境目の街

 軽い頭痛とともに、目を開くと薄暗い天井が見えた。

 身体を起こそうとして、とてつもない疲労感に襲われる。このままずっと、こうやってまぶただけを閉じたり、開いたり、それだけをやっていたい。そんな思いに囚われる。

 でも、考えてみれば、それを禁ずる者がいない。ならば、許されるのかといえば、自分の中でもやもやと、焦りのようなものが頭をもたげる。

 だから、仕方なしに起き上がることにした。力の入らない腕で、身体を支える。そうして次に見えたのは窓だった。

 どんよりと薄暗いのは、窓の外がそうだからだ。

 人も建物も空さえも、灰色で塗られたそれに包まれている。

「ああ」

 俺の口から言葉がこぼれた。

 その風景はよく知っている。不安も何も覚えない。つまり、慣れ親しんだ風景なのだ。

「あら、目を覚ましたのね。よいタイミングだわ」

 薄暗い世界には似合わない、涼やかな声に、俺は振り返った。

「頭は痛くない? 頭が重いのは当然として、痛いとしたら問題だわ」

 部屋には直前まで自分が寝ていたベッドと、カーテンすらない窓。そして彼女が入って来たドアだけだ。つまり、とても小さな部屋なのだ。

「大丈夫? 名前は……覚えていないわよね?」

 それは、とても奇妙な質問だった。

 彼女は赤みの強い金髪をおさげにしていた。鳶色の大きな瞳と、鼻の頭にはうっすらとそばかすが浮いている。形のバランスが良いので、美人の部類に入るだろう。年は二十歳くらいだろうか? 真っ白のシャツに、真っ白の長いスカート。その先から真っ白の靴が覗いている。上から下まで白づくめだった。それが、この部屋の中で目が眩むように思える。胸の前に、両腕で紙の束を抱えていた。

「名前も、年も、ついさっき自分が何をしていたかさえ、覚えていない。そうでしょう?」

 問われた内容に、次々と答えることが――できない。

 それはもう、本当に、不思議なほど頭の中の引き出しから抜き出してくることができなかった。手を伸ばそうとすると、何かがそれを阻んでしまう。掴んでみたのは答えではなく、するりと手の中で霧散する。

 俺のその困惑ぶりに、彼女は満足そうにうなずくと後ろを振り返り手招きする。廊下の誰かに話しかけた。

「キィ! 本当に申し訳ないけど、それじゃあこちらの男性をお願いね」

「まあ、仕方ないね。居合わせたのも運のうちさ」

 低くも高くもない、青年の声とともに現れたのは、彼女とまったく同じく白ずくめの男だった。だが、彼の方がもっと徹底している。

 白いシルクハットに白の燕尾服。白い手袋に、そして、髪の毛まで白かった。唯一彼の中に色があるとすれば、肌と――しかしそれも北方の人のように白い――、そして青い右目、緑の左目だった。オッドアイには片眼鏡モノクルをしている。

「後のことを考えれば、結局魔法使いの誰かを呼ばなければならないだろう?」

 青年の言葉に、彼女はふふふと笑った。そして、紙の束から一枚抜き取り彼に渡す。

「資料よ。それじゃあ私はあちらの彼女の方へ」

 おさげの女性はキィと呼ばれた青年を残し、部屋のドアをぱたりと閉めた。

「さて、それじゃあ話し合おうか」

「話し合う?」

 おずおずと、そう聞き返す。声は出る。だが、名前はいつまで経っても出て来ない。

「ああ。話し合いだよ。どうする? そのままベッドのままで? それともお互いゆったりソファにでも座ろうか。うん。それがいいな。そうしよう」

 この部屋にはベッドしかない。現に彼は立ったまま握った拳をぽんともう一方の手の平へ打ち付ける。俺の歯抜けの記憶からすれば、それはとても古い仕草だ。時代遅れと言ってもいい。

