第3話 人魚に追われる鬼ごっこ

 ガーネットさんは……ムササビスーツで羽ばたくという行為を、すっかり習得してしまったようだった。

 彼女は真っ赤なポニーテールをはためかせながら、大空を旋回していく。そうやって大きな弧を描きながら、徐々に……その滑空スピードを、上げていった。

 今のガーネットさんの滑空速度は、そこら辺の公道を走っている車と、だいたい同じくらいだ。だから恐らくは……時速50kmくらいのスピードは出ているはずだ。

 しかも、もう既に十分すぎるくらいの速度が出ているというのに、彼女の滑空スピードは、ますます速くなっていく……!

 一体、何をするつもりなんだろうか……!?


 やがて――ガーネットさんは、大空を飛翔する軌道を、クイッと大きく変えた。

 旋回するのを止めて……私の方へと目がけて、一直線に突っ込んできた!

 鬼の様なスピードだ。目測で、時速100km以上は出てる気がする……!

 このままだと――正面衝突してしまう!

 私は脊髄反射でその場に伏せた。

 ガオンッ! という空気を引き裂く音が、私の耳のすぐそばで轟いた。そして彼女は、私の身体のスレスレの位置を、凄まじいスピードで通り過ぎていった!


 なな何てことをするんだろうか!? もしも当たっていたら、どうするつもりだったんだろう!? あんな超高速で突っ込んでこられたら、かすっただけでも大怪我は避けられない。まともに衝突すれば、即死だ! いくらなんでも洒落にならない……!

 ――そう思って、私はハッと気がついた。

 そ、そうだ……もしかしたら、これは彼女の"作戦"なのではないだろうか?

 ガーネットさんは、私のことを、心の底から"ビビらせようとしている"のかもしれない。そうやって、私から「参りました」という言葉を、引き出そうとしているのかもしれない。



 ――彼女は、"私を傷つけない"という、あまりに重たすぎるハンデを背負っている。

 だから……肉体的では無く、精神的に私にダメージを与えることにしたのかもしれない。つまり――私をビビらせて、「もう私の負けで構いませんから、もうこれ以上超高速で突っ込んで来るのは、止めてくださいお願いします!」と、私に怯え声で言わせようとしているに違いない。

 実際のところ――彼女が私の身体のすぐ側を通過した瞬間、私の脳裏には"死"の文字が浮かんでいた。そして全身からは変な汗が噴き出してきたし、胃液も逆流しそうになった。

 もしもこのまま、同じようにして私のメンタルを恐怖で責められ続けたら、たしかに危ないかもしれない。

 たとえ、(決して降参なんてするものか)と心の中で強く思っていても、圧倒的な恐怖の前には、本能が反応してしまう。思わず反射的に、「降参します!」と叫んでしまうかもしれない。

 もしも私が、たったの一言でも、負けを認めるような発言をしてしまえば……その時点で、彼女の勝ちは決定となる。


 しかしこちらにも、意地がある。

 もうこうなったら、何が何でも、ガーネットさんを、海へと帰してみせる……! そして彼女が楽しそうに海で泳いでいる姿を見てみせる。それまで私は、屈しない。

 それに、どんなに彼女が強くても、この勝負は、十分私に"勝機"のある戦いだった。

 なぜなら、人魚という種族には、致命的な"弱点"があるからだ。その弱点とは――人魚たちは、あまり長い時間、地上に居続けることができない、というものだった。

 人魚たちというのは、普段は水中で暮らしている種族だから、"乾燥に耐える"ということができない。だから地上に上がってきて、しばらく時間が経過して、その身体が乾いてくると、だんだんと具合が悪くなってきてしまう。そして徐々に身体から力が抜けていき、やがては動くのが辛くなっていき、ついには身動きがとれなくなってしまう。

 ガーネットさんが、もしも本当に人魚だというのなら、やはりその弱点はあるはずだった。

 だからたとえ彼女が、常識外れの怪力人魚だろうと、その身体が乾燥していけば、力を失っていくはずだった。つまり彼女が、地上で活動し続けられる時間には、限界があるということだ。


 だから私が勝利するために、とれる作戦というのは、たったの一つしかない。

 それは――とにかく、"逃げ続ける"ということだった。

 たとえ彼女が、音速を超えてきたとしても、大空の覇者になったとしても、私のやることは変わらない。ガーネットさんの活動限界がやってくるまで、とにかく逃げ続けるしかない。

 そして私が、彼女の圧倒的な恐怖の前に屈することなく、彼女の身体がすっかり乾燥してしまうまで逃げ切ることに成功しさえすれば――この勝負、私の勝ちということだ……!


