第2話 私が空を飛ぶと言っているんだ
とにかく、こんな勝負は受けられない。その事は、はっきりと彼女に伝えよう。
そう私が思ったとき――赤色の人魚は、とても意外な提案をしてきた。
「ただ、このまま戦ったら、ヤツメが不利すぎて、あたしが勝ってしまうからね……。"ハンデ"をつけるというのは、どうかな? やっぱり勝負というのは、正々堂々とやらないと、意味が無いからね。どちらが勝つかが分からないからこそ、戦いというのは面白いんだからね!」
そう言って、彼女は勝負やハンデやなどの具体的な内容について、話し始めた。
その内容は、こうだった――
――まず、"勝利条件"。それは、どちらか一方が「参りました」と言うことだった。つまり、私と彼女のどちらか、先に音を上げて、降参した方が負けになる。
そして次に、赤色の人魚が負う"ハンデ"。それは……彼女は、私に対して直接的な攻撃はせず、怪我をさせないように注意しながら戦う、というものだった。
それに対して私は……何もハンデは負わない。つまり私は、彼女に何をしても良いし、どんな手段を使っても構わない……ということだった。殴ってもいいし、噛みついても構わないらしい。
「――どうかな? このくらいのハンデなら、丁度いいんじゃないかと思うんだけど」彼女はニコニコしている。
彼女の話したハンデの内容は……正直なところ、とてもではないけれど、丁度良いものとは思えなかった。
その条件は、彼女にとって、絶望的なくらいに不利なものだ。……というよりも、"矛盾"していないだろうか?
彼女が勝利するためには、私を傷つけないように細心の注意を払いながら、私に「参った」と言わせなければならない、ということになる。
果たして、そんなことが可能なんだろうか? 少なくとも私には、彼女に勝ち目があるとは思えなかった。
「逆に、聞きたいんですけれど……。貴女は、それで良いのですか? ハンデ、つけすぎではないでしょうか?」
「大丈夫だよ。なんといっても私には……これがあるからね!」
彼女は、一体どこから取り出したのか、とても大きな赤い布を広げて見せた。そしてその布を、せっせと身につけていく。
あの布は……"ムササビスーツ"と呼ばれるものだ。
――ムササビスーツとは、人間がスカイダイビングをするときなんかに、使われるものだった。
このスーツを身につけると、まさにムササビのように、両腕と両足の間に、大きな布を広げることができる。
そして空から落下するときに、両手足の間の布を広げると、通常よりも強い空気抵抗を受けることができるようになる。すると、それこそムササビのように、空中を自由に滑空することができるようになる。
――とはいえ、彼女は人魚だ。スカイダイビングなんて、やるわけがない。
この赤い人魚は、ムササビスーツなんてものを身につけて、一体どうするつもりなんだろう?
「あたしはね、このムササビスーツを使って、"空を飛ぶ"つもりなんだ!」
「空を飛……ええと? 何て言いました?」
「大空を羽ばたいて、鳥みたいに、空を飛ぶんだよ。ほら、こうやってね!」
まるで鳥が羽ばたくように、赤色の人魚は、ムササビスーツを身に着けた状態で、両腕をバッサバッサと振ってみせた。
彼女は一体何をやっているんだろう……ちょっと可愛い。
「あの……申し訳ないんですけれど、冗談は後にしてもらえると嬉しいんです。それで空なんて、飛べるわけがないですよね」
「飛べるよ! だってあたしは……人魚の中で、一番の力持ちだからね!」
いやその理屈はおかしい。
果たして彼女は、どこまで本気で言っているんだろうか……。
「よし……じゃあ、準備が整ったところで、始めようか!」
「始めるって……まさか、その"勝負"をですか?」
「もちろんだよ!」真っ赤な人魚は、嬉しそうに尾びれをパタパタと振っている。「私の名前は、ガーネット。さあ――血湧き肉躍り、熱い魂同士で語り合う、真剣勝負の始まりだよ! いくよ、ヤツメ!」
「えっちょっと待ってくださ――」
ドオンッ! という轟音が鳴り響く。
赤色の人魚がいる場所からは、一瞬のうちに、ものすごい量の土煙が噴出した。
そして――真っ赤な人魚は、その姿を完全に消してしまった。
い、一体何が起きたんだろう……?
ついさっきまで、私の目の前には、ガーネットと名乗る赤い人魚がいたはずだった。
それなのに――今はもう、私の目の前にあるのは、溢れんばかりの土煙だけだ。肝心の彼女は、影も形も無く消失してしまった。
一体、どこへ――?
「こっちだよ、ヤツメ!」
頭上から、とても大きな声が聞こえてきた。
驚いて私が真上を見上げると――道路から、高さ20メートルか30メートルくらいの位置に……彼女は、いた……!
人魚が……地上から数十メートルの空中にいる!
一体どうやって!? いや……答えは出ている。信じられないけれど、消去法で考えれば、答えは一つしか無い。
ジャンプしたんだ。あれだけの高さまで、彼女は、跳躍したんだ……!
