世界の時計

 時間とは、人が己の利便のために定めた概念に過ぎず、それを明確に目の前に実在させる物として、時計が作られた。

 全世界共通の間隔を持つものとし、これのおかげで世界中のちょっとした、それでいて大事に発展する諸々の紛争が無くなった。長さや重さの単位も、また同じである。

 人間が発展する上で当然のように取り決められた事柄の一つ。

 ――そう、誰もが信じて疑わなかった。

 

 それが起こったとき、一番近くにいたものが早急に駆けつけること。

 決まり事を多く持つ中で、それはかなり上位に位置づけされた盟約の一つだ。

 盟約といっても、書面で交わしたわけでもない。決まり事といっても、罰則があるわけでもない。だが、それは間違いなく彼を縛った。

「なんてタイミングだ」

 ぶつぶつと文句を垂れながら、パチンと指を鳴らす。

 ほんの二日前であったなら他の奴が変わりに現場へ急行したはずなのに、今日は自分が一番近かった。よりによって、だ。これで何度目だろう。嫌がらせにもほどがある。

 一気に飛んでも良いが、気分が乗らないから距離も伸びない。そうして何度も指を鳴らすはめになる。

 白いマントをなびかせて目的地の手前に着いたのは、事が起きてから時計の針が動いていると仮定するならば、五分と三十二秒後だった。

「面倒だ。絶対あいつ、お茶と甘ったるい焼き菓子を食べようと大口開けてる瞬間だ」

 甘ったるい、のあたりで彼の肩に乗っている少女はぴくぴくと鼻を動かした。

 青と緑の瞳を持った全身白づくめの青年。年が二十五にも、十六にも見える、不思議な容貌を持っていた。その原因の一つは、彼の髪が真っ白だからだ。人が年を取って、色素が抜けてゆくのとは違って光沢はあるが、それでも第一印象にいくぶん年齢が加算される。

 また、彼の肩に在る少女はふわふわと綿毛のような金髪に同じ色をした瞳、乗り物としている彼とは正反対の褐色の肌を持っていた。誰が見ても十歳に満たない少女で、この二人連れは好奇の視線を集めることが常だった。

 それが嫌であまり人通りの多い場所は避けるのだが、今日に限ってはそれを心配することもない。

 今日、という言葉も使うことにためらいを感じる。

 彼は周囲へと目をやった。

 本来なら賑わっているこの界隈が、静まり返っている。

 そこには精巧な彫像とも思える人の形をしたものが在った。車や、自転車、道端には日向で暖を取る子猫。それら全てが動きを止めている。この時期には必ず日中吹く季節風も感じることができない。

「キィ」

 肩の上の少女がつぶやくと彼は分かっていると頷いた。それでも悪態をつかずにはいられない。

「だいたい【禁猟区】に行くのは気が進まない。あそこは体が重くてかなわない」

 さらにこんな荷物を抱えた身では、と心の中だけでつぶやく。

 すると、少女は少しだけ口を突き出して彼の耳を引っ張った。

「やめろって、ク・ルゥ。別に君が最近太ったなんて言ってやしない」

 余計な口を叩けば当然攻撃が激しくなると分かっていながら言ってしまうのは、結局彼女の前では思ってることが筒抜けで、それならば言ってしまったほうが精神衛生上よろしいからである。

 もちろん、片耳だったのが両耳を引っ張り上げられる結果となった。

 そんな風にじゃれあいながら、目指す塔の前にたどり着く。

 世界基準時間を表示するそれも、今は止まっていた。人間になんと呼ばれているかは興味ない。彼ら、【魔法使い】の間では、それは【世界の時計】と言われていた。

 普通の人と違い、不思議な力を操る【魔法使い】は、世界にほんの少しの数しかいない。彼らは全てを手に入れる力を持ちながらも、決して人と争わず、必要以上に人に関わらず、完全に外界との接触を絶つ者も多い。キィも、できることならそうしていたい。だが、彼と一緒に行動するク・ルゥがその望みを打ち砕く。彼女は世界を回る旅が好きだった。

 今回もそんな道程の途中に、【世界の時計】のネジが切れるという場面に出くわしたのだ。

「あのくそじじい、モウロクしやがって! 毎朝きっかり一周分回すだけだってのに」

 そう舌打ちして懐から懐中時計と取り出した。

「どうする、ク・ルゥ? 抜ける間止まるか?」

 塔の中は【禁猟区】で、魔法使いもただの人になる。【世界の時計】が止まっている中人と異なる魔法使いのみ、動くことが可能だ。しかし、塔の【禁猟区】に入れば彼らもまた動きを止めねばならない。それではネジを巻く者がいなくなってしまう。そこで、魔法使いはその力で事前に作り上げたこの時計を持って塔の中へと入って行く。この時計を持っているものだけが、塔の中でも自由に動くことができるのだ。この中には、時が詰まっている。【世界の時計】が止まったとき、一番近くにいる者の懐にそれは忽然と現れる。

