今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを  人づてならで 言ふよしもがな 5

                ◇◆◇◆◇◆


もしかしてナンバー4の座に就くのも近いんですか、とにやけ顔のホークに言われたのは街中にミモザが咲き始めた春のことだった。

冬に負った傷はとっくの昔に綺麗に完治した彼の顔を見つめて、グレースは問うた。


「なぜそう思う」

「だって最近すごく機嫌いいじゃないですか!氷のような表情は相変わらずですけど、前より少しだけ雰囲気も柔らかくなりましたし」

「お前が何を言ってるのかわからないが、とりあえずナンバー4云々は勘違いだな」

「えっ、違うんですか!」


グレースの否定にホークはおかしいなぁと首をひねり、ふわふわした金髪頭をぐしゃぐしゃと搔いた。


「じゃあ、何でそんな機嫌いいんです?」

「お前の言ってることに思い当たる節はないと言っているだろう。気のせいだ」

「気のせいじゃないですよ!ずーっとグレース様見てる俺が言うんですから間違えじゃないです。俺が鼠の娘事件の犯人の容疑をかけられて尋問された後くらいから、間違いなく変化がありましたよ。」


得意げなホークに、沈黙する。

男からずっと見ているなんて言われても、反応に困るに決まっている。


「…あ、もしかして、グレース様にも春が訪れたとか?」

「春?」

「恋ですよぉ恋!愛する人ができたとか」

「愛…」


ははは、と陽気な声で笑うホークに、グレースの脳裏に花々に囲まれたシュラインの姿がよぎった。


「ってそんなわけないかぁ、グレース様に限って!パーティでどんな女に誘われても利がない限り靡かないし、必要とあらば男女平等に暴力をぶつける氷のようなお人ですし。そもそも、今は少しでも早く上の地位を目指してるんですもんね。恋愛にうつつ抜かしてる暇ないっすよねぇ」


グレースの思考等知る由もないホークは、自分の発言につっこみ陽気に笑い飛ばした。

しまいには「気候が暖かくなれば誰だって機嫌よくなりますよね」なんて自己解決して満足したのか、ろくに報告せずに報告書だけおいて部屋を出て行った。


嵐のような男が去り、グレースは心のうちでホークに言われた言葉を繰り返した。


恋愛より地位。

少しでも早く、少しでも上を目指す。

そのためには、どんな手段だって厭わなかったし、これからだってそうだ。


わかりきったことを確認したグレースはホークが置いていった書類に手を伸ばしたが、思考は己の幼き日々に沈んでいった。


                ◇◆◇◆◇◆


ウィステリアファミリーのボスや幹部等上層部は、ほぼ全員がウィステリア家出身者である。

ほぼ、というのは、現在実力のみで一構成員からナンバー5の幹部の地位まで成り上がったグレースがいるからだ。


しかし、周囲に出自を隠しているだけで、グレースもウィステリア家出身である。


グレースの親であるグレースの父も当然ウィステリア家の血を継いでいた。

祖父かその前の曽祖父なのか不明だが、先祖の功績から代々グレースの家系はナンバー3の地位に就いていた。

血を継ぐ父も、幹部のナンバー3の地位についていた。

過去形である。


そもそも父はマフィアという暴力と権力の世界にはあまり興味も持っていなかった。

ファミリーからの指令は全て部下に一任していたようで、屋敷にこもってばかりで碌にファミリーの方に顔を出していなかった。

イタリア1のウィステリアファミリーのナンバー3の地位にいながら、彼はごくごく一般人に近い人物であったのだ。


グレースの年齢がまだ両手で数えられていた時、彼は先代ボスの愛人に、彼女がそうだとは知らずに好意を持ってしまった。

知らなかったが故に、ある時彼女に近づく男を偶然発見した彼は、危険そうな男から彼女を守るために銃をぶっ放した。

危険そうな男。当たり前だ。彼は、ウィステリアファミリーの当時のボスだったのだから。

失笑すらできない話だ。

愛人はおろか、自らが所属する組織のボスの顔さえすぐに思い出せないほど、ファミリーのことを放っていたツケがまわってきたのだ。


幸か不幸か父は銃の腕は良いとは言えないものだったため、先代ボスは右腕のみの負傷ですんだ。

しかし、命があるからといって許すはずもないのが、マフィアである。

怒り狂った先代ボスは、すぐさま父からナンバー3の座を剥奪した。


父の失脚は、光の速さで組織内に広まった。

実力のない者が血という理由のみで上位にいたことが気に食わなかったのか、はたまたただただ上を狙う上昇志向の強い人間が多かったのかわからないが、父が失ったものはナンバー3の座だけでは終わらなかった。


ある人間は、父の家にはこれまでの任務から隠し盗った財産が山ほどあるらしいと先代ボスに進言した。

それを聞いたボスは家宅捜索をし、家中から財産をかき集めた。

本当に隠し盗ったものなのか、それともこつこつ溜めていただけなのか当時幼かったグレースには与り知らぬことではあったが、事実家にはナンバー3が持つであろう財産を上回った財産があったようだ。

この財産に対して、別のある人間が、父がこれほど財産を溜め込んでいたのは、武器や兵力を買うための資金にするつもりだったのでは、と父の反乱分子の可能性を進言した。

父の真意は、財産同様グレースにはわからないが、先代ボスがその進言と父のどちらを信じるかは明白だった。


父はナンバー3の座どころか、ファミリーを追い出され、無一文になってしまった。ウィステリア家の遠縁のお嬢様であった母はそんな環境に耐え切れずほどなくして死亡した。

グレースを除き、本当に何もかもを失った父は盗みだかなんだかの小さな罪で警察に捕まり、捕まった先で元マフィアだとばれ罪状が重くなるうちに失意の中、獄中で息絶えたらしい。


