今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを  人づてならで 言ふよしもがな 4

               ◇◆◇◆◇◆


突然の申し出にも関わらず、彼女はグレースを寸分も疑わず「じゃあお願いします」と鉢植えを手渡し家まで引き連れた。

それどころか、家について鉢を置いてすぐに帰ろうとしたグレースを、彼女は引きとめお茶に誘った。


「本当にありがとうございました。実は鉢植えを持った時に重たくて家まで持って帰れるか不安だったんです」


ティーポットとカップを載せたトレイを机の上に置いた彼女は、おっとりとした口調で言った。


「いや、気にするほどのことでもない」

「ふふ、ありがとうございます。あ、そういえばまだあなたのお名前を聞いていなかったわ。私はシュライン」


今更名乗るなんてなんか変ですね、とくすくす笑うシュラインにグレースは躊躇した。

己の名は最近マフィアの中では広まりつつあるが、目の前の女はどう見ても敵ファミリーどころかポリスにだって見えない。警戒するだけ無駄だろう。


シュラインが傷一つないほっそりとした白い手でポットを持って、とぽとぽと紅茶を注いでいるのを眺めながらグレースはぼそりと名乗った。


「グレース?素敵な名前ですね」


案の定何も知らない彼女はふわふわと笑うだけだった。

そしてコーヒーじゃなくてごめんなさい、と言いながらふわりと優しい香りを漂わせた紅茶の入ったティーカップをグレースの前に置いた。

イタリア人らしくコーヒーを好んで飲むグレースだったが、差し出された紅茶の香りに自然と肩の力が抜けていくのを感じた。


「…ハーブティーか」

「そう、カモミールティーです。これを飲むと落ち着くから、私のお気に入りなんです。お口に合いますか?」

「ああ。…それにしても花が好きなんだな、君は」


グレースは花柄のティーカップをソーサーの上に置いた。

何の花かわからないが、ピンクや白や黄色等の華やかな色の小さな花々がティーカップに描かれている。

グレースに指摘されたシュラインは、少し頬を染め、ティーカップのもち手を指先で撫でながら頷いた。


「大好きです。綺麗でいい香りで心を癒してくれるんですもの。グレースも好きなんですよね?」

「まあ…」


未だにグレースが花屋へ藤の鉢植えを買い求めに来たものだと思い込んでいるシュラインに対して、彼は否定をせず言葉を濁した。


本当のことを言うと、花なんてせいぜい薔薇くらいしか知らないし、見て癒されると思うことはおろか、はっきりと認識をしたこともない。

パーティ会場や賭場に置いてあるな、と思い出せても背景に溶け込み、それがどんな花だったか思い出せないほどだ。


しかし目の前でおっとりと笑っているシュラインに真実を告げ、その表情を曇らせることは、何故だかしたくなかった。


「そうだ。もしよければお暇なときにこの鉢植えの様子を見に来てください。最後のひとつを私が買ってしまったのだし、グレースにはここまで運んできてもらったんですから」

「様子を?」

「そう、冬の今の時期から育てて5月には綺麗な花が咲いているはずですよ。満開の花を見るのも癒されますけど、過程を楽しむのもガーデニングの醍醐味ですよね」


シュラインの言葉は何ひとつ理解できないものだったが、求められるままにグレースは同意した。

その返事に嬉しそうに微笑む彼女をみて、グレースはじわりと心が温まるのを感じた。


               ◇◆◇◆◇◆


シュラインとの付き合いは、それなりに続いた。

グレースがふらりと彼女の家に足を運びぶと、シュラインはいつも嬉しげに迎え入れた。

彼女の家での過ごし方は、その日のシュラインの気分によって変わる。

藤の鉢植えや他の花を眺め、彼女に花のことを教えてもらうこともあれば、一緒に水やり等ガーデニングを手伝うこともあった。

