第8話 信じるもの

 一方、佐貫さぬき城におけるこのような状況など知らぬ正木勢は安房あわ深く押し入り、義頼よしよりが居城岡本城へと迫った。

 この時、憲時のりときにも確かな勝算があった。

 それは里見義頼側にありなららも、かねてよりよしみの通じていた烏山貞安うやまさだやすが、今は岡本城の留守居るすいをしているということである。

 義頼が城を出るとき、その軍勢の中にこの貞安が加わってないことは、憲時の放った間者かんじゃによって知らせがもたらされている。

 ならば、義頼無き岡本城を落とすには絶好の機会。すぐさま憲時は城内の烏山貞安のもとへと使いを走らせた。


 しかし、意に反して一日経っても貞安からは何の音沙汰おとさたもない。そればかりが、岡本城から繰り出された別働隊が、正木軍の兵糧ひょうろう隊を襲って来たのだ。

 さらに後方からは、義頼軍の一部が正木軍の落とした金山城を奪取した言う知らせまでもが届いて来たのである。


 「憲時殿、このままでは我が方の退路たいろを断たれることになりまするぞ」

 遠征に従軍した正木時盛ときもりが声を荒げる。

 「いったい貞安殿は如何したというのじゃ」

 憲時は人知れず奥歯を噛み締めた。


 結局正木憲時は安房岡本城を目の前にして、やむなくその全軍に退却の指示を出したのである。

 しかし実際にはこの時、義頼軍によって金山城はまだ落ちていなかった。それどころか、なんと岡本城の守備兵力は、たったの五百人にも満たなかったのである。

 つまり正木勢の兵糧隊を襲った別働隊そのものが、城の全勢力だったわけである。


 ここでも正木憲時は大きなミスを犯した。

 岡本城の烏山貞安からの連絡がなかった時点で、本来ならばもっと城の様子を探らせるべきであった。さらに、後方から金山城落城の知らせが届いたときも、自分の家臣をして調べさせる必要があったのだ。

 結局は正確な情報をつかめないまま、憲時は不確かな情報に翻弄ほんろうされることとなったのである。


 言い換えれば、逆に情報網を制した義頼は、状況に応じてにせの情報を流すことを手段とした。

 勿論それができたのも、一年も前からあらかじめ各所に忍ばせておいた安房の地侍じざむら達による効が多きかったことは言うまでもない。

 何れにしても、安房攻略における正木勢の奮闘は徒労とろうに終わろうとしていたのである。 


 そして更に、ここでもまたその情報戦によって窮地きゅうちに立たされようとしている者達がいた。

 正木憲時が安房岡本城を囲んでいた頃、梅王丸うめおうまるが居る佐貫城では相変わらず、皆が右往左往の大騒ぎをしていた。そこに、追い打ちをかけるかのように途絶えていたはずの正木憲時からの早馬が届いたのだ。

 内容は、憲時は葛ヶ崎くずがさき城を落とした後、岡本城へと向かったが攻略に失敗。現在は大多喜おおたき城へと退却しているというものである。

 唯一城方にとっては心の支えとなっていた憲時からの報が、一転してそれらを皆、奈落の底へと突き落とすものへと変わってしまったのである。


 しかし、そもそもこのような結果となった一因でもある烏山貞安は、いったいどうしていたのであろうか。

 かねてから正木憲時の内応ないおうに呼応していた烏山は、実は義頼が城を出る前、すでに義頼の手によって成敗せいばいされていたのである。そのため憲時は岡崎城を攻略する事はおろか、安房より全軍大多喜城へと引き返す羽目になったのである。


 ところが、実はこれも義頼が使わした偽の使者であった。

 事実、烏山貞安はすでにこの世にはいなかったが、実際にはこの時、まだ正木軍は岡本城を取り囲んでいる状態で、上総東部から東安房にかけては、まさに正木憲時の手中しゅちゅうにあったわけである。

 それでも義頼にはある確信があった。それは、上総方における加藤信景のぶかげ勢と正木憲時勢とが目指す方向性の相違を感じ取っていたからである。

 梅王丸を立てて政権を我がものにしようという志は同じであったものの、信景と憲時にはひとつ大きな違いがあった。


 それは、信景が上総八郡と梅王丸の成人を望んでいたのに対し、憲時のそれは違っていた。

 彼は野心家でもあった。つまりは、正木憲時は梅王丸を擁立ようりつし上総八郡を足がかりに、行く行くは房州統一を、そして下総から関東への進出を夢見ていたのである。


 そう言う点では、むしろ憲時の考え方は加藤信景よりも里見義頼の方に近いといえる。

 つまり、目の前の一戦に重きを置く信景を戦術家に例えるならば、義頼や憲時のそれは明らかに戦略家的発想の持ち主であったといえよう。

 よって、もし加藤信景が正木憲時と同じような考え方をしていたならば、憲時が城を出て安房に向かった時点で、協同した情報戦を展開できたはずである。

 しかし、上総一国と梅王丸の保身ほしん固執こしゅうした信景には、やはりそれを見極めることができなかった。

 これが、こたびの勝敗を決定的なものとしたといっても過言ではない。


 また、家臣団の結束力という点でも、両陣営にはそれぞれ大きなひらきがあった。

 義頼を筆頭に家臣、安房の国人こくじん、百姓に至まで、領地の拡大もさることながら、失った自分達の誇りと自尊心を回復したいと切望せつぼうした安房勢に対し、目先の利益のみで集まった上総方勢とはまさに比べるまでもないことである。

 勿論、上総方の方にも、ただ純粋に梅王丸の当主継承けいしょうのためにここまでついて来た者もいる。それでも家臣の大方は、やはり幼い梅王丸を利用しようとしたことに疑いはなかった。


 利でつどいし者達は、己の利で滅ぶ。


 結局この時の正木憲時も佐貫城の加藤信景も、目先の利害の前に大きな大望たいぼうを見失う結果となったのであった。


 それに対し、安房の家臣達はこの二年間、よく自分を殺し辛抱をした。

 様々な情報収集のため、一度は上総方に寝返りを試みた者もいる。その結果、命を落とした者も少なくはない。

 時には刀を置き、その手にくわを握って百姓にもなった。中には物乞ものごいの真似をして上総城下で暮らしながら情報を集めた者すらいたのだ。

 そのような家臣達の並々ならぬ努力もあって、かねてより烏山貞安の裏切りをいち早く知った義頼は、むしろ上総侵攻の直前まで彼を生かしておいた。そうすることで、正木憲時にすきを与えるとともに、この安房の地に正木勢を誘い込むことに成功したのである。


 結局この作戦は義頼の考えた計画通りにことが運んだ。

 義頼は裏切り者の烏山貞安さえも、戦の道具として彼の作戦の中で見事に利用したのである。

 むろん、それも義頼が板倉実臣いたくらさねおみ堀江頼忠ほりえよりただを使って、憲時の情報を事前に探らせていたことが功を奏した結果でもあったわけだが。


 こうしたわけで、正木勢だけではなく、今この佐貫城においても、義頼方は情報のすべてを牛耳ぎゅうじることができたのである。



 「正木殿までもが・・・」

 土岐政道ときまさみちはその場にへたり込んだ。


 「破れたと申すのか・・・」

 多賀是之たがこれゆきは夢遊病者のように、音もなくその場へと立ち上がる。


 もう城内では誰一人声を出す者もいなくなっていた。異様なほどの静寂が城全体を包み込んでいる。


 是之はすでに動かなくなった板倉実臣の身体にすがり付くと、何度もその肩を揺すった。

 場内にはその衣服がかすれ合う音だけが、意味もなく単調に聞こえている。

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