 だが、次の瞬間はとても斬新だった。今まで見たことのない、出会ったことのない、衝撃の出来事。

 ベッドが消え、俺は彼と差し向かいで座り心地の良い、真っ白なソファに座っていた。

 思わず立ち上がる。足下を見て、己の姿を見て、そして、最後に目の前の真っ白な青年に視線を戻す。

 ベッドで寝ているときは穿いていなかった靴がいつのまにか俺の足先に揃い、確かシャツとパンツのみだったのに、今は立派なスーツを着ている。

「とにかく座ったらいい。まだ頭が重いだろ? 倒れでもしたら困る」

「あ、ああ……」

 言われた通りすとんと腰を下ろすと、確かに頭が、頭部が普段より――この普段が思い出せないのだが――ずっとだるく、重たかった。

「まず初めに、君の名はイーヴ・グレコ」


「まず初めに貴女の名前よ」

 エメはそう言って資料に目をやる。

「クロディーヌ・グレコ。年は二十五」

 ベッドの上でぼんやりとこちらを見ていた彼女の瞳が、一瞬揺らぐ。

「思い出した?」

「……ええ。そうだわ。私の名前はクロディーヌよ。そう。なんで忘れてしまっていたのかしら」

 口元に手をやり再び考え出す彼女を、慌てて次の事実を投げかけることでこちらへ引き戻す。考え出すと、またやっかいなのだ。

「貴女の夫はイーヴ・グレコね。彼は二十八。二年前に結婚した」

 事実を一つ与えるごとに、彼女の瞳に精気が宿る。それは彼女の周りを取り巻くアレを払う。

「ええ。イーヴ。思い出した。私の夫。イーヴ・グレコ。彼は商社で働く営業マンで、私は――」

「専業主婦。彼を朝送り出し、暖かい夕飯を作って彼の帰りを待っていた」

 事実は記憶と連鎖し、アレを――霧を払って行く。


「君は今日、彼女からとある告白をされた。それは君にとってとても驚くことだった」

 目が覚めた時には自分が何者か、どんな暮らしをしてきていたのか、思い出したくても思い出せなかったのが、目の前の青年が与える言葉で次々記憶の引き出しが開いて行く。一つの鍵を与えられれば、もう一つ、二つと次々に思い出す。それは、あのおさげの彼女の言葉を借りるなら、魔法使いのような所行だった。

「君は何を言われ、何に驚いたんだろう?」

 彼はそう言ったきり、口を閉じた。

 どうしたんだろう。俺の魔法使いはそのままじっとこちらを見るだけで、何も言わない。

 ほんの、三十分ほどだ。短い間に彼は俺の生い立ちや、現在の状況を与え続けて来た。

 それがここでぱたりと口を閉じるのだ。

 目の前が、頭が晴れ渡って来たというのに、また、じわりと染みが広がるように、頭に靄が、霧がかかって行くような気がする。

「思い出せ」

 俺はハッと顔を上げた。

 彼の、青と緑の不思議な双眸が俺を射貫く。

「思い出せ。イーヴ・グレコ」

 これまで一度も言わなかった。思い出そうとする暇を与えなかった彼が、初めて俺にそれをしろと言った。


「思い出しなさい。クロディーヌ。貴女は夫のイーヴになんと言ったの?」

 それまでは彼女に思い出す隙を与えてはいけなかった。ぎりぎりまで。鍵となる出来事まで、十分に被害者の霧を払ってから最後に思い出させる。

 それが彼らに対するたった一つの治療法だった。

 この街は、見かけはごくごく平凡な街だ。ただ一つ、常に深い霧が昼夜を問わず街を覆っている。それはこぼれた霧だった。街の中心に、昔からある古い建物。誰も近づいてはいけない、古く、由緒ある、けれどいったい何のためにあるのかわからない建物からこぼれる霧だ。

 スモッグと違って、その霧はまったく身体に害はない。すごく澄んでいて、うっすらと空を覆う霧。街の人達は、慣れきっているため、まったく気にならなかった。

 そこに霧をこぼす建物があるのが当然で、街は霧に覆われているのが当然なのだ。

 ただ、ごく一部の、限られた人間だけがその正体を知っている。

 この街が、他の都市よりずっと住みやすく作られているのも、この建物が生み出すあるものの利益のためだった。

 それが、霧だ。

 街を覆うこぼれた霧とはまったく濃度の違う、純粋なる霧だ。こぼれた霧は所詮こぼれた霧でしかない。人には影響を及ぼさないというのも確かだ。

 霧を産むこの建物は、特殊なこの街が生まれたときに同時に生まれた。街の人々は気づいていないが、この街は昼と夜が隣り合わせに住まう、とても希な土地なのだ。境目の街だ。

 そして、光と闇を原料とする純粋なる霧を作るのにうってつけの土地だった。

 純粋な霧は需要がある。それは、上手に物事を隠すのだ。身体に悪い影響を与えずに、隠したいものだけをすっと、隠してしまう。それは、物だったり、人だったり、噂だったり、――人の記憶だったり。