 ◇ ◆ ◇


 それから――私は、道路の上を走って逃げ続けながら、ガーネットさんの滑空襲撃を、二回受けた。

 空から彼女が、目で追えないほどの超高速で、私のすぐ近くをかすめて通過する度に、私の心臓はビクンッと跳ね上がった。

 それでも私は――ある場所まで、辿り着いた。


 いま私がいるのは、森を切り開いて造られた、二車線の道路の上だった。

 私がこの場所へと来たのには、ちゃんと理由があった。それは――ガーネットさんの滑空攻撃を、防ぐため、というものだった。

 この道路の右側と左側には、鬱蒼とした森が広がっている。つまり、無数の木々たちが、障害物として立ち並んでいるということだった。

 いくら超絶生物のガーネットさんといえど、時速100kmで、障害物だらけの森の中を飛行するなんて芸当は、さすがに不可能なはずだ。

 だからこの場所なら、多少は時間を稼げるはず――というのが、私の考えだった。



「あー! こんなところにいた!」

 頭上から、ガーネットさんの声が聞こえてくる。

 慌てて見上げてみると、私の頭上30メートルほどのところに、ガーネットさんがいた。彼女は相変わらず、両腕でバッサバッサと羽ばたいて、空中に浮いていた。


 まさか、もう見つかってしまうなんて……あまりにも早すぎる! これでは、時間なんてほとんど稼げていないじゃないか……!

 軽く愕然としながら、私が真上を見上げていると――ガーネットさんのところから、ビリィッ! という布の破れるような音が聞こえてきた。

「あ……あぁあー! ムササビスーツが破れたー!」ガーネットさんは空中で大騒ぎをしている。

 どうやらさっきの音は、彼女のムササビスーツが、無残にも破れてしまったときの音だったようだ。ムササビスーツの布は、完全にビリビリに破れてしまっていた。

 ただ……考えてみれば、これは当然の結果だった。あんな風に、人知を越えるほどの筋力で大空を羽ばたいていれば、どんなに丈夫な布だって、すぐに耐久限界がきて破れてしまう。

 空中では――ガーネットさんが、悪あがきとばかりに、必死に手をばたつかせている。しかしいくら彼女でも、生身の身体のみでは、空を飛べるわけがない。

 抗いようもなく、彼女の身体は、重力に引っ張られるままに、真下へと自由落下していった。

 そして、私の目の前で――ドコォン! という激しい衝撃音と共に、彼女は道路の上へと墜落した!


 た、大変なことになった!

 ガーネットさんは、たしかに、とてつもないほどの怪力の人魚だ。けれど、生身の生物であることには、変わりはない。

 それなのに……あんなにも高い場所から落下してきて、なんの緩衝材も無い状態で、堅いコンクリートの道路の上へと、もろに墜落してきたんだ。どう考えても、無事で済むはずが無い!

 もしもこれが人間だったら、間違いなく即死だ。というよりも、普通に考えれば……人魚でも、やっぱり間違いなく即死だった。

 まま、まさか……ガーネットさんは、潰れたトマトになったのでは……?

「ガーネットさん、生きていますか!? 無事なら返事をしてください、ガーネットさん!?」


 墜落現場には、土煙が立ちこめている。そのモヤモヤした煙の中に――モゾモゾと、動くものが見える。

 あれは――ガーネットさんだ。間違いない……生きている!

 ひとまず、一命は取り留めていたようだ……。私はホッと胸をなで下ろした。

 とはいえ、あれほどの高さから道路に激突してきたわけだ。相当な重傷を負ってしまっているに違いない。

 私は、ガーネットさんの身体を、注意深く観察してみた。

 彼女の、その全身の状態は――……私の予想に反して、どういうわけか、ほとんど無傷だった。

「あいたた……。打ち身でアザができちゃってるよ……。それに、あちこち擦りむいちゃったし……」彼女は、ちょっとフラフラとしながら呟いた。

 ありえない。とても信じられない。けれど……実際のところ、ガーネットさんは、割と平気そうだった。

「あの、何度も聞いて申し訳ないんですけれど……。貴女は――本当に、人魚なんですよね? 貴女のその身体は、実は鋼鉄でできていました、なんてことはないんですよね?」

「そんな、身体が鋼鉄でできているわけがないじゃないか! まあ……でも、他の人魚よりは、あたしは怪我をしにくいよね。なんといっても、あたしは……人魚の中で、いちばん身体が丈夫だからね!」ガーネットさんは、元気そうにガッツポーズをきめた。

「それは、身体が丈夫なんていう表現で済むようなレベルではないですよね!?」

 私は、彼女のことを"生物"だと認識していて、本当に良いんだろうか? だんだんと、自信がなくなってきた……。

 実は、未来から送り込まれてきた、サイボーグか何かではないんだろうか……?