グレースはというと、警察の捜査から逃げ延び、両親につけてもらった真名を捨て、「グレース」という新たな名を自称してウィステリアファミリーに入った。

父から何もかもを奪った先代ボス、父を謀ったファミリーの人間に復讐するためではない。

肉親の情等グレースは持ち合わせていない。

ただ、イタリア1のマフィアで、自分の実力のみで上へのぼりつめたかった。


父のように愛なんて間抜けな感情によって足をすくわれるまねは絶対にしない。


幼きグレースは、そう心に誓ったのだ。


                ◇◆◇◆◇◆


ホークの言葉に未だひっかかりを覚えながらも、グレースはシュラインの家に足を運んだ。

いつものように歓迎してくれた彼女は、頬を紅潮させグレースの腕をひっぱった。


「みてみて!蕾をつけはじめたの」


シュラインの言うとおり、目の前にある藤は薄い紫色の蕾をつけ、地面に向かって成長を続けている。

グレースはしゃがみこんで、その小さな蕾をそっと手の平にのせた。


「この状態から咲くのか…」


藤の花なんて初めて見るが、下に向かって咲く花があるなんて。


咲いた様子が全く思いつかないと、まじまじと見つめているグレースに、シュラインが声をかけた。


「前から思っていたのだけれど、グレースの瞳は藤の花みたいな色ね」

「藤の花の色というと…」

「浅紫色よ。とても綺麗な色。5月の満開の藤の横にグレースがいると思うと、美しい光景に今からうっとりしちゃう」


シュラインは両手で頬を挟んでため息をついた。


「自分で育てた藤の横もいいけれど、フランスには藤の花畑があるみたいだからそこにいるグレースも見てみたいわ」

「そのためだけにフランスに行くのか」


彼女らしいといえば彼女らしい。

グレースだったらそんな目的で外国に行くどころか、発想すら出てこない。


「同じフランスでも、プロヴァンスのラベンダー畑だって見たいし、オランダのアムステルダムのチューリップに、アメリカのカールスバッドのラナンキュラスだって見たいわ。後スペインのアンダルシアのひまわり畑と、ドイツの菜の花畑と…」

「本当に花が好きだな、シュラインは。花だけでそこまで行きたい国の名を挙げられるとは」


それからそれからと指折り数えるシュラインに、グレースは苦笑した。

マフィアの仕事で彼女が挙げた国に行ったことはあるが、どの国を訪れてもグレースは大した感想は抱かなかったし、これといって行きたい国もない。

グレースにとって他国は、国内より少し移動が手間なだけの仕事先に過ぎない。


「君が言っていた国には全て行ったことがある。けれど、仕事でだったから、あまりどの国も印象に残らなかったな」

「わぁ、もったいない。それなら、今度は旅行としてその国に行きましょう」


彼女と共にその地へ行ったら、グレースの見る景色も変わってくるのだろうか。

彼女が見るように、きらきらと輝く世界があるのだろうか。


きっと、そうなるだろうと予感したグレースはシュラインに微笑み返した。


「ふふ、絶対よ」


グレースの手を両手で包み込んだシュラインが、亜麻色の瞳をきらめかせた。

彼女のほっそりとした指先から暖かな体温を感じながら、グレースはずっと心にひっかかっていたホークとのやりとりを思い出した。


ただ上を目指してきた。

父のようにはならない、その思いだけで。

愛などとくだらない感情で身を滅ぼすことだけはしない。


そう心に決めていたはずだった。


どんなに慕ってくる相手に対しても情を持たず、それゆえに報復を恐れず非道な行いを数え切れないほど犯してきた。

ナンバー6の男を排除したときもそうだ。

彼の最愛の娘を残虐な手で奪ったことによりホークが過酷な尋問をされた際、他の人間を身代わりにさせたが、別にホークがどうなろうとどうでもよかった。

あれは、いつまでも疑われていてはグレースが上にのぼることが遅れることと、代わりの駒を探す手間を考えて手を打ったに過ぎない。


それがどうだ。


いつの間にか、何のメリットもない、彼女とカモミールティーを楽しむだけのこの陽だまりのような場所が、誰にも壊されたくないものになっている。


亜麻色の瞳がとろりと優しく輝くところが見たい。

ころころと笑う声がききたい。

栗色の髪を手でいじりながら恥ずかしげに頬を赤らめて笑う姿が見たい。

外国の花畑に行くことだろうと何だろうと彼女の望みは全て叶えて、幸せになってほしい。

そんな彼女の隣にずっといたい。


これを愛と言わずに何と言うのだろうか。

いつからそんな感情を抱いていたのかわからないが、持たないと決めていた感情を、グレースは抱いてしまったのだった。


ホークとのやりとりがずっとひっかかっていたのは、自覚をしていなくともその

感情自体を持っていたからだろう。


「どうしたの?ずっと黙って…」

「いや、なんでもない」

「そう?それじゃあ、とりあえずお茶にしましょう」


藤の蕾を後にしたグレースは、暖かな気持ちで紅茶の用意をするシュラインの姿を見つめた。

同時に、父と同じ感情を持った己に恐れを感じていたが、カモミールの香りを嗅ぐとその感情は薄れていった。

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