そうした後、カモミールティーと共に何とはない会話をしながら穏やかな時間を過ごすのが、唯一二人の決まった過ごし方だった。

シュラインが話しを切り出し、グレースが相槌を打つというのも毎回の流れとなっている。

今回もそれは変わらずに、シュラインが話し始めた。


「今朝、街で赤い薔薇の花束を持っている男性を見かけたの。きっとプロポーズしに行ったんだわ」


何度目かの訪問で、すっかり気を許したシュラインは敬語をやめ、彼女本来の態度で接してくるようになった。

もともと柔らかい雰囲気のシュラインだったが、敬語をやめてからはその雰囲気はぐっと増し、つられるようにグレースは、自身も気付かないうちに口調や表情を少し柔らかなものにしていた。


「プロポーズか…」

「愛の言葉と共に花束を渡すなんて、素敵」


赤い薔薇は愛の象徴だ。シュラインの言うとおり、プロポーズだろう。

しかし、何故赤い薔薇の花束を持っているとプロポーズだなんて言われるようになったのだろうか。


黙り込んだグレースを見て、シュラインがくすりと笑った。

何度か彼女の家に通ううちに、グレースが花に詳しくないことはバレてしまったので、きっとグレースの考えていることもわかったのだろう。


「赤い薔薇がプロポーズに使われるようになったのは、花言葉の意味が大きいんじゃないかしら。赤い薔薇は情熱。ちなみに本数や色によっても花言葉は変わるのよ」

「例えば?」

「チューリップだって赤色なら愛の告白って意味だし、逆にカーネーションの赤なら愛は愛でも母の愛って意味になるわ」

「なんでそんなに意味が変わるんだ…」


わけがわからないといった風に憮然とした表情をするグレース。

シュラインは栗色の髪をゆらりとゆらし、頬に人差し指を当てて、そうだなぁとわかりやすい説明を考えた。


「花言葉も諸説あって色んな意味が同じ花につけられてるから、確かなことは言えないけれど、もとになる物語が各々あるからその花によって意味が異なるんじゃないかしら」


そう言って、シュラインは本棚から植物図鑑を持ち出してきた。

かなり分厚いそれを見ても驚かなくなったのは、それだけグレースが彼女の家に通い詰め彼女に慣れたからだろう。


「これは、ワスレナグサって言うのだけど、私を忘れないでっていうのが花言葉なの」


パラパラとページを捲り、開いたそのページには青紫色の小さな花が咲いていた。ページを覗いたグレースは、その花の小ささに街中で見たら自分は見落とすだろうと確信した。


「そもそもこの花の名前の由来は、エデンの園にアダムとイヴが住んでいらした時まで遡ると言われてるわ」


かつて、エデンの園には様々な花々が咲き誇っていた。

住人であるアダムはその花々ひとつひとつに名前をつけた。

すべての花に名を与えたアダムが帰ろうとすると、足元の名前を付け忘れられた小さな花が恐縮した様子で自分の名を問うた。

小さく美しい花に心を奪われたアダムは、こんなにも綺麗な花を絶対覚えているように「ワスレナグサ」と名づけた。


「そういう謂れがあるから、ワスレナグサの花言葉は、私を忘れないでとなったんじゃないかしら。最も、この謂れも諸説あるし、本当のところはわからないけれど」


でも、花ひとつひとつにこうした物語があるなんて、とても素敵よね。


亜麻色の瞳をとろりと輝かせ、本の中のワスレナグサを撫でるシュラインに、グレースは目を細めた。


「他の物語も知りたいな。聞かせてくれないか」


彼女のその表情をもっと見ていたくて、グレースは続きを促した。

グレースの予想通り、シュラインは優しい笑みを浮かべて再び図鑑のページをパラパラと捲った。


「この写真を見てもわかると思うけど、パンジーって人の顔に見えるでしょう?これにも物語があってね…」


楽しげに語りかけるシュラインに、グレースは自身も気付かぬうちに目元を和らげ彼女の姿を見つめ、彼女の穏やかな声に耳を傾けていた。

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