 とにかく、彼女が未だ健在なのは、間違いないようだ。

 ということは――私と彼女との真剣勝負は、まだ"続行中"ということになる。

 彼女は、まだ私を追いかけてくるつもりのようだし、私は、依然として彼女の追跡から逃げ続けなければならない。


 だから私は、道路の隣に広がっている、鬱蒼とした森の中へと、飛び込むように逃げ込んでいった。

 "三十六計逃げるにしかず"だ。孫氏大先生、いま私は、貴方の教えに従います……!

「待て待てー!」後ろからは、ガーネットさんが、楽しそうに追いかけてくる。

 は、速い……! あれが、陸に上がった人魚の動きなのか……!?

 捕まってなるものか……必ず、逃げ切ってみせる……!


 ◇ ◆ ◇


 それから私は、森の中を――ひたすら逃げ続けた。

 森の中というのは、非常に多くの障害物がある。太くて大きな樹も沢山生えているし、あちこちに低木も生えているし、たまに大岩も転がっている。

 そういった障害物のおかげで、かろうじて私は、ガーネットさんの追跡を逃れ続けることができた。


 しかし――……とうとう、私の身体にも、限界が来てしまった……。

 体力の、限界だ……。もう、一歩も……歩けない……。


「ヤツメ……。どうやら、限界のようだね……!」

 その声を聞いて、私は慌てて後ろを振り返る。すると、すぐ目の前に、ガーネットさんがいた。

 ついに、追いつめられてしまった……!

 しかし――

「ガーネットさん。貴女の方も、そうとう、消耗しているようですね……」

 彼女の身体は、すっかり乾燥してしまっていた。

 赤くてサラサラだった髪の毛は、今では、パサパサな縮れ髪になってしまっている。お肌も、乾燥のせいで、荒れ放題だ。赤い鱗はくすんでいるし、大きな尾びれもシワシワになってしまっている。

 やはり――どんなに強くても、彼女は人魚だった。

 その身体が乾燥すれば、力を失ってしまう。どれほどの怪力も、どれほどの頑丈さも、乾いてしまった身体では、十分に発揮することができない。

 人魚は、地上に長時間居続けることはできない。彼女の地上での活動限界は、近そうだった。


 私もガーネットさんも、もう限界が近い。

 それはつまり――このままでは、"引き分け"になる可能性が高い、ということを意味していた。

 この戦いは、どちらかが降参しなければ、決着がつくことはない。だから私と彼女が、このままの調子で、にらめっこや追いかけっこを続けていれば、いずれは二人ともが力尽きて、その時点で真剣勝負は終わってしまう。

 せっかくここまで激闘のようなものを繰り広げてきたというのに、引き分けなんていう、うやむやな決着を迎えて終わるのは、やはり嫌だった。

「ガーネットさん……」私は彼女に、一つの提案をすることにした。「もしよろしければ、今ここで、正真正銘、最後の"決着"をつけませんか……?」

「決着って……どういうこと?」彼女は首を傾げている。

「私も貴女も、すっかり弱ってしまいました。このままでは、この勝負、ラチがあきませんよ。ですから……きちんと決着をつけるために、一つの"条件"を提案したいんです」

 私は、彼女に対して、最終的な決着をつけるための、とある条件を提案した――

 ――それは、一回限りのチャンスのみで、彼女が私のことを、"取り押さえられるかどうか"、というものだった。

 もしも彼女が、今この場所で、私のことを押し倒して、動けなくすることができれば、彼女の勝利になる。

 しかし、ガーネットさんに与えられるチャンスは、たったの"一度きり"だ。もしも私が、彼女の拘束から抜け出すことができれば、彼女に次のチャンスは与えられない。つまりその時は、私の勝ちということになる。

「――いかがでしょうか、ガーネットさん。この最後の勝負、受けていただけますか?」



「そうか……分かったよ」ガーネットさんは、うんうんと頷いている。「ヤツメは、そんなにあたしに押し倒して欲しかったんだね。思ったよりも……ヤツメってば大胆なんだね」

「いま全然そんな話の流れではなかったですよね!?」

「ふふ、冗談だよ」楽しそうに笑いながら、彼女は――その身を、低くかがめた。「いいよ。ヤツメの提案、受けて立つよ……! だからつまり……これが、本当に最後の勝負だ。この一回で、あたしは、ヤツメを押し倒して動けなくしてみせるよ。そして、この真剣勝負――あたしが、勝たせてもらうよ!」

 ガーネットさんは、シワシワになった尾びれで力強く地面を蹴り、タックルをしかけてきた!

 彼女の身体が、一直線に、私の方へと突っ込んで来る……!

 これが、最後。これさえしのげば、私の勝ちだ――!

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