月を望む

文月ユラノ

月を望む

「月が綺麗ですね」


 瞬きもせずに満月を瞳に映し込んでいる男の脇に座り込みながら、女が言う。女は漆黒の髪と眼で、衣装も黒ずくめであったが、その闇色の隙間から見える卵型の小さな顔やほっそりとした手は白磁の肌で、月光の下で白く輝くようであった。

 やや古めかしくも趣のある館の庭園側、その軒下に男女はいた。少し古びてはいるが居心地の良さそうなデッキに男がでんと横たわっている。男の頭のすぐ隣には幽玄な仕草で腰掛けた美しい女がいて、そこは二人きりの世界だった。女は、慣れた手つきで男の艶のない髪を撫でた。男は特に驚いて起き上がることもなく静かに横になったままで、そうされることに慣れているようだった。女は無言でしばらくそれを続けていたが、やがて男の少し長めの前髪から流れるように手を滑らせ、男の瞼を下ろして月を隠した。

 男も色白であったが女の肌はそれよりもなお白く、男の顔の上にある女の手は男の肌に融けるようでありながら、しかしそうなることはなかった。ふと、男が女に聞いた。


「ねえ、さっきの。深い意味があるのかな」

「何がですか」

「いや、いいよ。なんでもないんだ。本当に今夜は綺麗な満月だね」

「ええ、そうですね」


 外は大分寒かったが、その分空気が冴えて上空の満月は恐ろしい程に美しく、夜の世界はいつもより白がかって幻想的であった。雲一つなかったが、時折冷たい風が吹いた。もうしばらくしたら雲がやってきて、男の目の上に被せられた手のように月を覆い隠してしまうかもしれなかったが、近くにはまだ雲の姿は見あたらなかった。

 館の近くに人家はなく、広い竹林があるばかりで、人工の光も遥か先にぽつぽつとしか確認できず、辺りは純粋な月の明かりだけに煙り、しんとしていた。


「静かな夜だね。こんな日は……君と出会った日を思い出すよ」


 女は静寂を破らないが、男は気にせず続けた。


「ほら、今日みたいにさ。そこの竹林から君はひょいと現れたろう。あの時ねえ、僕はかぐや姫が現れたのかとそれは驚いたものさ。君は綺麗な着物姿だったしね。そういえば今日の君は真っ黒な服なんだね。もちろんその服も似合っているけれど」


 さわさわ、さわさわと風が吹いた。寒い夜であったが、男も女も身震いすることなく風に身を晒していた。ただ、男の髪と女の長く豊かな髪だけがさざめき揺れた。


「だって、今日は」


 風に踊った一房が女の顔にかかった。一瞬世界と女の表情がそれに隔たれ、言葉も一緒にふつりと切れた。男はふふと穏やかに笑った。


「そうだね。今日君が着ているのは喪服だね。とてもよく似合っているよ」


 女は何も答えず、そのかわりに男の瞼の上に置いたままだった自らの手を下ろし、ひんやりと冷たい男の手に触れた。男は目を閉じたままだったが、口元には微笑みを浮かべている。


「貴方は、かぐや姫だなんておっしゃいましたけれど……私はそのような美しいものではないでしょうに」

「何を言うんだい。馬鹿だねえ。こんなに美しいのに」


 ふわ、と女の頭上から男の手が下りてきて女の真っ直ぐな髪を撫でた。風に舞って少し乱れた女の髪を整えるように優しく撫でる男の手に、女は感触を味わうかのように数秒目を伏せてから、男を見上げた。

 女のすぐ傍に横たわる男と、女の目の前に立つ男はそっくりそのまま同じ姿をしている。女は、握っていた男の手を大事そうにさすってから胸の上に組ませてやった。


「貴方、本当にこんなところでいつものように眠っておしまいになって」

「君のひざまくらがなかったのは少し残念だったけど、まあ、いいんじゃないかな。今夜は本当に美しい満月だったからね、僕はとても満足だったんだ」


 男は言葉通り本当に満足そうに月を見上げてから言った。


「君はあの満月の日、子どもの僕に死期を告げたね。迎えに来ると。あれから何年だったかなあ」

「二十年です」

「そうそう、二十年もよく辛抱したよ、僕」

「あんなにお小さかったのに……貴方、一所懸命におっしゃるのですもの」


『――迎えに来てもいい。全部あげる。そのかわり、ボクがその歳になるまで、満月の晩には必ず会いにきて!』


「だなんて、ねえ。あの歳でよく上手いこと言えたものだよ」

「貴方ったら……全然怖がりもしないうえに、そんなことまで言い出すものですから……」

「ふふ、君ったらそれで思わず僕と約束してしまったんだものね」

「私すっかり気が抜けてしまって……『約束』を交わしましたのは後で少し悔いましたけれど」


 女が困ったように微笑むと、男は肩をすくめてみせた。


「だって僕、必死だったからね。たまたま『契約』できたのは運が良かったのかなあ。でも、こういう時には思った以上の力が出るものさ。一目惚れとはそういうものだよ」

「そういうものなのですか」

「ああ、そうだとも。僕が良い証拠だろう」

「ええ、御馬鹿さんな証拠ですね」


 鈴を転がすような声で女が笑うと、今や女と同じように透き通る白肌を月光に弾かせた男の手が、女の頬に愛しそうに触れた。


「じゃあ、行こうか」


 女は頬を撫でる手に自分の手を添えて言った。


「本当に……後悔など何もないというお顔ですね」

「それはそうさ。この日が来るのをどれだけ心待ちにしたことか」


 横たわる男の顔とまったく同じ穏やかな微笑みを湛えて男が言う。


己の最期おわりを知りながら真面目に生ききるというのも、大変だったけれどね。今日この日、君に胸を張って手を差し出せるように、僕はそれはそれは精一杯頑張ったのさ」

「ふふ。えらい、えらい」


 横たわった男の髪を今一度撫でてから男が紳士に差し伸べる手を取り、女は立ち上がった。


「それでは……参りましょうか」

「ああ、よろしく」


 言うと同時につい、と繋いだ手を少し引き寄せて男が女の頭に頬を寄せた。


「……あら、貴方……とても綺麗な眼になられて……」


 女が黒目がちな眼を細めて見上げる先には、黄金の眼があった。


「ほら、あすこのお月様のようですよ。とても素敵」

「君が気に入ったのなら良かった」


 男女は上空に佇む月を見上げてから顔を見合わせ、とても幸せそうに微笑みあった。やがてどちらからともなく歩きだし、館の庭先に広がる竹林の中にその二人の後ろ姿が消えていくと、後には館の軒下に横たわる満足気な微笑みを浮かべた男の死体が、月光に照らされるだけであった。

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