空中へと高く飛び上がったガーネットさんは、あろうことか、目一杯までムササビスーツを広げて、バッサバッサと羽ばたき始めた。
空を飛ぶつもりというのは、冗談ではなかったんだ……。まさか本当に、あれで飛べると思っていたなんて……。
彼女には申し訳ないけれど、それはいくらなんでも、無茶というものだった。いくら頑張ってバサバサやったところで、空なんて飛べるわけが無い。
だから当然のごとく、彼女の身体は、空中から落下して――
落下して――……こない。空中で、浮いている……。
「と、飛んでる……!」驚愕の事態を目の当たりにして、思わず私は叫んでいた。
たしかに――あくまで理論上の話だけれど――あのムササビスーツでも、空を飛ぶことは、可能といえば可能だった。
空を飛ぶ行為というのは、要するに、ただ単に空気を下方向に押して、その反動を利用して、身体を上方向に持ち上げているだけの行為だった。その原理は、複雑そうに思えて、実のところ割とシンプルだった。
だから、ただの布を広げたものであっても、上手に力強く羽ばたきさえすれば、空を飛ぶことはできる。
ただし――それは、あくまで理屈上の話だ。実現可能という意味ではない。
たしかに鳥たちは、その翼を使って、大空を飛び回ることができる。
けれどそれは鳥たちが、途方も無いほどの年月をかけて、その身体を、空を飛べるような形へと進化させてきたからだ。膨大な量の世代を費やして、空を飛ぶために特化した身体の構造を獲得したからこそ、鳥たちは空を飛べるようになった。
だから――翼を持たない陸や海の生き物たちは、空を飛ぶことができない。
人間は、生身では空を飛べないし、人魚だって飛べはしない。それは、当たり前のこと……のはずだった。
当たり前のはず……なんだけれど……?
「いやー、大空を飛び回るというのは、本当に気持ちがいいなあ!」
だんだん空を飛ぶコツを掴んできたのか、ガーネットさんは、少しずつ羽ばたくのが上手になっていっていた。
一体……何なんだろうか、あの生命体は……。
彼女は、自分のことを、「人魚で一番の力持ち」と言っていた。しかし……筋力に任せてムリヤリ空を飛んでいる彼女のことを、"力持ち"という程度の、生ぬるい表現で、済ませて良いものなんだろうか……?
人魚が、力ずくで空を飛ぶなんて、果たしてどれだけの筋力があったら、可能になるというんだろうか? 彼女なら、"生命の神秘"という概念そのものを、その拳で殴って叩き壊せるのだろうか……。
彼女の姿を見ていると、なんだか、無性に悲しい気持ちになってくる……。
違うんだ……。
人魚というのは、あんな風ではないはずなんだ……。
――人魚たちは、普段は水中で優雅に泳いでいる種族だ。人間では決して泳げないスピードで泳げるし、人間だったら絶対に潜れないような深さまで泳いで潜ることができる。
そして時には、海面から顔を出して、キラキラとした水しぶきを上げながら、キャッキャと遊んだりお喋りをしたりする。
そして稀に、陸上へと上がってくるけれど、陸上は苦手だから、尾びれをずりずりと引きずりながら、とてももどかしそうに移動したりする……。
それが――人魚のイメージなはずだ。そして人々は、そういった姿に、胸キュンしたりする。――いや、しない人の方が実際には多いのかもしれないけれど、少なくとも私は、たまにトキメキを感じたりしていた。
それなのに……彼女は一体、何なんだろう?
人魚のはずなのに、陸上に上がっても、元気いっぱい。コンクリートの道路は、力だけで粉砕できる。そのうえ、力ずくで空を自由に飛び回ることができる。
あんな姿を、人魚姫の物語を読んだ純朴な少年少女たちが見たら、どう思うだろうか? もしかしたら、「物語に感動して流した涙を返せ」とむせび泣きつつ、ショックでご飯を食べられなくなるかもしれない。それとも逆に、「興味がないから、どうでも良いよ」と言うのだろうか。
ただ少なくとも――どちらかといえば私は、ショックを受ける側の人間だった。
彼女のあんな姿を見て、黙ってなんていられない。人魚に対して憧れを抱く、私の純情を踏みにじるのも、そろそろ止めて欲しい。
「ガーネットさん!」私は、空へと向かって声を張り上げた。「この勝負、私が勝ったら、貴女はおとなしく海へと帰っていただけるんですよね!?」
「もちろんだよ!」赤い人魚は、鳥のように羽ばたきながら元気に答えた。「勝負に負けたときは、相手の勝利と健闘を讃えるのが、礼儀だからね! あたしが負けたときは、決してだだをこねたりせずに、ちゃんとおとなしく海へと帰るよ!」
「分かりました……ガーネットさん。貴女に挑まれた、この真剣勝負……私は受けて立ちますよ! そして必ず、この勝負に勝ってみせます!」
「その心意気……気に入ったよ!」
私は……あくまで、人魚たちが海で優雅に泳いでいる姿を見るのが、好きなんだ。
人魚というのは、やっぱり、海にいるのが一番良く似合っている。
空を気ままに飛び回る、怪力無双な人魚なんて、別に私は見たくはないんだ。たとえ世論が許したとしても、私は嫌なんだ。
だから私は、できることなら、彼女には海へと帰って欲しい。
それは、ただの私のわがままなのかもしれない。けれど……別に、構わないはずだ。なんといっても、これは、彼女の望んだ"真剣勝負"なんだから。
私はこの勝負を、正面から受けて立ってみせる。そして必ず勝って……この手で彼女を、海へと帰す!
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