 時計は一つしかない。

 ク・ルゥがやるか、キィがやるか。実際どちらでもいい。むしろ時計塔の管理人と顔を突き合わせずに済むなら前者がいい。

 が、彼女はぎゅっとキィの頭に乗っている真っ白なシルクハットを抱えた。

 自分で歩く気はない。イコール、キィが働けとのお達しだ。

 ふぅ、っと息を吐いて彼は懐中時計を握る。古めかしい、常人には見えぬ扉をゆっくりと開いて、中へ入っていった。ク・ルゥがその生を止める。

 薄暗い塔内をゆっくりと進み、地下へと下りて行く。塔のてっぺんに時計はあるが、その肝心要の動力部は地下にあった。もちろんネジを巻くのも地下だ。

 途中、彼の予想通りこの時計塔の管理人が朝食のパイを焼き上げた姿で動きを止めている。憎たらしいその面に、いたずら書きでもしてやろうかとの衝動に駆られるがやめておいた。動き出したあとぐちぐちと文句を言われるのも面倒くさい。

 管理人の首にかけてある大きな鍵だけを拝借し、ゼンマイ穴の前に立つ。

 人が作った【世界の時計】。作った人間が、特別な力を持っていたのだろう。いつしかそれが時を支配した。それに気付いたのは魔法使い。人在らざる者たちだ。人は、己のしでかした事態に気付いていない。さすがに哀れだと毎度毎度こうして人の時間を動かしてやる。彼らもまた、人の子であったから。

 管理人から奪った鍵状のそれを穴へと入れる。ギリギリと音をたてて回すと、やがて建物全体が震え、目の前で始まった回転が、やがては上へと上り――

「キィ」

 時は動き出す。

 ク・ルゥのふっくらとした頬の感触に安堵し、上からどだどたと駆け下りてくる足音に眉をひそめる。

 静寂の中のぬくもりが、一瞬にして消え失せた。

 肩からク・ルゥが飛び降りる。

「じょおちゃーんっ!!」

「!!!!」

 二人は狭い階段の途中でしっかりと抱きしめ合った。ク・ルゥは、その小さな体を思い切り老人へぶつける恰好となる。

「そのまま後ろへ倒れて頭を打ってしまえじじぃ」

「相変わらず口が悪いのぅ、小僧。まーよう来た、よう来た。ささ、美味しいケーキが出来たところじゃぞー。嬢ちゃんはみるくてーでいいかの? うんうん、よーしよし、こっちじゃこっちじゃ」

 そして、予想していた通りの展開となった。

 ク・ルゥの前には生クリームをたっぷりと盛った焼き菓子と甘いロイヤルミルクティー、キィには砂糖もミルクもなしの珈琲が湯気を立てて置かれている。

「モウロクじじぃめ。いい加減誰かと交代しろ。こう頻繁に忘れられてはこちらも迷惑だ」

 ずずずと音を立てて一気に珈琲を飲み干すと、カップを机へ叩きつけた。ク・ルゥが非難の眼差しをこちらへ向ける。

「交代っちゅうても、誰もこんな仕事やらんて。それともあれか? 小僧が儂と変わってくれるか?」

「お断りだね」

「じゃろう? しかもここは【禁猟区】。魔法使いが一番苦手とする場所じゃ。誰も好きこのんでここに来ようとはしない。たまに、時計が止まりでもしない限りはな」

「……まさか、じじぃ! てめーわざと止めたのかっ!?」

 声を荒げて立ち上がろうとするのを、隣に座るク・ルゥがマントの裾を引っ張って止めた。

「ほっほっほ。わざとなんて、なぁ。たまたま今朝は久しぶりに上手く甘いお菓子が焼けて、ク・ルゥの嬢ちゃんにも食べさせてやりたいなぁと思ってるうちに、ゼンマイを巻くのを忘れてしまっただけじゃよ。美味しいか?」

 最後の問いかけに、小さな少女は満面の笑みを浮かべ頷く。そのままキィを見上げた。

 あまり表情豊かではない彼女のその仕草に、魔法使いは小さく舌打ちをして腕を組んでそっぽを向く。

「まあ、この老いぼれ命尽きるまでこの塔で暮らすことになるだろうよ」

「とか言って、何百年と姿形が変わらない」

「まあ、そりゃぁ【魔法使い】だからの」

 そう言って小さくウインクする。

 キィは顔をしかめて舌を出す。

「この塔は儂の罪。生涯をかけて償おう」

 昔々、本当に遠い昔、ある建築家が塔を建てた。その塔のてっぺんには時計が設えてあり、毎日正しく時を刻んだ。

 その塔が、とんでもない代物だと気付いたのは随分後のこと。塔を建てた本人が死んでしまったずっと後。彼の片親は魔法使いだった。その不思議な力は息子にも受け継がれていた。だが、彼は魔法使いではなく、生きていたのはその親。

 以来、親は息子の作った塔に住み着いているという。

「誰もあんたの罪だなんて言ってない」

「罪は、他人が決めるんじゃない。己が決めるんだ。……とはいえ、やはり退屈でのぅ。たまにはこんなのも良いじゃろう?」

 巻き込むなと、言いかけて口をつぐむ。

 隣にある少女の笑顔を見て、まあ良いかと思った瞬間、彼の敗北が決定された。

「たまには甘くないものも欲しい」

「男に作ってやる気はさらっさらない」

 【世界の時計】は今日も正確に人々の時を刻み続ける。

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