 建物はオートメーション化が進んでおり、ほとんど人の手が必要ない。

 出来上がった霧は高値で取引され、街の財政は潤って行く。たった一つ、街を覆うこぼれた霧の問題だけは、どうしようもなかった。光と闇を混ぜて、濾して、何度も濾して、そうしてこぼれ落ちた純粋な霧。それを完全に閉じ込めておくのは至難の業なのだ。

「さあ思い出して、クロディーヌ」

 昼と夜。光と闇。その対になるものが、とても近づいている。

 それを建物の吸引口は自動で吸い込んで行く。

 そうして、たまに被害者が生まれる。

 人の心の光と闇があまりにも近く、あまりにも同量で、あまりにも爆発的に生まれたとき、この製造器は人をも飲み込んでしまうのだ。

 身体には何も差し障りはない。光と闇を混ぜて、濾して、濾して、霧がこぼれ落ちる。

 その濾され、残った方に、二人は横たわっていた。

 たまに起きる事故。何年かに一度あるそれには、対処マニュアルがきちんと作られていた。

 エメは彼女の瞳に光が宿るのを見た。

 そして次の瞬間、クロディーヌは自分のお腹へ手をやる。

「赤ちゃんが!」

 そう。

『赤ちゃんができたの』

 その瞬間、光と闇が同量の爆発を起こした。


「闇は男か」

「ええ。彼女は輝かしい命に、幸せを感じていた。最高の喜び、光をね」

「ふうん」

 すべてを思い出した二人をキィが送り届け帰って来ると、そこにはお菓子の山に身体を突っ込むク・ルゥの姿があった。

 イーヴ・グレコとクロディーヌの二人は、ここであったことを覚えていない。そこは霧を上手く使うわけだ。

「ク・ルゥ。どんだけ食べるんだよ。僕が仕事をしている間もずっと食べ続けていたんだろ?」

 エメの手作りパイは確かに美味しい。彼の前にも一切れあった。フォークで一口大に切り取り食べると、暖められたアップルパイと、冷たいアイスクリームが絶品だ。確かに美味しい。甘い物がそう好きではない彼でも、また食べたいとは思う。

 が、ク・ルゥは小さな女の子の形をしている。褐色の肌に、金色の目とふわふわとした金色の髪。子ども以外の何ものにも見えない彼女は、今、目の前の丸い木イチゴのパイと格闘していた。一切れではない。丸そのままだ。しかも空いた皿が二枚重なっていた。考えただけで胸焼けがする。

「まだまだあるからいっぱい食べてね」

 エメがにこにこして奥の厨房を指す。

 三人は、また真っ白な部屋に、染みが着実に作られていく白いテーブルクロスが掛けられた丸い机で向かい合っていた。

 部屋の大きさはイーヴとクロディーヌが寝ていた部屋とさして変わらない。

「本当に、ちょうど貴方が来ていて助かったわ。一人だと順番に相手して、順番に送り届けて、結構大変。手分けして、送り届けるところまでやってもらっちゃったから、いつもよりずっと早く済んだ」

 でも、と目を細めてエメはキィを見る。

「イーヴの記憶。意図的に避けたところがあるでしょう」

「ん?」

 自分の分のパイを平らげ、紅茶で口の中をさっぱりとさせると、キィはにやりと笑った。

「爆発するほどの幸せの光を、クロディーヌは霧の製造に取られてしまった。輝きが消えたわけじゃないが、少しトーンダウンだろ? 対して、自分の子どもができたと聞いたときの闇。それも薄れた。母親の光が薄れた分だけ、父親の闇も薄れた。あの二人は微妙な関係を保ったままそれでもきっと今のままで行くんだろうさ。そこに、また騒動の種はいらない」

 己の子どもを祝福できなかったイーヴ・グレコ。

 子どもという夫をつなぎ止める材料を得たクロディーヌ・グレコ。

「それでも、相手の女性は忘れないし、彼の記憶を刺激するわ」

「だが、男の方がトーンダウンさ。情熱も薄れてる。記憶は連鎖する。そして、霧もね。この街にこぼれた霧が、上手く働く」

「とんでもない修羅場にはならないと?」

 納得がいかないエメに、またキィはにやりとする。

「僕はね、エメ」

 ク・ルゥが自分の皿を平らげ、テーブルの中央にあるドーナツに手を伸ばそうとするが、彼女の身長では椅子の上に立っても届かない。それをこちらから押してやる。

「子どもの味方なんだよ」

 そういって、青い方の目でウィンクした。

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魔法使いキィとク・ルゥ 鈴埜 @suzunon

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