


彼女の様子に、数秒遅れてグレースは理解し、足元で吼える大型犬に再び目をやった。

グレースから数秒前とは違う雰囲気を感じたのか、圧倒的な力関係を感じ取った犬はキュッと高い鳴き声をあげると怯えたように走り去っていった。


「…大丈夫か?」


犬が去ると同時に、少し肩の力が抜けた様子のシュラインにグレースは声をおそるおそるかけた。

いつもふわふわと穏やかな雰囲気を見に纏いにこにこと笑顔でいる彼女の、怯えた姿を見るのは初めてだった。


「…ええ、大丈夫。ごめんなさい、腕勝手に掴んでしまって」

「いや、かまわない」

「子供のころ、大型犬にすごく吼えられながら追いかけられたことがあって、それ以来大型犬が苦手になったの」


恥ずかしい話なんだけど、と苦笑する彼女は、既に震えは治まっているものの顔色はやはり悪い。


こんな時、何て声をかければよいのだろうか。


相手を挑発する言葉や、怖がらせる言葉は知っていても、相手を癒す言葉はしらない。

そんな自分が腹立たしく思うが、無力を感じたところでかける言葉は見つからない。

グレースにできることは、ただ黙って彼女を抱きしめることだけだ。


グレースが優しく彼女の身体を抱きしめると、ふわりとカモミールの香りが鼻先をくすぐった。いつもなら安心する香りだったが、今は落ち着かない。

それどころか腕の中にすっぽりと大人しくおさまった華奢な身体に、グレースの不安は広がるばかりだ。


ただ吼えるだけの何の力もない犬に怯えるシュライン。

安穏とした、陽だまりの中だけで生きてきた女性だと知っていたが、正しく理解はできていなかった。


シュラインのことを愛している。

だから全身全霊で彼女を守ろうと思っていた。

しかし、争いや暴力と無縁の彼女に、少しでも被害が及んでしまったら。

最悪の事態になって彼女を守ることができなかったら。

彼女のためなら、いっそファミリーを抜けて駆け落ちしてもいいとさえ思うが、この地を離れ追われる生活をさせて、彼女は幸せになれるだろうか。

そもそも逃げ切れるとも限らない。


グレースの脳裏に、報告書で見たナンバー6の男の娘の遺体が浮かんだ。


彼女をあんな形で喪ってしまうのだろうか。


シュラインのことを愛していると自覚したあの日に感じていた不安は、父と同じ感情を持ってしまったからではない。

愛する人を喪う未来への恐怖だったのだと、グレースは明確に理解した。


今なら、まだ間に合う。

ナンバー4の男から監視を受けているわけでもないし、ホークにさえ彼女の存在は知られていない。


「十分散歩は堪能したし、家に戻ろう」


彼女の薄い肩を抱いて、グレースは公園を後にした。

シュラインは引かれるがままに着いてきて、家につくころには落ち着いたのか、普段どおりのおっとりした雰囲気を纏っていた。


門扉の前に立ち、そこでグレースはようやく彼女から身体を離した。


「今日はありがとう。グレースがいてくれてよかったわ」

「いや、何もしていないさ」

「抱きしめてくれただけで安心したの」


赤らんだそのすべすべとした頬を、青ざめた表情よりこちらのほうがやはりいいな、とグレースはやさしく撫でる。


「次来るときには、たぶん藤の花が咲いていると思うわ」

「…それは楽しみだな」


亜麻色の瞳を嬉しげに輝かせて、シュラインが頷いた。

その表情を目に焼き付けるようにじっと眺めて、グレースは彼女の家から去った。

背中ごしに彼女から「またね」と挨拶されて、ひらりと手を返した。


                ◇◆◇◆◇◆


なんか最近元気ないですね、と指摘をしたのは報告を終えたホークだった。


「気のせいだろう」

「そうですかあ?体調、悪いんでしたら言ってくださいね。薬買ってきますから」


心配そうにグレースを窺うホークの碧眼に獰猛さは感じられないが、公園で吼えてきた大型犬を思い出せた。


大型犬もといホークは、なんでもないと言われると少し腑に落ちないような表情をしながらも追求はしてこなかった。

下がるように伝えると、忠実な彼は、部屋に篭りきりだと身体によくない等と言いながら窓を少し開けて部屋から出て行った。


最近やけに気にかけてくるな、と思うグレースを窓から入った風がさっと撫でる。

すがすがしい風は、天候の良さを伝えるかのようで、きっとこれが彼女であれば絶好のお散歩日和だと感じていただろう。


5月ももう半分が終わった。

あれから一度も彼女の元へ訪れていない。

きっと、藤の花はとっくの昔に咲いているに違いない。

どんな色のどんな形の花が咲くのか、結局実際に目にすることはできなかったな、とグレースはぼんやりと思った。


彼女とはあの日いつも通りに別れたし、彼女もまた藤の花が咲くころまでにはグレースがふらりと現れると思っていたはずだ。


心の優しい彼女のことだから、急に来なくなった自分を心配していないだろうか。

彼女に不安そうな顔はしてほしくない。

いつもふわふわと明るく幸せに暮らしていてほしい。

亜麻色の瞳で優しく植物を愛していてほしい。


離れていても、彼女への愛する気持ちは日に日に膨らんでいく。

けれども、二度と会わないことが最善だとも、グレースは理解していた。


彼女と同じ気持ちを育んで、ともに生きたいとは、もう願わない。


今はただ、彼女への思いを諦めてしまおうということだけを、人づてではなく、

直接会って話しをする方法があってほしい。


彼女に愛を告げていないのに、勝手に別れを告げるだなんてできやしないのだけれど。

それ以前に会うことすら、できはしないのだ。


グレースは目を閉じた。

目に焼きついた、あの日の幸せそうなシュラインの姿が、そこには存在していた。

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